第百三十五話「実感」
地上に戻ると、眩しい太陽の光が肌を焦がすように照りつけてきた。
湖底で一週間近く過ごしていたせいで、まともな日光を浴びるのは久しぶりだ。
思わず目を細めながら深呼吸をすると、湿気の少ない大気が新鮮に感じられる。
「ふう……ようやく水中生活ともおさらばですね」
「本当にな。二度とやりたくない修行だった」
アーシャが晴れやかな笑みを浮かべている一方で、俺は心底ほっとしていた。
あの地獄のような水中戦闘訓練に比べれば、外の世界は天国のようだ。
しかし、このまま終わりではないのは分かっている。
バランが総仕上げと言った以上、何かしら次の試練が待ち構えているはずだ。
「よし、お前たち、そこに並べ」
案の定、バランが腕を組んで立っていた。
湖のほとりにある広い草原を見回し、彼はにやりと笑う。
「ここで最終試験をやる。もっとも、いきなりキツいことはしねえよ。まずは身体を慣らす意味で、軽いランニングからだ」
「ランニング、ですか?」
「おう。とりあえずあの丘まで往復してこい。まあ水中とは違って楽勝だろ?」
言われてみれば、久々の地上で走る感覚は新鮮だ。
水中で鍛えられた脚力がどう活きるのか、自分たちでも少し試してみたいという気持ちもあった。
俺とアーシャは顔を見合わせ、軽く頷く。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、すぐに戻りますね!」
そう言って走り出すと、想像以上に身体が軽かった。
水の抵抗がない分、地面を蹴るだけでぐんぐん速度が上がっていく。
たった一週間でこんなに感覚が変わるのかと、内心驚きを隠せない。
「すごい……こんなに走りやすいなんて」
「なあ、アーシャ……私たち、相当鍛えられてるんじゃないか?」
互いに呼吸は乱れているものの、水中戦の時と比べれば精神的にも余裕がある。
あっという間に丘の頂上へと到達し、そこで振り返ると、バランが小さく見えた。
彼はこちらを見上げ、手を振っているようだ。
「戻りましょう、アリゼさん」
「ああ」
二人並んで駆け降りると、ほどなくしてバランの元へ戻ってきた。
息は上がったが、それでもまだ動けそうな感じだ。
「ふん、上等だ。表情にもまだ余裕があるじゃねえか」
バランは満足そうに鼻を鳴らし、続けて俺たちに視線を送る。
「じゃあ次だ。いよいよ本命の地上戦を始める。これまで水中で培ったコツを地上でどう活かすか……それを試すぞ」
「本命の地上戦って、もしかして……」
「お前ら、俺ともう一度手合わせだ。今度は好きなだけ走り回ってもいい。水流やらなんやら気にせず、地上での最大パフォーマンスを見せてもらう」
予想通り、相手はバラン。
しかも今回は真正面からの一対一――いや、二対一だ。
かつては全く歯が立たなかったが、水中修行を経た今なら少しは勝機を見出せるかもしれない。
「それで……勝てたらどうなるんですか?」
「勝てたら? そうだな……そんときゃ一人前だと認めてやる。あと、俺からもささやかな褒美を用意している」
褒美という言葉に思わずアーシャの目が輝いた。
俺もバランがどんな褒美をくれるのかは気になる。
何しろ彼は貴族の家系だったと言っていた。
もしかすると、とんでもない宝物を隠し持っているのかもしれない。
「よし、やる気が出てきました」
「バラン、覚悟してくださいよ」
俺たちは同時に剣を構える。
バランは軽く体をほぐし、拳を鳴らしてからかかとを打ち合わせた。
「上等だ。じゃあ始めるぞ。ここが最後の仕上げだと思え」
そう言うや否や、バランは突風のように距離を詰めてくる。
反射的に身を引くが、その拳は空を切ることなく、俺の頬をかすめて強烈な衝撃波を生み出した。
地上だというのに、まるで水流を操ったかのような圧力だ。
「ッ……やっぱり化物かよ!」
後ろに跳んで体勢を立て直し、アーシャはすかさず横合いから斬りかかる。
地上の動きは水中とは桁違いに機敏。
彼女の剣筋はすでに湖底とは比べものにならないほど洗練されている。
だがバランは首を傾けるだけでそれをかわし、逆にカウンターの蹴りを繰り出してきた。
「まだまだ! もっと来い!」
一撃一撃が重く、それでいてスピードも圧倒的。
だが、俺たちが慣れたのはまさに圧倒的な力に対してどう対処するかだった。
どんな大技が来ても、冷静に動きを読み、僅かな隙を突く。
それが水中修行で学んだ戦いの流儀だ。
「アリゼさん、右へ!」
「わかってる!」
アーシャが巧みに後ろへ回り込み、バランの意識を引く。
その隙を俺が狙い、全力で魔力を纏った突きを繰り出す――
かと思いきや、フェイントでさらに左側を打つ。
バランが瞬時に反応し、拳を上げたところに、アーシャの斬撃が被さるように降ってくる。
「おおっ!」
一瞬、バランが仰け反った。
その巨体が微かに崩れる。
その短い瞬間こそ、ここでの最大の好機。
俺は迷わず全魔力を練り上げ、掌から衝撃波の魔法を放つ。
「くらえ――!」
渾身の一撃がバランの胸を直撃する。
地面が大きく揺れ、土煙が舞い上がった。
「やったか……?」
息を切らしながら土煙の中を凝視する。
すると、そこから聞こえてくるのは――笑い声だった。
「ははは! なかなかいい連携じゃねえか。だが……もう一歩だな!」
土煙が晴れた瞬間、バランの拳が俺の腹部をとらえた。
息が止まり、意識が飛びかける。
俺は必死に踏みとどまり、地面に膝をつきながらも倒れるまいと歯を食いしばる。
「アリゼさん!」
アーシャが駆け寄り、支える。
バランはそんな俺たちを見て、満足そうに頷いた。
「十分だ、これで合格ってとこだな。さっきの連携、あと一瞬でも遅れてりゃ俺もヤバかった」
やっと勝負が終わったのだと理解し、安堵の息が漏れる。
バランは己の胸を軽く叩き、俺とアーシャに向かって言った。
「ここまでよく頑張った。これでお前たちは一人前だ。……さあ、褒美をやるとしようか」
そう宣言するバランの笑みは、今までで一番穏やかなものだった。
湖底での地獄、そして地上での仕上げを乗り越えた俺たち。
もう限界を超えるほど疲れているが、心は達成感に満ちていた。
いったいどんな褒美が待っているのか。期待と疲労を抱えつつ、俺たちはひとまず一息つく。
こうして長かったバランの修行は、ようやく終わりを迎えようとしていた。