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境界を歩く者たち  作者: 星渚歌唄
第5章 君がくれた真愛

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心闇

女王は静かに一歩、二歩と歩み寄る。その歩みは優雅でありながら、逃げ道を塞ぐような圧倒的な存在感を伴っていた。


「反論は不要よ。あなたが断ればーー」


女王がゆっくりと右手を持ち上げる。

その指先に絡む銀の鎖が、きらりと不穏な光を放った。


「彼女がどうなるか.......わかっているわね?」


空気が一瞬で張りつめた。息をすることさえ、ためらわれるような圧。そのときーーピーターが、彩姫の前に一歩踏み出した。


「お母様......彩姫に手を出すのは......許しません......」


低く、絞り出すような声。その瞳には、今まで彩姫が見たことのない強い光が宿っていた。

"お母様”ーーその言葉に、彩姫ははっとしてピーターを見つめる。

いつも優しく笑っていた少年が、目の前で「王子」として、母に抗おうとしている。

胸の奥で、何かが大きく鳴り響いた。

空気が張り詰めたまま、彩姫は一歩、女王の方へ踏み出した。

怖くなんてなかったーーいや、恐怖は確かにあった。だがそれ以上に、心の奥で燃えるものがあった。

ピーターの背中越しに、女王の冷たい瞳を真っすぐ見据える。

震える唇を、強く噛んで抑えた。そして、はっきりとした声で言い放った。


「......絶対に、ピーターはあなたに従わない」


女王のまつげがゆるやかに瞬いた。彩姫の声が、放課後の静寂に凛と響く。


「この人は"誰かの道具”じゃない。王子だろうと関係ない.......彼は......ピーターはピーター自身の意思で生きるべきよ!」


その瞬間、女王の穏やかな微笑みがわずかに歪んだ。


「......なるほど。口だけは達者ね」


女王の白く細い指先が、ひらりと宙をなぞった。

次の瞬間一一その指先から銀色の鎖が、音もなく放たれる。蛇のようにうねり、一直線にピーターの額へと走った。


「ピーター!」


彩姫の叫びもむなしく、鎖の先端が鋭く光りーー


ザクッ


小さな音とともに、鎖は彼の額に深く突き刺さった。

その瞬間、ピーターの体がびくりと震える。

柔らかかった瞳の光が、みるみるうちに消えていった。

さっきまで彩姫の前に立っていた少年は、まるで糸の切れた人形のようにその場に立ち尽くし、目は虚ろに、感情の欠片さえ浮かばない。


「ピーター......?」


彩姫がそっと呼びかけても、彼は何の反応も示さない。

冷たい空気が廊下を支配する中、女王の声だけが滑るように響いた。


「これでわかるでしょう?彼は一一私の"'子”であり、”王”になるべき存在。あなたごときが触れていい存在ではないのよ」


女王は銀の鎖を操りながら、まるで見せつけるようにピーターの頬へ触れる。虚ろな目のまま、彼は一歩、女王の方へ歩き出した。

その背中は、さっきまで彩姫の隣で笑っていた少年のものではなかった。

銀の鎖がピーターの額に突き刺さった瞬間


ーーそれは肉体だけではなく、精神そのものを縛る儀式だった。


鎖は光の粒となってじわじわと皮膚の中へと沈み込み、彼の額から胸元、そして全身へと淡い文様のように広がっていく。


カチリーー


心の奥で、何かがはまり込む音が聞こえたような気がした。

ピーターの瞳からは光が失われ、ただ主の命令だけを待つ”王子”の姿に変わっていた。


「......ピーター......?」


彩姫の声に、返事はない。

彼の唇は固く閉ざされ、まるで深い霧の中に閉じ込められたように、どこにも"彼自身”が見えなかった。

女王は満足げに頷き、裾を優雅に翻した。


「さあ、行きましょう。婚姻の儀の準備は整っているわ」


淡々とした口調。だがその声には、逃げ道を与えない絶対的な支配力があった。

