第百六十三話「バランの教え」
鉄格子が落下した轟音の余韻が消えぬうちに、俺たちの背後の闇から新たな脅威が姿を現した。
ギチギチという骨の軋む音と共に、松明の光に照らし出されたのは、朽ちかけた鎧を身に纏った三体のスケルトンだった。
その眼窩には、獲物を見つけた捕食者のような青白い鬼火が揺らめいている。
「アリゼさん、後ろから……!」
「ああ、分かってる!」
俺とアーシャは即座に背中合わせになり、剣を構えた。
退路は鉄格子で塞がれ、前方は死の軍勢。
まさに袋の鼠だ。
スケルトンたちはただの動く骸骨ではなかった。
その動きには魔法によるものと思われる不自然な俊敏さがあり、統率の取れた動きでじりじりと包囲網を狭めてくる。
「ちっ、連携してやがる……!」
一体が盾を構えて突進し、その陰からもう一体が錆びた長剣を突き出してくる。
俺はそれを弾き返すが、腕にずしりと重い衝撃が走った。
一体一体の力も、見た目より遥かに強い。
アーシャもまた、巧みな剣さばきで攻撃をいなしているが、狭い通路では自慢の機動力を活かしきれず、じわじわと後退を余儀なくされていた。
その時、俺たちの絶望的な状況を嘲笑うかのように、鉄格子の向こうからバランの野太い声が響き渡った。
「おい! 小僧ども! 何をもたついている! 俺が湖で教えたのは、ただ剣を振り回すだけの芸だったか!?」
助けを求めるどころか、檄、いや、ほとんど罵声に近い言葉が飛んでくる。
だが、その声には不思議と心を落ち着かせる力があった。
そうだ、これは試練なのだ。
師匠は、俺たちが自力でこの窮地を乗り越えられるか試している。
「周りを使え! 頭を使え! お前たちのいる場所はただの通路か?違うだろうが!」
バランの言葉が脳内で反響する。
そうだ、水中修行で叩き込まれたのは、不利な環境をいかに利用するか、ということだった。
水の抵抗、視界の悪さ、三次元的な動き。
それに比べれば、この石の通路など、まだ御しやすい。
俺はアーシャに叫んだ。
「アーシャ、天井だ! あのヒビを狙えるか!」
「はい、でも何を……!」
「いいから光を! 強く!」
アーシャは一瞬戸惑いながらも、俺の意図を即座に理解した。
彼女は剣の切っ先を天井に向け、魔力を集中させる。
「《閃光》!」
彼女が放ったのは攻撃魔法ではない。
強烈な光で敵の視界を眩ませるための補助魔法だ。
闇に慣れていたスケルトンたちの動きが一瞬、完全に止まる。
その眼窩の鬼火が激しく揺らめいた。
好機は一瞬。
俺はその隙を見逃さなかった。
強化した脚力で壁を蹴り、天井の最も脆そうな亀裂の真下へ滑り込む。
そして、剣の柄頭に魔力を込めて、真上へ向かって突き上げた。
「砕けろっ!」
ドゴォッ! という鈍い音と共に、天井の一部が崩落した。
土埃と大小の石くれが、動きを止めていたスケルトンたちの上に降り注ぐ。
一体が完全に下敷きになり、もう一体も体勢を崩した。
「今だ、アーシャ!」
「ええ!」
俺たちが再び剣を構え直した時、アーシャの身体から淡い光が溢れ出した。
彼女は自分自身に身体強化の魔法を重ねがけし、普段の俊敏さをさらに研ぎ澄ませる。
彼女の姿が霞み、体勢を崩したスケルトンの背後に一瞬で回り込むと、強化された刃が骨の鎧をたやすく断ち切った。
残るは一体。
しかし、そいつはこちらに向かってくるのではなく、不意に方向を変え、鉄格子に向かって走り出した。
「まずい、バランの方へ!」
スケルトンは、罠の仕掛けがある壁のレバーのようなものに向かっていた。
さらに別の罠を作動させるつもりだ。
「逃がすか!」
俺は床を滑るように駆け抜け、スケルトンの足元を狙って剣を薙ぐ。
だが、敵はそれを読んでいたかのように高く跳躍し、俺の頭上を飛び越えようとした。
空中で無防備になったその瞬間を、しかし俺は見逃さなかった。
「――終わりだ」
