悪魔はより不幸な魂を好む
「私が魂を差し出せば、私の願いを叶えてくれるのよね」
「魂は後継者の方からいただきますので、アナタは・・・そうですね、私が望む土地をくださるのならば、その願い叶えて差し上げましょう」
あの小さな少女の願いはなんだったか。
玲香は、水面に落ちる瞬間、少女の、レオノールの言葉を探していた。
バシャン!
激しい水音の直後、結局何もつかめやしなかったのに、伸ばした手の指の先、水幕の向こうの青空がバカみたいにキレイで、鼻の奥にガツンと感じた痛みも忘れ、その鮮やかな青に釘付けになった。
確か「足はつかないので、くれぐれも水面を覗き込もうとしないように」と、注意されたばかりだけど、当然あの子達もそれは聞いていたし、殺すつもりじゃなかったよね。
同じ年頃の女の子達のお茶会だって言ってたし、まさかあんな幼い子供がそんな、ねぇ。
だからきっとこれは事故。不幸な事故なんだわ。
このまま私が沈んでしまっても、きっとあの子達がひどく怒られたりしないはず。
身体の力をフッと抜き、目を閉じた。
このまま死ねるのなら・・・それはそれで。
我が人生に一片の悔いなし。
ごぶりっ
吐き出された息の代わりに水が入ってくる。
浮き上がり離れて行く泡玉を見て、玲香の顔が思わずほころんだ。
この小さな身体には、もうはや水を咽出す力も無い。
「何笑ってんだっ!!?」
文字通り、胸ぐらを掴まれ引きずられると、投げるように雑に湖岸へうちあげられた。
「何やってる! 医師を! 毛布を持ってこい!」
バシバシ背を叩かれて、強制的に水を吐かされ見上げた先には、陽の光を受けキラキラと色を変えるなんて美しい濡羽色。
「ホント・・・烏の羽って濡れると美しいのね」
この美しい人は誰だったかしら?
今度こそ伸ばした手でその滴る雫ごと髪をかき上げると、燃えるような赤い瞳が見開かれていた。
「・・・あぁ、思い出した。あの子は友達が欲しかったんだ」
そう言い残して、享年10年と言う短い生を終えたレオノール・バルダック侯爵令嬢は意識を手放した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
恵巳玲香は、東京のどこにでもいる様なOLの1人だった。
地元のそこそこ良い大学を出て、地元企業の事務員として就職したはずが、なぜか東京支社勤めとなり、自社ツールのはずがパッケージ化して大手企業に買われたため、新たに設けることになったシステムソフトウェアの企画開発部長のアシスタントとして、毎日5人の同僚と働いていた。
いきなり企画設計部を預かる長のアシスタントに“抜擢”されたと言われれば聞こえはいいが、仕事内容はその部長の雑用係。
コンサル・設計を自分でこなし、家に帰るのを渋ってプログラミングまで自分でしてしまう異常にアクティブな部長を5人がかりでサポートしても、就業時間では全く足りないほどの激務であった。
そんな日々の中、いつもの様にフラフラとした足取りで出勤すると、同僚の1人が突然辞表を出して退社する瞬間に出会した。
「あなたも辞めるなら早い方が良い。このまま一生、奴隷を続ける事になる前に」
まさかそんな事! と玲香は笑ったが、タガが外れたように皆やめて行き、一年もしないうちに自分が1番の古参になった。
日々の雑務が5倍に増えた上に、新人教育が加わった。そんな部下を気にかける上司はこの部署にはいない。いたらそもそも常に新人が入れ替わりいつまで経っても終わらない新人教育など業務に追加されるわけがない。
なぜだかわからない。誰に訴えて良いのかも、助けを求める先も、玲香はただガムシャラになさねばならぬことを淡々と、淡々と、淡々とこなしていると、ある時、当の本人である部長が言った。
「恵巳君ってさ、新人よりずっと高い給料もらってんのに、何のスキルアップにもならない雑用やっててそろそろ恥ずかしくならない?」
一瞬にしてフロア中が静まり返った。
しかし玲香は、表情を変えずキーボードを打つ手を止めなかった。
こちらを貶めるような事を言われているような気はするが、思いのほか心は動かない。
