第百六十五話「師匠の背中」
過去の亡霊が塵へと還り、記録室には再び重い静寂が訪れた。
俺とアーシャは、荒い息を整えながら、床に散らばる黒水晶の欠片を呆然と見つめていた。
勝利の余韻など微塵もない。
あるのは、一つの命を弄んだ者たちへの静かな怒りと、救うことのできなかった犠牲者への深い哀悼の念だけだった。
「ひどい……これが、彼らのやっていること……」
アーシャが唇を噛みしめ、その瞳には悔しさが滲んでいる。
俺も同感だった。
先ほどまで俺たちに襲いかかってきたあの存在は、単なる魔物ではなかった。
それは、誰かの願いや誇りを、最も醜悪な形で歪められた、悲しい成れの果てだ。最後に聞こえた「ありがとう」という声は、きっと幻聴などではない。
俺はゆっくりと立ち上がり、壁際に散乱した日誌の山に再び目を向けた。
この部屋に満ちる狂気の記録、その一つ一つが、第二、第三の亡霊を生み出しているに違いない。
その時、鉄格子の向こうから、変わらぬ力強さでバランの声が響いた。
「フン。感傷に浸っている暇はないぞ。その部屋には、まだ何かあるはずだ。奴らが本当に隠したいものは、一番奥に仕舞い込むのが定石だからな」
師匠の言葉に、俺たちはハッと我に返る。
そうだ、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
俺たちは、この狂気の連鎖を断ち切るためにここに来たのだ。
「探しましょう、アリゼさん。まだ何か……奴らの計画の核心に迫るものが」
「ああ」
俺たちは気持ちを切り替え、部屋の隅々まで丹念に調べ始めた。
壁に並んだ棚、崩れかけた机の引き出し、そして床に散らばる羊皮紙の巻物。
そのほとんどは、先ほどの戦闘の余波でさらに損傷が激しくなっていたが、諦めずに一つずつ確認していく。
しばらくすると、アーシャが古い木製の机の下に、床の石畳と僅かに違う質感の部分があることに気づいた。
「ここ……隠し戸かもしれません」
二人で力を合わせると、石畳は音を立てて横にずれ、下にもう一つの空間が現れた。
そこにあったのは、埃をかぶった小さな鉄製の箱だった。
鍵はかかっていない。
俺が慎重に蓋を開けると、中には一冊だけ、他とは違う上質な革で装丁された日誌が収められていた。
おそらく、この実験の責任者が記した、最重要記録だろう。
俺が松明をかざし、アーシャがそのページをゆっくりとめくっていく。
インクは掠れているが、文字はまだ判読可能だった。
その内容は、これまでの記録以上に詳細かつ冷酷で、俺たちの心を抉った。
そして、あるページで俺の目が釘付けになった。
『被験体二十八号に関する追記。元は王国騎士団に所属していた男。特筆すべきはその精神性にある。「誰かを守るためならば、己が身を省みない」という、ある種の自己犠牲的な英雄願望を持つ。この〝純粋な意志〟こそ、《人工英雄の素》を定着させるための最高の触媒となり得る』
俺の心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。
――その剣は誰が為に
ベアから受け継ぎ、俺がずっと胸に抱き、そしてルルネたちにも伝えてきた信念。
それと酷似した想いを、ここの研究者たちは「触媒」と呼んでいたのだ。
アーシャが息を呑み、続きを読む。
『……素の注入後、被験体の守護への執着は増幅され、敵意と認識したもの全てを排除する狂気へと変貌。制御不能と判断。最終的に汚染が進行し、素体七号として封印。結論として、強すぎる理想は、亜神化の過程において精神崩壊のリスクを高める。今後の被験体選別においては、より精神が未熟な、御しやすい個体を優先すべきである――』
「……なんだ、これは」
俺は無意識のうちに呟いていた。
手足の先から急速に血の気が引いていく。
ドワーフの国で見た、アレバさんの悲しい最期が脳裏をよぎる。
《聖剣ジジニシア》という一つの理想に人生を捧げ、全てを失った彼の姿。
そして今、目の前にあるのは、守るという崇高な想いを弄ばれ、化け物へと成り果てた男の記録。
俺が信じてきた道は、守るべき信念は、こんな風に怪物どもに利用され、歪められるだけのか弱いものだったのか?