俺は体勢を低く沈めたまま、剣を逆手に持ち替え、真上に向かって突きを放つ。
それはかつてベアとの戦いで見せた技の応用。
水中での三次元的な戦闘訓練が、俺の剣の可動域を広げていた。
剣先は正確にスケルトンの背骨を捉え、その勢いを殺しきる。
青白い鬼火がふっと消え、骸はただの骨の塊となって床に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……」
激しい戦闘を終え、俺とアーシャは荒い息をつきながら肩で呼吸する。
松明の光が、床に転がる骨の残骸を静かに照らしていた。
「……フン。まあ、及第点といったところか。手間取りすぎだがな」
鉄格子の向こうから、どこか満足げなバランの声が聞こえた。
彼の言う「及第点」は、最高の賛辞に等しい。
「それと、ただの罠だと思うなよ。なぜ、こんな場所にこれほどの仕掛けがあるのか。それを考えろ」
師匠の言葉に、俺たちはハッとして周囲を見回した。
そうだ、この罠とスケルトンは、ただ侵入者を阻むためだけのものではない。
何かを、絶対に知られてはならない何かを「守る」ためのものだ。
俺は罠の作動した石畳に近づいた。
バランの言う通り、ただの圧力式の罠ではない。
石畳の側面には、微かな紋様が刻まれている。
「アーシャ、この紋様……」
「これは……古代の封印術式の一部です。物理的な罠と連動させて、特定の条件で何かを隠すための……」
俺たちは顔を見合わせた。
そして、先ほど崩落させた天井の瓦礫をいくつか運び、作動した石畳の上に慎重に置いた。
スケルトンの鎧の残骸も使い、罠が作動した時と同じだけの重量をかける。
すると、ゴゴゴ……という低い地響きと共に、俺たちが戦っていた場所のすぐ横の壁が、ゆっくりと横にスライドし始めたのだ。
「隠し通路……!」
松明の光を向けると、その先にはさらに下へと続く、狭く急な階段が姿を現した。
そこから流れ出てくる空気は、これまで以上に冷たく、そして濃密な魔力の匂いがした。
俺とアーシャは、ゴクリと唾を飲み込む。
この奥にこそ、この地下墓地の本当の秘密が眠っている。
「行くぞ」
俺が短く言うと、アーシャは黙って頷いた。
二人で隠し通路に足を踏み入れる。
その奥は、小さな石造りの部屋になっていた。
書斎……いや、記録保管室とでも言うべき場所だった。
壁にはいくつもの棚が設けられ、そこには羊皮紙の巻物や、分厚い革の表紙で綴じられた日誌のようなものが無数に並べられていた。
「これは……」
アーシャが、かろうじて原型を留めている一冊の日誌を手に取り、埃を払う。
俺が松明を近づけると、そこにはインクで几帳面に記された文字が並んでいた。
『被験体番号三十七、銀狼種。素との適合率、四十二パーセント。魔力注入の段階で拒絶反応。処分せよ』
『被験体番号四十五、人間。適合率、六十八パーセント。第二段階へ移行。精神汚染の兆候あり。観察を継続』
ページをめくるごとに、俺たちの表情は険しくなっていく。
そこには、数えきれないほどの「被験体」に対する、非人道的な実験の記録が延々と綴られていたのだ。
そして、何度も繰り返し現れる、あの言葉。
「《人工英雄の素》……」
アーシャが震える声で、日誌の一節を読み上げた。
「――《人工英雄の素》の安定化には、より純度の高い『器』が必要となる。被験体ネシウスにおける適合率は九十パーセントを超えたが、なお不完全。真の《亜神》を完成させるには、やはり、大陸アガトスより転移せし、本物の英雄の素体を確保する他あるまい――」
その最後の記述を読み終えた時、俺たちは確信した。
「ここだ……」
俺は低く呟いた。
「ここが、全ての陰謀の始まりの場所だ」
俺たちが探していた仲間たちが、ただの指名手配犯などではない、この恐ろしい計画の、最後の標的として狙われているのだ。
地下墓地の冷たい空気の中で、俺は静かな怒りが全身を駆け巡るのを感じていた。