第百五十九話「緑炎の結社へ」
ルルネたちが銀狼族の村を離れて二日目の朝、険しい山道はさらに細く危険なものへと変わっていった。
カゲトの案内で彼らは岩の多い斜面を登り、時折小川を渡りながら東へと進む。
「今日中に第一の関門を越えなければならない。あの峠を見てください。あれを越えると、緑炎の結社の聖域へ近づく最初の目印があります」
カゲトが言った。
遠くに見える山の峰は、雲がかかるほど高い。
ルルネはため息をついた。
「そこまで今日中に? 随分と急ぐわね」
「そうです。この地域は夜になると特殊な霧が出ることがあり、迷いやすくなります。それに……」
「それに?」
アカネが首を傾げた。
「この辺りは《怨霊の谷》と呼ばれています。かつての戦いで命を落とした者たちの魂が、夜になると彷徨うと言われているのです」
「まさか……本当に霊がいるの?」
ニーナが眉をひそめる。
カゲトはわずかに表情を曇らせた。
「私自身は遭遇したことはありませんが、この道を行く者たちの多くが、奇妙な幻影や声を聞いたと証言しています。迷いやすく、方角感覚も狂わせる不思議な場所なのです」
「霊か幻か、いずれにしても気持ちのいい場所じゃなさそうね」
ルルネは剣の柄に手を置きながら言った。
道は次第に険しくなり、時折足元の石が崩れ落ちることもあった。
三人は互いに声をかけながら、慎重に進む。
カゲトは時折立ち止まって周囲を確認し、安全なルートを探す。
昼過ぎ、彼らは小さな平地で休息を取ることにした。
アカネは乾燥した携行食を取り出し、全員に分け与える。
「銀狼族の村に残ったエリスたちは大丈夫かな」
ニーナが遠くを見やりながら呟いた。
それにルルネが答える。
「村自体は隠れ家として理想的よ。それに長老たちの力も侮れないわ。きっと守ってくれるわよ」
「それに私たちが結社からの力を得て戻れば……」
アカネが言いかけたところで、カゲトが急に身を低くし、彼女たちに沈黙の合図を送った。
「何か来ます」
彼は小声で言った。
「動かないでください」
全員が息を殺し、耳を澄ます。
はるか頭上から、翼を広げた大きな影が通り過ぎていく。
グリフォンに似た魔物だが、その翼は黒く、頭部には複数の角が生えていた。
「《黒角グリフ》……」
カゲトが囁いた。
「危険度の高い魔物です。普段は人を襲うことはありませんが、領域を侵されたと感じれば容赦なく攻撃してきます」
彼らは息を潜め、魔物の姿が遠ざかるまで動かなかった。
やがて危険が去り、再び歩き始めることができた。
「この地域は魔物の生息地なのかしら?」
ルルネが警戒しながら尋ねる。
「はい。緑炎の結社の周囲は意図的に危険な環境が保たれています。彼らにとっては、部外者を遠ざけるための天然の障壁なのです」
アカネは顔をしかめた。
「なるほど。訪問者を歓迎しないってことね」
午後になると、道はますます険しくなり、時には手をついて岩場を登らなければならないほどだった。
太陽が西に傾きかけるころ、ようやく彼らはカゲトの言っていた峠の頂上に近づいた。
カゲトが励ますように言った。
「もう少しです。あの頂を越えれば、今日の目標地点です」
疲れが見え始めていた三人だが、最後の力を振り絞って登り続ける。
頂上に辿り着くと、向こう側には緩やかな下り坂が広がり、その先には小さな湖が見えた。
カゲトが指さした。
「あそこが今夜の宿営地です。湖の近くには結社の古い祠があり、魔物が近づきにくい結界が張られています」
「ああ、やっと安全な場所に……」
ニーナは安堵のため息をついた。
彼女らは急いで峠を下り始めたが、夕陽がすっかり山の向こうに沈みかけていた。
薄暮の中、木々の影が長く伸び、周囲の雰囲気はますます不気味なものに変わっていく。
「急ぎましょう。夜が来る前に祠に着かなければ……」
カゲトの声に緊張が滲む。
言葉を終える前に、突然霧のような白い靄が四方から湧き上がり始めた。
