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第百三十六話「修行の終わり」

 地面に膝をついたまま、俺とアーシャはしばし呼吸を整えていた。

 長かった修行がようやく終わったのだという安堵と、バランの拳の衝撃をまだ体が覚えているせいで、全身が小刻みに震えている。

 湖底での地獄のような一週間、そして仕上げの地上戦――すべてを乗り越えたのだという実感がじわじわと込み上げてきた。


「アリゼさん……大丈夫ですか?」

「う、うん……何とか。そっちは?」

「私もフラフラですが……気持ちだけはすごく晴れやかです」


 アーシャが額の汗を拭いながら、柔らかい笑みを浮かべる。

 実際のところは相当にきついはずだが、それでも今は達成感のほうが勝っているようだった。


 そんな俺たちを見下ろして、バランが腕を組んで立っている。

 相変わらずの堂々たる姿だが、先ほどの激戦の名残か、ほんの少し呼吸が荒いようにも見えた。

 俺はそれを見逃さなかった。


「バラン……今の一撃、かなり本気に近かったですよね?」

「ははっ、さすがに手加減はしてたがな。だが、ちょっとばかり面白くてな……つい力んじまった」


 バランは胸を軽く叩き、ニヤリと笑う。

 どうやら俺たちとの戦いを純粋に楽しんでくれていたらしい。

 いつも強烈な特訓ばかり押し付けてくるイメージだったが、その根底には武芸者としての誇りがあるのだと、改めて感じさせられた。


「それにしても、お前たち、最初と比べりゃ段違いに動きが良くなってる。水中での経験を上手く応用してやがるじゃねえか」

「ありがとうございます。自分でも、全然違うのがわかります」

「すっごく大変でしたけど……修行の成果を実感できて嬉しいです」


 俺とアーシャは素直に礼を言い、改めて背筋を伸ばして立ち上がる。

 体の奥に溜まった疲労は相当だが、地上で普通に立っているだけでもありがたいという気持ちが勝っていた。


「さて、約束通り、褒美をやると言ったな。ついてこい」


 バランがそう言い残し、俺たちを湖のほとりから少し離れた場所へ案内する。

 草原を抜け、丘を一つ越えた先、巨大な岩壁の裏側にまわると、そこには小さな洞窟があった。

 入り口は雑草が生い茂っていて、よほど注意深く見ないと見落としそうなほど。


「こんなところに洞窟があるなんて……」

「昔は誰かが住んでたんですかね?」


 薄暗い洞窟に足を踏み入れると、やがて視界が開け、意外にも整然とした広めの空間が広がっていた。

 岩肌には無数の古い刻印があり、中央には台座のようなものが設置されている。

 そこには金属製の宝箱が一つ、厳重に鎖で封印されていた。


「こいつが俺んとこの先祖代々伝わる秘宝の一つさ。ま、正直言うと、たいそうなものでもねえんだが」


 バランは宝箱に近づき、無造作に鍵を取り出す。

 カチリと鎖が外れ、蓋が軋む音を立てて開いた。

 そこに収められていたのは、一本の短剣。

 それほど派手な装飾はなく、むしろ質素な作りに見える。


「短剣……ですか?」

「おう。名を《ファル=グラス》って言うんだが、実はこいつ、水を媒介に魔力を増幅する特性がある。お前たち、水中での魔法操作にかなり慣れただろ? だったらこいつも活かせるはずだ」


 バランは短剣をひょいとつまみ上げると、アーシャのほうへ向けて差し出した。

 彼女は目を丸くしながら恐る恐る受け取る。


「いいんですか、私がもらって……」

「構わねえよ。お前さんが水中でも剣を振り回してた姿、なかなか様になってたしな。こいつは刃が短い分、水の抵抗も少なく、地上水上どっちでも使いやすい。そっちのほうが得意なら大剣とも併用できるだろ」


 アーシャは口をぱくぱくさせ、信じられないという表情で短剣を見つめる。

 まるで子どもが宝物を手に入れた時のような純粋な喜びが滲んでいた。


「ありがとうございます……大切に使わせてもらいます!」


 一方、俺はバランに視線を向ける。

 彼は宝箱の奥から小さな革袋を取り出し、こちらへ放り投げてきた。

 慌てて受け取ると、中から出てきたのは数個の水晶石。


「それは《水精の核》の上位種――《深淵核》ってやつだ。さっきまでお前らが使ってた水精の核よりも高純度の魔力を秘めてる。戦闘中に使えば、ある程度の魔力回復と身体強化が可能だ。ただし、乱用は効かねえから気をつけろ」