いや、ぶっちゃけ構っている余裕がなかった。
次の定例会議までに、いつものように部長が思いつきで作り始めた開発ソフトウェアの仕様書を、上層部に解るように作らなければいけなかった。加えてその概要説明も求められる。
もう企画提案書なのか仕様書なのかプレゼン資料なのかわからなかったが、すでに買い手の決まったソフトウェアなので、追加の機能と言えば後付けでも経費が落ちる。
予算もクソもあった物じゃない仕様書の無い追加機能が、あと7本分もある。手も時間も何もかも足りていない。
それなのに、一段落したのか今の作業に飽きたのか知らんが、脈絡もなく絡んできたクソウザい上司の言葉を無視するわけにもいかず、一瞥もせずに答えた。
「あぁ、雑用って言いますけど、部長にはできない仕事ですよ」
「・・・できないんじゃなくてやらないんだよ。なんで俺が誰でもできる仕事をやらなきゃいけないんだ?」
「誰でも? いいえ、現に部長ができていないから、代わりに私がやっているんです。そもそもきちんと手順を踏めさえすれば発生しない業務です。そんなことも理解できないなんて思ってた以上に無能だな」
玲香が馬鹿にしたように大きくため息をつくと、いつの間にか背後に立っていた部長に、ラップトップでぶん殴られた。
隣の席の新人が悲鳴をあげると、見ていたモニターに鮮血が迸る。
あぁ、新しい帳票データが、今のでまた罫線が1ドットズレた。
横線掴むのにコツがあるのにまだ誰にも伝えてない。
部長が中途半端に作ったクソ専用ソフトのせいで私しか使えないのに。
これを機に足りない点を運用で補うクソシステムは滅しろ。
殴られた勢いのまま床に倒れ伏すと、頭上では悲鳴と怒号が行き交い大勢の人間の動きを感じるが、身動き一つできない上に、視界はどんどん狭まってくる。
おそらく部長も私も、もうとっくに色々疲弊しおかしくなっていたのだ。これは来るべくして来た結果。目の前の仕事をただ頑張るだけじゃダメだったんだ。
恵巳玲香は、そのまま意識を失った。就職してから7年目を迎えようとしていた、32歳の3月の午後だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「で、今なわけか・・・」
玲香が目覚めると、そこは豪奢な天蓋のかかった見慣れたベットの上。
レオノール・バルダック侯爵令嬢の寝台だ。
バルコニーに続く掃き出し窓が開け放たれており、レースのカーテンを風が揺らしている。
レオノールとして産まれ生きてきた10年の記憶が確かにある。確かにあるが、玲香として生きそして死んだ事も思い出した。
死んだはずなのに、今はハッキリと玲香としての自我がある。むしろ、レオノールだった実感がない。
それはまるで、玲香がレオノールという少女を俯瞰で見ていただけの記憶なのだ。レオノールの中にいて、ただレオノールとして外の世界を見ていただけ。の、ような。
「レオノール、あんなに頑張っていたのに死んじゃったのね・・・」
玲香は、自分の手をグーパーと動かし、そのあまりの小ささに胸がギュッと締まった。
「レオノール様!?」
不意に自分の名を叫ばれ、身体がビクっとはねあがる。
目線だけそちらに向けると、いかにもメイドさんな衣装を着た女性が、両手を胸の前で組み、ワナワナと震えて立っている。
なぜ『いかにもメイドさん』なのかと問われれば、黒い厚手布の長いスカートに白いエプロンに、ホワイトブリムだかヘッドドレスだったかなどの頭の飾りをつけている。
現代ではメイドキャップなどと呼ばれている、白いつばのない布帽子は、実はキッチンメイドやハウスメイドが、料理や掃除をする時だけつけているアイテムだ。
不織布のモブキャップのように、市井で働く平民の女性も仕事の時はつけているので、メイドキャップとは言わない。ただモスリンのキャップと言われている。
それをつけているにもかかわらず、手には何も持っていない。
とにかくそのメイドさんが、目を見開いてこちらを凝視していた。見覚えのない顔だが、なぜか恐ろしいものを見るような形相である。
知らん大人が、侯爵令嬢の寝室に一体何しに部屋に来た?
