オカルトマニアのぼくっ娘と陰キャオタクな先輩のラブコメホラー(仮)
絶対に逃げられない最恐の異世界”きさらぎ駅”の謎を解いて脱出します!
○登場人物
ぼく:カメラと共にオカルトを追いかける変わり者の女の子。家族や友人からは”あーちゃん”と呼ばれている。
先輩:学園随一の秀才にしてオタクの陰キャ男子。学食の食券と引き換えに”ぼく”の謎解き活動に協力する。極度の懐疑主義者で「信じられるものなど何もない」ことを唯一の信念としている。
葉純:かつて「きさらぎ駅」に迷い込み行方不明となった女性。
「あーちゃん、ファインダーをのぞいてごらん」
小さな頃、ぼくはお父さんのことが大好きだった。
たまに家に帰ってくるとくっついて離れなかった。
お父さんは写真家だった。
世界中を旅しては、綺麗な写真やたくさんのお土産と一緒に帰ってきた。
だけどどんなお土産よりもぼくにとっては、お父さんと会えることが嬉しかった。
「レンズの向こうに、何が視える?」
「きれーなけしき?」
ぼくはお父さんの膝の上で、カメラの使い方を教えてもらっていた。
お父さんは言った。
「どうして景色が綺麗に視えると思う?」
「レンズのせいのうがいいから!」
「身もふたもないなぁ」
子どもらしい率直な答えに、お父さんは苦笑した。
そして諭すように語り始める。
「あーちゃん、カメラは現実の世界から一部を切り取っているに過ぎないんだ。いくらレンズの性能が良くたって、カメラの向こうの世界が現実よりも美しいことなんてないんだ」
「そーなの? でも、お父さんの写真のこと、わたしはきれーだと思うよ!」
「ありがとう……最高の褒め言葉だ」
お父さんは震える声でそう言った。
そしてぼくを背中からぎゅっと抱きしめる。
「だけどね、僕には世界が美しいなんて思えない……思えないんだよ。あーちゃんがカメラの向こうの世界を美しいと思えるのはきっと、あーちゃんの心が美しいからなんだ」
そう呟くお父さんの声は、どこか悲しそうだった。
自分自身に何かを言い聞かせているようにも思えた。
だけどその時のぼくには、どうしてお父さんがそんなことを言ったのかわからなかった。
お父さんが”不可解な死”を遂げてからもずっと、高校生になった今でも……。
探し続けているんだ、あの言葉の意味を。
解けない謎の答えを。
FOLKLORE:きさらぎ駅
「――以上が調査結果だ。あんたが怪奇現象と捉えていたものの大半は、実際にはストーカーの仕業だったという結論になる。ストーカーが直接関わった出来事以外も、神経過敏になったあんたが偶然起こった無関係の事象を結びつけていた、そう推測できる」
先輩が淡々と依頼人にそう告げた。
依頼人の女性はうつむきながらこたえる。
「ある意味では、安心したかもしれません。もちろん、ストーカーが家まで上がり込んで家具まで動かしてたのは本当に怖いことですけど……」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花、だ」
先輩はあくまで冷静だけど、どこか励ますような口調で女性に語りかける。
「実体のないモノに対して人は恐怖するが、実体のあるモノにならば現実的な対処が可能だ。あとはこの調査結果を持って、警察に相談しに行くといい。心配なら、解決するまで友人や親戚の家に泊まるのも手だろう」
「はい、そうします。遅くまでありがとうございました」
「最後に、調査に俺たちが関わったことは警察には秘密にしておいてくれ。面倒なことになるかもしれないからな」
ぼくは首から下げたカメラをちょいと持ち上げて補足する。
今日は本格的な調査ということで、お父さんの立派なアナログカメラを持ち出してきていたのが役に立った。
「お家の中にストーカーが侵入していた形跡はこのぼくがバッチリとカメラに収めましたからね! 現像しだい郵送するので、証拠として使って下さい!」
こうして今回の事件は解決した。
もう夜が更けていて、23時を越えていた。
ぼくらは早足で依頼人のアパートをあとにして、駅から帰りの電車に乗り込んだ。
23時40分、なんとか終電は回避したし、日をまたぐまでには最寄り駅に着くだろう。
長時間の調査だった。疲労感から、二人並んで座席にへたりこんだ。
「今日は大活躍でしたね、先輩」
「今日も、だろ。オカルトは専門外だが、結局は人の仕業だった。推理はそう難しくない」
先輩はそっけなくそう返事をした。
謙遜しているのかしていないのかよくわからないけど、今回の”謎解き”は本当に先輩の独壇場だった。
最初はポルターガイストの調査という前情報だったのに、依頼人の部屋にあがりこんだとたんに出るわ出るわ、依頼人以外の誰かが侵入した痕跡が。
そこからは普通の高校生がどこで学んだんだよとツッコミを入れたくなるような華麗なプロファイリング技術によって、犯人の個人情報の特定にまで至ってしまった。
犯人がほぼ確定したとはいえ、ぼくにも先輩にも逮捕権はない。あとは警察の範疇だ。
とはいえ怪奇現象がストーカーの仕業であると見抜いて、犯人まで暴いた先輩のお手柄であることは間違いなかった。
「いいんですか、調査したのが先輩だって秘密にするなんて」
「いい。こんなどうでもいいことで目立ちたいとは思わないし、むしろ面倒だ」
「お金とってもいいくらいの働きだったのに」
「カネのためにやってるワケじゃあない」
先輩はそう断言した。
普段、”謎解き活動”によって先輩が要求する報酬は学食の食券だ。
食券から現金に払い戻しはできなくはないけれど、先輩がそうしているのを見たことはない。だからお金目的じゃないというのは納得できるけど。
気になる。だったら先輩は、何のために謎を解いているのだろう?
「先輩は、何のために――」
「それに報酬ならもらったからな」
ぼくがその疑問をぶつけようとした瞬間、先輩はポケットから何かを取り出した。
銀色の指輪だ。何か見慣れない紋様が彫り込まれている。
「それは?」
「怪奇現象対策のために、依頼人が高額で買ったモノらしい。なんでも高名な”祓い屋”が呪術的紋様を彫り込んだ逸品だとか」
「へぇー、すごいですね!」
ぼくは身を乗り出して先輩の手の上の指輪を見た。
たぶん銀製だろう。確かに銀は魔除けに使われるって聞いたことがある。
それにこの紋様も人の手で精巧に彫り込まれているようで、興味深い。
「ストーカーの仕業だったとわかって魔除けは不要になったから、報酬代わりにってことで俺に渡されたんだが……正直、いらねぇな」
「えー、せっかく良さそうなモノなのに!」
「知っているだろ、俺はこういうオカルトは信じない。それにコイツは依頼人のサイズにあわせて作られている。男の俺の手には少し小さい。仮にサイズが適合していても、身に着けるつもりはないが」
「えー! えー! もったいないです!」
ぼくが唇をとがらせてぶーぶー文句を言っていると、困り果てた先輩が言った。
「じゃあお前にやる」
「いいんですか!?」
思わず目を輝かせるぼく。
「そんなに欲しかったのか……ならなおさら、お前が持ってるべきだな。ほら、お前ってわりと危なっかしいし。怪異に巻き込まれやすいし。効果の程はわからないが、気休めくらいにはなるかもな」
「やたっ♡ じゃあせんぱい、さっそく――」
ぼくは先輩に右手を差し出して言った。
「着けて下さい♡」
「え……」
先輩は小声を漏らし、一瞬停止する。
少しの沈黙が流れる。ガタン、ゴトン。電車が揺れる音。
あ――っ! その沈黙でぼくも気づいた。
箱がなくて裸の指輪しかないから、直接装着しなきゃ! なんて軽い気持ちで先輩に「着けて下さい♡」って言っちゃったケド……コレって。
コレって、完全に恋人同士ですることじゃん!
