第百六十六話「次の目的地」
記録室の冷たい空気の中、俺とアーシャは羊皮紙に描かれた地図を前に、しばし言葉を失っていた。
それは、俺たちが追い求めるべき敵の本拠地を示す、あまりにも明確な道標だった。
過去の犠牲者たちの無念が、この一枚の紙に凝縮されているかのようだった。
「行きましょう、アリゼさん」
最初に沈黙を破ったのはアーシャだった。
彼女の瞳には、先ほどの哀しみの色はもうない。
そこにあるのは、仲間を救い、この狂気の計画を終わらせるという、鋼のような決意だけだった。
「ああ。この情報を、一刻も早くみんなと合流して伝えなければ」
俺たちは地図を慎重に懐へしまうと、記録室を後にして、鉄格子が道を塞ぐ通路へと戻った。
バランは腕を組んだまま、静かにこちらを待っていた。
「終わったか。ずいぶんと長かったな」
「師匠……。とんでもないものを見つけました。ですが、まずはここから出ないと」
俺が言うと、バランは巨大な鉄格子を指差した。
「フン、お前たちで開けてみろ。それも修行のうちだ。いつまでも師匠が手を貸してくれると思うなよ」
やはり、そうきたか。
俺は苦笑し、アーシャと顔を見合わせた。
この鉄格子は並大抵の力では破壊できそうにない。
物理的な頑強さに加え、アーシャが指摘した通り、古代の魔術的な封印が施されている。
「何か手がかりは……」
アーシャは再び記録室へと戻り、壁に刻まれた術式や、散乱した日誌の隅に書かれたメモを調べ始める。
俺も罠の構造を思い出しながら、作動した石畳の周辺を丹念に観察した。
「この封印、無理に破ろうとすると、逆に強度が増すタイプの術式です。力を加えるのではなく、術式そのものを無力化させる必要があります」
「無力化、か……」
俺は先ほど見つけた研究責任者の日誌をもう一度手に取った。
そこには、セキュリティに関する走り書きがあった。
『……墓所の防衛機構は、封印された素体の暴走魔力を動力源の一部として利用。緊急停止プロトコルは、魔力の流れを鎮静させる周波数の聖属性魔術と、物理トリガーの同時操作を必要とする……』
「これだ!」
俺はアーシャに日誌の記述を見せる。
彼女もすぐに意図を理解した。
「聖属性魔術……私なら、できます。アリゼさんは、物理トリガーを」
「ああ。おそらく、罠が作動したあの石畳だ。俺がもう一度踏み込み、お前が詠唱を完了させる。タイミングを合わせるぞ」
俺たちは頷き合い、それぞれの配置についた。
アーシャは鉄格子の前に立ち、目を閉じて精神を集中させる。
彼女の手のひらから、ミアが使うものとはまた違う、清らかで静謐な光が溢れ出した。
それは、傷を癒すための力ではなく、荒れ狂う魂を鎮めるための、祈りの光だった。
「安らぎもたらす聖光よ、その役目を終え、鉄の戒めを解き放て」
アーシャの澄んだ詠唱が響き渡ると、鉄格子に刻まれた禍々しい赤黒い紋様が、彼女の放つ光に浄化されるように徐々に色を失っていく。
「今だ、アリゼさん!」
俺は彼女の合図と同時に、作動した石畳を全力で踏み抜いた。
すると、今度は壁の奥から、先ほどの落下音とは違う、何かの機構が巻き上げられるような重い音が響き始める。
ギギギ……という軋む音を立てながら、俺たちの行く手を阻んでいた巨大な鉄格子が、ゆっくりと天井へと吸い込まれていった。
「……やったか」
通路が完全に開通したのを確認し、俺とアーシャは安堵のため息をついた。
額には玉のような汗が浮かんでいる。
鉄格子の向こう側で、バランが腕を組んだまま立っていた。
「フン、やっとか。死ななかっただけマシだな」
そのぶっきらぼうな言葉には、微かな称賛の色が滲んでいるのを俺は見逃さなかった。
師匠なりのやり方で、俺たちの成長を認めてくれたのだろう。
俺たちは疲れた足取りで彼の元へ歩み寄ると、すぐに懐から地図を広げて見せた。
「師匠、これを見てください。これが、奴らの本拠地です」
俺は記録室で見つけた日誌の内容、《人工英雄の素》の実験、そしてルルネたちが標的にされている事実を簡潔に説明した。
話を聞き終えたバランの表情から、いつもの余裕が消えていた。
その瞳の奥に、燃えるような怒りの炎が宿る。
「……アルベルトの奴め。まだあのような狂気の計画を続けていたか。奴の野心は、いずれこの大陸全てを焼き尽くすぞ」
彼の口から漏れた言葉は、彼自身が持つアルベルト公爵との過去の因縁を強く感じさせた。
やはり、師匠もこの戦いから逃れることはできない。
俺たち三人の目的は、完全に一つになった。
「急ぐぞ。お前たちの仲間が、いつその毒牙にかかるとも限らん」
バランに促され、俺たちは地下墓地からの脱出を急いだ。
幸い、帰り道に新たな罠や敵は現れなかった。
納骨堂から這い出ると、東の空がうっすらと白み始めていた。
夜明け前の冷たい空気が、火照った身体に心地よい。
俺たちは近くの丘の上から、いまだ眠りの中にある王都を見下ろした。
巨大な城壁に囲まれた街のどこかに、ルルネとミアはいるはずだ。
そして、ニーナやアカネたちも、きっとこの国のどこかで戦っている。
俺は腰の剣の柄を強く握りしめた。
修行で得た力、仲間との絆、そして揺るぎない決意。
今なら、どんな困難にも立ち向かえる気がした。
「ルルネ、ミア……無事でいてくれ」
俺は心の中で、まだ見ぬ仲間たちに呼びかける。
「必ず見つけ出す。そして、この大陸の闇を、俺たちの手で終わらせる」
隣でアーシャも、同じ想いを抱いているかのように、静かに、しかし力強く頷いた。
俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ。
夜明けの光が、これから進むべき長く険しい道を、静かに照らし始めていた。