レオノールは、反射的に手足の指を順番に動かした。
動く。
確認した瞬間、ソファのクッションを掴み取って、メイドがベットに向かって突進してきた。
レオノールは、顔に押し付けられそうになったクションを躱し、ベットから転げ落ちると、低い姿勢のままバルコニーに逃げ出した。
ここは2階。下は庭園。確か真下は芝生に丸く刈り込まれた灯台躑躅の低木が並んでいる。
このレオノールの軽い身体なら大丈夫。
躊躇なく柵を越え、腕で頭部を覆い身を縮め飛び降りた。
「キャァァァァ!!?」
思惑通り、灯台躑躅の枝葉は、優しくレオノールの身体をキャッチした。
くるりを身を翻し芝生の上に降り立つ。
目の前には、義母とその娘、義妹が悲鳴の主が尻餅をついていた。
「失礼いたしました」
レオノールは、そのまま何事もなかったように丁寧にカーテシーを披露すると、上を見上げて義母と義妹とその取り巻き達の視線を自室のバルコニーに誘導した。
そこには、さっき部屋でクッションを押し付けようとしたメイドさんが下を覗き込んでいる。
「キサマ!? お嬢様を投げ落としたのか!?」
声を上げた女性は、義母の護衛騎士、たしか『レイチェル』と呼ばれていた男爵令嬢だったような。
レオノールが声の主に目を奪われていると、レイチェルは「待てっ!」と叫び、屋敷の中に入って行く。
取り巻き達が、義母と義妹を取り囲み、身体で押すようにして屋敷の中に入って行った。
広い庭に、ポツンと取り残されるレオノール。
さて、これはどうゆう事だろうか。
すると屋敷の護衛騎士が数人庭に出てきて遠巻きに声をかけてきた。
「レオノールお嬢様! 貴殿はグールや死霊、アンデット系の魔物では無いか!?」
あれは、バルダック侯爵家第三騎士隊長の『グレイ』と呼ばれていた人だったように思う。
第三騎士隊は主に魔物討伐をするために、ダンジョンや近隣の森に入る隊だ。
「なんで!? 私、生きてるよ!」
「レオノールお嬢様は10日前に湖で溺れ、それ以来目覚めなかったのです」
「でもいまさっき目が覚めたみたいです」
「では本当にただ寝ているだけだったと!?」
「え〜そんなの自分にもわかんないよ」
レオノールは顔を顰め、自分の身体を確認するようにくるくると身を捩りながら眺め、匂いを嗅いだ。
ゾンビがどんな匂いかわかんないけど、着てるネグリジェからは寝所のお花の匂いがする。
「誰かに危害を加えるつもりは一切ありませんが、お医者様を呼んでいただけますか?」
「・・・畏まりました!」
グレイが目で合図すると、屋敷に1番近かった隊員の1人が屋敷に中に戻って行った。
レオノールが、その場に大人しく体育座りをすると、隊員達が ガシャリ と音を立てて、それぞれの得物に手をやる。
いや、こんな子供相手にそれをどうするつもりだ。
レオノールは、小さくため息をついてバルコニーを見上げた。
真下からはずれて入るが、もう少しここから離れたい。と眉を顰める。
顔を庭園にむけると、1番近いガゼボが目に入り、テーブルの上にはお茶の準備がしてあった。
あぁ、さっきあの母娘は、あそこでお茶するとこだったのか。
レオノールは立ち上がった。
するとまたしても隊員達が ガシャリ と音を立てて膝を曲げ、それぞれの得物に手をやる。
レオノールはそれを一瞥するが、もう気にせずに歩き出し、テーブルの横、ワゴンの上に乗るお菓子や軽食、お茶ポットの中身を無意識に【鑑定】した。
[紅茶]可食
[ジャムクッキー]可食
[ナッツビスケット]可食
どれも格段美味しそうには見えないが、食べ物を見た途端にお腹が空いていたと自覚した。
椅子に座って、紅茶をポットからティーカップに注ぎ入れ、もしゃもしゃとクッキーとビスケットを食べ始める。
紅茶は渋く、クッキーはぼんやりとした味。ビスケットも湿気っていて少しカビ臭がする。
たまらず口から出した。毒は入っていないらしいのに。
眉間にシワを寄せてビスケットを凝視すると、新たな情報が表示された。
[ナッツビスケット]
ナッツがカビに汚染されていた。加熱調理済み有毒性は低い。
なんじゃそりゃ。
レオノールは食べるのをやめ、テーブルクロスで舌を拭った。
空腹だが、美味しく無い物を口の中に入れられない。
これは、どちらの気質だ? と思いながら、カップの紅茶も捨て、無詠唱で水の塊を空中に出すと、そこからちょろちょろとカップで水を注ぎ受け、火魔法で温めて白湯を飲んだ。
テーブルの上に置いてあったシュガーポットの蓋を開けると、たっぷりと白砂糖が入っていたのでこっそり【収納】しておく。
