第百六十話「試練の森」
夜明けと共に霧が晴れ始めた頃、ルルネたちは祠を後にする準備を整えていた。
朝日が湖面を黄金色に染め、昨夜の不気味な雰囲気は嘘のように消え去っていた。
カゲトは真剣な表情で告げた。
「今日は《試練の森》を抜けることになります。この森は単なる自然の脅威だけでなく、訪問者の心を映し出す鏡のような場所です」
「心を映す……?」
アカネが首を傾げる。
「そう聞いています。進む道中、各自が自分の恐れや弱さ、過去の後悔と対峙させられると」
三人は不安そうに顔を見合わせた。
物理的な危険なら対処できても、心の内側から来る脅威はどう立ち向かえばいいのか。
ルルネは決意を固めた声で言った。
「でも、乗り越えるしかないわね。ネシウスのために」
「ええ。それに、私たちが乗り越えられないような試練なら、結社も本気で会おうとは思わないでしょう」
ニーナも同意する。
カゲトは彼女たちの言葉に頷き、湖の向こう側に広がる深い森を指さした。
「あれが《試練の森》です。入口から結社の門までは、順調なら半日の道のりです」
彼らは祠を出て、湖の周りを歩き始めた。
昨夜の激しい戦いの痕跡が地面に残っていたが、魔物の姿はもうどこにも見えない。
湖を半周した所で、森の入口が見えてきた。
他の森とは明らかに違う雰囲気がそこには漂っていた。
木々は背が高く、幹は緑がかった灰色で、葉は濃い暗緑色。
光が差し込んでも、なぜか内部は薄暗く見える。
ルルネは深呼吸をした。
「これが試練の森……。怖気づいている場合じゃないわ」
入口に足を踏み入れると、すぐに雰囲気が変わった。
空気が粘り気を帯び、音が妙に響き、時間の流れさえも異なるように感じる。
カゲトが警告した。
「皆さん、これからは各自が試練を受けることになります。一緒に歩いていても、それぞれが異なる幻影を見るでしょう。決して道から外れないように。そして何より、自分の心の声に惑わされないよう気をつけてください」
「心の声……」
ニーナはどこか遠い目をした。
彼らは並んで森の中を進み始めた。
最初のうちは特に変わったことは起きなかったが、次第に違和感が強まっていく。
ルルネは周囲の木々が少しずつ変化していくのに気づいた。
まるで昔見た場所のように、どこか見覚えのある風景に変わっていく。
そして突然、彼女の前に人影が現れた。
「……あれは」
彼女の目の前には、かつて英雄になる前に魔王たちと戦った仲間たちの姿があった。
以前彼女と共に戦った仲間たち。
その中でも特に親しかった女性が彼女を見つめていた。
「なぜ立ち去った」
女性の声が風のように彼女の耳に届く。
「なぜ私たちを見捨てた」
ルルネは息を飲む。
それは彼女がずっと抱えていた後悔だった。
しかし……
「幻だわ。これは試練の一部」
彼女は強く言い聞かせた。
女性の姿は歪み、悲しげな表情で消えていった。
ルルネは心を落ち着かせ、前を見据えて歩き続ける。
一方、アカネの前には戦場が広がっていた。
彼女が剣を振るう中で倒れていった無数の敵の姿。
その中には無実の者も混じっていないか、という疑念が常に彼女を苛んでいた。
「お前は殺戮者だ。その手は血に塗れている」
声なき声が彼女を責める。
アカネは拳を握りしめた。
「違う……。私は必要な戦いをしてきただけ。守るべき者を守るために」
幻影は彼女の強い意志の前に揺らぎ、やがて消えていった。
ニーナの前に現れたのは、魔王との最後の戦いの光景だった。
仲間が倒れていく中、もっと力があれば、もっと早く成長していれば彼らを守れたのではないか……そんな自責の念が形を取って現れる。
影のような存在が囁く。
「お前の力不足が仲間を危険に晒した。今もまたお前は無力だ」
「確かに私は完璧じゃない。でも、だからこそ仲間と共に戦う。一人では無理でも、みんなで力を合わせれば……」
