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第百七十四話「兄妹の絆」

 鉄爪のヴォルグ。

 その名が長老の口から発せられた瞬間、銀狼族の戦士たちの間に絶望的な動揺が走った。

 アルベルト公爵の右腕にして、獣人の国でも屈指の武人として知られる男。

 彼が自らここまで来たということは、公爵がこの村とネシウスの存在を完全に掌握している証拠だった。


「雑魚は引っ込んでいろ。我が用があるのは、そこの器と、聖女だけだ」


 ヴォルグは、向かってくる銀狼の戦士たちをまるで路傍の石でも見るかのような目で見据え、言い放った。

 戦士たちは怒号を上げて一斉に襲いかかるが、彼らの槍や剣はヴォルグの身に纏う分厚い毛皮と、両腕に装着された鉄の爪によって、甲高い音を立てて弾き返されるばかりだった。


「無駄だと言っている」

 ヴォルグは一歩も動かず、ただ腕を振るうだけで戦士たちを薙ぎ払う。

 その圧倒的な力の差に、村の防衛線は意味をなさず、一人、また一人と地に伏していく。


「お兄ちゃんには……お兄ちゃんには指一本触れさせない!」


 その惨状を前に、エリスが動いた。

 恐怖で震える身体に鞭を打ち、兄を守りたいという一心だけで、彼女はヴォルグに向かって駆け出した。

 銀狼族特有の神速。その姿は見る者によっては複数の残像となって映り、常人離れした速度でヴォルグの死角へと回り込む。


「そこっ!」


 エリスは二振りの短剣を閃かせ、鉄爪の守りからがら空きになったヴォルグの脇腹を狙う。

 しかし、ヴォルグは予測していたかのように、最小限の動きで身を捻り、その一撃を容易くかわした。


「小娘が……。その速さだけは褒めてやる。だが、児戯に等しいわ」


 ヴォルグは嘲笑うと、エリスが次の攻撃に移るよりも早く、その鉄の爪で彼女の腕を掴み上げた。

 ミシミシと骨が軋む音が響き、エリスの顔が苦痛に歪む。


「エリスさん!」


 リアが叫ぶが、迂闊に近づけない。

 ミアもまた、ネシウスの封印を維持しながら、この絶望的な光景を歯噛みして見つめることしかできなかった。


「まずは貴様からだ。器の覚醒を促す、良い贄となれ」


 ヴォルグはエリスを無造作に持ち上げ、もう片方の鉄爪を振りかぶる。

 その鋭利な先端が、エリスの無防備な胸元に向けられた、その瞬間。


「お兄ちゃんッ!」


 エリスの悲痛な叫びが、村に響き渡った。

 その声が、引き金だった。

 小屋の中で眠っていたネシウスの目が、カッと見開かれた。

 彼を包んでいたミアの《聖封印》の黄金の光が、内側からの凄まじい魔力の奔流によってガラスのように砕け散る。


「きゃっ!?」


 ミアはその衝撃で後方へ吹き飛ばされた。

 暴走か――誰もがそう思った。

 だが、小屋から現れたネシウスの瞳は、これまでの虚ろなものではなかった。

 そこには、ただ一点、ヴォルグに掴まれた妹を救うという、明確で、そして燃えるような意志の光が宿っていた。


「エリス……!」


 一年近くまともに動かしていなかったはずの身体が、銀色の閃光と化す。

 ネシウスはヴォルグとエリスの間に瞬時に割って入ると、振り下ろされる鉄爪を、かざした片手で受け止めた。


 物理的な腕力ではない。

 彼の手のひらの前で、凝縮された純粋な魔力の障壁が形成され、ヴォルグの渾身の一撃を完全に防いでいた。


「なにぃっ!?」


 ヴォルグが驚愕に目を見開く。


「僕の妹に……手を出すなッ!!」


 ネシウスの叫びと共に、障壁が爆発的なエネルギーとなって解放された。

 それは破壊を目的とした荒れ狂う力ではなく、ただ拒絶する、一点に集中された衝撃波だった。

 ヴォルグの巨体は、その圧倒的な力の波に抗えず、数人の部下を巻き込みながら森の奥へと吹き飛ばされた。

 片方の鉄爪には、大きな亀裂が走っている。


「……はぁ……はぁ……」


 しかし、その一撃は、衰弱しきったネシウスの限界を超えていた。

 彼はその場に崩れ落ち、駆け寄ってきたエリスの腕の中に倒れ込む。


「お兄ちゃん! しっかりして!」

「……エリス……無事、か……?」


 それだけを掠れた声で呟くと、ネシウスは再び意識を手放した。

 だが、その寝顔は、これまでの苦悶に満ちたものではなく、どこか安らかに見えた。

 森の奥で体勢を立て直したヴォルグが、忌々しげに舌打ちをする。


「ほう……自らの意思で覚醒したか。面白い。だが――」


 彼が次の一手を繰り出そうとした、まさにその時だった。

 森の反対側から、天を突くような力強い咆哮が響き渡り、尋常ならざる気配が三つ、凄まじい速度でこちらへ近づいてくるのが分かった。


「この気配……まさか……!」


 ヴォルグは即座に状況を判断する。

 覚醒したばかりで不安定な器、そして未知数の強力な増援。

 これ以上の戦闘は得策ではない。


「今日のところはここまでだ。だが、器は必ず迎えに来る。覚えておけ」


 ヴォルグはそれだけを言い残すと、部下たちの姿も顧みず、闇の中へと瞬時に姿を消した。

 その直後、森の中から三つの人影が姿を現す。


「アーシャ、無事か!」

「ミアさん!」


 アリゼとアーシャ、そして師匠のバランだった。

 彼らが目の当たりにしたのは、戦闘の爪痕が残る村、負傷した戦士たち、そして、意識を失った兄を抱きしめ涙を流すエリスと、その傍らで安堵と疲労の表情を浮かべるミアとリアの姿だった。


 アリゼとアーシャ、そしてミア。

 三人の英雄の視線が、半年の時を経て、ついに交差した。

 言葉はなく、ただ互いの無事を確かめ合うかのように、その場に立ち尽くす。

 長かった分断の時が終わり、仲間たちが再び一つになろうとしていた。

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