第百六十二話「王都の地下へ」
獣人の国ビーミト王国の王都は、夜の帳が下りると昼間の活気が嘘のように息を潜め、代わりに冷たい静寂が支配していた。
俺、アリゼとアーシャ、そして俺たちの師匠であるバランの三人は、スラム街の外れ、旧区画と呼ばれる忘れられた一角に佇んでいた。
月明かりだけが、風化し崩れかけた石造りの納骨堂を不気味なまでに白く照らし出している。
「ここが地下墓地への入り口か……」
俺の呟きは、湿り気を帯びた夜気にかすかに吸い込まれた。
昼間に酒場で情報屋から聞き出した、衛兵すら寄り付かないという禁断の場所。
ルルネとミアが身を隠している可能性があるとすれば、これほど都合の良い場所もないだろう。
だが、その可能性にすがる心とは裏腹に、背筋を這い上がる悪寒は拭えなかった。
「うむ。情報屋の話ではな。だが、これほど淀んだ空気とはな。生者の気配も、死者の安らぎも感じられん」
隣に立つバランは、熊の獣人らしい鋭い嗅覚で周囲の匂いを確かめながら、退屈そうに鼻を鳴らした。
彼の巨体から放たれる圧倒的な存在感だけが、この場の唯一の安心材料だった。
元貴族でありながら今は山奥で隠遁生活を送るこの自称「世界最強の男」は、王都の空気に何か思うところがあるのか、その瞳には普段の豪快さとは違う、鋭い光が宿っている。
「ルルネさんたちが、本当にこのような場所に……」
アーシャが不安げに囁き、銀色の髪が月光を反射してきらめいた。
彼女は懐から取り出した《魔力発信機》を握りしめている。
それはまだ、仲間の正確な位置を示してはいなかった。
指名手配されているという事実だけで胸が張り裂けそうな思いだというのに、彼女たちがこんな陰鬱な場所にいるかもしれないと思うと、その心痛は計り知れない。
俺は彼女の肩に軽く手を置き、無言で頷いた。
言葉よりも、今は行動で示すしかない。
松明に魔法で火を灯すと、揺らめく炎が俺たちの決意を帯びた顔を照らし出す。
俺は先陣を切って、納骨堂の口を大きく開けた石の階段へと足を踏み入れた。
ひやりとした空気が、地上とは明らかに違う濃度で肌を撫でる。
カビと古い土、そして微かに血の匂いが混じったような淀んだ空気が鼻をついた。
一歩下りるごとに闇は深まり、壁を伝う雫の音だけが、静寂の中で不気味なほど大きく反響する。
「気配は……ないな。少なくとも生きている人間のものはない」
俺の後ろからついてくるバランが、低い声で告げる。
彼の言葉は頼もしかったが、それがかえってこの場所の異様さを際立たせていた。
生き物がいないのではない。
何者かが、全ての気配を消し去っているかのような、不自然な静けさだった。
しばらく螺旋状の階段を下ると、やがて通路は少し開けた空間に出た。
数十メートル四方はあろうかという広間で、壁際にはいくつもの石棺が整然と、あるいは無造作に並べられている。
そのうちの一つが、僅かに蓋をずらしていることにアーシャが気づいた。
「アリゼさん、あれを」
「ああ、気づいている」
彼女が指差すまでもなく、その不自然さは目についていた。
石棺の傍らの床には、まだ乾ききっていない湿った足跡がいくつか残っている。
少なくとも数時間以内に誰かがここを通った証拠だ。
さらに、壁に等間隔で設置された燭台の一つには、つい先ほどまで火が灯っていたかのように、燃えさしが微かな熱を帯び、細い煙を上げていた。
アーシャがそっと燭台に近づき、指先で魔力の残滓を探る。
「……魔力の痕跡はほとんどありません。魔法による着火ではないようです。物理的な火種を使ったか、あるいは痕跡を消すのが非常にうまいか」
「どちらにせよ、厄介な相手だな」
俺は足跡に視線を落とす。
複数人いるようだ。
踵の沈み方からして、屈強な男たちだろうか。
足跡の乱れ具合から、何かを運び込んでいたか、あるいはここで何らかの争いがあった可能性も考えられる。
「誰かが最近までここにいた……間違いありませんね」
