第百五十三話「追っ手」
闇夜を抜け、朝焼けが辺りを薄紅に染め始めた頃。
小さな焚き火はすっかり灰と化し、ルルネたちは皆、眠気を拭うように静かに起き上がっていた。
昨晩の見張りは大きな事件もなく終わったが、気が張り詰めていたせいで誰も深く休めなかったらしい。
「朝早く出発したいけど……どうかしら、エリス。ネシウスの容体は?」
ルルネが、自分の寝袋を巻き取りながらエリスへ問いかける。
エリスはネシウスの傍に座り込み、彼の呼吸をじっと確認していた。
少年の額には、まだ微かな汗が浮かんでいるが、夜中のような苦しげな表情はやや和らいでいるようだ。
「少しずつだけど、落ち着いてきてるみたい……。昨夜より、呼吸も乱れてません」
エリスの声には小さな安堵が混じっていた。
だが、今はまだ昏睡に近い状態。
亜神化しかけた時の強烈な魔力反動が、彼の体と心を蝕んだままだ。
アカネはホッと息をつきつつ、地図を取り出して言う。
「このまま東を目指して獣道を辿れば、二日くらいで最初の集落に着くはず。そこをうまくやり過ごせれば……銀狼族の村まで一気に山を越えられるかもしれない」
しかし、その集落にはすでにアルベルト公爵の追っ手や衛兵が張っている可能性もある。
ニーナも杖を抱え込みながら、苦い表情を浮かべる。
「とにかく、動かなければ仕方ない。ネシウスの容体を見ながらにはなるけど、ここに留まれば捜索の手が回ってくるリスクも大きいし」
ルルネは剣の鍔を軽く叩き、意を決したように頷いた。
――このまま足を止めれば、彼らの未来は閉ざされてしまう。
封印が解けぬうちにネシウスを安全な場所へ連れて行き、尚且つ公爵の手の者を振り切らなければならない。
それは困難な道だが、仲間全員で力を合わせるしかない。
岩陰の仮拠点を撤収し、ルルネたちはそろりと歩みを再開する。
朝露で湿った地面は滑りやすく、エリスが抱えるネシウスの体が少し揺れるたび、彼がうっすらと眉をひそめるように見えた。
「痛かったらごめんね……でも、もう少しだけ頑張ろう」
エリスが囁きかけると、ネシウスのまぶたが微かに動く気配があった。
意識はまだ朦朧としているが、呼吸は一定を保っている。
彼女はその微かな反応に救いを感じる。
一方で、ミアは聖封印の魔力が弱まらないよう、時折小声で呪文を唱えていた。
淡い光が彼女の杖先を漂い、ネシウスの体を包み込む。
それが、少年の内に潜む亜神の力を鎮める一種の“錘”となっているのだ。
「ミアさん……体力は大丈夫ですか?」
リアが心配そうに尋ねると、ミアは少し微笑んで肯定した。
「まだ平気。聖職者として長時間の封印は慣れてるから……でも、いつ切れるか分からないから、その時はすぐに私を呼んで」
そう言いながらも、ミアの額にはうっすらと汗が滲んでいた。
相当な集中力を要する封印を続けながらの山道行軍は、彼女にとって容易ではないだろう。
***
その日も半日ほど山道を歩き続け、昼頃には森の切れ間から遠くの集落らしき建物が小さく見え始めた。
アカネが地図を確認して、「ここが目指していた集落かもしれない」と知らせる。
「ただ、手前の開けた場所は見通しがよさそう。逆にこっちが丸見えになるわ。衛兵がいたらすぐ発見されちゃうかも……」
ニーナも頷きつつ、ルルネのほうを見る。
「どうする? 昼のうちに駆け抜けるのは危険かもしれないわね」
ルルネは思案していたが、やがて意を決する。
「ここで夜まで待ち伏せして、暗くなってから集落を縦断するか、それとも集落を大きく迂回して山道を続けるか……。でもネシウスが限界になる前に、宿か多少の物資を手に入れたい気もするの」
そう、携帯食や水はまだあるとはいえ、長期的には心許ない。
さらにネシウスの介抱に必要な布や薬草なども集落のほうが入手しやすいだろう。
「リスクを承知で少しだけ潜り込んで、最低限の物資を買って逃げる……そんな手もあるな」
アカネが苦笑して言う。
長い修行で得た戦闘技術があっても、今はなるべく目立ちたくない。
彼女らにできるのは、多少の変装と交渉でささっと物資を手に入れるくらい。
「もし衛兵が目を光らせていたら……それこそニーナの魔法で一時的に誤魔化すしかないわね……」
ルルネが唇を噛む。
作戦としては薄氷を踏むような綱渡りだが、仲間の安全とネシウスの看病を両立させるためにはやむを得ない。
***
夕方近くになり、一行は集落の外れに潜むように身をひそめ、周囲の様子を窺った。
運のいいことに、衛兵らしき姿はあまり見当たらない。
とはいえ、油断は禁物だ。
公爵家の追っ手は里人になりすましているかもしれない。
「私とアカネが先に行って、物資を買い揃えるわ。ニーナはここでミアとリア、そしてネシウスを見てて。もし何かあったら合図を頂戴」
ルルネがそう提案すると、ニーナは少し迷ったものの納得する。
アカネも大剣を背負い直し、袖を伸ばして大部分を隠すようにした。
二人とも、目立たない程度にフードを被っている。
「大丈夫かな……エリスさん、ネシウスさんをお願いね」
アカネが低く言うと、エリスは小さく頷く。
そのままルルネとアカネは密やかに集落へ向かっていった。
ぼろぼろの小屋や農地が広がる質素な場所で、暮らしぶりはスミルの里よりも貧しそうだったが、人通りはほとんどない。