ニーナは静かに答えた。
彼女の言葉と共に、幻影は光に溶けるように消えていった。
カゲトは三人の様子を気にかけながらも、自分自身の試練と向き合っていた。
銀狼族の一員としての誇りと、外界との関わりへの憧れの間で揺れる彼の心に、様々な幻影が迫ってくる。
彼は声をかけた。
「皆さん、もう少しです。森の中央に差し掛かっています」
最初の試練を乗り越え、四人は森の中央へと辿り着いた。
そこは小さな空き地になっており、中央には石の祭壇があった。
祭壇の上には緑色の炎が静かに揺らめいている。
カゲトが敬意を込めて言った。
「これは……結社のしるし。ここで小休止をとりましょう。最も厳しい試練はこれからです」
彼らは祭壇の周りに腰を下ろし、短い休息を取った。
誰もが先ほどの幻影について語りはしなかったが、それぞれの表情には何かを乗り越えた静けさがあった。
「次は何が待っているの?」
ルルネが尋ねた。
カゲトは祭壇の炎を見つめながら答えた。
「聞くところによれば、これからは個人ではなく、集団としての試練です。仲間同士の信頼が試されるでしょう」
休息を終え、彼らは再び森の奥へと進み始めた。
道は狭く曲がりくねり、時には木の根や岩が行く手を阻む。
そして、彼らがさらに進むと、森の雰囲気が再び変化した。
突然、霧のような靄が森を包み込み、視界が極端に悪くなる。
そして靄の中から、銀狼族の村へと続く道が現れた。
アカネが驚いて声を上げる。
「村……? なぜここに?」
「幻術です。ここからが本当の試練の始まりです」
カゲトが警告した。
靄の中から、エリスの叫び声が聞こえてきた。
「助けて! 誰か!」
続いてミアとリアの声も。
「急いで! 公爵の軍が攻めてきたの!」
ルルネは本能的に剣を抜き、村の方へ走りかけた。
しかしカゲトが彼女の腕をつかむ。
「待ってください。これは幻です。今、この道を外れれば二度と戻れなくなります」
「でも、もし本当だったら? もし私たちがいない間に、村が襲われたのなら?」
ニーナも動揺を隠せない。
カゲトは静かに言った。
「それが試練なのです。目的を見失わず、道を外れないという決意が試されているのです」
ルルネは村の方向と、森の奥へと続く道を交互に見た。
心は引き裂かれそうになる。
彼女はついに言った。
「信じましょう。村は安全だと信じましょう。私たちが今できる最善のことは、緑炎の結社の力を借りてネシウスを救うこと。それが結果的に全員を救うことになる」
アカネとニーナも葛藤の末に頷いた。
彼らは幻の道を無視し、森の奥へと進み続けた。
叫び声はさらに切実になり、時には責める声に変わる。
しかし、彼らは心を固く閉ざし、前へと進んだ。
やがて靄が晴れ始め、森の雰囲気が変わった。
木々は次第に整然と並び、地面には石畳の痕跡が見え始める。
カゲトは安堵の表情を見せた。
「結社の聖域に近づいています。試練を乗り越えたようですね」
さらに進むと、ついに森の出口が見えてきた。
そこには巨大な石の門が立ちはだかり、その上部には緑の炎を象った紋章が掘られていた。
門の前には、緑色の長い衣装を身にまとった数人の人影が静かに立っていた。
彼らの表情は厳かで、目は鋭い光を宿している。
「緑炎の結社……」
ルルネは思わず呟いた。
長い旅の末についに、彼らは目的地に辿り着いたのだ。
しかし、実際に結社の力を借りることができるのか、そしてネシウスを救う方法を見出せるのか……それはまだ誰にも分からなかった。
門の前に立つ者が一歩前に出て、静かな声で言った。
「試練を乗り越えし者たちよ。汝らの来訪の目的を告げよ」
ルルネは深く息を吸い込み、彼らの前に進み出た。
ネシウスの救済、そして《人類統一計画》の阻止のため、彼女は言葉を選びながら、彼らの物語を語り始めるのだった。