どうしよう、撤回しなきゃ、ごまかさなきゃ! そう思っていたのも束の間。
先輩は意を決したかのように、ごくりとつばを飲み込んだ。
あ、喉仏。ゴツゴツしていて、でっぱっていて、少し汗ばんでいて。
「やっぱり陰キャでオタクで非モテな先輩もちゃんと男の人なんだ」なんて、わけのわからない思考が今になって浮かんでしまう。
「わかった」
先輩はぼくの手をとり、ゆっくりと指輪をあてがう。
最初は中指にしようとしたけど、若干サイズが合っていないようで、最終的には薬指に狙いを定めた。
く、くすりゆびかぁ……。否応なくドキドキと心臓が高鳴ってしまう。
たぶん、顔もひどいことになってるんだと思う。今、耳まで真っ赤になっているだろう。恥ずかしい。
先輩は? 見ると、先輩も唇を強く結んでどこか照れているように見えた。
いつも冷静な先輩が……動揺してる! ぼくと一緒の気持ちなのカモ? なんて思うと少し嬉しくて、気分が楽になった。
「ほら、ぴったりはまったぞ」
永く、とても長く感じられた触れ合いが終わる。
先輩が手を離し、ぼくの右手薬指には銀色のリングが収まっていた。
これが、魔除けの指輪……先輩がぼくにくれた……。
ぼくは左手でそっと右手を撫でる。いつもと違う、硬い感触が確かにある。
なんでだろう。少しだけ大人になれた気がした。
それからは、なんだか気恥ずかしくなって二人とも一言も発さなかった。
調査の疲れもあったのだろう。先輩は座ったまま眠ってしまった。
ぼくは先輩の無防備な寝顔をなんとなく見つめながら、電車に揺られていた。
その時だった。
「……?」
チカチカと車内の電灯が点滅し始めた。
単なる車内設備の不具合というか、消耗品の劣化だろうなと思って最初は気にもとめなかった。
だけど――それから5分経っても状況は変わらない。
いや、それだけならべつにおかしいことはない。本当に蛍光灯や電球が劣化したならば、交換しない限りはこういう風に点滅し続けるだろう。
だけど問題は、「いっこうに次の駅に着かないこと」だ。
「何……どうして……?」
そもそも、この路線は駅と駅の間が5分くらいのはず。
もしかしたら快速とか特急に乗っちゃったのかなと思ったけど、だとしても発車してからもう15分ほど経過しているはずなのに、一度も停車していないのはおかしい。この路線でそんなに駅と駅の間が遠いなんてありえない。
何かトラブルが起こっているのかもしれないけど、車掌さんが現れないし運転士の車内アナウンスもない。
ぼくは眠っている先輩に話しかける。
「ね、ねぇ先輩。なんかおかしくないですか……?」
だけど先輩は沈黙したままだった。
目を閉じて、ゆっくりと寝息を立てている。
「先輩? ねぇ、先輩!?」
身体をゆすってみても反応がない。
おかしい、何かがおかしい。ぼくは立ち上がって、同じ車両に乗っている別の乗客を探した。
幸い、すぐ近くにサラリーマン風のスーツの男性が座っている。
「あ、あの、すみません」
「……」
声をかけても反応はない。眠っているみたいだった。
念の為肩に触れてゆすってみるけど、やっぱり先輩と同じだった。
座ったまま、深い眠りに陥っている。
「っ……! だ、誰か……っ!」
点滅する電灯。眠ってしまった乗客。
おかしなことが起きてるのは間違いない。
「お、落ち着けぼく……。冷静になろう。電車はちゃんと走ってる。走ってるってことは、運転士がいて、ちゃんと起きてるはず……」
そうだ。先輩ならこう考えるだろう。
まずは前の車両に移動して、運転席まで行こう。運転士さんにこの状況を伝えよう。
ぼくは意を決して、カバンを持って車両の一番前の扉を開ける。
一つ前の車両に移動した。そこも状況は同じだった。
電灯は点滅し、乗客はみんな座ったまま目を閉じ、眠っているようだった。
一応誰かはぼくと同じように起きているかもしれないので、一人ひとりに声をかけながら前に進むけど、無駄だった。
起きない、誰も。深い眠りに落ちていた。
「いったい、何が起こって――っ!?」
その時だった――バン!
後ろから突然大きな音がしてぼくは反射的に跳び退いた。
音、どこから? たぶん窓だ。窓に何か当たったのだろうか?
でも車内では誰も動いていない。動くものがあるとしたら、外から――。
バン! バン! バン! バン!
音は背後から、どんどん近づいてくる。ぼくが振り返ると、そこには……。
「てっ、手っ――!?」
バン! バン! バン! バン!
走行中の電車の外から窓を叩く手が見えた。
それも一つや二つじゃない。無数の手が窓を叩きながら、こっちへ……。
「来る……ぼくの方に!!!」
バン! バン! バン! バン! バン!
窓を叩く無数の手は、大きな音を鳴らしながらこっちへと徐々に迫ってきていた。
手が叩いた後には、赤黒く手形が残っている。まるで、血痕みたいに窓にへばりついて――!
バン! バン! バン! バン! バン!
迫ってくる。
どんどん近づいてくる……!
バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン!
「ぅぁぁああ!!!!!」
走った。手形から逃げる形で前方車両に向かって全力で走った。
扉を開けて、前の車両へ。どんどん移動を繰り返す。
途中見かけた乗客はやっぱり眠っているみたいだったけど、”手”が追いかけているのはぼくだけみたいだ。他の乗客には目もくれず素通りで被害はないようだった。
「はぁ、はぁ、はあ、はあっ……!」
必死で走って、走って。ついに一番前の車両に飛び込んだ。
そこは……真っ赤だった。
誰も人が乗っていなくて、車内が全部血に染まっているみたいに内部が赤黒かった。
座席も、床も、天井も、つり革まで、全部……。
窓まで赤く染まっていて、外が全く見えない。
だけどなぜだか、この車両についたとたんに窓を叩く音は聞こえなくなった。
それどころか、電車が揺れるガタゴトという音すら聞こえない。
この車両の中は、完全な無音だった。
「どう……なってるの……?」
とにかく、運転席は近い。ぼくは早足で一番前まで言って、運転席の窓を覗き込んだ。
中が見えるはずのこの窓も赤く染まっていて、先までは見えない。
扉は――開かない。どんどんと扉を叩いて、ぼくは叫んだ。
「運転士さん、聞こえてますか! 電車の中が、大変なことになってるんです! みんな眠っちゃって! 変な怪物まで現れて! それにこの電車、全然停まってませんよね! お願いですからどこかに停めて、みんなを降ろしてください!」
だけど応答は全く無い。
どうしよう。後ろの車両に戻って、やっぱり先輩をなんとか起こしてみようか?
そう思って振り返ったその時だった。
「え……? あ……?」
ずる、ずる……。何かを引きずる音。
この最前車両の入り口から、床を這って”何か”がぼくに迫っていた。
それは、女性のようだった。”だった”というのはつまり、既にもう人間じゃない”何か”になっているからだ。
その”何か”には上半身しかなかった。腹から下がちぎれていて、飛び出た内臓が床に引きずられて赤黒い跡を残していた。
脚がない代わりに、”何か”には”手”が複数あった。2つじゃない。肩甲骨から二本の腕、背中と脇腹からさらに4本の腕……そいつは、上半身に腕が8本も生えた”多腕の怪物”だった。
”多腕の怪物”は手のひらを床に「バン! バン!」と叩きつけ、血のような赤黒い液体で張り付けて、身体をズルズルと前進させてくる。
ゆっくりと、ゆっくりと近づいてきていた。
「ぃ……ゃ……」
ダメだ。ダメだダメだ。
怖い。
ジリジリとにじり寄る”怪物”。ぼくは後退して逃げようとするけど、限界はある。
運転席の扉に背中がぶつかって、それ以上は下がれなかった。
「う、うそでしょ……ヤダ、こんなの……」
バン! バン! バン! バン!
八つもある手のひらを大きく広げて床に叩きつける。
音を立ててゆっくりと近づいてくる怪物からもう、逃れる術はなかった。
ダメだ――殺される!
その時だった。
プシューと音をたてて突然、電車の自動ドアが開いた!
外は――視線を向けると、景色は動いていない。電車の走行音や揺れの音がこの車両では聞こえなかったから気づかなかっただけで、いつのまにか停車していたらしい。
この機を逃すわけにはいかない!
