第百五十八話「分岐する道」
明け方、村の周囲を包む森から鳥のさえずりが聞こえ始めた頃、ネシウスが短い言葉を発したことがルルネたちに伝えられた。
全員が驚きと安堵の声を上げ、エリスの顔には久しぶりの晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
「意識が戻りつつあるなら、それだけでも大きな進歩」
ニーナが言った。
「長老の儀式が功を奏した」
「でも、まだ完全には回復していないですね。魔力の波動を感じると、抑え込まれてはいるけど、《亜神》の力はまだ彼の中に眠っています」
ミアは慎重な表情で言う。
ルルネは腕を組み、暫く考え込んでから吐息をついた。
「やっぱり緑炎の結社を訪ねるほかないのね。彼を完全に救うためには」
「そうだな。でもまた分かれるのは心配だ。本来なら全員で行くべきなんだろうけど……」
アカネは頷いて言った。
「仕方ないわ。ここで全力を尽くさなきゃ、ネシウスは元には戻れないかもしれないんだから」
ルルネは強く言う。
朝食を済ませた後、銀狼族の長老が再び現れた。
彼の後ろには、屈強な体つきをした若い銀狼族の戦士が控えていた。
「こちらはカゲト。我が村で最も山道に詳しいものの一人じゃ。緑炎の結社へ案内させる」
長老が若者を紹介する。
カゲトは淡い銀色の髪と鋭い目つきをした青年で、背には大きな弓を背負っていた。
彼は一礼して言った。
「私がご案内します。道中、危険な魔物も多いですが、どうか心配なく」
「ありがとう。よろしく頼むわ」
ルルネが頭を下げる。
長老はさらに、小さな木箱を取り出した。
中には数種類の薬草と、青白い液体が入った小瓶があった。
「これはネシウスが再び苦しみ始めた時のための薬じゃ。一日に一度、少量を飲ませるだけでよい。亜神化を完全に止めるものではないが、進行を遅らせる助けになるはずじゃ」
エリスが大事そうに薬を受け取る。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「結社までの道のりは、順調にいっても往復で六、七日はかかるぞ」
長老は懸念を滲ませつつ続けた。
「その間、ネシウスの容体が急変する可能性もある。くれぐれも警戒を怠らぬように」
「もし何かあったら、すぐに私たちを呼んで。どんな状況でも戻れるように準備しておくわ」
ルルネはエリスたちに向かって言った。
「大丈夫、私たちでなんとかします」
ミアは微笑んだが、その表情には不安の色も混じっていた。
「アルベルト公爵の手の者が来たらどうしましょう……」
リアが小さな声で尋ねた。
長老が断固とした声で言った。
「それはワシらが対処する。よそ者が村に近づけば、すぐに察知できる警戒の仕組みを我らは持っておる。下手に近づけば、容易には抜け出せぬ罠も用意してある」
アカネはホッとしたように肩の力を抜いた。
「それは心強いわ」
出発の準備が進む中、ルルネとニーナ、アカネの三人は必要最低限の荷物だけを整えた。
カゲトが提供した地図には、村から緑炎の結社までの複雑な道筋が記されている。
険しい山々と深い森を越えなければならないようだった。
「行きましょう」
ルルネが決意を固めた声で告げた。
「時間が勝負よ」
「お願いします……お兄ちゃんのことを」
エリスが三人に深く頭を下げる。
「任せて。必ず結社の力を得てくるから」
ニーナは微笑んで言った。
別れの言葉を交わし、ルルネたちはカゲトに導かれて村の東門を出た。
振り返ると、門のところでミア、リア、エリスが見送っている。
遠くなっていく友人たちを見ながら、ルルネの胸には責任の重さが沈み込んだ。
「絶対に成功させなきゃ」
彼女は静かに自分に言い聞かせた。
村を後にした一行は、緩やかな山道を登り始めた。
カゲトが先頭に立ち、素早い足取りで獣道を進んでいく。
ルルネたち人間女性三人は、その後に続くのがやっとだった。
「カゲトさん、緑炎の結社について、もう少し詳しく教えていただけませんか?」
ニーナが息を整えながら尋ねた。
カゲトはわずかに足を止め、振り返った。
「緑炎の結社は、古の時代から魔法と魔力の研究を続けてきた集団です。彼らは特に《英雄》と《亜神》の関係性について深い知識を持っています」
「何故そんなに詳しいのでしょう?」
アカネが問う。
「それは……」
カゲトは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「彼らの一部は、かつて亜神と呼ばれた存在の子孫だとも言われています。だからこそ、あの力の本質を理解しているのです」
三人は驚きの表情を浮かべた。
亜神の子孫とは...それは単なる伝説ではなく、実在していたということ?
「でも彼らは滅多に外部の人間と接触しないと聞きました」
ルルネは不安を滲ませて言った。
「はい。彼らは独自の研究と修行に没頭し、世俗の争いには関わらないことを信条としています。特に公爵家のような権力者たちとは一線を画しています」
「だったら……私たちの願いを聞いてくれるかしら」
カゲトはややペースを緩め、真剣な表情で答えた。
「それはお会いしてみないとわかりません。ただ、彼らは理不尽な暴力や《亜神》の力の悪用には強い反感を持っています。ネシウスの話をすれば、耳を貸してくれる可能性はあります」
ルルネとニーナは顔を見合わせた。
一縷の望みとはいえ、それに縋るしかなかった。
「とにかく、まずは結社に到達することが先決だな」
アカネは実務的に言った。
「ええ、でも危険は多そう」
ニーナが山の奥を見上げる。
「魔物も多いみたいだし……」
カゲトは自信に満ちた声で答えた。
「ご心配なく。この道を知り尽くしています。最短ルートでご案内しましょう」
東の空から朝日が昇り、その光に照らされた山々の姿が眼下に広がっていく。
安全なルートでの遠回りか、危険を冒してでも急ぐか――どちらにせよ、時間との戦いだった。
一方、村に残されたエリス、ミア、リアの三人は、ネシウスのいる小屋に戻った。
少年は再び眠りについているようだったが、呼吸は落ち着いていた。
「おはよう、お兄ちゃん……」
エリスがそっと声をかける。
「ルルネさんたちが、あなたを助けるために出発したよ」
反応はなかったが、エリスはめげずに続けた。
「私たちも、ここでしっかり看病するからね。だから……安心して休んでて」
ミアとリアは彼女を見守りながら、長老から預かった薬の準備を始めた。
ネシウスに必要なものと、もし公爵家が襲ってきた時のための逃走や護身の手段も考慮しなければならない。
「公爵家……彼らはきっと追ってくるでしょうね」
リアが窓の外を見ながら呟いた。
ミアは杖を握り直す。
「ええ、だからこそ警戒を怠れません。でも、この村ならば多少の時間は稼げるはず。長老たちも協力してくれるし……」
「あとは、ルルネさんたちが無事に戻ってくることを祈るばかりです」
三人は小屋の中で静かにネシウスを囲み、彼の回復を祈りながら、これからの数日を乗り切る決意を固めていた。
村の外では風が木々を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。
平和な光景だが、彼らの心には依然として不安が渦巻いていた。