騎士達には凝視されていたが、それ以上近寄って来ることもないし、気にしないことにした。
するとようやく屋敷の中から人が出てきたが、警戒するグレイに近寄ったのは医師ではなく、レイチェルだった。
レイチェルが、グレイに何やら耳打ちしている。
レオノールは自身に〈身体強化〉をかけ耳を澄ませた。
『レオノール様の寝室で、侍女の1人が自害しておりました』
『レオノール様を投げ落としたヤツか?』
『投げ落とした瞬間は見ておりませんが、レオノール様が落ちてきたあと、バルコニーから下をのぞいておりました』
『それでは、その侍女が落としたかどうか証明できんな』
『では、レオノール様が自ら飛び降りたと仰るのですか!?』
『そうは言ってない! それはお命を狙われている証拠にならぬと言っているのだ!』
2人のやりとりを盗み聞きするに、どうやらレオノールは何者かに命を狙われているらしい。
しかしその確証はまだ無いらしく、周りの大人はどう対処すべきか困惑中と。そんなところか。
「私が誰かに命を狙われる理由・・・」
レオノールにはひとつだけ思い当たる事があった。
それはこの国の王太子、アーノルド第一王子殿下の産まれながらの許嫁、婚約者、時期王妃こそこの自分、レオノール・バルダック侯爵令嬢だった。
あちゃぁ〜・・・
レオノールが頭を抱えると、屋敷の方が騒がしくなり、何やら揉めているようだ。
よく見ると、金切り声の主が取り巻き達に抑えられながらもこちらに向かって何やら叫んでいる。
「レオノール! アンタが今更生き返ったからって、アンタはもうアーノルド様の婚約者でも時期王妃でも無いんから!」
義妹のメリッサだ。確か2歳年下だから、7歳か8歳。そんな子供が「アーノルド様と結婚して男の子を産むのはこの私よ!」とか叫んでいる。
こんな子供に何叫ばせてんだ。世も末だな。
すると、一度引っ込んだはずの義母が現れて、手を払う仕草で取り巻き達を待機させ、メリッサを自由にした。
メリッサは母親に抱きついてこちらを見ると、顎を上げてフフンと笑った。カワイイ。
娘に飛びつかれた母親は、その笑みをそのままレオノールに向け驚くべきことを告げた。
「アナタが寝ている間に、アナタは『国母の資格無し』と神殿長に判定され、婚約は破棄されました。代わりにこのメリッサがアーノルド殿下の新たな婚約者になったのです」
「そうですか」
「そうですかって、それだけ!?」
レオノールがあっさりと承諾した事が気に入らなかったのか、メリッサが目を見開き、顎が外れんばかりに口を開けてこちらを見ている。
ポカンとした顔もカワイイ。
7、8歳でいかにも少女という感じの、特にメリッサのような、豊かな金髪がゆるくカールしてふんわりとした髪型の女の子が、リボンとレースがゴテゴテとついたブワブワのドレスを着ていると、お人形さんのようでとてもとても可愛らしい。
「結婚なんて、元々したい人がすればいいの。おめでとうメリッサ」
「なによっ! レオノールはしたくなかったって言うの!?」
「王妃教育も同年代の貴族の子女からの嫌がらせももううんざり。大変だとは思うけど、アナタなら大丈夫。頑張ってねメリッサ」
レオノールは、メリッサに激励の言葉をかけると、カップに口をつけて白湯をすすった。
「それ! 私のカップよ!」
「あら、そうなの。勝手に使っちゃってごめんなさい。初めてみたわ。カワイイカップね」
レオノールは手に持っていたティーカップに〈浄化〉をかけると、テーブルの上、元あった位置に戻した。
すると、屋敷の中から実父を連れ立って白衣を着た医師がやっと出てきた。
「レオノール!」
「レオノールお嬢様! 診察の許可を頂けますか! 近づいてもよろしいでしょうか!」
「? どうぞ」
医師は恐る恐るレオノールに近づくと、触診を始めバイタルを取ったが、一度名を呼んだだけの実父は、義母の肩を抱き、それ以上レオノールのそばによっては来なかった。何やら神妙な顔つきでこちらの様子を伺っているが、それだけである。
どうしようもねぇな。
「レオノールお嬢様ご本人であらせられます!」
医師が他の皆に向かって「どこにもお怪我ありません」と付け加えて宣言すると、実父のほっとしたような表情とは真逆に、義母は握っていた扇で口元を隠しこちらを睨み見た。
騎士隊や使用人達は「やれやれ」とそれぞれの持ち場に帰っていった。
いや、殺されかけたらしいよ? 部屋には暗殺者(仮)の死体があるらしいよ?
