第百三十七話「戦闘と合流」
「……ネシウス?」
リアの掠れた声が、狭い路地裏に淀んだ空気を揺らした。
彼女の前に立つフードの少年――ネシウス――は、まだ十代前半ほどの幼い顔立ちにもかかわらず、瞳には焦点がなく、冷たい殺気のみが漂っている。
動物的な銀色の耳が揺れるたび、その力の奔流がこちらを威嚇するかのように膨れ上がっていく。
「まさか……リアさんの言っていた銀狼種の少年って、本当に……?」
ミアが震える声で問うが、言葉を発したところで状況が好転するわけではなかった。
ネシウスは人の話など全く聞いていない様子で、再び細身の剣を振りかざしてルルネに斬りかかる。
先ほどまで隠していた耳と同様、その動きも獣じみた猛スピードだった。
「くっ!」
ルルネは剣を横薙ぎに振り、辛うじてネシウスの攻撃を逸らす。
しかし、その衝撃だけで手首に嫌な痺れが走った。
あの少年の魔力と身体能力の結合は、常人の域をはるかに超えている。
飛び退いたネシウスが、再び姿勢を低く構え、重心を前に移す。
狭い路地では逃げ道も限られている。
ルルネは即座に周囲を見回して、撤退のタイミングを探ろうとするが、ネシウスの鋭利な動きがそれを許さない。
「ネシウスさん! 話を聞いてください! 私たちはあなたと戦いたいわけじゃ……!」
ミアが必死に呼びかけるが、少年の虚ろな瞳は一切反応を見せない。
ただ、その一瞬の隙を見てルルネが身を翻し、ネシウスの懐から大きく距離を取った。
――どうする?
まともにやり合えば、ルルネたちもただでは済まない。
それに、リアが見ている前で彼を傷つけるわけにはいかない。
だが、ネシウスの攻撃はあまりに容赦がなさすぎる。
「わ、私……どうすれば……」
リアが震える手を胸の前で組みながら、困惑と絶望の入り混じった瞳で立ちすくむ。
彼女がずっと探していた大事な幼馴染ネシウス。
それが、こんな形で再会しようとは誰も思わなかっただろう。
「リアさん、下がって!」
「で、でも!」
ミアがリアの腕を引っ張り、巻き込まれないよう必死に守る。
ネシウスは一瞬、二人の動きを見たようにも思えたが、再びルルネに照準を合わせると、電光石火の勢いで突進してくる。
「ちょっと、本気でやばいわね……!」
ルルネは刃と刃の衝突を受け止め、ギリギリで剣圧に耐える。
水中での訓練を乗り越えてきた身体も、あまりの衝撃に悲鳴を上げていた。
力の差を痛感する。
ここまで差があるとは……。
「アアァァッ……!」
少年の喉から低く、獣じみた咆哮が漏れる。
操られているのか、自我を奪われているのか。
その強力な魔力に巻き込まれるように、ルルネの体勢が崩れ――。
その瞬間、路地の奥から閃光が迸った。
赤紫色の雷の魔力が、薄暗い街路を一瞬だけ照らす。
巨大な雷の槍――もとい、高密度の魔法弾がネシウスの足元を爆ぜ、衝撃波が彼を一瞬だけ吹き飛ばす。
「今よ! ルルネ!」
「……ニーナ!? アカネも……リアさん、急いで!」
路地の入口に立っていたのはニーナとアカネ。
さらにその後ろには銀狼種の少女・エリスの姿もある。
今さっき放たれたのはニーナの雷撃魔法だったようだ。
ネシウスは足元を撃ち抜かれた衝撃で体勢を乱し、荒い唸り声を漏らす。
ルルネたちはその隙に一斉に退却を始めた。
「お兄ちゃんっ! ……何があったの!?」
エリスが駆け寄ろうとするも、アカネに腕を掴まれ止められる。
目の前の兄の姿に彼女はショックで身体を震わせるが、ネシウスはまるで聞く耳を持たないどころか、まるで人形のように無表情に動こうとする。
「操られてるように見えるわね……厄介だわ」
「さっきの一撃で止まったのは一瞬。早く別の場所へ!」
ニーナが鋭く声を張り上げると、ルルネたちは一斉にうなずく。
再びネシウスに襲われる前に、人数で魔法弾を放ち、道路を破壊しながら逃げる時間を稼ぐしかない。
――ズンッ、という振動が背後から伝わり、ネシウスの再突進を感じる。
ルルネが剣を構え直し、ミアやニーナ、アカネが魔力弾を同時に生成。
リアとエリスは後ろで怯えながらも、エリスは「兄を傷つけたくない」と泣きそうな顔で視線を外せない。
「みんな、撃つ! ……せーのっ!」
束になった魔力弾が雨あられとネシウスに降りかかり、一面が閃光に包まれる。
路地の石畳が歪み、破片が飛び散り、濛々とした煙が立ち込める。
恐ろしいまでの衝撃に、一瞬ネシウスの姿が見えなくなる。
誰もが息を呑んだその隙に、七人は必死の思いで路地を駆け抜け、追手がこれ以上増えぬように裏道を縫って逃走した。
「はぁ……はぁ……何とか撒いた、かも……」
「どこか安全な場所に……衛兵たちが来る前に」
やっと広い通りに出た時には、全員が息を切らしていた。
エリスは壁に背をつけて座り込み、リアがその背中をさする。
お互いに動揺は隠せない。
ルルネとニーナは視線を合わせ、沈痛な面持ちになる。
「まさか、あれがリアさんの兄、ネシウス……亜神の力とやらを付与されている可能性が高いわね」
「うん。すでに自我を奪われてるのか、操られてるのか……どちらにせよ、早く手を打たないと危険すぎる」
ミアは聖女としての使命感に駆られたように、胸元で十字を切る。
「操られているネシウスさんを、なんとか助けないと……」
一方、エリスは涙を浮かべながら震える声で言う。
「どうして……お兄ちゃんが……あんな……! 私、私……どうにかして元に戻したい……!」
ルルネはエリスにそっと手を伸ばし、優しく頷く。
「大丈夫よ、エリス。私たちが力になる。絶対に、彼を取り戻そう」
アカネが大剣の柄を握りしめながら、低く宣言する。
「どのみち手がかりを探らなきゃ話にならない。王都で何か大きな陰謀が動いてるんだろう。ネシウスがその一端であるならば、見過ごすわけにはいかない」
ニーナも固く頷き、全員を見渡す。
「まずは安全な宿か、隠れ家を確保しよう。今日のところはここを離れて、作戦を練り直すべき」
こうしてルルネたちと、ニーナ・アカネ、そしてリアとエリスは、一時的に合流して行動を共にすることになった。
――指名手配と、亜神化した銀狼種の少年。
王都で起きている事件の真相に近づくためには、情報と味方が必要だ。
不安に満ちた夜の帳が下り始める中、一行は静かに裏道を抜けていく。
エリスが最後にもう一度だけ振り返る先には、既にネシウスの姿は見えない。
しかし、その先に待ち受ける結末が、果たして安寧なのか、それともさらなる混沌なのかは、今はまだ誰にも分からない。
そして、少年ネシウスが破壊した路地の残骸が、人々に新たな恐怖を刻んでいく。
街のどこかに潜む謎の勢力――それに操られる銀狼種。
だが、ルルネやニーナたちは諦めるつもりはなかった。
エリスの望みを叶えるため、そして己の無念を晴らすため。
混乱の王都で、新たな足音が響き渡る。
彼らの決意が導く答えが、どこにあるのか――その答えを求めて、物語はまた一歩、先へ進むのだった。