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第百六十四話「過去の亡霊」

「――これが、奴らのやっていることか」


 俺の口から漏れたのは、怒りを通り越して冷え切った呟きだった。

 松明の光が、アーシャが持つ日誌のページを揺らめきながら照らし出す。

 そこに記された文字の一つ一つが、おびただしい数の犠牲者の声なき悲鳴となって胸に突き刺さるようだった。

《人工英雄の素》、《適合率》、《処分》。命を物のように扱う、狂気としか言いようのない記録。


「銀狼種にまで……。ネシウスさんと同じ……」


 アーシャが震える声で言う。

 彼女の普段の冷静さは、目の前の残虐な真実の前に掻き消されていた。

 指名手配されているルルネやミアも、この計画の「素材」として狙われている。

 そう理解した瞬間、俺の身体の奥底から、かつて悪徳奴隷商を潰した時と同じ、静かで冷たい怒りが湧き上がってくるのを感じた。


「許せるはずがない……」


 俺がそう呟いた、その時だった。

 ギッ……、ギギギッ……。


 部屋の奥、最も大きな石棺――いや、それは石棺というより、分厚い石板で厳重に封印された巨大な『容器』だった――から、何かを内側から引っ掻くような、鈍い音が聞こえ始めた。

 俺とアーシャは弾かれたように顔を上げ、音の源に視線を向ける。

 容器の表面に刻まれた古代文字が、松明の光で浮かび上がる。


『失敗作』

『素体七号』

『最終段階にて汚染。封印』


「まずい、離れろ!」


 俺が叫ぶと同時に、石の容器に亀裂が走り、そこから粘度の高い、黒紫色の液体がじわりと滲み出してきた。

 カビや腐臭とは違う、魔力が腐敗したかのような甘くむせ返る異臭が、一瞬で部屋に充満する。


 ゴトリ、と重い音を立てて石の蓋が内側からの力で押し上げられ、床に落下した。

 そして、闇の中からぬらりとした腕が、次いで歪な頭部が姿を現す。


 それは、かつて人間だったもの、あるいは獣人だったものの成れの果てだった。

 複数の生物を無理やり繋ぎ合わせたかのような、冒涜的なキメラ。

 身体のあちこちから余分な手足や眼球が突き出し、その胸の中心には、黒く濁った巨大な水晶が心臓のように不気味な脈動を繰り返している。


「グルゥ……アァァ……」


 それは怒りとも苦痛ともつかない、魂の断末魔のような呻き声だった。

 焦点の合わない複数の瞳が俺たちを捉えた瞬間、そいつは獣のような四足で床を蹴り、襲いかかってきた。


「アーシャ!」

「はいっ!」


 俺たちは即座に散開する。キメラ――いや、過去の亡霊と呼ぶべきそいつの動きは、力強いが恐ろしく不安定だった。

 理性はなく、ただ目の前の動くもの全てを破壊しようとする、純粋な破壊衝動の塊。

 振り下ろされた爪は石畳を容易く抉り、その口から漏れ出た魔力の奔流は、壁に当たって小さな爆発を起こした。


「こいつ、魔力を制御できていない!」

「でも、だからこそ危険です! どこに攻撃が飛ぶか分からない!」


 アーシャは冷静に分析しながらも、その額には汗が滲んでいる。

 俺は剣を構え、亡霊の注意を引きつける。

 バランとの修行で鍛え抜いた体捌きで、その猛攻を紙一重でかわし続ける。


 その時、鉄格子の向こう側からバランの怒声が轟いた。


「おい! そいつの気配は何だ! 腐臭を放つほどの歪んだ魔力……ただの獣じゃねえぞ! 怒りに任せて振り回すな! 苦しみの中心を見極めろ!」


 師匠は姿こそ見えないが、この異常な魔力を感じ取っているらしい。

 苦しみの中心。

 その言葉が、俺の頭に引っかかった。


 そうだ、こいつもまた犠牲者なのだ。

 俺たちが倒すべきは、この哀れな亡霊ではなく、こいつをこんな姿に変えた者たちだ。