「お父様、少しよろしいでしょうか?」
屋敷の中に戻りかけた実父にレオノールは声をかけた。
「なんだいレオノール」
実父はいつものように優しく応え、ガゼボのテーブルの向かい側に座った。
義母と義妹がその横に侍るが、椅子には座らないようだ。取り巻き達と一緒に立っている。
レオノールは気にせず話すことにした。
「婚約破棄された事ですし、これを機に義絶して下さい。これ以上バルダック侯爵家に泥を塗り重ねるわけにはまいりません」
「そんなっ実の親子じゃ無いか!」
「古来から続く王族との締結は解除されました。神殿長が許可し、現王が自ら認めた婚約破棄なのです。受け入れるより仕方がありません」
レオノールは、縋る実父を振り切り首を横に振った。
「あらアナタ、よろしいじゃありませんか。レオノール自身がそう言っているのだもの。絶縁後は修道院にでもなんでも行けばいいわ」
「ヤッタ! 良いじゃんお父様! これからは私がお嫁に行くまで本当の家族3人で暮らそ!」
「えぇ、2度と皆様の前に姿を表しません。どうぞ縁を切ってください」
レオノールは、どこからともなく書類を出して、「だが」「いやしかし」と口をパクパクとさせる実父の前に差し出しペンを手渡した。
[絶縁状]と書かれた古い書類を一瞥した義母は表情を一変させ、扇をパシンと閉じて、機嫌良さげにスルリと夫の肩を撫でた。
「アナタ。サインを」
目の前の男は、強い力を込め肩を掴む妻を、眉間にシワを寄せ見上げている。
「サインなさい」
そっとペンを握らされ、どうにもできなくなった男は、脂汗を流しながら書類に自分の名前を書ききった。
レオノールは、その書類を満足げに手に取り呟いた。
「〈召喚〉」
レオノールのかざした手の真下、ガゼボの石床に魔法陣が真っ赤な発光と共に浮かび上がると、その床から這い出るように、漆黒の髪と燃えるような真っ赤な瞳を光らせた執事服の若い男が現れていでた。
「お呼びでしょうか?」
「アナタ名前は?」
「グリモワールと申します。グリムとお呼びください」
「わかったわ。グリム。早速だけどこの書類を処理したいの」
「かしこまりました」
今度は床に向けてグリムが手をかざす。すると、レオノールの時と同じように床に魔法陣が描かれ青色の光を放った。筒状に上に伸びる青い光が色を無くすと、そこに神殿長が現れた。
「なっ、こ、これは!? どうゆうことだ!?」
「いらっしゃいませ神殿長。可及的速やかに処理したい書類がありましたので、お呼びいたしました。こちらにサインを」
グリムが、書類とペンを渡すと、神殿長は促されるまま中身も読まずに書類にサインをした。
ボッ と音を立て青い炎が書類を焼く。
レオノールが「帰って良いわ」と手を振ると、魔法陣が再び光を放ち神殿長の姿はあっという間に消え去った。
