第百四十一話「絶体絶命」
廃屋の扉がギシギシと音を立てる。
その隙間から、銀狼種の少年・ネシウスが一歩、また一歩と中へ踏み込んできた。
路地で襲いかかってきたチンピラたちは、既に外で倒れ伏している。
まるで人形のような無表情のまま、ネシウスは薄暗い室内を見回し、まっすぐルルネたちへと視線を据えた。
瞳は依然として焦点を失い、そこには人間らしき感情の色がまるで見えない。
「ネシウス……やっぱり、私たちを追ってきたのね」
ルルネは剣を握る手にぐっと力を込めながら、相手の動きを見極めようとする。
しかし、ネシウスが次にどう動くかまったく読めない。まるで操り人形のように、彼は淡々と近づいてくるだけ。
「お兄ちゃん……やめて! 正気に戻って、お願い!」
エリスが震える声で叫ぶが、ネシウスの耳には届かないかのようだった。
銀色の耳がかすかに揺れ、彼が細身の剣を抜き直すと、わずかな月光に刃が反射して鈍く光る。
「……どうするんです、ルルネさん」
ミアが後方で怯えるリアとエリスをかばいながら、小さく問いかける。
真正面から力比べすれば、先ほど路地で戦ったときと同じか、それ以上の被害が出るかもしれない。
この狭い廃屋では動きも制限され、何より相手を傷つけずに制圧するのは至難の業だ。
「……まず、あの剣を落とさせるしかないわね。もし抵抗が激しければ、一時的に無力化するしかない」
苦い表情で呟くルルネ。
エリスの気持ちを考えれば、ネシウスを手荒に扱いたくはない。
しかし、今は自分たちの命を守るためにも、ある程度の覚悟が必要だった。
ネシウスが静かに剣を構え、少し腰を落とす。
――次の瞬間、彼は音もなく踏み込み、疾風のごとき速度でルルネとの間合いを詰めてきた。
「速いっ!」
ルルネは咄嗟に剣を横に払って防御に回るが、ネシウスの突きは空気を切り裂くかのような一撃だった。
金属同士が激しく衝突し、廃屋の床に火花が散る。小さな振動が部屋全体を揺らした。
「くっ……!」
受け止めた衝撃で腕が痺れる。
彼の力は、人間離れしたレベルにまで引き上げられているのは確実だ。
「ミア、援護をお願い!」
ルルネが後ろに跳んで体勢を立て直すと同時に、ミアが杖を握り締めて詠唱を始める。
聖なる光の魔力を集中させ、ネシウスの足元を掬うように放つ。
ネシウスは微かに動きを鈍らせるが、すぐにその魔力を振り払うように剣を一閃。
まともに攻撃を加えない限り、怯みさえ取りづらいようだ。
「……ネシウスの身体能力がさらに上がってる気がします。まさか、また強敵と戦わされて、亜神の力を加速させられたんじゃ……」
ミアが呟いたその言葉に、ルルネも背筋を寒くする。
もし強敵と戦うたびにネシウスが力を増しているのなら、今後ますます手に負えなくなってしまう。
彼を救うには早急に人類統一計画や英雄の素についての真相を突き止めねばならない。
「まずは何とか落ち着かせるしかない……」
再び剣を合わせながら、ルルネは必死に考える。
ここでネシウスを無理やり倒すことは簡単ではないが、エリスにこれ以上悲痛な想いをさせたくない。
「お兄ちゃん……目を覚ましてよ、お願いだから!」
エリスの叫びに、ネシウスの耳がピクリと動く。
――わずかに、彼の瞳が揺れた気がした。
(まだ意識が完全に消えているわけじゃないのかも……!)
ルルネはその小さな変化を見逃さなかった。
ならば、彼の心を呼び戻すチャンスがあるかもしれない。
無闇に魔力で押さえ込むのではなく、あくまで時間を稼ぎながら、何とか自我を取り戻す糸口を探るしかない。
「ミア、彼を傷つけずに拘束できる魔法は……?」
「時間はかかるけど、聖封印の呪で動きを縛ることはできます。ただ、詠唱に隙が必要で……」
「分かった。私がその隙を作るわ」
ルルネが決意を込めて目を光らせる。
もし上手くいけば、ネシウスを一時的に拘束し、彼の話を聞くことができるかもしれない。
エリスもそれを切望しているに違いない。
ネシウスが再び剣を突き出し、ルルネは流れるようにかわしながら横合いから刀身を弾く。
水中修行で得た身体のキレを活かし、最小限の動きで攻撃を受け流す。
「……今よ、ミア! やって!」
「うんっ!」
ミアは杖を掲げ、聖なる光を紡ぎ始める。
その光がネシウスの背後に結界を生成していく。
薄く神聖な紋章が浮かび上がり、空間を徐々に囲い込んでいく。
ネシウスは警戒するように振り向き――。
「ネシウスっ! 戻って……! エリスの声を聞いて!」
ルルネは必死に呼びかける。
その刹那、エリスも涙ながらに声を振り絞った。
「お兄ちゃん……あの日の約束、忘れてないよね……! 一緒に、村に帰るって……」
少年の耳が微かに震え、剣の動きが鈍った。
――まさに今だ。ミアの詠唱が完了する寸前、ネシウスの虚ろな瞳に一瞬だけ苦悶の色が浮かんだ。
(いける……!)
ルルネは動きを止めたネシウスの手首を狙って、逆手で剣を叩き落とそうとする。しかしその瞬間――。
がしゃん、と廃屋の扉が乱暴に開け放たれた。
乾いた足音が室内に響き、ルルネたちは思わずそちらを見る。
そこに立っていたのは――ニーナとアカネ……ではなく、まったく見知らぬ男。
痩せぎすの猫獣人が悠然と踏み入り、瞳に薄ら笑いを浮かべながら言い放つ。
「ほう、ここにいたんだな。指名手配の奴らに、銀狼種の亜神候補まで。こりゃ思ったより高値がつくかもな……」
彼の後ろには複数の足音が重なる。
闇商人か、それとも公爵家の手先か。
どちらにせよ、新たな敵が目の前に現れたことで、ルルネたちはさらなる絶体絶命の危機を感じた。
ネシウスを救おうとした矢先、思いも寄らぬ乱入者が場をかき回す。
少年の剣先が再び上がり、廃屋の空気が戦慄の渦へと呑み込まれていく。
――そして、その背後には、一縷の良心か苦悶か、ネシウスの揺れる耳が微かに震えていた。