第百四十九話「人工英雄の素」
スミルの里へ戻ったルルネたちは、夕暮れ迫る納屋で、廃研究所から持ち帰った資料や錆びた鍵を前にして頭を突き合わせていた。
洞窟の奥で見つけた紙の破片や金属プレートはどれも傷みがひどく、そのままではとても読み取れない。
ニーナがさっそく魔法を使って汚れを落としたり、カビを焼いたりしながら、少しずつ判別できそうな文字を拾い上げていく。
「……《亜神》、《適合率》、《英雄の素》……かすかに読めるわ」
ニーナが紙片をそっと透かしてみせると、アカネやルルネ、そしてリアも息をのんだ。
そこには断片的な単語のほかに、「被験体N」「報告」「覚醒を促す」──そんな言葉もかろうじて残っている。
「やはり、あの研究所もネシウスと同じような実験をしていたのか?」
アカネが深く息をつく。
彼女は納屋の隅で預けていた大剣の新調版をそっと撫でながら、その表情は暗い。
幸い鍛冶工房からの連絡で、彼女やルルネらの武器は予想より早く強化が済んだと知らされていた。
だが、その事実が喜ばしいとは言い難いほど、今は廃研究所の真実が重くのしかかっていた。
「ねえ、これ……ここを見ると《英雄の素》って言葉のそばに、《進化》とか《追い込まれるほど》とあるわ」
ルルネはニーナから渡された紙片を指差す。
かろうじて判読できるその文字列には、おそらくヒトを亜神へ進化させる旨が書かれているようだ。
リアは思わずネシウスの寝顔を見やり、唇を噛んだ。
「ということは、私たちが聞いていた《亜神》の話と一致しますね。英雄の素、つまり《本来なら英雄として覚醒する資質》がある人間は、極限状態になると《亜神》に近い力を得る……」
「……アルベルト公爵の《人類統一計画》が、それを利用しているというのか?」
アカネが沈んだ声で問う。
少し前、ルルネたちは《人類統一計画》という単語を耳にしていた。
獣人も人間も、あるいは魔族でさえまとめて支配するための、危険な野望。
強大な《亜神》の力があれば、どんな国や種族もねじ伏せられるかもしれない。
「ネシウスはたぶん……《人工英雄の素》を埋め込まれたってことよね」
ニーナが顔を曇らせながらそう結論づける。
廃研究所の紙片には《被験体》や《適合率》の語もあった。
つまり、ネシウスの身体が《英雄の素》に適合するかどうか、あるいはどの程度の覚醒を得られるかを測る実験が続けられたのだろう。
「だから無理やり強敵と戦わされ、追い詰められるたびに力を引き出されて……その結果、彼は亜神化寸前までいった」
ルルネが、納屋の寝床で横たわる少年の横顔を見つめる。
静かに呼吸をしているネシウスの表情は、まだ苦しげだが、少し顔色が戻ってきたようにも思えた。
「でもなぜ、私たちが指名手配されるの?」
リアは首を傾げながら尋ねる。
ルルネたちは自分たちがいる大陸――かつて魔王を倒したり、数々の危機を乗り越えた実績ゆえに《英雄の素》を持っているかもしれない……と噂されている。
公爵家がそれを嗅ぎつけ、彼女たちを確保しようとしているのだろうか。
「もし本物の《英雄の素》を持つ人がいるとしたら……アルベルト公爵の計画にとっては、実験の最高素材になるからよ。だから私たちを捕らえようと、でっち上げの罪状で指名手配したのよ」
ルルネの推測に、ニーナも同意するように頷く。
「実際、私たちには魔王を倒したりといった経歴があり、それで向こうの大陸では英雄として扱われてきました。公爵がその噂を聞きつけても不思議じゃないですね」
「つまりネシウスは人工的な《英雄の素》を埋め込まれ、私たちは自然に《英雄の素》を持っている可能性がある……?」
アカネの声がわずかに震える。
エリスやミアは沈黙したまま、話に耳を傾けていたが、ここでエリスが意を決して口を開いた。
「お兄ちゃんは……人間の素質云々じゃなく、銀狼族として普通に暮らしていました。それが突然姿を消して……。公爵家に捕まって、《亜神》にされかけてたなんて……ひどい」
彼女は怒りを堪えきれず、拳をぎゅっと握りしめる。
だが、隣で寝ているネシウスを刺激してはならないと思い、声を抑えた。
「でも、わかったわ。私たちがネシウスを救いたいなら、あの研究を止めるしかない。公爵の《人類統一計画》も、こんな非道な方法で進めさせちゃいけない」