「さて、ではお三方。1時間以内に敷地から出て行って」
レオノールはそう言って立ち上がると、グリムを伴って屋敷の中に戻ろうとした。
「・・・何を言っているの?」
義母が眉を寄せレオノールに言葉を返す。
「皆様は無事バルダック侯爵家から離席しました。こちらも鬼ではありませんので、ご自分の物だと疑いようも無いものはどうぞそのままお持ちください。ただし元々バルダック侯爵家の物だった所有物に手をつけた際は電撃が流れるようにしておきますね」
レオノールはことも無げに告げ指をくるりと回し、うん。と頷いてガゼボを後に歩き出す。
「どうゆうこと! 説明なさい!」
義母の金切り声が耳をつんざく。全く先ほどの義妹にそっくりだ。
レオノールは、実父だっ男を見た。
「もう契約は切れたんだからご自分で説明なさったら?」
実父だった男は渋々と話し出した。
「・・・侯爵位を持っているのはレオノールだ。元々レオノールの母親がバルダック侯爵だった。俺はその婿で嫡子の父、次期侯爵の娘が成人するまでの代わりに過ぎず、後見人のその男が現れ、娘に義絶された今、その代理の立場を失い元の子爵家の三男に戻った」
つまり侯爵だった妻と死別し、その代理だった実父は、侯爵位を持つ実子からの絶縁により、バルダック侯爵家から席が抜けた。
この世界では、貴族に必要なのは何よりも血。
血で受け継がれる魔力の優越に男女の差がない以上、より古く青い血の濃い者が正当なその家の後継者である。
順序を無視して、魔力の強い者が筆頭になる場合もあるが、それは何らかの不測の事態があればこその稀な事案で、同じ腹から出た子らでも長子の魔力が高いのがこの世界の常である。
ただし近親婚は血を穢すと禁じられており、代わりに重婚が推奨されている。当然こちらも男女に差はない。互いの了承の上、その甲斐性がある者はいくらでも、誰とでも子を成せる。いずれ富国強兵に繋がる各家の子孫繁栄を考えれば、その後の個人の揉め事など些細なことだ。
あぁ、だからレオノールは命を狙われ続けていたのか。
疑問だった事が腑に落ちて、なぜこんな男を家に置いたままにしていたのか不思議に思って実父だった男を一瞥する。
父の再婚を許す時[絶縁状]を用意する事で承諾したのは、そんなに昔の事では無い。
母が不慮の死を遂げ、喪が明けぬうちに父は侯爵代理に就任し、何処の馬の骨ともわからぬ女と子供を連れてきた。
《神聖契約》も無しに家に入れるはずもないのに、何故か義母には疎まれ、義妹やその取り巻きのような使用人達には嫌がらせを受け、本来の後継者に対してなんの遠慮も配慮もなかった。
父が義母らを騙していたのか、馬鹿なのかわからないが、こちらがなんの保身もせずに外の人間を受け入れると本当に信じていたのだろうか?
