第百七十話「水晶の守護者」
心の闇を振り払った三人の英雄たちの足取りは、以前よりも確かなものとなっていた。
あれほど彼女たちを苛んだ悪意に満ちた幻影は完全に消え去り、遺跡の回廊はただの静かな石の迷宮へとその姿を戻していた。
しかし、不思議なことに道に迷うことはなかった。
まるで遺跡そのものが、試練を乗り越えた者たちを奥へと導いているかのように、自然と進むべき道が示されている感覚があった。
「この先ね……」
ルルネが、回廊の突き当たりに現れた巨大な両開きの扉を見据えて呟いた。
扉には、これまでのものとは比較にならないほど精緻で複雑な紋様が彫り込まれており、その隙間からは、清らかで温かい光が微かに漏れ出している。
アカネが扉に手をかけると、あれほど重厚に見えた石の扉は、まるで羽のように軽々と内側へと開いた。
その先に広がっていたのは、息を呑むほどに美しい、巨大な円形の神殿だった。
高いドーム状の天井は、まるで夜空をそのまま封じ込めたかのように無数の光る鉱石が埋め込まれ、星々のように瞬いている。
床や壁からは、水晶の柱がまるで植物のように伸び、天井からの光を受けて七色に輝いていた。
空気は純粋な魔力で満たされており、深呼吸するだけで身体の奥底から力が満ちてくるようだ。
そして、その神殿の中央。
水が張られた浅い円形の泉の中心に浮かぶ祭壇に、それは安置されていた。
「《聖なる水晶》……」
ニーナが、ほとんど吐息のような声で言った。
それは人の頭ほどの大きさで、内側から柔らかな青白い光を放っていた。
ただそこにあるだけで、周囲の空間全てを浄化するような、圧倒的なまでの神聖なオーラ。
これこそが、ネシウスを救う唯一の希望。
アカネが、逸る気持ちを抑えるように一歩、また一歩と祭壇へ向かって足を踏み出した。
その時だった。
神殿全体が、ゴゴゴ……という低い振動と共に震え始めた。
壁や床から伸びていた水晶の柱が一斉に輝きを増し、その破片や周囲の石材が宙に浮かび上がる。
それらは意思を持ったかのように中央へと集結し、みるみるうちに巨大な人型の姿を形成していった。
やがてそこに立っていたのは、全身が光る水晶で構成された、高さ十メートルはあろうかという巨大なゴーレムだった。
それは単なる番人というより、この聖域そのものが形を成したかのような、威厳に満ちた存在だった。
「……守護者か」
カゲトが弓を構えながら、緊張した声で呟く。
アカネも大剣を握りしめ、いつでも斬りかかれる体勢を取った。
しかし、水晶の守護者は攻撃の素振りを見せることなく、その光のない瞳で一行を静かに見下ろした。
そして、声ではない、直接心に響き渡るような、古の言葉が彼らの脳内に流れ込んできた。
『星の涙を求めし子らよ。汝ら、その力を何に使う』
それは力試しではない。
彼らの魂の真価を問う、根源的な問いかけだった。
最初に一歩前に出たのは、アカネだった。
彼女は目の前の圧倒的な存在を前にしても、一切怯むことなく、真っ直ぐに守護者を見上げて言い放った。
「力のために来たんじゃない。私たちは、仲間を……たった一人の、大事な友達を救うためにここに来た。それだけだ」
彼女の言葉には、一切の飾り気も嘘もなかった。
ただ仲間を救いたいという、純粋で揺るぎない想い。
それは、彼女が心の試練の中で再確認した、彼女自身の戦う理由そのものだった。
次にニーナが、静かに杖を構え直して口を開いた。
「彼を苦しめているのは、あなた方が守るこの力に似た、しかし歪められた力です。私たちは、その過ちを正し、破壊のためではなく、再生のためにこの水晶を求めています。失われたものを取り戻す……それが、私たちの願い」
ニーナの言葉は、論理的でありながら、その根底には深い慈愛が流れていた。
無力感という心の闇を乗り越えた彼女の言葉には、仲間と共に未来を築くという強い意志が込められている。
最後に、ルルネが二人の前に進み出た。
彼女は、アカネとニーナ、そして村で待つ仲間たちの顔を心に思い浮かべながら、守護者に向かって語りかけた。
「私たちは、血の繋がりこそありません。ですが、同じ痛みを分かち合い、同じ夢を見てきた、かけがえのない家族です。その家族の一人が今、他者の野心によって心を砕かれ、苦しんでいます。私たちがこの力を求めるのは、彼を救い出し、私たちを救ってくれた恩人との約束を果たすため。そして、家族全員で、再び笑い合える明日を取り戻すためです」
過去の後悔を乗り越え、新しい家族を守るという決意。
ルルネの言葉は、三人の想いを一つに束ねる、力強い宣言だった。
三人の答えを聞き終えた守護者は、しばしの間、沈黙した。
神殿の中には、水晶が発する微かな共鳴音だけが響いている。
その光る瞳が、まるで彼女たちの魂の奥底まで見通すかのように、一人一人をゆっくりと見つめた。
やがて、守護者の心からの声が、再び響き渡った。
『……汝らの心、しかと見届けた。その想いに、偽りなし』
その言葉と共に、水晶のゴーレムの巨体がゆっくりと崩れ始めた。
光る破片は元の場所へと還り、壁や床の水晶柱へと姿を変えていく。
そして、祭壇へと続いていた水面が静かに左右に割れ、一筋の光の道が現れた。
『星の涙を手に取るが良い。だが、心せよ』
守護者の最後の言葉が、警告のように響く。
『救済の力は、等しく破滅の力ともなる。その少年の運命、ひいてはこの大陸の未来、その選択は今や汝らの双肩にかかっている。決して、その重さを見誤るな』
言葉が消えると同時に、神殿は再び元の静寂を取り戻した。
目の前には、《聖なる水晶》へと続く、一本の道だけが残されている。
アカネ、ニーナ、ルルネの三人は、互いの顔を見合わせた。
手に入れた希望の大きさと、同時に背負うことになった責任の重さに、ゴクリと息を呑む。
カゲトは、ただ敬意に満ちた眼差しで、彼女たちの後ろ姿を見守っていた。
一行は、守護者の最後の言葉を胸に刻み、決意を新たにして、水晶が待つ祭壇へと、その一歩を踏み出した。