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第百七十三話「村の防衛線」

 斥候の報告から僅か半刻もしないうちに、銀狼族の村は穏やかな集落から堅牢な要塞へとその姿を変貌させていた。

 長老の檄に応じ、屈強な戦士たちは静かに、しかし迅速にそれぞれの持ち場へと散っていく。

 彼らは狩人として培った地形の知識を最大限に活かし、木々の間に巧妙な落とし穴を掘り、蔦を編み上げた捕縛網を張り巡らせた。

 それは、大軍を相手にするためのものではない。

 侵入者の足を止め、数を削ぎ、村の中心へと到達させないための、緻密に計算された防衛線だった。


「敵の狙いは、ネシウス様と、そこにいる客人たちだ。何としても、あの小屋に一歩たりとも近づけさせるな!」


 見張り台の上から響く長老の鋭い声が、戦士たちの士気を引き締める。

 その中心である丸太小屋では、ミア、エリス、リアの三人が、それぞれの覚悟を決めていた。


「《聖封印》の維持に全力を注ぎます。だから、ここはお願いします」


 ミアは眠り続けるネシウスの傍らに膝をつき、杖を固く握りしめた。

 彼女の全身から放たれる柔らかな黄金の光が、小屋全体を包むように薄い結界を形成していく。

 ここが最後の砦。

 彼女が封印を維持し続ける限り、ネシウスの《亜神》の力は暴走しない。

 だがそれは、彼女がこの場から一歩も動けないことを意味していた。


「私たちは、大丈夫。お兄ちゃんは、私が守るから」


 エリスは小屋の入り口に立ち、二振りの短剣を逆手に構えた。

 その瞳には、先ほどまでの不安の色はなく、兄を守るという一点だけに集中した、狼のような鋭い光が宿っている。


「私も、私にできることをします」


 リアは黒猫族ならではの身軽さで音もなく小屋の陰に潜み、手製の煙玉や撒菱を手に、村の戦士たちと連携を取る準備を整えていた。


 その時だった。

 森の木々を揺らす風の音に混じり、パキリ、と乾いた枝が折れる微かな音が響いた。


「……来たか」


 見張り台の長老が低く呟く。

 その直後、村の外縁部に仕掛けられていた警報用の罠が作動し、甲高い金属音が静寂を切り裂いた。


 攻撃は、鬨の声も上げぬ静かな奇襲だった。

 森の闇に溶け込むようにして現れたのは、黒一色の軽鎧に身を包んだ十数名の兵士たち。

 アルベルト公爵配下の私兵部隊だ。

 彼らは大軍ではないが、一人一人の動きには一切の無駄がなく、村の罠を巧みに回避しながら、最短距離で中央の小屋を目指してくる。


「散開して迎え撃て! 各個撃破せよ!」


 長老の号令と共に、潜んでいた銀狼族の戦士たちが一斉に飛び出した。

 森を知り尽くした彼らの動きは、侵入者たちを確実に翻弄する。

 しかし、公爵の私兵もまた精鋭揃いだった。

 数人が罠にかかり動きを止めるが、残りは一切動じることなく、冷徹に銀狼の戦士たちを切り伏せていく。


「くっ……!」


 小屋の前で戦況を見守っていたエリスの視界に、防衛線を突破した兵士の一人が飛び込んできた。

 銀狼の戦士の迎撃をかわし、一直線に小屋へと突進してくる。


「通さない!」


 エリスは地を蹴った。

 銀狼族特有の俊敏さで敵の懐に潜り込み、その刃の届かぬ死角から短剣を閃かせる。

 兵士は驚愕の表情を浮かべるが、時すでに遅い。

 エリスの一撃が鎧の隙間を正確に捉え、兵士は苦悶の声を上げて地に伏した。


「エリスさん、すごい……!」

 後方で様子を窺っていたリアが思わず声を上げる。

 だが、安堵する暇はなかった。


「リアさん、右翼が手薄です! 戦士たちを誘導して!」

「はいっ!」


 リアは猫のようなしなやかさで屋根から屋根へと飛び移り、敵部隊の側面に回り込むと、煙玉を投げつけた。

 視界を奪われ混乱する兵士たちの前に、待ち構えていた銀狼の戦士たちが襲いかかる。


 村の防衛線は、彼女たちの必死の奮闘によって、かろうじて維持されていた。

 小屋の中では、ミアが負傷して運び込まれた戦士に素早く治癒魔法を施し、すぐにネシウスの封印へと意識を戻す。

 その額には、絶え間なく汗が流れ落ちていた。


 激しい攻防が数十分続いただろうか。

 侵入者たちの数は徐々に減り、やがて残った数名が形勢不利と見たのか、森の奥へと撤退していった。


「……追うな! 深追いは禁物だ!」


 長老の声が響き、戦士たちは荒い息をつきながらもその場に留まる。


「やった……のか?」


 リアが屋根の上から呟く。

 村にはいくつかの被害が出たが、なんとか第一波を退けることに成功したのだ。

 エリスも短剣を握りしめたまま、安堵の息を吐いた。


 だが、その束の間の安堵を打ち破るように、森の奥から、それまでとは比較にならないほど強大で、そして禍々しい気配が姿を現した。


 のっそりと、まるで散歩でもするかのように現れたのは、屈強な体躯を持つ一人の熊の獣人だった。

 両腕には、鉄でできた巨大な鉤爪が装着されている。

 彼は、先ほどまで激戦が繰り広げられていた戦場を意にも介さず、悠然と歩みを進めてくる。

 村の戦士たちが放った矢は、彼の分厚い毛皮に弾かれ、まるで意味をなさない。

 見張り台の長老が、絶望に染まった声でその名を叫んだ。


「全員、構えろ! 奴は……公爵の右腕、鉄爪のヴォルグだ!」


 ヴォルグと呼ばれた男は、小屋の前で奮闘していたエリスと、結界の光を放つミアの姿を捉えると、その口元に獰猛で残酷な笑みを浮かべた。


「見つけたぞ。器と、聖女を」


 彼の声は、勝利を確信した者の、絶対的な響きを持っていた。

 村の防衛線は、最強の敵の出現によって、今、崩壊の危機に瀕していた。

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