「うっ、わああああああぁ!!」
ぼくは開いた自動ドアに思いっきり飛び込んで、駅のホームに転がり出た。
すぐに立ち上がって電車の中を確認する。
上半身だけのバケモノは……追ってくる様子はない。けどいつまた襲ってくるかわからない。
とにかく逃げないと! ぼくはホームを走って、外から先輩が寝ているはずの後ろの方の車両に向かって走った。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……! せんぱいっ、先輩は……!」
薄暗いホームだった。
電灯は電車の中と同じでチカチカと常に点滅している。
当然、今は真夜中だから視界は悪い。
だけど電車の中でまた移動するのは嫌だった。
”アイツ”に襲われる気しかしなかったからだ。
そうしているうちに、なんとか元いた車両まで戻ってきた。
幸い、自動ドアは開きっぱなしだ。
とにかく先輩と合流しよう――そう思って車両へ乗り込もうとしたその瞬間。
プシュー。
無慈悲にも自動ドアが閉まった。
「なっ……」
呆然としているうちに、何のアナウンスもなく電車はなめらかに発進する。
「うそっ、うそうそやめてよ! 待って!」
必死で走って追いかけたけど、もちろん無駄だった。
電車はさっさと走り去ってしまい、薄暗い駅のホームにぼくだけが取り残された。
「そんな、うそでしょ、なんで……」
ぼくは膝に手をついて息を何度も吐いた。
わけがわからなかった。
状況だけが押し寄せてきて、整理できないまま頭の中をぐるぐるしていた。
電車の中の電灯が全て点滅し始めた。
乗客が自分以外全員眠ってしまった。
窓を叩く無数の手がぼくを追いかけてきた。
真っ赤な最前車両の中で上半身だけの多腕の怪物に襲われた。
そして電車は去ってしまった。ぼくだけを残して。
何一つ理解できない状況だった。
唯一わかるのは――。
ぼくが顔をあげると、電車が発車したことで反対側のホームが見えた。
人の気配がない薄暗い駅だけど、大きな駅名標だけはハッキリと読めた。
そこに書かれていたのは、
「――きさらぎ駅」
オカルトマニアのぼくにとって、見覚えのある文字列だった。
☆ ☆ ☆
きさらぎ駅。
2000年代にインターネットで広まった都市伝説だ。
”はすみ”という女性が23時40分発の遠州鉄道に乗って帰宅していたところ、電車が20分以上も停車せず周囲の乗客が全員寝ているという異常事態に遭遇した。
匿名掲示板で相談しているうちに電車は停まり、彼女は存在しないはずの”きさらぎ駅”にたどり着いてしまう……。
最後には”はすみ”さんからの掲示板への書き込みは途絶え、行方不明になってしまった。
そんな話だ。最も有名なネット怪談の一つで、ドラマや映画の題材にもなってるけど……。
「まるっきり同じじゃん……」
ぼくは無人駅のホームでポツリと呟いた。
23時40分という乗車時刻も状況もまるで一致している。
同じじゃないのは、ぼくと先輩が乗っていたのが”はすみ”さんの乗っていた遠州鉄道とは違うという点だけだ。
路線は関係なくて、時間が問題だったのだろうか? そもそも”きさらぎ駅”は現実には存在しない異世界の駅だ。場所は確かに関係ないのかもしれない。
今は考えてもわからない、けど。
「なんにせよ、ここから出なきゃ」
ぼくはスマホを取り出した。
時間表示は、深夜零時を少し過ぎた所だった。
だとすると、ちょうど零時頃にこの駅に到着したのだろうか。
日をまたいだ瞬間――これも何か、関係があるのだろうか。
場所は、どうだろう。GPSをONにし、地図アプリを起動した。
「ううっ、完全にバグっちゃってる……」
現在地表示をしてみると、都内どころか海外の都市や海中、山中など、リロードするたびに様々な場所にGPUの座標が移動してしまう状態になっていた。
少なくとも、なんど操作しても都内の座標は表示されないし、たまに日本の座標になったとしても九州とか東北とか、無関係そうな場所になってしまう。
地図アプリでは現在地は特定できなさそうだった。
「先輩もお母さんも……電話、出てくれない……」
先輩はどうなったのだろう。電話をかけても応答がない。
あの電車の中でまだ、眠っているのだろうか。
お母さんは今ごろ夜勤だから、電話に気づかなくても不思議じゃないだろうけど。
「警察は……」
警察に電話しようとして、やめた。
「きさらぎ駅に来ちゃいました、助けて下さい」なんて警察に訴えてどうなる。
実在しない駅までパトカーで迎えに来てもらうのか?
無理だ、信じてもらえない。
仮に警察がぼくの話を信じてくれたとしても、そもそも場所がわからないんだから助けてもらいようがない。
とにかく状況を確認しよう。
ぼくは周囲を見回した。ここはシンプルな無人駅だ。
駅のまわりをパッと見ても、暗がりの中だからはっきりとは見えないけど草原と山くらいしかない。
駅前って感じの建物が並んでいる景色は期待できそうになかった。
「駅から……出てみようかな」
怖いけど、線路沿いに歩いていけばどこかにたどり着くかもしれない。
けどそもそも存在しない駅なんだから、線路が別の駅に繋がっているのかどうかすらわからない。
どうしよう? 迷いながらも、ぼくは改札へ向かった。
改札の横の駅員室には、誰もいなかった。
そもそも自動改札も閉じておらず、ICカードをタッチしても無反応だ。
謎の罪悪感を覚えながら、ぼくは改札を素通りさせてもらった。
駅を出ると、やっぱり綺麗に舗装された道なんてなかった。
バスやタクシーのロータリーも何もない。だけど1つだけ光るもの――自動販売機を見つけてぼくは駆け寄った。
「はぁ、はぁ、やった。喉カラカラだよもう」
ジジジ、とやっぱり点滅しているけど自販機は自販機だ。
どうにもラインナップが古い気がするけど、普通にジュースが売っていた。
見慣れた文明の利器を目にして、どこかホッとする自分がいた。
ぼくはカバンから財布をとりだし、硬貨を投入してボタンを押してみる。
ガコン、と音がして普通に缶ジュースを取り出せた。
「やった!」
ジュースを飲もうとして手をかけるとその時、
「やめておきなさい」
誰かの声がぼくを制止した。
「ひっ」とビビりながらぼくは声がした方を見る。
自動販売機の隣のベンチに、おじいさんが座っていた。
髪は少ないけど白い髭は伸びていて、服は少しボロボロだった。
一見、路上生活者にも思えるような風貌だ。
なによりも特徴的なのは、彼のズボンの片方が途中で結ばれていることだ。
つまり、片脚がないのだろう。そのためか、ベンチには杖も立てかけられていた。
いや――杖は歩行障害者用というより、視覚障害者が地面を叩いて歩くための”白杖”にも見える。これは、どっちの用途に使うのだろう?
