第百五十四話「道中」
朝露を纏う樹々の下、ルルネたちは穏やかではない空気を感じながら目を覚ました。 昨夜の野営地を囲むように濃い霧が立ち込めていて、夜半を見張っていたアカネとニーナですら、明確な足音を掴めなかったらしい。 それでも彼女たちの胸には、一抹の不安と焦燥がこびりついていた。
「昨日、あの集落で姿を見られたかもしれない……っていうのが、まだ引っかかってるわ」
ルルネは夜露を拭うように手のひらをこすり、そっと呟く。
「ええ。追っ手も私たちがここらの山道を選ぶと分かっていれば、いくらでも布陣を張れるし」
ニーナが低い声で続ける。
ネシウスの抱える危うい魔力は、ミアの聖封印で辛うじて抑えられているが、これがいつまで維持できるかは分からない。 亜神の力に飲み込まれれば、少年は再び苦しむだろうし、何より取り返しがつかない暴走を引き起こすかもしれない。
一方、エリスは夜のうちに何度もネシウスの体勢を変えながら看病を続けていた。 その甲斐あってか、今朝の彼は少なくとも浅い呼吸を保ったまま目を閉じている。 エリスが微かに微笑んで言った。
「今日はもう少し進めそうです。お兄ちゃん、熱も上がってないみたいで……」
しかし、その横顔からは疲労の色も見て取れる。 アカネがそんな彼女の肩を軽く叩く。
「無理しないで。ネシウスが回復してるのはいい兆候だけど、エリスが倒れたら元も子もないからな」「……ありがとう、アカネさん。大丈夫、私も体調は平気だから」
そう言いながら、エリスはぎこちなく微笑む。 周囲の木々が風に揺れ、霧の中からかすかに鳥の囀りが聞こえてきた。
***
霧が晴れる前に出立するか、ある程度視界を確保してから進むべきか――。 ルルネたちは朝の簡単な食事を済ませながら協議を始めた。 早く進みたい気持ちはあるが、視界が悪ければ敵の奇襲を防ぐのが難しい。
「けど、もたもたしてると追っ手だって近づいてくる。下手したら先回りされるかもしれないわ」
ニーナの言葉に、アカネもうなずく。
「そうね。多少見えづらくても、向こうも同じ状況なら、いま動いたほうが有利かもしれない……」
ルルネは一通り皆の顔を見回し、結論を出した。
「じゃあ出発しよう。なるべく足音を立てず、隊列を崩さないように注意して。ネシウスを抱えるのはエリスとリアが交互、ミアとニーナが警戒、私とアカネは前後を固めるわ」
全員が散り散りになることなく移動するために、緻密な役割分担が必要だった。 ミアは聖封印を絶やさないよう魔力をめぐらせながら、いつでも回復や防御の呪文を繰り出せるよう準備をしている。
「よし、じゃあ行こうか。今日こそ安全に進めるように祈って……」
アカネが大剣を軽く構え、ルルネが先頭に立つ。 まだ薄暗い森の奥へと、一行は霧を割くように歩み始めた。
***
しばらく獣道を歩いていると、どこからか人の話し声がするのに気づく。 ルルネが静かに手を上げ、全員に動きを止めるよう合図を送る。
「……男の声が二人くらいかしら?」「うん、どうも私兵とか衛兵とは違う感じだけど……」
ルルネの言葉にニーナが頷いて答える。
声の方に向かってそっと身を寄せ、木立の隙間から様子を覗くと、そこには明らかに冒険者風の二人組がいた。 兎の獣人と、人間らしき青年が、地図を広げながら口論になっているようだ。
「ここじゃねーだろ! お前が言うからこっちに来たのに、道がないじゃねぇか!」「道がないからこそ、宝の眠る洞窟があるはずなんだって! 俺の情報に間違いはない!」
会話から察するに、彼らは何らかの宝探しをしているらしい。 公爵の追っ手の雰囲気は感じられないし、こちらに危害を加える可能性は低そうだが……ニーナが小声で問う。
「このままやり過ごす? それとも、少し情報を聞いてみる?」「指名手配されている私たちが迂闊に人前に出るのもリスクだけど、もし山道の様子を知ってるなら役立つかもしれないわ」
ルルネは悩んだ末に、「私が行くわ」と言って一歩前に出た。 フードを深く被り、大剣や装備を目立たないように下げたまま、茂みを抜けて二人の前に姿を現す。
「すみません、道に迷ってしまった旅の者です。近くに村か何かありませんか?」
二人は驚いた顔をしながらも、すぐに警戒心を解く様子はなかった。 兎獣人が鼻をひくつかせて、ルルネを上から下まで見る。
「随分と汚れた恰好だけど……この辺りは獣道ばっかりだぜ? 村なんてまともなもんはないさ。あるとすれば東の方に小さな集落があるくらい」「そうですか……ありがとう」
ルルネは偽りの笑みを浮かべながらそっと頭を下げる。 だが、二人組の青年のほうが何やら勘づいたように言った。
「ねえ、随分急いでるみたいだけど、指名手配犯でも追ってるのか? 最近、このあたりじゃ『エルフと聖女』がどうとかいう話題で盛り上がってるけど……」
背筋が寒くなった。 ルルネは一瞬動揺したが、相手はあくまで興味本位で訊ねているらしい。
「いえ、私たちは知らないわ……ごめん、急ぐからこれで失礼するわね」