「アーシャ、胸の水晶だ! あれが力の源であり、呪いの核でもあるはずだ!」

「分かっています! でも、動きが早すぎて狙いが……!」


 アーシャが叫ぶ。

 彼女の言う通り、亡霊は苦痛から逃れるように暴れ狂っており、一点を狙うのは至難の業だった。

 ならば、俺が作るしかない。

 一瞬の好機を。


「俺が動きを止める! お前は全力で、あの水晶だけを狙え!」

「無茶です! アリゼさん!」


 アーシャの制止を振り切り、俺はあえて一歩踏み込んだ。

 迫りくる爪を剣で受け流し、がら空きになった胴体へ懐に潜り込む。

 亡霊が俺を捕らえようと複数の腕を振り下ろすが、それを予測していた俺は、バランとの水中訓練を思い出しながら、最小限の動きで回避する。

 水の抵抗の中で戦うように、敵の力の流れを読み、受け流す。


「うおおおっ!」


 渾身の力で亡霊の主腕の一本を掴み、全体重をかけて動きを封じ込める。

 ギチギチと骨が軋む音がしたが、構わない。

 俺の腕が砕けるのが先か、アーシャの一撃が届くのが先か。


「アーシャ、今だッ!」


 俺の叫びに、アーシャは一瞬の迷いも見せなかった。

 彼女は懐からバランに渡された《深淵核》の一つを握りしめる。

 莫大な魔力が彼女の身体を駆け巡り、その白銀の髪が逆立った。

 彼女はもはや補助役ではない。

 俺と対等の、一人の戦士だ。


「はぁぁっ!」


 アーシャが放ったのは、破壊のための斬撃ではなかった。

 彼女の持つ魔力を純化させ、一点に収束させた光の刺突。

 それはまるで、苦しむ魂を解放するための祈りのようだった。


 光の矢と化した彼女の剣先は、俺が作り出したほんの僅かな隙を正確に貫き、亡霊の胸で脈打つ黒い水晶に吸い込まれていく。


 パリンッ、という乾いた音が響いた。

 水晶が砕けた瞬間、亡霊の動きが完全に止まった。

 あれほど満ちていた凶暴な魔力は霧散し、その巨体は力を失って崩れ落ちていく。


「ア……リ……ガ……ト……」


 最後に聞こえたのは、感謝の言葉のようにも、安らぎのため息のようにも聞こえる、か細い声だった。

 そして、亡霊の身体は砂のようにさらさらと崩れ、後には砕けた水晶の欠片と、微かな光の粒子だけが残された。


「……終わった、のか」


 俺は腕の痛みに耐えながら、その場に膝をついた。

 アーシャもまた、息を切らしながら剣を杖代わりに身体を支えている。

 勝利の歓喜はない。

 ただ、一つの哀れな魂を弔ったという、重く、そして静かな達成感だけが胸に広がっていた。


 アーシャがゆっくりと歩み寄り、床に落ちた水晶の欠片を一つ拾い上げた。

 それはもう邪悪な光を放ってはおらず、ただ静かに月光を反射している。


「これが……《英雄の素》の実験の、なれの果て……」


 彼女の呟きが、この地下墓地の真の恐怖を物語っていた。


「許せない……」


 アーシャは強く拳を握りしめる。

 その瞳には、悲しみと、そして静かで燃えるような怒りの炎が宿っていた。

 俺たちの敵は、単なる力や野心を持っただけの存在ではない。

 命を弄び、人の尊厳を踏みにじる、真の怪物だ。

 俺はアーシャの肩に手を置き、静かに頷いた。


「ああ。俺たちが、必ず止めなければならない」


 その決意を固めた俺たちの背後で、鉄格子の向こうから、バランの地響きのような声が聞こえた。


「……フン。ようやく片付いたようだな。感傷に浸っている暇はないぞ。その部屋には、まだ何かあるはずだ」


 師匠の言葉に、俺たちは顔を見合わせた。

 そうだ、この部屋にはまだ、公爵の計画の根幹に迫る、さらなる秘密が眠っているに違いない。

 俺たちは再び立ち上がり、部屋の奥へと視線を向けた。

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