 俺は思わず息を呑む。

 水中修行の最中に使っていた核だけでも相当便利だったが、その上位種ともなれば、冒険や実戦でどれほど役立つか想像しきれない。


「本当にいいんですか? これ、相当貴重そうに見えますけど……」

「余ってるわけじゃねえが、お前には必要だろう。この先、もっとデカい敵とやり合うことになるかもしれねえからな。修行の成果を無駄にしないためにも、有効に使ってやれ」


 バランの言葉には、父親が子に贈り物を渡すような温かさが込められていた。

 彼なりの不器用な優しさなのだろう。

 俺は素直に頭を下げる。


「ありがとうございます。大事に使います」


 アーシャも短剣を抱きしめるようにして微笑んでいる。

 その姿を見て、バランは満足そうにうなずき、腕を軽く振って洞窟の外へ戻るよう促した。


「よし、じゃあこれで特訓は完了だ。……お前たち、もう俺から教えることはあんまりねえ。あとは実践の中で勝手に伸びていくだろうさ」


 外へ出ると、夕日が沈みかけていて、空は赤紫に染まっていた。

 一週間もの間、湖底に潜っていたせいで、こうして見る夕暮れがやけに美しく感じる。


「それにしても、やっと……本当に終わったんですね、修行」

「ああ、やっとだ。水中生活なんて二度と御免だけど……得るものは大きかった」


 アーシャがしみじみと呟き、俺も同意しながらしばし夕日を見上げる。

 バランはそんな俺たちを見て、少し遠慮がちに言葉を続けた。


「……すまなかったな。キツいことばっかりやらせて。俺はお前らに嫌われても仕方ねえと思ってる。けど、それでもお前らが将来、悔いのないように強くなってほしかったんだ」


 まさか、あの豪胆なバランがそんなに素直に頭を下げるとは思わなかった。

 むしろ俺たちのほうが感謝しているくらいだ。


「嫌うなんてとんでもないですよ。むしろ、こんなに有意義な特訓を受けられたのはラッキーでした」

「私もです。バランさんのおかげで、戦い方だけじゃなくて、自分の限界を突破する術も身につけられた気がします。……本当に、ありがとうございました」


 アーシャと俺はそれぞれ言葉を選びながら、心からのお礼を伝える。

 すると、バランは気恥ずかしそうに頭を掻き、照れ隠しなのか大声で笑った。


「はははっ、そりゃあ良かった! お前たちならもう十分やっていけるさ。……さあ、これからどうするんだ? 次の目的地は決まってるんだろ?」


 俺たちは顔を見合わせる。

 バランの修行が終わった今こそ、旅の本来の目的を再開する時だ。

 まだ仲間とも合流できていないし、獣人の国で起きている不穏な動きも気になる。

 やるべきことは山ほどある。


「王都へ向かうつもりです。仲間が……ルルネやミアたちがそこにいるはずなので」

「そうですよね。情報によれば、指名手配を受けてるらしいんですが、放っておくわけにはいかないので」


 バランは「指名手配?」と首を傾げたが、詳しく話せば長くなる。

 とにかく、今は王都へ行って状況を把握するのが先決なのだ。


「よし、じゃあ俺はここでお前らとお別れだ。王都には俺も恨みがあるからよ……あんまり近づきたくねえんだ」


 そう言って、彼は少し申し訳なさそうに視線を外した。

 かつて貴族の家に生まれながらも、追放され、一族を失った過去があるのだろう。

 彼にとって王都は思い出したくもない土地に違いない。


「わかりました。またどこかで会えるといいですね」

「ええ、もしまた私たちが強くなったら……再戦をお願いしたいです」


 バランは拳を突き出し、俺たちもそれに拳を合わせる。

 ささやかだが、師弟の別れの挨拶としては十分すぎるほど温かい。


「じゃあな、お前たち。元気でな。……いや、生き抜けよ」


 その言葉だけを残し、バランは俺たちに背を向けて大股で去っていく。

 その背中は頼もしさに満ちていたが、どこか寂しげでもあった。


 夕暮れの光を浴びながら、俺たちは改めて深呼吸をする。

 湖底から始まった長く過酷な修行は、すべてここで完結した。

 まるで自分たちの体がひとまわり大きくなったような感覚すらある。


「さて、王都までの道は長いけど……アリゼさん、頑張りましょうね」

「ああ。バランに教わったことを無駄にしないためにも、負けるわけにはいかないな」


 これから先、何が待ち受けているかはわからない。

 だが、今ならどんな困難も乗り越えられるような気がした。

 地獄のような特訓を経て得た確かな自信。

 それが俺たちの背中を押してくれる。


 最後にもう一度、湖の方へと視線を向ける。

 水面は穏やかで、まるで鏡のように空を映していた。

 あそこに潜り、息苦しさや重圧と戦った日々はきっと忘れることのできない大切な経験になるだろう。


「よし、行こうか。新たな旅路のはじまりだ」


 アーシャと頷き合い、俺たちは夕日を背に受けながら王都へと足を進める。

 こうして水中修行を核としたバランの試練は終わりを迎え、俺たちは次なる地へと踏み出したのだった。

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