俺が握りしめた拳が、微かに震えていることにアーシャが気づいた。
「アリゼさん……」
彼女は何も言わず、ただ静かに俺の隣に立ち、その瞳で俺の心の揺らぎを見つめている。
彼女のその静かな眼差しが、言葉以上に俺の心を支えようとしてくれているのが分かった。
「……アーシャ。俺は、ずっと信じてきた。この剣は、誰かを守るためにあるんだと。だが、その想いですら、奴らにとってはただの実験材料でしかないのなら……俺たちの戦いは……」
言葉が続かなかった。
俺たちの正義とは、一体何なのだ。
そんな俺の迷いを吹き飛ばすかのように、再び鉄格子の向こうからバランの雷鳴のような声が轟いた。
「いつまでそこでうじうじしている! 死んだ奴のことなど、今さらどうにもできんわ! 貴様らが向き合うべきは、過去の犠牲者ではなく、今を生きている仲間だろうが!」
師匠には、俺たちが見つけた日誌の内容など分かるはずもない。
だが、俺たちの心の澱みを正確に感じ取っているようだった。
「己の信念が正しいかどうかなど、書物に答えはない! お前が今、何をすべきか! 誰を守りたいのか! それだけを考えろ! それができんのなら、貴様もあの亡霊と同じ、過去に囚われた抜け殻になるだけだぞ!」
その言葉は、まるで重い鉄槌のように俺の心を打ち据えた。
そうだ。
俺は何を迷っていたんだ。
信念が利用される?
だから何だ。
それならば、利用しようとする者たちを叩き潰し、その信念が正しく在り続けられる世界を、この手で守り抜けばいいだけのこと。
俺が守りたいのは、抽象的な理想論じゃない。
ルルネたち、アーシャたち、そしてこれから出会うであろう助けを求める人々、その一人一人の笑顔だ。
俺はゆっくりと顔を上げた。
隣で心配そうにしていたアーシャが、俺の瞳に再び光が宿ったのを見て、ほっと息をついたのが分かった。
「……すまない、アーシャ。少し、取り乱した」
「いいえ。アリゼさんの気持ち、分かりますから。でも、私たちは一人じゃありません」
彼女の言葉が、温かく胸に沁みる。
そうだ、俺は一人じゃない。
俺は日誌を静かに閉じた。
過去の犠牲者への弔いは、この狂気の計画を終わらせることでしか果たせない。
「ありがとう、アーシャ。……それと、師匠も」
俺は鉄格子に向かって小さく呟くと、再び日誌の落ちていた隠し戸棚に目をやった。
「バランの言う通りだ。まだ何かあるはずだ。奴らが本当に隠したかったのは、この日誌そのものじゃないのかもしれない」
決意を新たにした俺たちは、再び隠し戸棚の内部を調べ始めた。
すると、日誌が置かれていた底板が、僅かに浮き上がることに気づいた。
二人で力を込めて板を外すと、その下には羊皮紙に描かれた一枚の地図が、厳重に油紙で包まれて隠されていた。
「これは……王都の、さらに詳細な地下構造図?」
地図には、この地下墓地からさらに続く秘密の通路と、王都の別の区画にある巨大な施設――『アルベルト公爵家第二研究施設』と記された場所――が示されていた。
「見つけたぞ、アーシャ。奴らの、本当の巣だ」
俺の瞳には、もはや迷いはなかった。
ただ、倒すべき敵を見据える、揺るぎない闘志だけが燃えていた。