第百三十一話「湖での修行」
「よし、お前たち、今日から地獄の特訓だ!」
バランの大声が、山々にこだました。
俺とアーシャは顔を見合わせ、同時にため息をついた。
「地獄って……もう十分キツいんだが?」
「そうですよ! 昨日だって、あんな重たい岩を持って川を渡らせたじゃないですか!」
アーシャが頬を膨らませて抗議するが、バランは気にする様子もなく豪快に笑った。
「ははは! 昨日のは準備運動みたいなもんだ! さあ、今日からが本番だぞ!」
バランが立っているのは、切り立った崖の上だった。
彼の足元には、信じられないほど急斜面の山道が続いている。
「ええと、今日は一体何をやらされるんだ?」
俺が警戒しながら尋ねると、バランは指を突き立ててにやりと笑った。
「今日はな――水中生活だ!」
「……は?」
二人は思わず同時に声を上げた。
「お前たちには、これから一週間、この湖の底で生活してもらう!」
バランが指さした先には、澄んだ青色の湖が広がっていた。
湖面は穏やかで、まるで鏡のように周囲の山々を映し出している。
「ちょっと待ってください! どう考えても無理ですよね!?」
「そうですよ! 人間は水中で生きられません!」
当然の抗議だったが、バランは大きく首を横に振った。
「甘いな! それを可能にするのが修行というものだ!」
そして彼は、腰の袋から二つの透明な玉を取り出し、二人に投げ渡した。
「それは《水精の珠》という魔道具だ。これを口に含めば、水の中でも呼吸ができる!」
俺は手に取った玉をまじまじと見つめた。
ほんのりと青く光る小さな玉で、確かに魔力が込められているのが感じられる。
「なるほど……これを使えば水中生活も可能ってことですね?」
「そういうことだ!」
バランは豪快に笑い、腕を組んで立った。
「さて、ルールを説明するぞ! 一週間、お前たちは湖の底で過ごしてもらう! 湖には食べられる魚や貝がいるから、それを自分たちで捕まえて食え!」
「えっ、食材も自分で確保ですか……?」
「当たり前だ! 修行ってのはそういうもんだろう!」
アーシャは青ざめながら湖を見た。
確かに美しい湖ではあるが、そこに一週間も閉じ込められるとなると話は別だ。
「……もし途中で出たくなったら?」
「お前たちが成長しないまま終わるだけだ!」
にやりと笑うバランに、俺とアーシャは再び顔を見合わせた。
もはや逃げられない。
「はぁ……やるしかないか」
「仕方ないですね……」
二人は意を決し、湖へと歩みを進めた。
――こうして、俺たちの過酷な水中修行が始まったのだった。
***
湖の中は、想像以上に暗く、静かだった。
俺たちは水精の珠を口に含み、恐る恐る湖底へと降りていく。
水中で呼吸ができるとはいえ、慣れない環境に戸惑いが隠せない。
「うわ……なんだか不思議な感じですね」
「ほんとだ……水の中なのに息ができるって、変な感覚だな……」
湖の底には、大きな岩がいくつも転がり、水草が生い茂っていた。
小さな魚が周囲を泳ぎ回り、まるで異世界に迷い込んだような気分になる。
「さて、まずは住処を確保しないと……」
バランは「湖の底で暮らせ」とは言ったが、具体的な指示はなかった。
つまり、寝る場所も自分たちで探さなければならない。
俺たちは水中を進み、比較的大きな岩の陰を見つけた。
そこには、ちょうどよい窪みがあり、何とか体を休められそうだった。
「とりあえず、ここを拠点にしましょう」
俺がそう提案し、二人は岩陰に身を寄せた。
「それにしても……お腹空きましたね」
「うん……食料探さないと」
二人は周囲を探索し、湖の魚を捕まえようと試みる。
しかし、水の中では思うように動けず、魚に簡単に逃げられてしまう。
「くそっ、なかなか捕まえられない……!」
「魔法は使えないんですか?」
アーシャの問いに、俺は少し考えた。
水中で魔法を使ったことはないが、試してみる価値はある。
「……やってみる!」
俺は魔力を込め、指先に小さな光の弾を作り出した。
そのまま魚に向かって放つと――
シュンッ!
魚が一瞬動きを止め、その隙に手で捕まえることができた。
「やった!」
俺は思わずガッツポーズを取る。
アーシャも歓声を上げた。
「すごいです! その手がありましたね!」
こうして、二人はなんとか食料を確保する術を見つけたのだった。
***
湖の底での生活は、想像以上に過酷だった。
寝るときには、流れに流されないように石を積み、体を固定しなければならなかった。
魔力の制御も難しく、水中ではうまく力を発揮できないことが多かった。
しかし、時間が経つにつれ、俺たちは少しずつ環境に適応していった。
水の抵抗を計算した動き方や、効率のいい魚の捕獲方法を学び、魔法の精度も上がっていく。
そして――
「……なんか、前より動きやすくなった気がする」
「はい。水の中での身体の使い方、少し掴めてきたかもしれません!」
俺たちは気づかぬうちに成長していた。
湖の生活が五日目を迎えた頃。
突如、湖の奥底から、不気味な影が近づいてきた。
鋭いヒレを持つ巨大な魚――いや、魔物だった。
「……来たか」
俺たちは同時に構える。
バランの修行が、簡単に終わるはずがない。
湖底の戦いが、今始まる――。