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第百七十九話「師匠と弟子」

「……本当の戦いは、ここからだ」


 俺の呟きは、夜明け前の冷たい空気に溶けて消えた。

 斥候がもたらした絶望的な報告に、その場にいた誰もが息を呑む。

 公爵家の軍隊。

 魔物の群れとは訳が違う。

 訓練され、統率の取れた、明確な殺意を持った敵が、今まさにこの村へと迫っているのだ。


 小屋の中では、ミアと長老たちが儀式に集中している。

 溢れ出す光は、ネシウスの魂を繋ぎ止めようと必死に脈打っていた。

 この光を、この祈りを、俺たちが守らなければならない。


「アリゼさん、どうするの!?」


 ルルネが、双剣に手をかけながら俺に問う。

 アカネはすでに大剣を地面から引き抜き、その瞳には闘志の炎が燃え盛っていた。

 アーシャもまた、冷静な表情の奥に強い決意を秘め、いつでも魔法を放てるよう身構えている。

 俺も剣を抜き放ち、仲間たちに指示を飛ばそうとした。

 全員で防衛線を築き、敵を迎え撃つ。

 それしか……。


「――待て」


 その思考を遮ったのは、師匠であるバランの、地響きのような低い声だった。

 彼はそれまで組んでいた腕を解くと、ゆっくりと一歩前に出た。

 その巨大な背中は、まるで動かぬ山脈のように俺たちの前に聳え立っている。


「師匠……?」

「お前たちは、ここに残れ」

「なっ……! 何を言ってるんだ! 敵はすぐそこまで来てるんだぞ!」


 俺は思わず声を荒らげた。

 この状況で、ここに残れだと?


「だからこそだ」


 バランは俺の方を振り向きもせず、静かに言った。


「これは、お前たちの最後の修行だ」

「修行だと!? こんな時に!」

「そうだ」


 彼はようやくこちらを振り返った。

 その瞳は、いつもの豪快さの奥に、底知れぬほどの真剣さを宿していた。


「俺が奴らの相手をする。お前たちは、この小屋を、儀式を、何があっても守り抜け。俺を突破してくる奴がいたならば……その時は、お前たちが斬れ」


 その言葉に、俺は絶句した。


「無茶だ! 師匠、一人でなんて! 俺たちも行く!」


 アカネも「そうだ! 私も戦う!」と叫ぶ。

 だが、バランは巨大な掌で、俺の肩を鷲掴みにした。

 ミシリ、と骨が軋むほどの力だった。


「本当の強さとは何だ、アリゼ」


 バランは、俺の瞳の奥を射抜くように見つめながら、静かに、しかし厳しく問いかけた。


「一人で全てをなぎ倒すことか? 違う。仲間を信じ、己の役割を全うすることだ」


 彼の言葉が、雷のように俺の胸を打ち据える。

 そうだ、俺はいつだって、娘たちを守るために、自分が前に出ることばかり考えてきた。

 だが、それは本当に正しいのか?


「俺の役割は、お前たちの『盾』となることだ。この程度、一人で十分。だが、お前の役割は何だ? お前の戦場はどこだ? ――ここだろうが!」


 バランの指が、儀式の光が漏れる小屋を指し示す。


「お前の役割は、ここで娘たちを守り抜くこと。それができずに何が師匠だ、何が父親だ! 俺を信じろ。そして、お前自身の役割を、命を懸けて果たせ」


 師匠の言葉が、ドワーフの国でアレバさんの最期を見てからずっと燻っていた俺の心の迷いを、容赦なく抉り出す。

 信念を貫くことの危うさ。

 守るという想いの脆さ。

 だが、師匠の答えは単純明快だった。

 迷うな。

 信じろ。

 そして、今、目の前にある守るべきものを、ただ守れ、と。


 俺は、掴まれた肩の痛みと共に、その言葉の重さを噛み締めた。

 隣を見ると、アカネもルルネも、そしてアーシャも、皆、固唾を呑んで俺とバランを見つめている。

 彼女たちの瞳には、恐怖ではなく、俺への絶対的な信頼と、同時に俺への期待も込められていた。


 ……ああ、そうか。

 俺は、いつの間にか、こいつらに信じられているだけじゃなく、俺自身がこいつらを信じることを、試されていたのか。

 俺は、強く握りしめていた拳の力を、ゆっくりと抜いた。


「……分かりました、師匠。ここは、俺たちに任せてください」


 俺の答えに、バランは満足げにニヤリと笑うと、俺の肩から手を離した。


「フン。ようやく分かりおったか」


 彼はそう言うと、娘たちの方へ向き直った。


「いいか、お前たちもだ。アリゼを信じろ。こいつは、お前たちの知るどこの誰よりも、お前たちのことを想っている。こいつの背中を、お前たちが守ってやれ」


 その言葉に、娘たちは皆、涙を堪えるように、力強く頷いた。


「よし!」


 バランは天を仰ぐと、これ以上ないほど豪快に笑った。


「心配するな! 俺は世界最強だからな!」


 その言葉を最後に、彼は身を翻した。

 熊の巨体が、その大きさからは信じられないほどの速度で闇夜の森へと突進していく。

 それはもはや、一人の獣人ではない。

 敵軍という巨大な津波に立ち向かう、一つの天災そのものだった。


 やがて、森の奥から、轟音と衝撃波が響き渡り始める。

 木々がなぎ倒され、大地が揺れる。

 バランが、たった一人で公爵の軍隊と激突したのだ。


 俺は、その凄まじい戦闘の音を背中で聞きながら、娘たちと共に小屋を囲むように、それぞれの守りについた。

 もう迷いはない。

 俺は剣を構え直し、儀式の光が漏れる小屋を見つめる。


(分かっている、師匠。俺の戦場は、ここだ)


 ミアが、ニーナが、エリスとリアが、そしてネシウスが中にいる。

 俺の守るべき全てが、この背後にある。


「絶対に、通させはしない」


 俺の静かな決意は、夜明け前の冷たい空気の中で、確かな熱を帯びていた。

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