ルルネがきっぱりと言い放つ。その瞳には明確な決意が宿っていた。
ニーナやアカネも、互いに視線を交わしながら深く頷く。
「幸い、鍛冶工房で強化してもらった装備が揃ったし、ネシウスは少しずつ安定してきている。あともう一息で回復も進むでしょう」
「そしたら銀狼族の村へ移動して、より確かな治療や協力を得るのが得策ね。そこでさらに情報を集めて、人類統一計画を食い止める方法を探るのよ」
リアが地図を広げ、道程を確認する。
里からさらに東へ進み、山間の集落を抜けて銀狼族の本拠へ行くには、少なくとも十日近い旅になりそうだ。
しかし、ネシウスにとってはそこが本来の故郷とも言える場所。
彼の回復にもプラスになるだろう。
「問題は、公爵の追っ手を撒きながら安全に移動できるかどうか」
ニーナは複雑そうに息を吐く。
自分たちが指名手配を受けている以上、獣人の国の中でもあちこちで検問や通報が行われているはずだ。
無闇に大通りを使えばすぐ捕まりかねない。
かといって山道ばかり行くと、また凶暴な魔物と遭遇するリスクも高まる。
「でもやるしかないわ。ネシウスが再び戦いに巻き込まれたら、本当に危ない。あの《英雄の素》に追い詰められれば、完全に《亜神》に覚醒させられてしまうかもしれない。そうなれば……彼の意識はどんどん壊れてしまう」
ルルネの言葉に、エリスは小さくうなずき、ネシウスの頬に触れた。
「大丈夫、みんな。私は絶対にお兄ちゃんを《亜神》になんかさせない。彼が元の姿に戻れるように、なんとしてもこの陰謀を止めよう」
その決意に呼応するように、ルルネたちの瞳にも力がこもる。
《英雄の素》を持つ者が追い詰められれば亜神化する、という事実。
そして、ネシウスは《人工英雄の素》でさらに無理やり適合させられていた。
これこそが彼の苦しみと暴走の原因であり、公爵の《人類統一計画》の根幹でもある。
「……よし、明日になったら鍛冶工房で最終的に装備を受け取り次第、すぐ出発しよう。ネシウスの体調を見ながら、一日でも早く銀狼族の村にたどり着くんだ」
アカネが地図を指し示して提案すると、ニーナとリア、そしてルルネも同意する。
「今夜は交代で見張りをしつつ、休める者はしっかり休む。ネシウスの回復を祈りながら……だけど、彼の意識が戻りかけているようなら刺激を与えないよう気をつける」
ニーナの言葉に、エリスは真剣な眼差しで応じる。
「ありがとう、皆さん。本当に……お兄ちゃんを助けてくれて。あの研究所の実態を知って、私はますます怒りが込み上げてきた。でも、同時に希望も見えました。絶対に大丈夫だって……そう思えます」
そうして、スミルの里の納屋には静かな夜が訪れる。
日暮れの薄明かりが窓の隙間から差し込み、床に落ちる影を徐々に濃くしていく。
ルルネたちの手の中には、半ば崩れた資料の紙片と《人工英雄の素》を示唆する断片的なキーワード。
それらが《人類統一計画》の恐ろしい本質を告げていた。
──すなわち、異様なまでの強大な力を得た亜神を量産し、世界を武力でまとめ上げようという野望。
ネシウスの横でエリスが毛布を直しながら、静かに言う。
「お兄ちゃん……もう戦う必要なんてないよ。私たちがきっと止めてみせる。だから、どうか……」
少年は浅く呼吸を繰り返しながら、かすかにまぶたを動かす。
まだはっきりとは目覚めないが、意識の遠い底で、エリスの呼びかけに応じようとしているのかもしれない。
──こうして、ルルネたちは《英雄の素》の真実を知り、ネシウスが《人工英雄の素》を植え付けられた実験体であったことを確信する。
彼らを追う手配の理由、そして亜神化への道筋……すべてがつながり、アルベルト公爵の恐るべき計画が一歩ずつ輪郭を明らかにしていた。
しかし、彼らはこの事態を黙って傍観するつもりはない。
銀狼族の村へ向かい、ネシウスを完全に救う術を探し出すと同時に、ひそかに進む《人類統一計画》を必ず阻止してみせる。
──そう胸に刻みながら、夜の闇にまどろむ仲間たちの静かな寝息を確認しつつ、交代で夜番に立つルルネたちは、限りない決意を新たにするのだった。
次の朝、鍛え直された剣を握りしめ、一行は出発の準備を進める。
ネシウスを護り抜くため、そして英雄の素を悪用した陰謀を打ち破るため、いよいよさらなる旅路へ突き進むのだった。