視界が急速に狭まり、足元の道さえ見えづらくなる。
「これが……噂の霧?」
アカネが大剣を構えながら言った。
「ええ、しかも例年より早い……」
カゲトは眉を寄せた。
「皆さん、私の背に付いてください。決して離れてはいけません」
彼らは一列になり、カゲトの後ろに続いた。
霧の中では方向感覚が完全に狂い、たった数歩離れただけで姿が見えなくなってしまう。
ルルネが指示を出す。
「声を出し続けて。お互いの位置を確認するために」
「了解」
「分かった」
ニーナとアカネが応じた。
霧の中を歩き続けるうち、奇妙な現象が起き始めた。
耳元でささやくような声、かすかな物音、時には人の形をした影が霧の中に現れては消える。
「これが噂の怨霊……?」
ニーナの声には不安が滲んでいた。
「幻覚かもしれません。でも、実態はどうあれ、霧に惑わされて歩き続けると、いつか崖から転落したり、魔物の餌食になったりするでしょう」
カゲトは前を見据えたまま答えた。
「だからこそ結界のある祠を目指すのね」
ルルネが理解を示す。
彼らは慎重に、しかし急ぎ足で進んだ。
カゲトは時折、地面の印や木々の特徴を確認しては正しい道を探る。
そして、ようやく霧の向こうに小さな明かりのようなものが見えた。
「あれが祠の結界です」
カゲトが安堵の声を上げた。
「急ぎましょう」
石造りの小さな建物が姿を現す。
風化した壁には古い文字が刻まれ、入口の前には緑色の炎が燃える灯籠が下がっていた。
湖の水面が柔らかく揺れ、祠の姿を映している。
「なんとか間に合ったわね」
ルルネはホッとした息を吐いた。
しかし、その安堵も束の間、突然背後から甲高い叫び声が響き渡った。
霧の中から黒い影が飛び出し、彼らに向かって突進してくる。
「魔物だ! 急いで祠の中へ!」
カゲトがそう叫びながら弓を構える。
ルルネは素早く剣を抜き、アカネも大剣を前に出す。
ニーナは魔法を唱え始めた。
「間に合わない、迎え撃つわ!」
ルルネが叫んだ。
霧から現れたのは狼に似た魔物だったが、その体からは黒い煙のようなものが立ち上り、目は赤く光っていた。
一匹、また一匹と数を増やしていく。
カゲトが矢を放ちながら言った。
「《煙狼》……祠の結界に反応して現れる魔物です」
アカネの大剣が一頭を薙ぎ払い、ルルネも素早い動きで別の一頭を突き刺す。
ニーナの雷撃が放たれ、魔物たちの間に閃光が走った。
カゲトが叫ぶ。
「もう少し! 祠まであと数歩です!」
彼らは戦いながら少しずつ後退し、ついに祠の入口に辿り着いた。
中に入るとすぐに、不思議な力が彼らを包み込む感覚があった。
魔物たちは入口で立ち止まり、唸り声を上げながらも中には入ってこない。
カゲトは弓を下ろした。
「結界が機能しています。今夜はここで安全に過ごせるでしょう」
彼らは緊張の糸が切れたように地面に腰を下ろした。
祠の内部は狭いながらも清潔で、壁には緑の炎を描いた壁画が広がっていた。
「あれが……緑炎の結社のシンボル?」
ニーナが壁を指さした。
「はい」
カゲトは頷いた。
「緑の炎は純粋な魔力の象徴であり、結社の守護印でもあります。この祠は彼らの領域の最初の門番のようなものです」
「門番……ということは、これから先にもまだ試練があるってこと?」
アカネが不安げに尋ねた。
「はい。明日は《試練の森》を抜けなければなりません。そこは単なる危険ではなく、訪問者の心と意志を試す場所です」
ルルネたちは顔を見合わせた。
想像以上に困難な道のりになりそうだが、後戻りはできない。
ネシウスを救うためには、この道を進むしかないのだから。
「今は休みましょう。明日に備えるわ」
ルルネは決意を込めて言った。
彼らは携行食を分け合い、交代で見張りに立ちながら、祠の中で夜を過ごすことにした。
外では霧がさらに濃くなり、時折魔物の唸り声が聞こえた。
しかし、結界の中にいる限り、彼らは安全だった。