「案外、ここで衛兵を見張るのも大変そうね」
アカネが呟き、ルルネもほっと息をつく。
どうやら追っ手の足音はまだ聞こえない。
この間に乾物や薬草、さらにエリスが欲しがっていた布類を入手しなくては。
人通りの少ない集落を慎重に歩き回り、わずかながら商人と出会うことに成功した。
ボロ市のような雰囲気の路地で、老婆らしき獣人が簡易の露店を開き、根菜や薬草の束、乾き肉などを細々と売っている。
ルルネは最低限の食料と薬草を買い求め、アカネは寝具の補修に使える布切れを探した。
「変わった格好してるねえ、旅の者かい?」
老獣人が首を傾げるが、ルルネは笑顔を見せ、なるべく軽く受け流す。
「はい、ちょっと山道を越える最中で……。あまり深くは聞かないでくださいね、いろいろ大変で」
老婆はそこまで詮索する様子もなく、すんなり支払いを受け取ってくれた。
アカネも少量の薬草を確保し、足早に場を離れる。
幸い、怪しげな視線を向けてくる人間は見当たらなかった。
「このまま何事もなく戻れればいいわね」
ルルネが集落の外れに目をやりながら口にしたそのとき、遠くからかすかな声がした。
「――そこだ! あっちに人影があるぞ!」
一瞬にして背筋が凍る。
声の主は複数人。
どうやら隠れるようにして巡回していた兵かもしれない。
ルルネたちは瞬時に一歩退いて、薄暗い裏通りへ逃げ込む。
「見つかった可能性が高い……急いで引き返そう」
アカネが声を低くして言い、二人は全速力で集落の外へ走り抜ける。
風が巻き起こす埃の中、後ろを振り返ると、小さく甲冑の金属音が追いすがるように聞こえた気がした。
***
ニーナやエリス、ミアが潜伏していた岩陰へ駆け戻ると、息を切らしたルルネとアカネを見て、一同に緊張が走る。
「買い出しは成功したけど、どうやら見られたかもしれない。今は足音こそ遠いけど、すぐに追っ手が向かってくる可能性があるわ」
ルルネが早口に状況を説明すると、エリスはネシウスをしっかり抱え直す。
「ここに長居してたら危ないですね……。ごめんなさい、すぐ出発しましょう!」
アカネが手早く道具をまとめ、ニーナとミアもそれぞれ武器や杖を構えるように携えた。
この先の道程を考える余裕などほとんどなく、とにかく安全地帯へ移動するほかない。
「分かった。まだ日は沈みきってないけど、夜の森を抜けるよりは今のほうがましかも」
ニーナが周囲に注意を払いながら合図する。
一同は即座に早足で進み始めた。
夕暮れにかすむ林道を、ルルネたちは慌ただしく駆け抜ける。
幸いにも、ネシウスはエリスが抱える負担に気づかぬまま眠り込んでいるのか、暴れる気配はなかった。
アカネが後方を警戒し、ニーナが先頭で地形を確認し、ミアとリアはエリスの両脇を支え合いながら進む。
それぞれが最善を尽くし、銀狼族の村への到達――に向け、足を止めない。
やがて林の奥へと分け入り始めると、日中の暑さとは打って変わって冷たい風が吹き抜け、薄暗い樹間を微かに揺らし始めた。
あたりは人影もなく、鳥や獣の気配がするだけだ。
だが、それがかえって不気味な静寂を生み出している。
「――ここからもう少し行けば、夜営できそうなスペースがあるかもしれない」
ニーナが暗がりの中で地図を照らし、低く言った。
他に選択肢はない。
追っ手が迫っている可能性を考えながらも、一行はさらに奥へ進むしかないのだ。
***
その晩、再び見つけた岩陰の空間で簡単な野営を整える頃には、全員が疲労困憊だった。
ルルネとアカネが簡単な食事を用意し、ミアはネシウスに魔力治癒を施し、エリスは薬草で彼の容体をケアしている。
何度か襲ってきた痙攣のような震えは、いまは落ち着いていた。
「追っ手も、すぐにはここまで来ないと思う……でも、もう安心はできないわね」
アカネは槍を握りしめ、遠くの闇に視線を馳せる。
ニーナがうなずきながら、今夜は見張りを強化すると決めた。
「ネシウスの体調と、私たち自身の安全と……どちらも同時に守るのは本当に難しい。だけど、ここまで進めただけでも大きな一歩」
ニーナの言葉に、エリスはかすかな微笑みを浮かべる。
倒れ伏したネシウスの頬には、うっすらと血色が戻り始めたようにも見える。
まだ長い道のりではあるが、ほんの少し希望の光が差し始めた気がした。
「……公爵家の魔の手がどれほど迫っていようと、絶対にお兄ちゃんを亜神にはさせない。そのためにも、ここを乗り切らなくちゃ」
エリスが呟くたびに、その決意が仲間たちにも伝わってくる。
ルルネとアカネ、ニーナ、ミア、そしてリア――それぞれが瞳を閉じ、わずかな休息に身を委ねながら、次なる朝に備えるのだった。
こうして、スミルの里を後にしたルルネたちは、追っ手の足音に怯えながらも銀狼族の村を目指す旅を続ける。
奇襲を警戒しながら厳しい山道を進む彼らの背後では、アルベルト公爵の《人類統一計画》が着々と動き出している。
もし公爵の手が、無理やりさらなる亜神を生み出すべく手段を講じているとしたら――ネシウスだけでなく、この世界の行く末すら危ういだろう。
夜闇を見据えたまま、ルルネたちは改めて心に誓う。
再び失敗して誰かを犠牲にしてはならない。
ネシウスの意識を救い、人類統一計画を阻む術を必ず見つける。
指名手配犯として追われながらも、彼女らの旅はなおも続いていくのだった。