わからないけど、どうにも不思議な雰囲気をまとった老人に違いなかった。
「あ、あの……あなたは?」
「……」
おじいさんは答えなかった。
ぼくはさらに質問する。
「やめておきなさいって、ジュースを飲まないほうがいいってコトですか?」
「そうじゃ」
「どうして?」
「外から来た者がここで飲み食いすべきではない」
「あの、差し支えなければ理由を教えてもらっても?」
「ヨモツヘグイ――と言えばわかるか?」
「え……? あ、いやわからないです」
聞いたことがあるけど、意味は知らない言葉だ。
おじいさんは教えてくれそうになかったので、ぼくはスマホを取り出して検索してみた。幸い、ネットは繋がっているみたいだった。
ヨモツヘグイ――日本神話から来た言葉らしい。
その意味は、異界や死後の世界に迷い込んだ生者が、その世界のモノを口にすると、元の世界に帰れなくなるということだった。
ゾッとした。おじいさんが止めてくれなかったらぼくはこのジュースを飲んでいただろう。そうしたら、帰る手段を見つけても脱出できなかったということ……なのかもしれない。
そもそもおじいさんが何者か、本当のことを言っているのかもわからないけど。
なんとなく納得したというか、目の前の老人が敵対的な存在とは思えなかった。
ぼくはベンチに――おじいさんの隣に座った。
「あ、あの……おじいさんはこのあたりの人なんですか?」
「左様」
「『左様』なんて言う人、磯野家のお父さん以外で初めてみました、へへ……」
あんまり言葉がうまく出てこなくて、先輩みたいなアニメネタのつまらないジョークをつい口にしてしまう。
うっ、いきなり話題に困った。どうしよう。
ぼくはとりあえず、手に持った缶ジュースを差し出してみた。
「あ、あの。ここの人なら飲んでも問題ないんですよね? ジュース、いります?」
「……もらおう」
おじいさんはぼくから受け取った缶ジュースを開けて、ごくごくと景気よく飲んだ。
ああ、いいなぁ。美味しそう。
羨ましそうに見るぼくを一瞥して、おじいさんは言った。
「お主は、どうしてここに来た?」
「それがわからないんです。電車に乗っていたら急にみんな眠っちゃって、ぼくだけが起きていて……」
「ふム……同じじゃな」
「同じ?」
「”葉純”とだ」
「はすみさん……? 知っているんですか?」
「ワシはずっとここにいる。お主の前に何人かここに迷い込んだが、お主の状況はあの子によく似ている。むしろ、お主こそ葉純を知っておるようじゃな」
「そりゃあ、ある意味では有名人ですから」
「外ではそうなっておるのか」
おじいさんはジュースをグビリ、と飲んだ。
「ここは”境界”じゃ」
「境界?」
「生と死の境界、魂を運ぶ駅。そういう場所はここだけではない。日本人の多くが”川”を渡ってあの世へ逝くように、景観は一定ではないが。視覚的イメージは重要ではなく、本質は全て同一じゃ」
「三途の川、ってヤツですよね」
「ギリシャ神話においても、死者の魂から生前の記憶を洗い流し、生まれ変わる準備をする”忘却の川レーテー”という伝承がある。川は大多数の人間にとって”境界”の原風景なのじゃ」
「は、はえぇ。詳しいんですね」
「これでもかつては研究者じゃった」
「研究って何を?」
「形而上生物学」
「……?」
初めて聞いた言葉だ。そんな学問、実在するのだろうか?
でも問題はそこじゃない。問題は――。
「仮に、おじいさんの言うとおりここが生と死の”境界”だとして……ぼくが今、臨死体験をしてここに迷い込んでしまったと仮定してもおかしいですよ。日本人は普通、三途の川に送られるんですよね。どうして”きさらぎ駅”なんですか? そもそもぼく、死にかけてるワケでもないし……」
「ふム、ワシはお主のことは知らん。知っているのは、ここへ迷い込む者は誰もが”業”を抱えているということ」
「業?」
「因果関係じゃ。かの理論物理学者アルベルト・アインシュタインは言った、『神は賽を振らない』と。何事も理由があって起こるということ。お主は、理由があってここへ来た」
「理由? 全然思い当たらないんですけど」
「しかし今、ここにいる。理由はある。自覚しているか否かに関わらずな。ここから出たいのならば、まずはここへ来た理由を知らねばならない。”業”をたどるのじゃ。その答えを見つけたとき、ここから出る方法も見つかるだろう」
「探すって、どうやって?」
「……あそこじゃ」
おじいさんがすっと指さした先を見る。
深夜の暗闇の中、点滅する街頭が照らす道なき道の先にトンネルが見えた。
「トンネル……?」
「”境界”の深部につながる道じゃ。あのトンネルの先はより”死”に近い世界――ワシらは”Φの世界”と呼んでいる。そこにお主の探すべき”答え”があるかもしれん」
「答え……でも、死に近いっていうことはより危険ってことですよね」
「怖いならばここで足を止め、来るかどうかもわからぬ助けを待つのも良いじゃろう。だが、”答え”を探したいならば、ここにどれだけいても見つかりはしない。さて――」
お主は――どうする?
おじいさんはぼくにそう問いかけた。
ぼくはこの人とさっき出会ったばかりだ。信用できるかどうかなんてわからない。
罠かもしれない。本心からくる助言かもしれない。どちらか判断する材料なんてない。
真実なんてわからないんだ。こういうとき、先輩ならどうする?
決まってるか。
先輩ならこう言うに違いない。
『唯一絶対の真実なんて存在しない。重要なのは、お前が何を信じるかだ』
って。
ぼくはお父さんを”不可解な事件”で亡くしてから、ずっと世界の謎を追いかけてきた。
解けない謎を解こうとあがいてきた。答えを探し続けてきた。
失敗だって何度もしたし、死にかけた経験だって何度もある。”境界”に迷い込む理由は、もしかしたら数え切れないくらいあるのかもしれない。
トンネルを抜けたら、今度こそもう帰ってこられないかもしれない。だけど、それでもぼくは”答え”が知りたいから。
「この先に――行きます」
ぼくはベンチから立ち上がった。
このおじいさんを信じることにした。
おじいさんは立ち上がったぼくを見上げて、少し驚いたように目を見開いた。
その瞳には色が無かった。白濁して、とても視力があるようには思えない。
けれどもおじいさんはこう言った。
「お主……良い目をしておるな」
「そうですか?」
「ああ、美しい目だ。そういう目ができるのは、お主が世界を美しいと信じているからじゃろう」
その言葉の意味はわからなかったけど、なんとなくだけど。
おじいさんが、彼なりに励まそうとしてくれているのはわかった。
「……ありがとうございます。いろいろ、ありがとうございました」
「気をつけて行って来るが良い」
ぼくはぺこりと頭を下げ、ベンチをあとにした。
線路沿いに歩いて、トンネルへと向かう。
数分歩いた。
トンネルまではなんとか点滅する電灯が導いてくれたけど、トンネルの前まで来きて中を覗き込んでやっとわかった。
この中は、本当に真っ暗だ。トンネルの出口は入り口から見通せそうにない。
こんな暗い場所、ぼくじゃなくたって怖い。もちろんぼくはめちゃくちゃに怖い。
だけど、それでも……。
「前に進むんだ」
ぼくは”完全な暗闇”の中に足を踏み入れた。
☆ ☆ ☆
「嘘つき」
ああ、なんでだろう。
なんで今頃になって思い出すんだろう。
最悪の記憶だ。思い出したくない、忘れようとしていた記憶。
それは、ぼくがまだ幼かった頃の出来事だ。
「嘘つき、お父さんの嘘つき!」
「あーちゃん、すまない。本当にすまない、僕は――」
「聞きたくない! また言い訳するんでしょ! お父さん、最近仕事ばっかり! 家に全然帰ってきてくれないし、帰ってきたと思ったらまた仕事でいなくなるって!? そんなのないよ! しばらくは休暇をとって、家族一緒に過ごせるってお父さん言ってたじゃない!」
ぼくは顔を真っ赤にしてお父さんに怒りをぶつけていた。
その頃、お父さんの仕事が忙しくなっていて、ぼくもお母さんもめったにお父さんと会えなくなっていた。
お母さんは「お仕事だもの、仕方ないわ」と笑っていたけど、どう見ても強がりだった。いつも寂しそうにしていたのはわかっていた。
だけどお母さんはお父さんに何も言わなかった。
その分、娘のぼくがお父さんに怒らなきゃならないなんて、その時のぼくは間違った使命感に燃えてしまったんだ。
「ねぇ、お父さん……わかってるんだよ。私、ホントはわかってるんだ。お父さんは写真家じゃないんでしょ? ホントはどこかでずっと何かの研究してるんでしょ?」
「っ……どこでそれを……」
「わかるよ、家族だもん。でも、お母さんも何の研究をしてるかまでは知らないって言ってた。ねぇ、家族にまで秘密にしなきゃならないことって何? 仕事ってそんなに大切なの? 家族にまで嘘ついて、お父さんは何がしたいの……?」
「あーちゃん、僕は……僕はね……」
きっとぼくは、最低な娘だったと思う。
人には秘密がある。家族や愛する者にも、隠したいことだってあるだろう。
だけどそのときのぼくにはそれがまだわかっていなかった。
ただ嘘とごまかしが嫌いなだけの、世界を知らない子どもだったんだ。
「……」
ぼくの追求に何も言えなくなったお父さんは、顔を歪ませ、泣きそうな顔でぼくに背を向けた。
「すまない、本当にすまない……もう行かないと。やらなければならないことが残っているんだ」
「っ……お父さんなんて……きらい、だいっ嫌い……」
去りゆく父の背中に娘が投げつけたのは、呪詛の言葉だった。
「嫌い」。
その言葉が――ぼくとお父さんが交わした最後の言葉になるなんて、その時は。
何も知らない子どもだったぼくにはまだわからなかった。わからなかったんだ……。
数日後、お父さんは死体となって発見された。
落下死だった。
ぼくらの家とは縁もゆかりもない、日本のどこかの街で落下死体となっていた。
それだけなら自殺として処理されたかもしれない。でもそうじゃなかった。
問題は、その場所が開けた平地で高い建物もない場所ということだった。
つまり、「どこからも落下しようがない場所」からお父さんは落下したということだ。
死亡推定時刻にその周辺を飛行機が飛んでいたという記録もない。
どこかで落下したお父さんの遺体を誰かが別の場所に遺棄したという説も、落下地点を中心に血液や肉片、臓物が飛散していたことで否定された。
お父さんは、確実に落下しようがない場所で落下死したのだ。
謎だった。全てが謎に包まれた事件で、今でもこの死は未解決のままだ。
誰かが嘘をついているのかもしれない。警察が、検視官が、発見者が。
だけど少なくともぼくには、嘘をついていた人が一人いるって、確実にわかっていた。
「嘘つき……」
それは――わたしだ。
「私の……嘘つき」
お父さんと、もっと一緒にいたかっただけなのに。
最期にかけた言葉が「大嫌い」だなんて……。
もしかしたら。
もしかしたら、お父さんは、娘の心ない言葉に絶望して――なんて。
どうしても考えてしまう。
ぼくのせいで、お父さんはこうなったんじゃないかって。
「嘘つき」
その日以来、ぼくは不思議な出来事を追いかけるようになった。
お父さんが落下死したのは、目に見えない「未確認飛行物体」の仕業なんじゃないか、なんて非現実的な仮説に逃げたりして。
いつだって、罪悪感から目をそらしているだけなんだ。
「ぼくの……嘘つき」
今だってそう。
探し続けているんだ。
つらい現実から逃げ続けるように、ずっと。
解けない謎の答えを。
☆ ☆ ☆
「っ――!」
ハッとして目を開いた。
あれ、今……眠ってた? トンネルの中に一歩踏み入れて、どうなった?
