第百五十六話「銀狼族の治療」
銀狼族の村に到着した一行は、長老の指示により大きな丸太造りの小屋へと案内された。
小屋の中は意外と広く、床には柔らかな毛皮が敷き詰められ、壁には古めかしい模様が彫り込まれていた。
「まずはこの子を休ませるがよい」
長老は中央に設えられた台を指し、エリスはそっとネシウスを寝かせた。
ミアの聖封印はまだかろうじて効いているものの、彼女自身の疲労は限界に近づいていた。
「長老様、どうすれば彼を救えるのでしょうか?」
エリスが小さな声で尋ねる。
長老は白い眉をひそめ、ネシウスの額に手を当てた。
一瞬、彼の指先から薄い光が広がる。
「強い術がかかっておる。これは単なる呪いではなく、体の内側から魔力を組み替えようとする禁忌の技じゃ」
「《人工英雄の素》……」
ルルネが呟いた。
「彼に実験的に埋め込まれたものです」
長老の目が僅かに見開かれた。
「なるほど。伝説にある《亜神》への覚醒を強制しようという企みか」
「ご存じなのですか?」
アカネが驚きの声を上げる。
「古来より、我ら銀狼族は《亜神》の伝承を受け継いでおる。かつて山の民の中から現れた圧倒的な力を持つ者たちを《亜神》と呼び、崇拝したこともあった。しかしそれは人の手で作り出すべきものではない」
長老は静かに立ち上がり、木の棚から数種の薬草と、朱色の液体が入った小瓶を取り出した。
「まずは彼の体を休ませねばならん。今、彼の中で毒のように広がる《亜神》の力を一時的に鎮めることはできる。だが根本的な治癒には、もっと複雑な儀式が必要じゃ」
「何でもします、お願いします」
エリスは必死に頭を下げる。
長老はうなずき、村人数名に指示を出した。
彼らは素早く動き、白い布や石の器、さらには珍しい灯火を持ち込んでくる。
「儀式の準備には半日はかかる。それまでの間、この子の側にいてやってくれ。お前らの持つ封印の魔法も、ぎりぎりまで維持してくれると助かる」
ミアは汗を浮かべながらも頷いた。
「はい、できる限り」
村人たちが出て行き、長老も数人の助手を連れて部屋を後にした。
残されたルルネたちは、ようやく息をつくように身体の力を抜いた。
「長い道のりだったわね」
ルルネが呟いた。
「ほんと……あとは儀式がうまくいくことを祈るだけ」
ニーナも疲れた顔で頷く。
「でも、ようやく第一歩を踏み出せた。お兄ちゃんを取り戻す第一歩を」
エリスはネシウスの手を握りしめる。
それに対し、リアは恐る恐る言った。
「でも...公爵家は諦めないと思います。この村も安全とは言えないかもしれません」
「そうね」
アカネが大剣の柄に触れながら同意する。
「儀式が終わっても、《人類統一計画》自体は進行中のはず。いずれ対峙しなくてはならない」
静かな部屋の中、彼らは半ば眠るように休息を取りながら、ネシウスの容体を見守り続けた。
時折、少年の体が震えることもあったが、以前よりは落ち着いているように見えた。
数時間後、村の中央から木笛のような音が鳴り響き、長老が再び姿を現した。
彼の後ろには、数名の儀式を司る村人たちが続く。
「準備ができた。このままでは遅かれ早かれ、封印が解けて亜神化が進むだろう。今ならまだ、彼の意識が完全に飲み込まれる前に引き戻せるかもしれん」
「どうすれば……」
「お前たちは部屋の外で待っておれ。ただし、この娘だけは」
長老はエリスを指さした。
「お前は同胞。儀式には銀狼族の血が必要だ」
エリスは驚いたように目を見開いた後、きっぱりと頷いた。
「何でもします」
「危険はないのか?」
アカネが心配そうに尋ねる。
「命に関わるようなことはない。だが、楽な道のりではないぞ」
エリスは仲間たちに向き直り、微笑んだ。
「大丈夫。私、必ずお兄ちゃんを連れ戻しますから」
ルルネたちは半ば不安を抱えながらも、部屋を後にした。
扉が閉められ、中からは低い呪文のような詠唱が聞こえ始める。
「儀式...うまくいくといいけど」
ミアが心配そうに扉を見つめる。
「ミア、あなたもようやく封印から解放されたわね。少し休んだ方がいいわよ」
ルルネが優しく声をかける。
「でも……」
「私たちも順番に見張りをするから。公爵家が諦めるとは思えないし」
ニーナがそう言いながら柔らかく肩を叩く。
「……ええ、そうですね」
彼女らは小屋の周囲に腰を下ろし、村のあちこちから届く生活音に耳を傾けながら、儀式の成功を祈った。
小屋の内側からは、時折金属をこすり合わせたような音や、長老の低い詠唱が聞こえる。
そして突然、激しい風が吹いたかのような音とともに、鋭い叫び声が響いた。
「ネシウス!?」
思わずリアが立ち上がったが、アカネが彼女の腕をつかむ。
「今は任せるしかない」
時間が緩やかに流れる中、彼らは儀式の進展を外から感じ取るしかなかった。
星々が現れ始めた夜空を見上げ、ルルネは銀狼族との出会いと、これまでの旅路を思い返していた。
ネシウスがアルベルト公爵の実験体として操られていたこと、《人工英雄の素》により亜神化させられようとしていたこと。
そして、それを阻止するためにこれほど多くの人々が力を尽くしていること。
「私たちは正しいことをしてるのよね」
ルルネが静かに呟いた。
「もちろん。あんな残酷な実験に巻き込まれ、自分の意識も奪われそうになったネシウスを救うことに、迷いはない」
ニーナが即座に答えた。
「それに」
アカネがそう言いながら付け加える。
「《人類統一計画》が進めば、ほかの無実の人々も亜神の力に呑み込まれるかもしれない。それを阻止するためにも、ネシウスを救い出す必要がある」
深夜を過ぎた頃、ようやく小屋の扉が開かれた。
疲労の色が濃いエリスが現れ、その後ろからは長老が静かに出てきた。
「どうだった?」
皆が一斉に尋ねる。
エリスは涙に濡れた顔で、しかしかすかな笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん...意識が戻りました」