そう言い残し、一礼して後退するように茂みに戻る。 相手も深追いはしてこないようで、どうやら本当に宝探しが目的らしい。 とはいえ、こうして噂が広がっていること自体が恐ろしく、ルルネは仲間のもとへ戻ると厳しい表情で報告した。
「やっぱり私たちの指名手配、かなり噂になってる。下手に村へ立ち寄るのは危険すぎるわね」
全員が黙って頷くしかない。 まだ道は遠い。
だが、確実に包囲網は狭まりつつある。
***
午後になり、霧はすっかり晴れていた。 森の樹間から射し込む陽光は強く、疲労が蓄積した身体にはこたえる。 ネシウスを抱え続けるエリスとリアの負担が増えており、頻繁に交代しながら進む。
「……ああ、また、少し苦しそう」
エリスがネシウスを抱きかかえ、唇を噛む。 少年の呼吸が乱れ、時々微かな呻き声を上げるたびに、ミアが急いで封印魔法を強化しようと試みる。
「耐えて……お願い、亜神化なんてさせないから」
エリスの必死の呼びかけが届いているのか、ネシウスはしばらくするとまた落ち着きを取り戻す。 だが、その時間が少しずつ短くなっているようにも思えた。 ニーナが心配そうに目を伏せる。
「この調子じゃ、あと何日も持たないかもしれない……早く銀狼族の村へ行かなきゃ」
ルルネは無言で剣の柄を握りしめたまま、周囲を見渡す。 ――と、そのとき、森の奥から金属の打ち鳴らす音が微かに聞こえてきた。 人間や獣人が武器を持って歩くときに立てる独特の響き。
「……来たかもしれない。人数は分からないけど、金属音が一定間隔で聞こえるわ」「私たちを追ってるのか。それとも、野盗か別の集団か」
アカネが険しい声で言い、ニーナが即座に対応を提案する。
「隠れる? 戦う? ……正面からぶつかったらネシウスが危ない」
ルルネが一瞬目を閉じ、冷静に判断を下す。
「隠れましょう。ここは無理して戦う状況じゃない。彼らが通り過ぎるのを待つの」
全員が同意し、近くの繁みに身を潜める。 エリスがネシウスを揺らさぬように慎重に抱え込み、アカネとリアが外側を囲む形でカモフラージュを施す。 息をひそめ、草木をかき分ける音が遠くから近づき――やがて遠のいていくのを感じながら、彼女たちはじっと待った。
もし見つかれば、封印の乱れが引き金になるかもしれない。 何度も頭をよぎる最悪の未来に耐えつつ、長い数分が過ぎ去る。 その間、ネシウスはかすかな震えを見せたが、ミアの魔力でどうにか抑え込まれていた。
***
夕方が迫った頃、ルルネたちはやっと安全そうな場所へ出ることができた。 森と森の合間にある小さな丘陵地帯で、石がむき出しになった斜面が風を遮っている。 ここで野営するか、それともさらに進むか――意見が分かれるところだ。
「ネシウスの状態を考えると、もう少しこの平坦な場所で休むのがいいかもしれませんけど……」
ミアが口を開くと、アカネが少し考え込みながら答えた。
「うん、追っ手をやり過ごすには好都合な地形でもあるわね。すぐに夜だし、移動するにもリスクが高いしね」
ニーナも同意する形で頷き、ルルネたちもそれに従った。 周辺の偵察を短時間で行い、魔物の巣や人の痕跡がないかチェックした上で、石の壁を背に小さな焚き火を起こす。
「火は目立たない程度に……出来るだけ煙を抑えて。もし敵が近づいてきたら即消せるよう準備しておいて」
アカネが注意を促し、ニーナが少し魔法を使って炎をコントロールする。 幸いにも風が弱まり、煙が横に流れずにほとんど昇っていかない。
エリスはネシウスの寝床を整え、リアが即席の食事を準備する。 ミアは封印の維持を続けながらも、随時ネシウスの体温や脈を測っていた。
「……まだ、安定はしてますね。時々震えるけど、このまま騒がず朝まで行ければ……」
ミアの口調は少しだけ楽観的だった。 ルルネはほっと胸を撫で下ろし、細く息を吐く。
「大丈夫。今日はなるべく静かに休んで、明日一気に距離を稼ぎましょう。銀狼族の村までまだ遠いけど……必ず着けるわ」
全員がそれぞれ短い相槌を打ち、火の粉が静かにはぜる音を耳に入れながら、夜の準備を進める。 いつ襲われるか、いつネシウスが暴走するか――。 そんな不安が拭えない中でも、彼らは少しずつでも前進するしかないのだ。
夜は更け、空の星々がかすかな瞬きを見せ始める。 誰もが眠りにつけないまま、交互に目を凝らして周囲を警戒し続ける。 風が岩壁に擦れ、ひゅう、と低い音を立てた。
――その先には何が待ち受けるのか。 公爵の策謀はますます深まり、獣道には巡回兵や私兵の影がちらつく。 だが、その暗い未来を切り開くためにも、今の彼らに立ち止まる選択肢はなかった。
「この旅の終わりに、ネシウスが笑顔を取り戻せるなら……私は、何だってやります」
リアの小さな宣言が、夜の静寂をほんの一瞬だけ和らげた。 エリスはその言葉に耳を澄ませながら、兄の手をそっと握りしめる。
「……お兄ちゃんも、きっとそう思ってるよね」
少年のまぶたが再びかすかに動き、だが声を発することはない。 星明かりの下、仲間たちの寝息が微かに重なり合いながら、長い夜はまたゆっくりと過ぎていくのだった。