第百七十二話「束の間の平穏」
ルルネたちが《オーカスの遺跡》へと旅立ってから、四日が過ぎた。
銀狼族の村は、ビーミト王国の山脈のさらに奥深く、外界から隔絶されたかのような静寂と、厳しい自然の美しさに包まれている。
だが、その穏やかな風景とは裏腹に、村に匿われたミアたちの周りには、張り詰めた緊張の糸が常に垂れ込められていた。
村の長老から与えられた、薬草の香りが満ちる一際大きな丸太小屋。
その中央で、ネシウスは静かに眠り続けていた。
ミアの《聖封印》によって彼の内に潜む《亜神》の力はかろうじて抑え込まれているが、その顔には時折、悪夢にうなされるかのような苦悶の色が浮かび、見る者の心を締め付ける。
「……お兄ちゃん」
妹であるエリスは、ほとんど眠ることもせず、兄の傍らに付きっきりだった。
濡らした布で額の汗を拭い、荒れがちな呼吸が少しでも楽になるよう、その小さな手を握り続ける。
彼女の銀色の髪は、数日間の心労ですっかり艶を失っていたが、その瞳だけは、兄を救うという一点の希望を失ってはいなかった。
「エリスさん、少し休んだ方が……。貴女まで倒れてしまったら、ネシウスさんも悲しみます」
そっと背後から声をかけたのは、黒猫族の少女リアだった。
彼女は温かい薬草茶を淹れた木製の椀を、エリスの前に差し出す。
リアもまた、故郷と幼馴染を失った身の上。
兄を想うエリスの痛みは、他人事とは思えなかった。
「ありがとう、リアさん……。でも、大丈夫。お兄ちゃんが目を覚ますかもしれないと思うと、離れられないの」
エリスは力なく微笑むと、薬草茶を一口含んだ。
その視線の先では、ミアが杖を静かに構え、途切れることのない祈りと共に、ネシウスへの《聖封印》の魔力を送り続けていた。
彼女の額には玉の汗が浮かび、その顔色は日に日に青白くなっている。
封印の維持は、聖女である彼女にとっても、魂を削るほどの重労働だった。
「ミアさんこそ、無理をしないでください。私たちに何か手伝えることはありませんか?」
リアが心配そうに尋ねると、ミアは穏やかな笑みを崩さずにゆっくりと首を振った。
「平気ですよ。聖職者として、苦しむ人を助けるのは私の務めですから。それに……アリゼさんたちなら、きっとこういう時、最後まで諦めなかったはずです」
彼女の脳裏に浮かぶのは、どんな絶望的な状況でも仲間を信じ、前を向き続けた恩人の姿。
その思い出が、今の彼女を支える大きな力となっていた。
エリスは、そんなミアの姿に深く感謝しながら、ネシウスの手を握りしめた。
「……私のお兄ちゃんは、とても優しかったんです。村ではいつも、私やリアさんのことを守ってくれて……。虫一匹殺せないような人だったのに……」
彼女が語るネシウスの思い出は、今、目の前で眠る少年の姿とはあまりにもかけ離れていた。
その優しい魂が、アルベルト公爵の非道な実験によって歪められてしまったのだと思うと、三人の胸には静かな怒りが込み上げてくる。
その時だった。
小屋の扉が静かに開き、村の長老が厳しい顔つきで入ってきた。
彼の後ろには、斥候を務める若い銀狼族の戦士が控えている。
そのただならぬ雰囲気に、三人は弾かれたように立ち上がった。
「長老様……!」
「静かに。……斥候からの報告だ」
長老の低い声が、室内の空気を凍てつかせる。
斥候の男は、息を潜めるように報告を始めた。
「村の東側、峠へと続く森の中で、複数の不審な影を確認しました。軍隊のような大規模なものではありませんが、その動きはただの山賊や猟師ではない。訓練された追跡者の動きです」
「……やはり、見つかったか」
長老は、白く長い眉を顰めて呟いた。
「アルベルト公爵の手の者たちに違いありません。私たちの匂いを辿ってきたんだわ……」
エリスが唇を噛みしめる。
銀狼族の優れた嗅覚を持つ追っ手ならば、彼女たちが山道に残した僅かな痕跡から居場所を突き止めることも可能だろう。
「今のところ、彼らは森の外縁部でこちらの様子を窺っているだけのようです。しかし、本隊の到着を待っているか、あるいは奇襲の機会を狙っている可能性が高いかと」
斥候の報告に、ミアは杖を強く握りしめた。
平穏は、あまりにも早く終わりを告げようとしていた。
長老は、眠るネシウスを一瞥すると、決然とした声で言った。
「村の戦士たちに、防衛準備を命じよ。女子供は地下の避難所へ。だが、敵の狙いがこの子である以上、この小屋が最初の標的となるだろう」
彼はミアたち三人に向き直る。
「お主たちだけで、この子を守りながら戦うのは酷だ。我らも共に戦うが、覚悟は良いな?」
その問いに、三人は顔を見合わせた。
恐怖はあった。
だが、それ以上に、ようやく掴みかけた希望を、ここで手放すわけにはいかなかった。
「はい」
ミアが静かに、しかし力強く答えた。
「この場所を、そしてネシウスさんを、絶対に渡しません」
その言葉に、エリスとリアも固く頷いた。
長老は三人の瞳に宿る決意の光を見ると、満足げに頷き、戦士と共に小屋を出て行った。
外からは、村人たちが慌ただしく動き始める気配が伝わってくる。
武器のぶつかる音、低い指示の声。
束の間の平穏は完全に破られ、村は今、静かな戦場へと姿を変えようとしていた。
エリスは窓の隙間から、夕暮れの赤い光に染まり始めた森を見つめる。
その闇の向こう側に、兄を歪めた者たちが潜んでいる。
「嵐が来る……」
ミアが呟いた。
その声に応えるように、エリスは眠る兄の手に、自分の手をそっと重ねる。
「でも、もう大丈夫。今度こそ、私たちが、お兄ちゃんを守るから」
少女たちの小さな決意が、迫りくる大きな脅威に立ち向かうべく、静かに燃え始めていた。