彩姫はぎゅっと拳を握りしめる。

怒りも、悔しさも、恐怖も一一すべてが胸の奥で渦を巻いていた。

でも、鎖は壊せない。ピーターの体内に溶け込むように入り込み、彼の精神を縛っている。下手に力を使えば、彼の心を壊しかねない。

彩姫は唇を噛み、ゆっくりと目を伏せた。


「(......今は、従うしかない)」


小さく息を吸い込み、覚悟を決める。

女王の後を歩き出したピーターの背中を見つめながら、彩姫もまた静かにその後を追った。

彼を取り戻すために一ーこの手で、必ず。

放課後の廊下には、夕日が差し込み、長い影が二人を包み込んでいた。

それは、決意と絶望が混じる静かな行進だった。

___________________________

静寂が張り詰める部屋。

壁にかけられた金と銀の蝋燭がゆらめき、淡い光と影が床を不気味に揺らしている。

重厚な扉はぴたりと閉ざされ、外の気配は一切ない。


この空間にいるのは一一女王と、彩姫だけだった。

深紅の椅子に優雅に腰掛ける女王は、穏やかな微笑みを崩さずに言葉を紡ぐ。


「こうして二人きりで話すのは初めてね、彩姫さん」

彩姫は背筋を伸ばし、視線を逸らさずに睨み返した。戒の色は隠そうともしない。


「話すことなんて、ないと思いますけど」


冷ややかに返された言葉に、女王はまるで楽しむように目を細めた。

「そう思うのも然もありなん。

あなたは私の"命令”に従わなかった。

.....でも、それでもあなたが一ー息子の"隣”にいる理由を、知りたくなったの」


彩姫は静かに立ち上がった。蝋燭の光が紫の髪に反射し、淡い炎のような光が揺らめく。


「私は......誰かの命令で動いてない。ピーターと一緒にいるのは、あの人が......一人で苦しんでいたから。それだけです」


言葉は静かだったが、その瞳には決して揺るがない意志が宿っていた。

女王は銀のティーカップを優雅に持ち上げ、淡い香りの紅茶を口に含む。音ひとつ立てない仕草は、美しく冷たい支配者そのものだった。


「苦しみ......ね」


女王は小さく微笑み、カップをそっと受け皿に戻す。


「"王家”に生まれた時点で、自由など幻想なの。

それを知っていたからこそ、彼を遠ざけた。民の前にも出さず、友も作らせなかった。

心を閉ざせば、誰も彼を傷つけられないーーそう、思っていたのに」


その声音には、冷酷さと共にわずかな"母”の感情が滲んでいた。だが、それはあくまで王としての理屈の中に埋もれたもの。

彩姫は女王の言葉を黙って聞きながら、胸の奥にある怒りを静かに燃やしていた。

ーーそれは「王族の宿命」という名の鎖を、当然のように正当化するその姿に対してだった。

金と銀の蝋燭が、再びゆらりと揺れた。

薄暗い部屋に漂うのは、紅茶の香りと.......張り詰めた空気。

彩姫の声が、その静寂を切り裂いた。


「......その結果、彼は"感情”を押し殺すしかなかったんです」


怒りを押し殺した声一ーけれど、その震えは、確かに心の奥底からの叫びだった。


「本当の名前も、立場も知らずに生きて......それでも、あの人は他人を守ろうとした。

あなたがしたのは、"守る”じゃなくてーー"閉じ込めた”だけです!」


女王の微笑が、わずかに揺らぐ。

完璧に整えられていた仮面に、初めて細かなひびが走った。

カツンーーティーカップを置く音がやけに大きく響いた。女王はゆっくりと姿勢を正し、声のトーンを一段落とす。


「......あなたがそう思うならー一彼を、この国から連れ出せる?」


......え?」


彩姫は思わず息を呑んだ。女王の瞳が、蝋燭の灯に反射して妖しく光る。


「あなたが言う "彼自身の生き方"とやらを実現できるのなら......いっそ、この国から"息子”という呪いごと連れ去ってみなさい。できるのならね?」


挑発でも、脅しでもなかった。

それはまるで一一王としてではなく、"母”として、誰かに息子の未来を託すような、複雑な響きを孕んでいた。

