第百三十二話「深淵喰らい」
湖底に響く静寂が、一瞬で張り詰めたものへと変わる。
俺とアーシャの視界に、巨大な影がゆらりと現れた。
鋭いヒレ、分厚いウロコに覆われた体。
目だけがぎらついた黄色に光っている。
水の中に潜む捕食者――《深淵喰らい》だ。
「……ヤバそうですね」
「完全にボス級の魔物だな」
水流に乗りながら、ゆっくりとこちらに向かってくるその姿に、思わず息を呑む。
湖の底にこれほどの魔物が潜んでいたとは。
バランの修行がただの試練で終わるはずがないとは思っていたが、これは明らかに想定外の強敵だ。
「さすがに、これはバランの仕込みじゃないですよね?」
「どうだろうな……バランならあり得るのが怖い」
俺たちは、すぐに戦闘態勢を取る。
とはいえ、これは水中戦。
地上とはまるで勝手が違う。
魔力の流れが鈍る感覚があるし、動きも制限される。
加えて、水の抵抗があるせいで攻撃を仕掛けるタイミングも慎重に考えなければならない。
その間にも、《深淵喰らい》はじわじわと距離を詰めてきていた。
奴の口がわずかに開き、ギラリと鋭い牙が覗く。
その瞬間――
「くるぞ!」
俺が叫んだと同時に、魔物の大口が一気に開き、強烈な水流を生み出した。
まるで湖全体が吸い込まれるかのような力。
その勢いに俺たちの体もグイッと引き寄せられる。
「くっ……!」
アーシャが必死に抵抗し、俺も水流に流されまいと魔力を込めて体を制御する。
しかし、相手は完全に水中の王者。
このままでは奴の思うつぼだ。
そこで、俺はとっさに魔法を使う決断をした。
水中での魔法はまだ不慣れだが、やらなければやられる。
「――うぉおおおおお!」
俺の周囲の水が収束し、鋭い槍の形を成して魔物へと放たれる。
魔法による水圧で加速したそれは、《深淵喰らい》の目の近くをかすめるようにして突き刺さった。
ドンッ!
水中に鈍い衝撃が広がり、魔物が一瞬怯んだ。
「今だ、アーシャ!」
「はいっ!」
彼女は素早く動き、流れるように魔力を剣に宿らせる。
水の抵抗を計算し、無駄な動きを省いた洗練された一撃を放つ。
「はぁっ!」
彼女の剣から放たれた水の刃が、魔物の胸元を切り裂いた。
しかし――
「硬い……!」
確かに傷はついたが、それだけだった。
奴の分厚いウロコが、斬撃の威力を大幅に削いでしまったのだ。
「まるで鋼鉄の鎧みたいですね……」
「ああ……普通に斬るだけじゃダメか」
戦いながらも分析を続ける。
攻撃は通じるが決定打にならない。
となると、狙うべきは――
「アーシャ、次は目を狙うぞ!」
「了解です!」
魔物が再び水流を生み出す前に、一気に畳みかけるしかない。
俺は魔力を込めた水竜の槍を再び生成し、アーシャは剣にさらなる魔力を込める。
そして、魔物が動いた瞬間――
「今だ!」
俺の槍が魔物の左目へ一直線に飛び――
ズシャッ!!
直撃した!
その衝撃に魔物は大きくのけぞり、水中に泡が舞い散る。
アーシャがその隙を逃さず、魔力を極限まで高めた剣を振りかざす。
「――これで終わりです!」
水流をまとった斬撃が、魔物の傷口に叩き込まれる。
刃が深く沈み込み――
――ドゴォッッッ!!
爆発的な衝撃が湖底を駆け抜け、魔物の巨体がのたうち回る。
そのまましばらく暴れた後――ついに動かなくなった。
「……勝った?」
「はい……倒しました」
俺たちはお互いを見つめ、一瞬の静寂の中で勝利を実感した。
水中での戦いに慣れてきたとはいえ、これほどの相手に勝てたのは、正直言って奇跡に近い。
「ふぅ……さすがに疲れましたね」
「まったくだ」
俺たちはしばし湖底に佇み、戦いの余韻に浸っていた。
――だが、その時だった。
湖の上から、何かが沈んでくる気配を感じた。
ゆっくりと湖面から降りてくる巨大な影。
そして、その正体が明らかになった瞬間――俺たちは驚愕した。
「……バラン?」
なんと、バラン本人が湖の底まで降りてきたのだ。
彼はニヤリと笑いながら、腕を組んで俺たちを見下ろした。
「へぇ、あの魔物を倒すとはな……少しは成長したようじゃねぇか」
「……あんた、まさかこれも計画のうちだったのか?」
俺が問いかけると、バランは豪快に笑った。
「ははは! まあな! だが、ここからが本当の修行だぞ!」
「まだあるのかよ……」
俺とアーシャは心底呆れた。
だが、この修行が確実に自分たちを成長させているのもまた事実だった。
水中修行は、まだ終わらない。
ここから試練の本番が始まるのだった。