「ああ。だが、その人影は見当たらない。まるで、俺たちが来るのを察して姿を消したかのようだ」
俺とアーシャが慎重に周囲を警戒していると、それまで黙って腕を組んでいたバランが、ふっと息を漏らした。
「待ち伏せか、それともただの先客か。いずれにせよ、この先に答えがあるのだろう。行くぞ」
彼の言葉に促され、俺たちは再び歩みを進める。
この広間からは三つの通路が伸びていた。
中央の最も大きな通路を選ぶ。
そこが、足跡の続いていた道だったからだ。
通路を進むにつれて、壁の意匠がより複雑になっていくのを感じた。
古い時代の王族や貴族を祀るための場所なのかもしれない。
だが、今はただの打ち捨てられた迷宮だ。
俺はふと、足を止めた。
「どうした、アリゼ」
アーシャが訝しげに尋ねる。
「いや……この石畳、少しだけ違和感がないか?」
俺が指差した先、通路の中央付近の石畳は、周囲のものと比べて僅かに、本当に僅かにだが、沈んでいるように見えた。
長年の劣化にしては、その部分だけが不自然に整っている。
アーシャも目を凝らし、やがて小さく頷いた。
「確かに……魔力の流れも、この床下だけ僅かに乱れています。何か仕掛けがあるのかもしれません」
彼女がそう警告した、その時だった。
最後尾を歩いていたバランが、俺たちが気づくのを待っていたとばかりに、わざとらしく大きくため息をついた。
「ようやく気づいたか、小僧ども。師匠としては、もう少し早く看破してほしかったところだがな」
その言葉が、まるで合図だったかのように。
俺が次の言葉を発する前に、アーシャが「危ない!」と叫ぶ。
俺は咄嗟に後方へ跳ぼうとしたが、すでに遅かった。
俺が先ほどまで立っていた場所の数歩先、アーシャが指摘した場所とは違う、まったく別の石畳に気づかぬうちに足がかかっていたのだ。
カチリ、と耳障りな機械音が壁の奥から響き渡った。
「――まずい!」
俺が叫ぶのと、アーシャが俺の腕を掴もうと手を伸ばすのはほぼ同時だった。
しかし、罠の作動の方がコンマ数秒早い。
俺たちの目の前で、天井に隠されていた巨大な鉄格子が轟音と共に落下し、通路を完全に塞いだ。
ガッシャァァァン!
鉄と石が激しくぶつかるけたたましい音が地下墓地全体に響き渡り、古びた壁が振動で崩れ、大量の土埃が松明の光を遮る。
「アーシャ! 無事か!?」
「はい、私は……! アリゼさんこそ!」
幸い、鉄格子は俺たちの数メートル先で止まり、直接的な被害はなかった。
だが、俺とアーシャは通路のこちら側に、バランは一人、向こう側に分断されてしまった。
「やれやれ、古典的な罠にかかりおって。お前たち、少しは師匠の教えを思い出さんか。周囲の観察は基本中の基本だろうが」
鉄格子の向こうから聞こえる師匠の呑気な声とは裏腹に、俺の背筋には冷たい汗が流れた。
彼の言う通りだ。
修行で叩き込まれたはずの基本を、仲間のことへの焦りで見落としていた。
だが、後悔している暇はなかった。
俺たちの背後、進んできた通路の奥の闇から、ギチギチ、ギチギチと、複数の何かが壁を掻きながら近づいてくる音が響き始めたのだ。
罠は、これだけではなかった。
「アリゼさん、後ろから……!」
アーシャが剣を抜き放ち、警戒態勢に入る。
鉄格子が落ちた衝撃で、眠っていた何かを呼び覚ましてしまったらしい。
松明の光が揺らめき、壁に映る影がいくつにも分かれて蠢き始める。
「ああ、分かっている。アーシャ、背中は任せた!」
「はい!」
俺たちは背中合わせになり、剣を構える。
鉄格子に阻まれ、最強の戦力であるバランの助けは期待できない。
この絶体絶命の状況を、俺とアーシャ、二人だけで切り抜けなければならなかった。
闇の奥から現れたのは、骨と朽ちた武具だけで構成された、複数のスケルトンだった。
その眼窩に灯る青白い鬼火が、俺たち二人を獲物として捉えている。
地下墓地の本当の恐怖が、今まさに牙を剥こうとしていた。