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第百五十二話「出立」

 翌朝、東の空が淡い光を宿す頃。

 スミルの里に夜明けが訪れ、納屋の簡素な扉の隙間から冷たい外気が吹き込み始めた。

 ルルネ、ニーナ、アカネ、そしてリアは支度を終え、寝かされているネシウスの様子を確認する。

 エリスは彼の傍にしゃがみ込み、そっと頬に触れた。


「……熱は下がってきてますね。でも、やっぱり時々苦しそうに呼吸して……」


 彼女の声には、安堵と不安が入り混じった響きがあった。 ネシウスの表情こそ穏やかになりつつあるが、いつ激しい痙攣や暴走が再発してもおかしくない。

 視線を交わしたルルネたちも、決意を新たにするように心を引き締めた。


「出発を遅らせれば、公爵家の追っ手がますます迫ってくる。この機を逃すわけにはいかないな」


 アカネが背負う新調の大剣が、朝日に照らされて微かに輝く。

 鍛冶工房で懸命に仕上げてくれた装備を無駄にはできない。

 ――その思いが彼女の胸に宿っていた。 ニーナも杖を握りしめる。

 魔法によるサポートがいつでもできるよう、魔力を整えているのがわかる。


「エリスさん、ネシウスをお願いします。私たちで交代しながら、彼を支えましょう。無理はしないでくださいね」


 ミアが微笑んで声をかけ、エリスは小さく頭を下げる。 ネシウスを抱き起こすようにしてゆっくり立ち上がると、思ったより軽い――いや、それだけ少年の体力が落ちてしまっているのかもしれない。

 エリスの胸に、切なさが込み上げた。


「絶対に……ここで終わらせない。お兄ちゃんが望む本来の生き方を取り戻すために」


 彼女の小さな呟きは、まだ意識の深い闇で眠るネシウスには届かない。

 だが、その手に込められた思いは確かに伝わっているはずだ。


 納屋を出ると、里の老人や鍛冶職人の弟子たちが見送りに来てくれていた。

 短い滞在だったが、ルルネたちが指名手配犯とは知らない彼らは、純粋に「旅の人」として応対してくれる。 柔らかな朝日がスミルの里を染める中、長老が静かに言葉をかけた。