・・・いや、この感情は私がレオノールでは無くなったからか。
私が見ている限り、レオノールは何度も家族に裏切られていた。
何度も命を狙われ、何度も危ない目に遭い、何度も死にかけているのに、決して父親を、血の繋がらない母娘を自分から遠ざけようとしなかった。
中から見ている身としては、実の母親が死んだのも、父親と義母の関与が疑わしい。
子供の身ながら日々の激務に耐えきれず、とうとう悪魔と契約するまでその身を落とし、挙句に命も失った。それなのに彼女が悪魔に願ったのは、自分を虐げた家族の死では無かった事に怒りしか湧かない。
青筋をたてた元義母と、お得意の金切り声をあげる元義妹に責め立てられる元実父に、レオノールはやはり理解できないな。と、思考を諦め今度こそ屋敷の中に戻った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「どうして『レオノール』を助けてあげなかったの?」
レオノールは、先ほど自らが召喚した執事服の男に問いかけた。
「召喚れませんでしたので」
「嘘ね。湖でレオノールを引き上げたのはアナタでしょ?」
グリムに目の前の扉を開けられ「あの時も呼んでいないわ」とレオノールは執務室に入った。
「【収納】」
レオノールは執務室内の全てを自分の亜空間収納に一旦入れると、表示させたリストを指でスクロールさせ、中身の確認をする。
「あら、昔レオノールがあげたペンぐらいしかあの男の私物がないじゃん。簡単だったわね」
他は全てバルダック侯爵家としての金で買った物らしい。
このぐらい徹底していると、こうゆう時に後腐れがなくて便利だ。とレオノールは感心した。
胸ポケットにペンを入れていたジャケットごと木箱に放り入れ執務室の扉の前に出しておく。
執務室は、その席を失った人間が入れる場所では無いので、騒がれる前に検品した。
続けて、頭首としての仕事もやっつけようか。と決裁箱に積まれている書類に手を伸ばす。
「そうだ。使用人も全てクビにしておいて」
「庭師や御者、厩番などもですか?」
「・・・ん〜基本家屋外にいる問題無い者達ならいいかとは思うけど・・・任せる」
「騎士や護衛達は?」
「アナタがいるのに必要?」
「・・・なるほど。辞める者に紹介状などは?」
「子爵のアイツらが用意するんじゃ無い? 弁えてれば、一時期とはいえ子供と侮った私に請求するような使用人はいないと思う」
「かしこまりました」
グリムは廊下に出ると「〈召喚〉」と魔法陣から数名の使用人を引出し、それぞれに伝言とその後の仕事を指示して、直ぐに執務室に戻った。
「あ、丸投げなんだ?」
「それなりに優秀ですので」
「わぁ、何人分の給与が必要になるの?」
「全て私の分身ですので、契約通り私1人分で結構です」
「へぇ、便利〜」
え、こいつ自分の分身の事優秀って言った? と、頭を掠めた疑問は口に出さないでおく。
レオノールは溜まった書類を精査して、可の書類にサインを、不可の書類を棄却箱に重ねていく。理由のメモなどはつけない。
本来拓いた土地もない、過去の功績を分割払いにした返金と位禄だけで暮らしが営まれている侯爵家頭首の仕事なんて、社交と予算の最終決裁書にサインするぐらいで良いのだ。
社交はしばらくパスなので、何かしらのお誘いの手紙は全て断る返信で良いし自分で書くわけでもない。予算の決裁がなんでこんな溜まっているのか。従業員の給料形態に問題が?
「王太子の婚約者だった分の給料まるっと無くなる。あ、貰ったアレコレって返さなきゃダメだったりする?」
「いいえ、契約は《破棄》その一切を無かったことにする新たな《神聖契約》です。契約中に生じた約束と同じく金品のやり取りは一切無かった事になりますので、今お嬢様が手にしている物は全てお嬢様の物です」
「良かった。正直検品するのめんどくさかった。10年前から遡るとか無理」
だんだんとクリアになってくる脳内で、すべき事の優先順位がカチカチと音を立てて積み上がってゆく。
「王都の結界どうしよう。もう関係ないんだけど」
「別によろしいのでは?」
「王都、〈魔領域〉の魔物達に襲われない?」
「好んで人が暮らす〈聖領域〉に来る魔物はそう多くありませんが、〈魔領域〉にちょっかいを出されたら追ってくる者はいるでしょう」
「う〜ん・・・とりあえず外すか。勝手に干渉してるって怒られるかもしれないしね」
レオノールは指をくるりと回し、うん。と頷くと、続いて金庫に入っていた羊皮紙の書類の精査を始めた。
「古い[証文]が多いなぁ」
「何せ《破棄》ですからねぇなんなら[分割払い]の件も清算できるのでは?」
「払えないから分割にしたのでしょう?」