夢を視ていたような……。
いつの間にか、トンネルを抜けていたみたいだった。
背中にはトンネルの出口が。
そして、目を開いたぼくの正面には――。
「――綺麗」
思わずそう呟いた。
そこは、黄昏の光に満ちた世界だった。
夕日が一面を照らし、空は深い紅色に染まっている。
地面もまた、紅い彼岸花が辺り一面に咲き誇り、小風に揺れていた。
「これが……”Φの世界”」
おじいさんはこの世界を、さっきの”きさらぎ駅”よりさらに”死”に近い世界と言っていた。
だけど想像していたような息苦しさとか、重々しさは全然感じなかった。
むしろ身体が軽くて、快適に感じる。
まるでぼくの魂が、この場所を”知っている”ように感じた。
「行かなきゃ」
トンネルの向こうには、線路は繋がっていなかった。
紅い空と紅い大地、それだけだった。
彼岸花が生えていない、人が一人通れるくらいの小さな道があったからそこを進んだ。
道の周りには紅い折り紙で作られた風車がいくつも立てられていて、カラカラと回っている。
すると少しして見えてきた。
建物だ。白くて、長方形の――一見、病院に見える巨大な建造物が目に入った。
歩いて建物の前まで到着する。大きな門があったけど、閉まっていなかった。
普通に通り抜けられそうだ。
門にはこう表示されている。『F.A.B.きさらぎ研究所』と。
「”F.A.B.”?」
既視感のあるその文字列だけど、それがなんだったかすぐには思い出せない。
ぼくはそれ以上考えずに門を通り抜けた。
急ごう。時間には限りがある。
おじいさんは「ヨモツヘグイ」と言った。この世界の食べ物や飲み物を口にしたら、元の世界には二度と戻れない、ということだ。
人間は飲まず食わずでは3日程度しか生きられない。ぼくに残された時間もそのくらいだろう。
まして、脱水症状でまともに動けなくなることも考えると、実際はそれより短い時間しか活動できないと思ったほうが良い。
一応、時刻を確認しておこうとスマホを取り出した。
だけどもう、時計もまともに機能していないみたいだった。デタラメな数字がランダムに表示されて、今が何月何日なのか。何時何分何秒なのか。もはや一切がわからない状態だった。
「……」
スマホのバッテリーも心もとない。
できるだけ温存しておこうと、またポケットにしまった。
門を越え、敷地内に入る。
病院と同じように、正面玄関はガラスの自動ドアになっていた。
ぼくが近づくと問題なく動作して、中に入ることができた。
中も電灯で照らされていて、薄暗いけど視界は確保できている。
どこからか電気が通じているのだろうか?
なんにせよありがたい。さっそくこの建物の探索を開始しよう。
「おーい、誰かいますかー?」
とりあえず声を出してみた。
しんと静まり返る。ぼく自身の声の反響だけが白い廊下に響いていた。
もちろん応答はなかった。
「おじいさんは”業”って言ってたけど、何のことなんだろう。”答え”っていったい……」
わからない。この研究所に、脱出のヒントがあるのかもしれないけど。
到着したはいいけど、何をどう探したらいいのか、全くわからなかった。
「どうすれば――」
バン!
その時だった。
音が。音がする。聞きたくない、聞き覚えのある音だ。
できれば、二度と聞きたくなかった音。
バン! バン! バン! バン! 手で、ガラスを叩く音だ。
そしてチリチリと点滅する電灯。建物の中が薄暗くなってゆく。
「……っ、うそ……でしょ」
振り返ると、入り口の自動ドアが閉じていた。
透明なガラスの上には、赤黒い血のような手形がベッタリと、無数にこびりついている。
バン! バン! バン! バン! バン!
間違いない、今度はガラスじゃなくて床や壁を叩く音。
徐々にぼくに向かって近づいてきていた。
そして――その姿が見えた。
電車の中で襲ってきたアイツだ。
上半身を引きずって臓物を撒き散らしながら移動する恐ろしい8本腕の怪物。
建物の中の白い廊下に立つぼくを、入り口付近から見ていた。
「ゃ、やだ、こんな時に……っ!」
ぼくはどうするか考える前に走っていた。
とにかく逃げなきゃ。幸い、あの怪物の移動速度は大したことはない。
本気で走れば引き離せる。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
ついてくる、ついてくる、ついてくる。
どこまでも追ってくる。廊下を走り続けるけど、逃げ場所が見当たらない。
どこかの部屋に逃げ込みたいけど、どうやら電子ロックがかかっているみたいで全然開けられなかった。電気が生きているのがこんなところでアダになるなんて!
いつの間にか、廊下の一番奥まで追い詰められていた。
ぼくの背後には扉があるけど、これも電子ロックで閉じられていた。
逃げ場が、もうない。
「そ、そんな……」
ダメだ。もうおしまいだ。
死ぬのかな、死ぬんだろうな、ぼくは。
今になって湧き出てくるのは、後悔ばかりだった。
まだ、何の謎も解いていないのに。答えだって見つかってないのに。
先輩に――気持ちだって伝えられてないのに!
赤黒く染まってゆく廊下。徐々に手の音は近づいてくる。
ずる……ずる……とハミ出た内臓を引きずる音も……。
点滅する電灯……迫りくる薄暗闇。
そして目が合う。長い黒髪の隙間から覗く、白濁した瞳。
だめだ、怖い。殺される……。
『あーちゃん、ファインダーをのぞいてごらん』
諦めかけたその時――懐かしい声が語りかけてくれた気がした。
『レンズの向こうに、何が視える?』
「っ――まだっ!」
そうだ、何諦めようとしてるんだ!
ぼくは首から下げていたカメラを持ち、迫りくる怪物に向けて――シャッターを切った!
