第百八十話「決意の夜」
バランが闇に消えてから、体感では数分も経っていなかっただろう。
森の奥深くから、まるで天災そのもののような轟音と衝撃波が、大地を揺るがしながら断続的に響き始めた。
木々がなぎ倒され、獣たちが逃げ惑う気配が、ここまでひしひしと伝わってくる。
あれだけの軍勢を、本当に師匠は一人で相手にしているのか。
「……すごいな、アリゼさんの師匠は」
俺の隣で大剣を構えるアカネが、感嘆と畏怖の入り混じった声で呟いた。
彼女の言葉に、俺はただ頷くことしかできない。
だが、感心している暇はなかった。
師匠がいくら世界最強でも、全ての敵を一人で食い止められるわけではない。
その巨網を潜り抜けてくる者も、必ずいるはずだ。
「アリゼさん。……来ます」
後方で支援に徹するアーシャの、冷静で鋭い声が飛んだ。
その言葉と同時に、俺たちの前方の闇から、数人の人影が音もなく姿を現した。
公爵家の私兵。
先ほどの斥候部隊とは違う、暗殺者のような気配を纏った精鋭たちだ。
彼らの狙いはただ一つ、儀式が行われている小屋。
「来るぞ! アカネ、ルルネは前衛! アーシャは援護! 俺は遊撃に回る!」
師匠の言葉が、俺の頭の中で反響する。
己の役割を全うしろ。
そうだ、俺はもう迷わない。
俺の役割は、この場の指揮官として、そして仲間たちの盾として、ここに立つことだ。
俺の指示に、娘たちは寸分の迷いもなく応えた。
「ああ!」と短く応じたアカネと、「ええ!」と頷いたルルネが、左右から敵の精鋭部隊に襲いかかる。
「はぁっ!」
アカネの一撃は、まさに圧巻の一言だった。
強化された大剣が唸りを上げて、敵の一人が構えた盾ごと叩き潰す。
だが、敵もさるもの。
一人が倒れた隙を埋めるように、別の二人が即座にアカネの死角へと回り込もうとした。
そこへ、一陣の風が舞う。
「遅い!」
ルルネだった。
彼女は森の木々を蹴り、まるで重力を無視したかのような動きで敵の背後に着地すると、その双剣で流れるように二人の兵士の鎧の隙間を切り裂いた。
彼女たちの連携は、もはや俺が手取り足取り教えていた頃の比ではない。
互いの力を信じ、互いの動きを完璧に予測した、英雄たちの戦い方だった。
「アリゼさん、右翼からもう一人!」
アーシャの警告が飛ぶ。
彼女は最後方から戦場全体を俯瞰し、的確な指示と支援魔法を繰り出していた。
一体の敵が、俺たちの防衛網を突破し、儀式が行われている小屋へと向かっていく。
「させるか!」
俺はその進路上に割り込み、剣を振るう。
敵の兵士は、俺がただのおっさんではないと瞬時に判断したのだろう。
その動きには一切の油断がなかった。
金属音が鋭く響き渡り、火花が散る。
互いに一歩も譲らない、ギリギリの攻防が続いた。
だが、今の俺は一人ではない。
「《重圧》!」
アーシャの短い詠唱と共に、敵の足元に僅かな魔力の揺らぎが生じた。
敵の動きが一瞬、本当に僅かにだが、鈍る。
その好機を、俺が見逃すはずもなかった。
「終わりだ」
俺は敵の剣戟をいなしながら懐に潜り込み、バランとの修行で磨き上げた体術で、その体勢を完全に崩す。
そして、がら空きになった胴体へ、容赦なく剣の柄頭を叩き込んだ。
敵の精鋭部隊を退けた後、俺たちは再び小屋の周囲に防衛線を張り直した。
息は上がっていたが、不思議と心は落ち着いていた。
師匠の教え通り、仲間を信じ、自分の役割を果たす。その単純な事実が、これほどの安心感と力を与えてくれるとは。
遠くで続くバランの戦いの音は、依然として止む気配がない。
俺たちは、この長い夜を耐え抜かなければならなかった。
「師匠、すごいな……。これだけの奴らを相手にしてるなんて」
アカネが尊敬の念を込めて呟いた。
「ええ。でも、私たちも役目を果たさないと」
ルルネが、汗を拭いながら応える。
「アリゼさん」
アーシャが、俺の方を向いて静かに言った。
「あなたの指示、的確でした。私たち、あなたを信じていますから」
その言葉に、俺は少し照れくさくなって頭を掻いた。
「ああ。俺も、お前たちを信じている」
小屋から漏れる光は、いまだ力強く脈打っている。
儀式は続いている。
俺たちの守るべきものが、この背後にある。
空を見上げると、月は雲に隠れ、森は深い闇に包まれていた。
だが、俺の心は不思議なほど晴れやかだった。
かつては、ただ守られるだけだった小さな少女たち。
それが今や、互いに背中を預け、世界を相手に戦う、誇り高き英雄だ。
そして俺は、その父親であり、師匠であり、そして一人の仲間として、ここにいる。
これ以上の幸せが、他にあるだろうか。
俺は剣を握り直し、再び森の闇を見据えた。
(俺の守るべきものは、ここにある。さあ、来い。公爵だろうが何だろうが、誰一人、この先へは通すものか)
静かな決意を胸に、俺たちは仲間たちと共に、長い夜が明けるのを待ち続けた。