扉の外は遠く、誰一人としてこの静寂を破る者はいない。

天井から吊るされた銀の鎖が、わずかに揺れ、鈍い光を放った。

彩姫はゆっくりと一歩、女王へとにじり寄った。

瞳はまっすぐで、もう恐れはなかった。


「......なぜ、私なの?」


低く、しかし澄んだ声だった。

怒りも、悲しみも、迷いも含まれていない。

ただーー心から、知りたかった。

なぜ自分なのか。

なぜ、彼の"心”を守る代償に、自分が"選ばれだ”のか。


女王はその問いにすぐ答えなかった。

紅茶の表面が静かに揺れ、蝋燭の光がその横顔を照らす。

その瞳の奥に、一瞬だけ、母親としての本心がちらりと見えた気がした。

女王はゆっくりと微笑んだ。

その微笑は、まるでこの世のすべてを見透かしている者の余裕そのものだった。

金と銀の蝋燭の光が揺れ、その横顔を艶やかに浮かび上がらせる。

くすくす、と喉の奥で小さく笑いながら、女王は言った。


「ふふ......そんなの、決まってるじゃない」


ゆったりと立ち上がり、裾を翻して背を向ける。背筋は真っ直ぐで、王族としての威厳が自然とにじみ出ていた。


「彼が一ーあなたを好きだからよ」


その一言が、静まり返った部屋に冷たく落ちた。

彩姫は目を見開いた。

胸の奥で、何かが強く打ち鳴らされる。言葉にならない衝撃が、喉の奥を塞いだ。


「......」


女王はゆっくりと振り返り、その瞳に妖艶な光を宿す。唇に浮かぶ笑みは、甘く、けれどを含んでいた。


「まあ、"好き”なんて感情.....操ればどうとでもなるけれど」


軽く肩をすくめる仕草は、まるで他人の恋心すら遊び道具にしているかのようだった。


「それでも一一結婚相手くらい、"好きな人"とくらいさせてあげたくて。...せめて、ね?」


その声音は、慈しみでも、思いやりでもない。

まるで人形遊びの延長線上で、息子の人生すら "王家の計画”に組み込んでいるーーそんな嗜虐的な甘さが滲み出ていた。

彩姫の胸の奥に、ぞくりとした寒気が走る。

女王の言葉は、愛を語りながら、同時に"愛"という感情を踏みにじる残酷さを孕んでいた。

女王はゆっくりと立ち上がると、天井から垂れ下がる銀の鎖へと手を伸ばした。

その指先が鎖に触れた瞬間、冷ややかな音が静まり返った部屋に小さく響く。銀の鎖をなぞるようにしながら


「彼の心に一ー"唯一抗えない願い”があるとしたらね」


細く艶やかな声が、まるで甘い毒のように空気を満たしていく。そして微笑を深め


「それは、あなたに笑っていてほしいことなのよ」


その言葉は、残酷な真実を静かに突き立てる刃だった鎖を軽く引きながら、低く話す。


「......でも、それも消そうと思えば消せるの。

理解したかしら?」


沈黙が降りた。

彩姫は、唇を噛みしめながら俯く。

指先が震えていた。

ぎゅっと拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む。

痛みは確かにあるのに、怒鳴ることも、泣くこともできなかった。

まるで、この部屋ごと感情が封じられてしまったかのようだった。

女王の白く細い指先から、銀の鎖がするすると伸び出した。蛇のようにうねりながら空気を裂き、鈍く冷たい光を放つ。

それはもはや"装飾”ではなかった。

意思を持つかのように揺らめき、支配の象徴として、この静寂の部屋に君臨していた。

その女王の背後には一一操られたままのピーター。

......いや、五十嵐悠希が立っていた。

その瞳は焦点を失い、澄んだ水色がどこか遠くを見つめている。

本来なら、冗談混じりの笑顔で空気を和ませる彼が、今は無機質な人形のように女王の影に立ち尽くしていた。

鎖が首元に絡み、その身体を静かに縛りつけている。

ほんのかすかな震えだけが、彼の"心がまだ奥底で必死に叫んでいることを証明していた。

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