怪物はビクリと身体が跳ね、動きが止まってしまう。
「やっぱり……!」
思ったとおりだ。この怪物が出現すると必ず電灯が点滅して薄暗くなる。
そして今、目が合ってわかった。白濁した瞳。コイツは視覚が人間と違う。
手で床や壁をバンバン叩いて移動するのは、聴覚や触覚で周囲の環境を把握するため。
視覚障害者が白杖で地面を叩いて移動するのと同じように。
薄暗い空間を移動するのは、強い光に弱いから。弱点なんだ、光が。
カメラのフラッシュが目に直撃すると、身体の動きが止まってしまうほどに。
「とにかく今のうちに――っ!?」
”多腕の怪物”が怯んだすきに逃げようとしたその時だった。
ぼくの腕を何者かがつかみ、引っ張る。
「えっ……!」
すごい力で引っ張られ、ぼくはいつの間にか開いていた廊下の一番奥の扉から部屋の中に投げ飛ばされた。
床に思い切り叩きつけられているうちに、ぼくを投げ飛ばした”誰か”は開いていた電子ロックの扉を再び閉めたのだった。
「いたた……た、助けられた……?」
「あなた、なかなかやるわね。普通なら助けようなんて思わなかったけれど、”アイツ”の弱点を見抜いたその判断力と機転……利用価値があるかもしれない」
部屋の中に立っていたのは、妙齢の女性だった。
OL風のスーツ姿をしていて、老人や怪物と比べるといくぶんか普通の人間のような外見だ。
ぼくは投げ飛ばされた身体の痛みをこらえながら訊く。
「利用価値って……?」
「この研究所の謎を解く手がかりになるかもしれないってコトよ」
「謎を解く……? あなたも、そのためにここに来たんですか」
「ええ、何年も前にね。ずっとこの中を彷徨い歩いている。つまりあなたの先輩ってわけ、可愛いJKちゃん?」
「まさか、あなたは……」
駅前のベンチに座っていた盲目の老人の言葉を思い出す。
彼は言った、ぼくの境遇は”彼女”と同じだと。
もしかして、この女性は――。
ぼくは頭に浮かんだその名前を口にした。
「葉純、さん……?」
☆ ☆ ☆
「へぇ……外ではあたし、ちょっとした有名人なのね。そっか、10年以上も経ってたんだ。体感では、数年程度に感じていたけれど……」
葉純さんは最奥の部屋――何かの研究室みたいだ――のオフィスチェアに腰掛け、大胆に脚を組んでそう言った。
タイツに包まれたおみあしが眩しい。彼女は美人だった。身なりも綺麗だし、むしろ疑問に思う。
こんな世界で何年も暮らしているというのに、どうしてボロボロになってないんだろう?
疑問は尽きない。ぼくは彼女に促されて対面の椅子に座った。とにかく話してみよう、葉純さんと。
「あの、葉純さんはどうして”きさらぎ駅”に迷い込んでしまったんですか?」
「ああ、それね。わからないの。あのジジイは”業”だとかなんとか言ってたけど……」
「やっぱり、葉純さんもあのおじいさんに言われてここに来たんですね」
「ええ、でもサッパリよ。何年探し回っても見つかりゃしないわ。ジジイは、きさらぎ駅へ迷い込む者には個人的な理由が必ずあると言っているけれどね。あたしは普通のOLだったし、こんな怪しい施設とは無縁だっての」
葉純さんは両手をあげて”降参”のポーズをとり、やれやれと首を振った。
「さすがにあたしも、あのジジイに騙されたんじゃないかと思ってるところよ」
「……葉純さんは、この部屋から出てきましたよね。この建物の部屋は電子ロックがかかっているはずですけど」
「ああ、それはそう。コレよ」
彼女はスーツのポケットから銀色に輝くカードを取り出した。
ICチップ付きのカードキーのようだ。扉の隣に据え付けられた電子ロックのコントローラーにも、カードリーダーがあった。
「建物を探索しているうちに、このカードを手に入れたのよ。だから私はたいていの部屋に入れるわ。”アイツ”に襲われても部屋の中に逃げ込めばやり過ごせるしね」
「”アイツ”……あのたくさん腕がある、上半身の怪物ですよね。あれはいったい何なんですか?」
「アイツは……そうね、”鬼”よ。出来損ないだけどね。今は製造目的も見失って、ただ”製造者”への恨みを”呪い”に変換して徘徊するバケモノに成り下がった」
「鬼?」
葉純さんの出した単語はピンと来ないモノだった。
”鬼”というと、赤い巨体に角が生えて、棍棒を持ったような姿しか想像できない。
あの多腕の怪物が”鬼”?
「正式名称は”人造鬼神”。”ファウンダリ”による”形而上生物学”研究の産物……」
「グリゴリ? ファウンダリ? 形而上生物学?」
頭の中が「?」で埋め尽くされる。
全然馴染みのない言葉の羅列だった。
ええと、”グリゴリ”っていうのは神話か何かの言葉で、”ファウンダリ”は英単語で……「工場」だっけ?
”形而上生物学”というのは、本当に聞いたことがないけれど駅前で出会ったおじいさんが言ってたっけ。「ワシは形而上生物学者だ」って。
混乱してくる。つまり、あのおじいさんは”多腕の怪物”――”鬼”と関わりがあるってコトなのだろうか?
「ふぅん、その様子じゃ本当に何も知らないようね」
葉純さんは納得したように頷いた。
「”きさらぎ駅”に迷い込んで、この研究所までたどり着けるくらいだから実は”ファウンダリ”の関係者なんじゃないかと思ってたけど。さすがにこんな若い子じゃ無理があるか」
「でも」葉純さんは鋭い眼光をぼくに向けて続けた「それならばなおさら気になるわね。あなたが何故ここに来たのか」
「それは……ぼくにもわからなくて、その答えを探しに来たんです」
「だったら丁度いいわ」
葉純さんはすっと立ち上がって言った。
「せっかくだから協力してもらおうかしら。あたしの”謎解き”に」
「謎解き……」
「ん? どうしたの?」
「い、いえ。はい、よろこんで。お手伝いできることがあるならやります」
ぼくも立ち上がる。
先導する彼女についていく。ドキドキと心臓の鼓動を感じる。
緊張しているのだろうか。ううん、違う。むしろ喜んでるんだ、こんな絶望的な状況なのに、ぼくは。
なんでだろう、胸が高鳴るというか――しっくり来るものがあったんだ。「謎解き」って言葉に。
☆ ☆ ☆
研究室の扉を開くと、あの”鬼”の姿は消えていた。
点滅していた電灯も復活して、視界良好だった。
その代わり、廊下の壁にべったりと赤黒い血のような液体で何か文字のようなモノが乱雑に書き残されていた。
「これは……何? アイツがこんなものを書き残したことなんてなかった」
ここにぼくよりも長くいるであろう葉純さんにもわからないみたいだった。
「字が歪んでてハッキリとはわからないですけど、アルファベットに見えますね」
「ええ、でも文字列がバラバラで意味をなしていない。もしかしたらあたしたちが知らない言語なのかもしれないけれど」
彼女はそう言いつつ、メモ帳を取り出して赤いペンで文字列を書き写した。
『ZNKOTOWAOZEULZNKLGZNKXY』
メモを取り終えると、葉純さんは廊下を進み始めた。
ぼくもついていく。
「そういえばあなた、電車の中でもアイツに襲われたのよね」
「は、はい」
「そこがあたしとあなたの違う点、か……。どうにも、あなたはアイツに狙われている気がする。あたしは自分から駅に降りたけど、あなたはアイツに襲われて追い詰められたから駅に降りてしまったワケでしょう? それに妙な文字列。アイツにとって、あなたは”特別”なのかもしれない」
「あんな変なバケモノと関係あるなんて思いたくないです」
「あははっ、そりゃそうよ。誰だって関わり合いになりたくないわ!」
ケラケラと葉純さんは笑った。
そしてカードキーで扉の一つを解錠した。
扉を開けると、その先は階段になっていた。下へ――地下へと続いているようだ。
今いる廊下より薄暗くて、視界は悪い。
少し怖くなって、ぼくはゴクリとつばを飲み込んだ。
「あ、あの……葉純さん」
「んー?」
「どこへ行くんですか?」
「ああ、そうね。説明してなかったわね」
葉純さんは階段を降りながら説明を始める。
仕方なくぼくもついていった。
「この施設のほとんどの部屋は”病室”だったの」
「病室? 病院なんですか、ここは」
「いいえ。でも身体を欠損した人や不治の病を患った人を集めていた。後戻りできない、社会に居場所がない。そんな人間を集め、そして――彼らで人体実験をしていた」
「人体実験……?」
ゾワリ、と鳥肌が立つ。
「ええ、幽霊だとか鬼だとか、あるいは天使だとか悪魔だとか。もしかしたらUMAかもしれないし、超能力者と言うかもしれない。世の中には説明できない力を持った生物や、ありえないはずなのに実在を信じられている存在がいる。それらを研究するのが”形而上生物学”。ここは、そんな超常的存在を人工的に製造することが目的の研究施設よ」
「そんな……そんなことって」
「にわかには信じられないことでしょうけど、あたしが長年この施設をさまよって見つけた情報から、それは確か。だけどそれは”答え”でははないのよ。答えはおそらく、この先にある」
彼女は地下奥の扉をカードキーを使って開けた。
二人で中に入る。
中は広く、薄暗い研究室みたいだった。
左右に何本かの培養液で満たされたカプセルが配置されている。
そのいくつかは割れていて、中身がなかった。
そして割れていない残りは――。
「うっ……!」
ぼくは思わず口を抑える。吐き気がした。
カプセルの中、培養液に満たされたそこには――異形の怪物が浮かんでいた。
無数の”眼球”でびっしりと覆われた肉の塊。
両目も両手も両足も歯の生え揃った”口”になった赤ん坊。
こ、これはあまりにも――ひどすぎる!
