第百四十四話「山道」
夜明け前の山道で野営をした翌朝、まだ空が薄暗い中、ルルネたち一行は起床した。
夜通しの見張りは大過なく終わり、ネシウスの封印も何とか維持されている。
もっとも、ミアの表情からは疲労の色が隠せず、定期的に声をかけては休ませなければならない状況だ。
「おはよう。みんな大丈夫そうね?」
ルルネが焚き火の残りを片付けながら問いかけると、ニーナとアカネは無言で頷く。
二人とも夜中の見張り交代で充分に眠れたわけではないが、警戒モードが続く以上、弱音を吐くわけにはいかない。
「私はなんとか大丈夫です。ネシウスも少し落ち着いてきたみたい」
エリスがそっと寝かされているネシウスの顔を見やりながら言う。
少年は微かに眉を顰めるような仕草をするが、昨夜のように暴走の兆しはない。
まだ自我は取り戻していないが、眠りが安定しているだけでも一歩前進かもしれない。
「エリスさん、体は大丈夫? ずっと看病で疲れてるんじゃ……」
リアが心配そうに声をかけると、エリスは小さく微笑んで首を振る。
「平気です。私はお兄ちゃんを助けたい、その一心で頑張れますから」
その言葉に、ルルネたちも自然と背筋が伸びる。
人類統一計画を阻止し、この亜神の術式からネシウスを解放するためには、まだ長い道のりが待っている。
しかし、エリスの固い意志を感じると、彼らもまた覚悟を新たにするのだった。
「さて、次はどう動くか……」
アカネが地図を広げながら言う。
「昨夜のうちに、ここからさらに東へ一日ほど進めば、小さな峠を越えることになる。そこから南下すれば銀狼族の村に繋がるはずだけど……途中の道が険しいんだよね」
山道はさらに狭く、時折は獣の出る危険地帯を通る。
だが王都からの追手を完全に撒くには、そのルートが最適だった。
「それに、私たちが今抱えているネシウスと、装備、そしてミアの封印……全部維持しながら峠を越えるのは想像以上に大変そう」
ニーナが厳しい表情を浮かべる。
「でも行くしかないわね。王都からの公爵家の捜査網がどこまで伸びるか分からないし、闇商人もまだ諦めていないかもしれない。できるだけ早く移動して、銀狼族の村で情報と助力を得るしかない」
ルルネの言葉に、リアも顎に手をやって頷く。
「私も少しは山道に詳しいので、お手伝いできると思います。ゆっくり進めば峠は越えられるはず。ネシウスさんをしっかり支えながら、休み休み行きましょう」
「よし、それじゃあ出発の準備を――ミア、封印の再調整はどう?」
ルルネがミアの方へ振り返ると、彼女は細く息を吐いて微笑んだ。
「大丈夫。少し休んだら魔力も回復しました。できれば峠を越えるまで保たせたいけど、限界が近いなら告げるのでその時は手分けして護衛をお願いしますね」
封印が解けると再びネシウスが暴走しかねない。
慎重を期さねばならないが、もう猶予は少ない。
王都を離れたといえども、追っ手が迫る恐れは消えていないのだ。
一行は手早く荷物をまとめ、山深い獣道を進み始めた。
獣の巣穴を避け、岩肌を踏みしめながら高度を少しずつ上げていく。
途中、足元が崩れやすい急傾斜の場所では、アカネやニーナがネシウスを支えながら、リアが先導して足場を確かめた。
「ふぅ……ネシウスも軽いとはいえ、長時間の運搬はさすがに堪えるな」
アカネが笑みを浮かべつつも額の汗を拭う。
伝説級の装備のおかげで体の動きは多少楽になったが、やはり人ひとりを抱えた登山は負荷が大きい。
「アカネ、ちょっと交代。私も装備が軽量化されたし、交互にネシウスを背負えば少しは楽になる」
ニーナが気遣いを見せる。
「ありがとう、お願いしようかな。ルルネは周囲の警戒を。リアとエリスは一緒に隊列の後ろを固めてくれ」
そこまで話すと、急にエリスが「しっ」と口元に指を立てた。
耳をそばだて、何かを聞き分けている様子。
「……なにかの鳴き声?」
ルルネも少し耳を澄ます。
確かに獣の低い唸り声のようなものが、風に乗って微かに伝わってくる。
「山狼……かもしれない。気をつけましょう。もし獲物がこっちに向かってるなら、ネシウスを守るためにも早めに場所を移動したい」
リアが周囲を見渡す。
峠の直前は視界が開けず、もし群れで襲われたら厄介だ。
「急ぎましょう。峠を越えた先の広いスペースまで行けば、野営ができる場所があるかもしれない」
ニーナがそう言い、全員が同時に動き出した。
ネシウスの寝顔には苦痛の影が残っているが、これ以上危険を増やすわけにはいかない。
昼過ぎには、ようやく峠の頂を越えることができた。
途中、山狼らしき気配は感じられたが幸運にも襲撃されず、そして公爵家の追っ手の姿も見えない。
荒涼とした石畳のような場所に足を踏み入れると、眼下に緑豊かな谷が広がっていた。
そこに細い道が続き、さらに向こうに小さな集落らしきものが点在しているのが分かる。
「あれが銀狼族の村……ではなく、その手前の集落ですね。村はもっと奥にあるはず」
エリスが地図を確認しながら言う。
夕暮れまでにはそこに到達し、今夜はそこで一泊する計画だ。
「ともかく、ネシウスが落ち着いていて助かった。これなら夜のうちに村へ向かう算段も立つわね」
ルルネが背負い直した荷物を調整しつつ微笑む。
しかし、そう安堵したのも束の間、ネシウスが微かな唸り声を上げ、腕を震わせた。
封印の光が淡く揺らぎ、ミアがすぐに気づいて寄ってくる。
「……やっぱり、術式が深く残ってる。ここで一度もう少し聖封印を強化しないと。また暴走されちゃ困るわね」
彼女は少し疲弊した様子だが、決意に満ちた表情をしている。
「私が頑張るしかないわ」と呟きながら、再び呪文を組み直す準備を始めた。
「ありがとう、ミアさん」
エリスが感謝を伝えると、彼女はふっと笑って首を振る。
「困ったときはお互いさまです。ネシウスを救う手段を見つけるまで、頑張りましょう」
こうして一行は峠を超え、さらに銀狼族の村を目指す旅を続ける。
亜神化への道を進みつつあるネシウスを抱え、人類統一計画という大きな闇に挑むため――。
この次なる目標は、遠い山奥にある銀狼族の故郷。
その地で、彼の苦しみを終わらせる鍵を見つけ出すことになるだろう。
夕焼けが差しかかる空を見上げながら、ルルネたちは静かに誓った。
どんな脅威が待ち受けようとも、自分たちの意思は揺るがない――ネシウスを取り戻し、大陸全土を巻き込む陰謀を絶対に止める。
そうして一歩ずつ、亜神と英雄の素の真相に迫る旅路が、再び動き出したのだった。