「聞いてみましょうか?〈召喚〉」
グリムが床に手を向け魔法陣を描き出すと、青い光の筒からこの国の王が現れ平伏した。
「王都の・・・結界を・・・戻して頂けないだろうか」
「あら、話が早い」
王はどうやらこの状況が予想できていたようだ。
「でも、王都の結界は王族との婚約が条件だったでしょ? 私は本意では無かったけど、先祖が結んだ《神聖契約》だったのだもの。それが破られた今、王都の防衛を本来の王族では無く、いち侯爵家だけが担っているなんてバレたら色々問題になると思うのです」
「そこはコチラが上手く黙らせますので」
「そう。そのための婚約だったのでしょうに・・・」
レオノールの考え込むように仕草に、二の句が告げない王は「グムム」と歯噛みするより他にない。
何より「死んだ」と報告されたはずのレオノール・バルダック次期侯爵が、何故こうやって力を振るっているのか。
「あぁ、元実父のあの男は義絶いたしました。今頃屋敷を出ていく準備に奔走しているでしょうから、御用の際は子爵家へ後日個別にご連絡下さい。私は今後離席した彼等とは関係を持てませんので。次期では無く晴れて現侯爵になったのですが、何せまだ10才です。神殿が承認したとはいえ、公に報せるのはデビュタント後でしょうから其のおつもりで。あぁ、家の仕事は何も問題ございません」
「そんな、神殿がすでに・・・」
王には、レオノールの隣に侍る男の事を知っていた。
あの男が侍る主人こそが、バルダック侯爵家の正当な頭首と知っていた。
決して仰ぎ見ること罷りならざるその存在。
この王家ですら首を垂れねばならないその理由は、幼い頃からそれこそつい先ほどまで言い聞かされていた。
バルダック侯爵ですら、この男との交渉官でしかないのだ。
この王都を、ひいてはこの王国に住む国民すべての命を握っていると言っても過言ではない力を持つその男の目の前に跪いた王は、この状態がわずかなミスも抵抗も赦されぬ分岐点なのだと、胃の腑の底から理解していた。
「それと[分割払い]の件なのですが、これを機に清算しようと思うのです。今なら婚約の分も結界の分も皆無ですので面倒な計算が無いですから、利子の事を考えると国のためにも良い時期かと存じます」
レオノールは次々と書類の処理をしながら、もう決まったことのように告げる借金返済を、王に突きつけた。
王の目の前に、自分も王冠の継承時にサインさせられた[借用書]が並べられる。
1枚が国の国家予算25年分に相当するにも関わらず、並べられたのはその数12枚。
今も目の前で各書類の返済額がくるくると回り数字を増やしてゆく。
「払えるわけがない・・・」
「ではこちらも《破棄》しますか?」
「・・・・・」
因みに自己破産の代償はこの国の王族の全ての命である。
相続する者がいなくなるのだから《破棄》も致し方なし。
恐ろしい契約だが《神聖契約》したのだから払い続けるより他生き残る術はない。
「う〜ん、じゃあこの王国が担当している〈魔領域〉を、このバルダック侯爵家にください」
「なん、だと?」
「バルダック侯爵家の領地となれば〈魔領域〉側に結界をかければ良いのです。この国に面した〈魔領域〉からの魔獣の侵攻は防げますし、他の領地と同様に自分の領地を管理するだけなのですから他国やこちらの貴族達に是非もないでしょう」
「そんな、願ったり叶ったな・・・」
「勿論、王が下賜してくださりさえすれば。ですけれども」
王はレオノールが用意した[土地所有権譲渡誓約書]に飛びついてサインした。
《神聖契約》が締結された証の青色の光がポワッと発光し書類を包む。
因みにこの契約を破棄する場合の条件も王族全ての命であるが、この王はどうやら書類の精査が苦手らしい。
ペコペコと頭を下げ、この場の窮地を脱した。と、おそらく何もわかっていない愚かな王を返還させると、グリムは「お見事です」と拍手して、レオノールを褒め称えた。
レオノールは、[土地所有権譲渡誓約書]をグリムに手渡す。
「これで契約は遂行したわ。レオノールの報酬は十分でしょうグリム」
「えぇ。レオノールとの契約は終了いたしました。これにて失礼させていただきます」
レオノール『と』の契約?
レオノールは、グリムの言い回しが気にかかった。
そういえば答えを聞いてなかった。と思い出し、先ほどした質問を繰り返した。
「ねえグリム、やっぱりきちんと答えてくれない? 何故あの時、レオノールの魂を助けなかったの?」
かかったな。と、口端をニンマリと上げたグリムは目を細めると、正しく悪魔然とした微笑みを湛えレオノールに近づき、耳元に寄せた唇からゆっくりとした低い声で囁いた。
「それは、新たなご依頼と言うことでよろしいでしょうか?」
end