生理的嫌悪感に耐えられず、胃の奥から何かがこみ上げてくる。
「そうよね、初見ではそうなるか。あたしもそうなった。吐いていいわよ。あたし以外誰も見てない」
「は、吐きませんって……これでも乙女ですから」
「減らず口が叩けるなら大丈夫ね。行くわよ、さらに奥へ」
こんな気持ち悪い場所はさっさとおさらばしたかった。
ぼくは葉純さんの後を追って、さらに奥へと進んだ。
一番奥にはなにがあるのだろう。これ以上奇妙なモノがあったらさすがに嘔吐してしまう。それどころか、失禁してしまうかもしれない……。
なんて嫌な予感がしていたけど、部屋の一番奥で葉純さんが「これよ」と指さしたモノは、意外な物だった。
「パソコン……?」
そう、研究室の奥に配置されたデスクトップパソコン。
今は使われていないであろう、薄型じゃない、奥行きがある立方体のモニタに繋がっている。
何かの操作に使うのだろうか、モニタの側面や背面、上側にはボタンが不規則に配置されていた。
葉純さんは言った。
「研究所の中はほとんど調べ尽くしたわ。だけどこのPCにかかったパスワードはどうしてもわからなかった」
彼女がPCを起動すると、モニタに文字入力欄が表示された。
「配置から考えてこのPCはおそらく、研究所の中でも特に重要人物が使っていたモノだと思うわ。ここにパスワードを打ち込めば、研究所の謎が解けるはず……」
「何か、心当たりやヒントはなかったんですか? モニタにいっぱいボタンがついてますけど、これを押せばなにか手がかりが出てくるとか」
「とっくに試したわよ。反応したボタンは背面の一つだけ。これを押すと――」
葉純さんはモニタ背面に一つだけついているボタンを押した。
すると画面の文字入力欄の上に、アルファベットの文字列が表示された。
『THE DIE IS CAST』と。
「どういう意味なんでしょう」
「あたしも英語には詳しくないんだけど、たぶん『賽は投げられた』みたいな意味だと思うわ」
「海外のことわざか何かですよね。聞いたことはあります」
「あたしが見つけたのはここまでよ。この文字列を入力してもPCのロックは解除できなかった。きっとこの中には、”答え”があるのに」
ぎりっ、と葉純さんは歯ぎしりをした。
苛立っているのだろう。彼女は冷静なようでいて、その実この研究所の謎を誰よりも解きたがっているのかもしれない。
それもそうだ。ぼくは思い直した。彼女はここでたった一人、何年もさまよっているのだから。解けない謎に直面して、どれだけの時間立ち止まったのだろう?
彼女がこの謎にかける想いは、想像もつかない。
何か――力になりたい。ぼくは頭をフル回転させて考えた。
『アルベルト・アインシュタインは言った、”神は賽を振らない”と。何事も理由があって起こるということじゃ』
その時脳裏によぎったのは、駅前で出会ったおじいさんの言葉だった。
”賽”というのはつまりサイコロのこと。
そしてこの”賽”という言葉がまた出てきた、『THE DIE IS CAS=賽は投げられた』。
何事も理由があって起こるというのなら、この一致にも理由があるかもしれない。
「賽、サイコロ……サイコロ……」
一般的なサイコロを思い浮かべる。
正六面体で、丸が描かれた個数によって1から6までの数字を示している。
「ん――? 正六面体? 丸の個数?」
ぼくはもう一度モニタを見た。
画面のほうじゃない。モニタそのものを見たんだ。
「このモニタ、変じゃないですか……」
「変?」
葉純さんは首を傾げた。
「確かに、妙に厚みがあって古く見えるわね。さすがにあたしの時代でもモニタはもっと薄型になっていたわよ。それに、研究室の他のモニタはもっと薄型だったような……このモニタだけ、各辺の長さが同じでまるで正六面体……っ」
そこまで言って、彼女はハッと息をのんだ。
「サイコロの形状と同じ。このモニタそのものが、ヒントだったということ……?」
「かもしれません。このモニタは正六面体という珍しい形状で、各面に不自然にボタンが配置されています。背面は1つ、側面は3つと4つ、天板は5つ……」
二人で目を合わせる。
やらなければならないことはわかっていた。
二人で力を合わせてモニタを持ち上げると、底面には2つのボタンが配置されていた。
「やっぱり……正六面体ダイスは反対にある面同士の合計値が7になる。その法則はこのモニタにも有効。背面はボタンが1つでした。つまり唯一ボタンのない画面部分には本来ボタンが6個あるはずなんです」
「だけど画面があるからボタンは存在しない。つまり……この文字入力画面に”6”を打ち込めば良いということ……!」
葉純さんはキーボードに飛びつき、「6」を入力した。
だけどエンターキーを押してもロックは解除できない。
「くっ……!」
その後も「six」や「oooooo」、「roku」だったりと6を表す文字列を思いつく限り打ち込んでみたけど、どれもハズレだった。
「そんな……ここまで来たのに……まだダメなの……?」
葉純さんは頭を抱えて下を向いた。
ぎりっ、ぎりっ。歯ぎしりの音が大きくなる。
相当悔しいのだろう、美しい顔が歪んでいた。
「葉純さん……」
知恵を絞って考えたけど、ぼくもこれ以上はわからない。
彼女の助けになりたいけど、もう都合のいい閃きも弾切れみたいだった。
その時だった。
ぐうううううううううううううう。
ぼくのお腹が盛大に鳴った。
”きさらぎ駅”に入ってからどれくらいの時間が経ったのかはわからないけど、けっこうな長時間飲まず食わずだったから当然だ。
だけど人前でお腹が鳴るのはこんな状況でも恥ずかしくて、ぼくは顔を真っ赤にしてお腹を押さえた。
「す、すみません」
「……いいわよ、べつに。おなかが減るのは当然だものね」
葉純さんはふぅ、と息を吐いた。
ぼくの恥ずかしいトコロを見て、少し落ち着いたみたいだった。
そしてポケットから棒状の何かを取り出し、ぼくに差し出した。
「お腹が空いたでしょう? これ、あげるわ」
チョコバーだった。
チョコレートは手軽に高カロリーを補給できる。
サバイバルにはうってつけの食品だ。
うっ……思わずヨダレが垂れそうになるけど、ぼくはおじいさんの言葉を思い出していた。
”ヨモツヘグイ”、この世界の食べ物を口にしてしまえば、二度と元の世界には帰れない。
受け取るのを躊躇していると、葉純さんは不審そうにぼくを見て言う。
「遠慮しなくていいわよ、施設内の倉庫に一生かかっても食べきれないくらいの備蓄があるから」
「い、いえ。ぼくは……」
「毒なんて入ってないわよ、ほら」
彼女は包装を剥いてチョコバーを頬張って見せた。
うっ……美味しそう。実際お腹が空いてるし、欲しい。
だけどなんとなくぼくは、おじいさんの忠告を守りたいと思った。
せっかくの厚意を受け取らないのは気が引けるけど……。
ぼくが受け取る気が無いのを悟った葉純さんは、すこしムッとした顔をする。
「せっかくあげるって言ってるのに。何? あたしのことが信用できないって?」
「そんなわけじゃ――」
「そんなわけじゃないなら、行動で示して」
彼女は強い口調と共に、二本目のチョコバーを差し出してきた。
「絶望的な状況下で必要なのは互いの信用でしょう? あたしだってあなたのことを完全に信用したわけじゃないわ。互いに歩み寄って、協力しなきゃね」
その態度と声色からは、明らかな圧力を感じる。
彼女は――葉純さんは、どういうつもりなんだろう?