「強化を急いだせいで、十分な仕上がりじゃなかったらすまんのう……。だが、あんたらには何か大事な使命があるようじゃ。無事を祈っとるよ」


 その言葉に、アカネやルルネは礼を述べて深々と頭を下げる。 少なくともこの里には、アルベルト公爵の意図や《亜神》の恐怖を持ち込むつもりはない。

 彼らの小さな親切に感謝しながら、ルルネたちは静かに背を向けた。



   ***



 里の外れに出ると、東へと伸びる道が二手に分かれていた。 ひとつは広めの街道。

 検問や宿場が整備されているが、当然ながら衛兵の巡回も多い。 もうひとつは山道をさらに奥へ踏み入り、集落を迂回する獣道。

 安全とは言い難いが、追っ手を巻くには適している。


「大きな街道を行けば、検問に引っかかるリスクが高い……。ネシウスの状態を考えれば、厳しすぎる」


 ニーナが難しい顔で地図を眺める。 アカネは大剣の柄に手をやりながら、小さく首を振る。


「山道が険しいのは承知だけど、今は捕まるわけにはいかない。銀狼族の村で彼を治療してもらうまでは、戦闘を極力回避したいところだし……」


 リアも、銀狼族の村の位置を思い浮かべながら言った。


「途中でいくつか小さな集落をかすめるかもしれないけど、余計な衝突は避けましょう。ごまかせるなら指名手配の話をされても、物乞いとでも言って通過したいですね」


 結果、一行はなるべく街道を外して、時折分岐する細い脇道を繋げながら東方を進む作戦を取ることになった。



   ***



 スミルの里を出て半日ほど――日が高く昇る頃には、森を抜けた先に荒涼とした峠が姿を現した。 岩がごろごろと転がり、風が吹くたびに土煙が舞い上がる。

 もともと道らしきものがあったのかさえ曖昧なほど、雑な地形だ。


「気をつけて……足を滑らせたら危ないです」


 リアが低く声をかけ、ネシウスを支えるエリスの肩を軽く貸してやる。 そこへ突如、岩陰から甲高い鳴き声が響いた。

 ルルネが即座に剣を抜くと、一匹の巨大なヒョウのような魔獣が身を潜めていたことに気づく。

 瞳はギラギラと光り、今にも跳びかかりそうだ。


「ネシウスを後ろへ! ニーナ、援護お願い!」


 ルルネが手短に指示し、アカネが大剣を構えて前へ出る。 魔獣は地を蹴り、猛スピードで迫ってくるが、ニーナの雷撃魔法が空気を割いて光の帯を走らせる。

 電撃をまとった一閃が魔獣をかすめ、怯んだ隙にアカネの大剣がわずかに切りつける。 魔獣は唸り声を上げながらも、その場に留まらず岩場へ逃げ去っていった。


「ふぅ……助かった」


 アカネが息をつき、ニーナも肩をすくめるように笑う。


「やっぱり危険なルート。でも、街道を行けば衛兵に捕まるかもしれないし……仕方ない」


 そんな短い交戦が、これから先の道のりが一筋縄ではいかないことを改めて示していた。 エリスはネシウスの頭を抱え込むようにして、彼を守りきれたことに安堵する。



   ***



 峠を越えた先、細い獣道を進んでいるときだった。 リアが耳をぴくりと動かし、「遠くから足音がする」とつぶやく。

 全員が警戒を強めて岩陰や木立の影に身を寄せて隠れると、程なくして見覚えのある獣人の衛兵らしき集団が遠巻きに通り過ぎていく。


「あれはスミルの里を出た後に見た部隊……?」


 ニーナが息を潜めつつ囁く。 衛兵たちは本来の街道ではなく、林を切り裂くように移動している。

 どうやら指名手配犯であるルルネたちを確実に捕まえようと、手分けして探索している様子だ。


「危ないところだったわ……やっぱり相当な執念で探してるわけね」


 ルルネは舌打ち交じりに目を細める。 下手に戦えば、ネシウスの封印が刺激されて暴走しかねない。

 今は逃げ続けるしかないのだ。



   ***



 昼下がり、森を抜けてようやく見えてきた小さな沢のほとりで、ルルネたちは一息入れることにした。 火を使わず、乾燥した携行食で簡単に腹を満たす。

 ミアは魔力を巡らせて封印の維持を図り、ネシウスの状態を診断する。


「……最初よりは落ち着いてるけど、やはり魔力が揺れるたびに体が震えてます。下手すれば暴走再発もありえそう」


 ミアの言葉に、エリスが苦しそうにうつむく。 彼女はネシウスの手を握りしめたまま、小さく首を振った。


「お兄ちゃん、お願い……今は耐えて。絶対に、村に着けば助けられるから……」


 かすかに唇を動かしているが、ネシウスの瞳はまだ閉じたままだ。 それでもルルネたちには、彼が葛藤の中で必死に意識を保とうとしているように感じられた。


 夕刻が近づくにつれ、空は赤紫色に染まっていく。

 地図を確認したアカネが、少し離れた場所を指差した。


「ここからさらに東へ行けば、大きな峠をひとつ越えた先に、獣人たちの集落がいくつかある。でも、できれば夜のうちにそこへは近づきたくないわ。衛兵も山賊も夜間警戒が強いだろうし……」

「そう。日没前に安全な場所を見つけて野営して、朝早く行動するほうがいい」


 ニーナが賛同し、リアも地形を思い浮かべて頷く。


「銀狼族の村まであと十日はかかるかもしれません。でも、一日一日を着実に乗り越えていくしかないですね」


 指名手配による追っ手、そして山道を跋渉する魔物や盗賊の危険。

 ――どれもが過酷だが、ネシウスを救うためには避けられない道だ。 ルルネは剣の柄を握り直しながら、小さく宣言する。


「私たちなら、絶対に突破できる。ここまで来たんだから……行きましょう」



   ***



 夕陽が地平線に沈み、最後の光が森の梢を染め上げるころ。 ルルネたちは安全そうな岩陰を探し出し、そこで野営の準備を始めた。

 大きな火は上げられないが、湯を沸かす程度の簡単な焚き火なら可能だ。 アカネやニーナが交互に周囲を見張り、ミアとリアがネシウスの看病を続ける。 エリスは傍らに座り込み、兄の額を冷やしながら、淡々と自分の決意を繰り返す。


「お兄ちゃんは……もう戦わなくていい。私たちが戦うから。今はただ、ゆっくり眠って……目が覚めたら、あなたの故郷に戻ってるんだから」


 その小さな声に応じるように、ネシウスが微かにまぶたを動かす。 その仕草を見届けたルルネは、エリスへ温かい視線を送りながら自分の寝袋へ腰を下ろす。


「今夜は私とニーナが先に見張りをする。交代で休んで、体力を回復しておきましょう。明日も険しい道が待ってるわ」


 夜闇が降りた森を、どこか遠くの獣の遠吠えがかすかに震わせる。 息を飲む静寂の中、幾度かの危機を乗り越えた仲間たちの結束がますます強固になるのを感じながら、スミルの里を後にした一行の旅はまだ始まったばかりだ。


 遠方では、アルベルト公爵の私兵たちが既に次の指示を受け、山道の出口や集落に布陣を敷いているとの噂もある。 しかしルルネたちは、一歩ずつ銀狼族の村を目指し進むしかない。

 強大な《亜神》の脅威が迫る前に、ネシウスの意識を救い出すために――。

 火の粉がはぜる音だけが静かに響く、暗い山中の夜。 やがて見張りの交代の合図が訪れ、ルルネとニーナは闇を見据えたまま小さく息を整えるのだった。

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