第百五十七話「弱り切ったネシウス」
村の長老の小屋の中央に横たわるネシウスの周りに、全員が集まった。
少年は目を閉じたままだったが、かつてのような苦しげな表情ではなく、ただ深く眠っているように見えた。
額からは汗が引き、呼吸も安定していた。
「儀式は成功したのですか?」
ミアが長老に尋ねる。
長老は疲れた表情でゆっくりと頷いた。
「一時的にではあるが、《亜神》の力は抑え込めた。彼の意識は覚醒したものの、まだ言葉を発するほどの余力はないようじゃ」
「でも確かに反応してくれました。私の手を握り返してくれて……」
エリスが嬉しそうに言った。
「彼の意識が戻ったとはいえ、まだ危険は去っていない」
長老は深刻な表情で続けた。
「《人工英雄の素》は彼の体内に依然として存在する。それを完全に取り除くか、あるいは無効化するためには、より強力な儀式が必要じゃ」
「より強力な...?」
アカネが首を傾げる。
「そうじゃ。我らの村だけでは対処しきれぬ。だが、かつて銀狼族と深い繋がりを持っていた『緑炎の結社』ならば...」
「緑炎の結社?」
ルルネが前のめりになった。
「それは何ですか?」
「古より魔力の研究を続けてきた集団じゃ。亜神の伝承についても詳しい。特に《英雄の素》に関する知識は我らを遥かに上回る」
リアが不安そうに尋ねた。
「どこにいるのですか? その結社は」
「ここから更に東の山奥、人も獣人も滅多に足を踏み入れぬ聖域にある」
長老は窓の外、はるか遠くを指さした。
「だが、簡単に会えるような相手ではない。彼らは世俗との関わりを極力避け、長い年月を魔力の探求に費やしてきた」
「でも、ネシウスを救うためには行くしかないわね」
ニーナは決意を込めて言った。
「その通り」
長老は静かに頷いた。
「だが、行くのは誰がよいか議論せねばならぬ。ネシウスをこのまま移動させるのは危険過ぎる。かといって、お前たちが全員で出かければ、公爵家に追われる身としては目立ちすぎるであろう」
一同は黙り込み、互いの顔を見合わせた。確かに問題は複雑だった。ネシウスを独りにはできないし、かといって全員で移動すれば逃げ延びるのも難しくなる。
「私は...ネシウスのそばにいたい」
エリスの声は小さかったが、意志は固かった。
「そうだな」
アカネがうなずく。
「じゃあ、分担しようか。何人かは結社を訪ねて助けを求め、残りはネシウスを護る」
「私は行きます」
ルルネが即座に言った。
「もし結社との交渉が必要なら、私が」
「私も行く」
ニーナが続けた。
「魔法の知識なら少しは役立つかもしれないし」
「私は……ここに残ります」
ミアは少し迷った口調だったが、決断を告げた。
「もし再び封印が必要になったら、すぐに対応できるように」
リアとアカネは顔を見合わせ、アカネが代表して言った。
「私もルルネたちと行くわ。リアはここでミアとエリスを助けて」
「はい、分かりました」
リアはしっかりと頷いた。
決まりつつあった彼らの分担に、長老がゆっくりと口を開いた。
「結社への道のりは危険が多い。案内役として、我が村の戦士を一人同行させよう」
「ありがとうございます」
ルルネは深く頭を下げた。
「明日の朝までに、儀式で使った薬と案内人を用意しておく。それまでは皆、ゆっくり休むがよい」
言葉を終えると、長老はゆっくりと小屋を後にした。
残された一同は、再びネシウスの寝姿を見つめ、これからの旅路を思案していた。
「相変わらず落ち着いてない」
ルルネが呟いた。
「公爵家がいつ襲ってくるか分からないのに、私たちはまた分かれることになるなんて……」
「でも他に選択肢がない」
ニーナは窓の外を見ながら言った。
「少なくともここは山深い村。すぐには見つからないかもしれない」
「願わくば……」
アカネは大剣を抱き、壁に背を預けた。
夜が更けていく中、彼らは交代で仮眠を取りながら、ネシウスを見守り続けた。
窓から差し込む月明かりの下、少年の顔は穏やかに眠りについている。
意識が戻りつつあるとはいえ、まだ彼の中で《亜神》の力と《人工英雄の素》が完全に治まったわけではなかった。
未明、エリスの番になったとき、彼女はネシウスの手をそっと握り、囁きかける。
「お兄ちゃん、私だよ、エリス。もう大丈夫だから……」
そのとき、少年のまぶたがかすかに動き、指先が微かに震えた。
エリスは息を呑み、再び声をかける。
「お兄ちゃん? 聞こえる?」
ゆっくり、ゆっくりと、ネシウスのまぶたが持ち上がる。
焦点の定まらない目が、部屋の天井を見つめ、やがて横を向いてエリスと目が合った。
「え……り……す……」
かすれた声、それはほとんど聞き取れないほど小さかったが、確かに彼の口から発せられた言葉だった。
エリスは思わず涙を溢れさせ、握る手に力を込めた。
「お兄ちゃん! よかった……本当によかった……」
ネシウスの唇がかすかに動くが、もう言葉は出てこない。
代わりに、彼の目に薄い涙が浮かんだ。
エリスは思わず駆け寄って抱きしめたかったが、少年の体力を考えると控えるべきだと自分を押さえつけた。
代わりに額にそっと触れ、髪を撫でる。
「もう大丈夫だよ。これから少しずつ良くなるから……」
ネシウスは僅かに瞬きをし、再び目を閉じた。
だが今度は苦しそうな表情ではなく、安らかな眠りに落ちるような仕草だった。
エリスは慌てて仲間たちを起こそうとしたが、少し考えて思いとどまった。
皆疲れていたし、朝になれば伝えられる。
彼女はそっとネシウスのそばに寄り添い、夜明けを待つことにした。
村の外では風がひっそりと草木を揺らし、遠くから狼の遠吠えが聞こえる。
長い旅を経て、ようやく仲間の意識が戻りかけた瞬間。
しかし、彼らの戦いはまだ始まったばかりだった。