本気でぼくに厚意で食料を分け与えようとしている?
もしくは……。
ダメだとわかっていても、こう考えてしまう。”疑い”は一度始まれば止まらない。
もしかしたら、「葉純さんはぼくに”ヨモツヘグイ”をさせたいのかもしれない」と。
この世界の食べ物を口にしてはいけないというおじさんの忠告が正しいとしたら、彼女はもう二度とこの世界から抜け出せない。
そんな状況で長年過ごすのはとてつもない苦痛が伴っただろう。
だからせめて、自分以外の誰かをこの世界に留めておきたい――そう考えてもおかしくないんじゃないか?
ぼくの脳内ではそんな最悪の想定が渦巻いていた。
どうする?
受け取るべきか。受け取らざるべきか。
たぶんこれは、葉純さんの言う通り「信頼」の問題なのだろう。
彼女を信じるべきか、信じざるべきか。
でもそれは、二者択一になる。葉純さんを信じて食料を受け取ることは、おじいさんの忠告を無視することでもあるから。
ぼくは――。
決断しようとしたその時だった。
ポケットのスマホから突如『遊星からの物体X』のサントラが流れ始めた。
「え……?」
こんなマニアックな着信音に設定した相手は一人しかいない。
ぼくは恐る恐る、通話ボタンをタップした。
するとスマホのスピーカーから、懐かしい声が。
数時間前まで一緒だったはずなのに、懐かしく感じてしまう声が聞こえ始めた。
『よう、生きてるか?』
「せん……ぱい――!」
☆ ☆ ☆
『随分とややこしい状況になっているようだな』
ぼくは先輩にこれまでの経緯を説明した。
今度は先輩の番だった。
どうやら、先輩の視点からは車内では誰も眠っていなくて、ぼくは電車の中で突然いなくなったように見えていたみたいだった。
その後、既に夜が明けてぼくは行方不明という扱いになっているらしい。
「お母さん、心配してますよね」
『ああ、俺もそうだが、お前の母親も何度も電話したものの、今まで通話は一度も繋がらなかったようだ』
「電話がかかってきたのはこれが初めてです。よかった……先輩無事で……」
『無事って、今ヤバい状況なのは俺じゃなくてお前だろう。こんな状況下で俺の心配なんてしていたのか?』
「だってぇ……」
『はぁ……お前はそんな変な世界に迷い込んでもお前らしいよ』
先輩は呆れたようにため息をついた。
別の世界をまたいで通話しているのに、ぼくたちはまるでいつもどおりの調子だった。
安心する。先輩と話しているだけで、絶望的な状況なのになんとかなるって気がしてきた。
「話し込んでるトコ悪いけど――」
その時、葉純さんが会話に割り込んできた。
「その”先輩”って男、信用できるの?」
「もちろんですよ! 普段はただの陰キャオタクですけど、こういう異常事態になったときはすごく頼りになるんですから! ね、先輩!」
『ん――誰かもう一人そこにいるのか?』
「はい、葉純さんという方と出会って助けてもらいました。今はさっき説明したパスワード解読に挑戦しているんですけど、ちょっと詰まってしまって」
「あたしは葉純。聞いたわよ、あんた”謎解き”が得意なんだってね。あたしたちに協力してくれるの!?」
葉純さんはスマホのマイクに向かって大きな声で話しかけた。
少し間があいてから、先輩は応答した。
『……妙だな、こちらにはお前の声だけは聴こえるが、後はノイズにしか聞こえない』
やっぱり、先輩の携帯には葉純さんの声は届いていないみたいだった。
「……そう。しょうがないわね、通話は任せるわ」
葉純さんは先輩と話すのを諦めたようで、謎解きに再度取り掛かった。
メモを取り出して、さっき”鬼”が書き残した文字列とにらめっこしている。
この文字列をそのまま打ち込んでもPCのロックは解除できなかったけど……何かのヒントになるかもしれない。
ぼくは正六面体のモニタの件や、謎の文字列の件を先輩に話した。
すると先輩は、さらりとこう答えた。
『なるほどな』
「なるほどって、わかったんですか?」
『確定ではないが、おそらく解読に必要な材料はもう揃っている。実際に暗号を解けば正解かどうかは自ずとわかるだろう。まずはその”文字列”とやらを教えてくれ』
ぼくは先輩に”鬼”の書き残した文字列を伝えた。
『ZNKOTOWAOZEULZNKLGZNKXY』やっぱり、意味はわからないけど。
『確かパソコンの画面にはこう書かれているんだよな? ”THE DIE IS CAST”と』
「はい」
『ガイウス・ユリウス・カエサルの言葉だ』
「はへ?」
『英語名はジュリアス・シーザー。有名な古代ローマの将軍だ』
「ああ、『ブルータス、お前もか!』の人ですよね」
『なんでそっちの名言は知ってるんだよ……まあ、そいつで間違いない』
「シーザーさんが何か関係あるんですか?」
『大アリだ。シーザー暗号って知ってるか?』
「いえ……シーザーサラダは好きですけど」
『俺も好きだが今は関係ない。シーザーが使っていたとされる最も古くシンプルな暗号のことだ。シーザーは敵から隠したい文章を、文字を三文字ズラして書いていたと言われている』
「三文字ズラす……? 日本語で言うと”あ”を”え”、”き”を”こ”みたいに書くってコトですか?」
『その通り。ヒントになっている文章が英語ということは、この場合はアルファベット順に文字をシフトするということだろう』
「でも……この変な文字列を三文字ずつズラしても意味のある文面になるとは思えません」
『そうだな、三文字ってのはシーザー自身が当時用いた数であって、現在使われるシーザー暗号は何文字ズラすかを”鍵”として設定し、”鍵”を手に入れなければシフトした数がわからないようになっている』
「鍵……」
ぼくは考える。
「鍵って数字なんですよね」
『ああ、お前はもう鍵を手に入れているはずだが』
「……たし、かに!」
先輩の言う通りだった。
ぼくはもう手に入れていたんだ。シーザー暗号の”鍵”。
あの正六面体の謎を解いたその時すでに!
「6です! 暗号の鍵は6です! 葉純さん、メモ帳を貸して下さい!」
「え? ええ」
ぼくは半ば強引に彼女からメモ帳を奪い取ると、解読表を書き込んだ。
ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ
GHIJKLMNOPQRSTUVWXYZABCDEF
上の行が普通のアルファベット順、下が六文字分ズラして書いた行だ。
この対応表を使って、”鬼”が残した意味不明な文字列を置き換えると――。
『THEINIQUITYOFTHEFATHERS』
「これは……英語っぽいけど」
『The iniquity of the fathers、意味は”父親の罪”だ。おそらく、聖書の一節”父の咎を子が報い”から引用した言葉だろう』
「父親の……罪……」
ぼくはスマホをPCの前に置いて、椅子に座った。
葉純さんが見守る中、パスワードの欄に『THEINIQUITYOFTHEFATHERS』と打ち込む。
その間、先輩は何かブツブツと呟いていた。
『しかし怪物が残したというこの暗号は簡単すぎる。”ZNK”という文字列が二回出てくる時点で、三文字の冠詞である”THE”と推測がつく。鍵がなくとも六文字シフトさせることに気づくことは可能だ。暗号を作った者は何かを隠したかったのではなく、何かを伝えたかったということか……?』
打ち込みに集中していてぼくの頭の中には、先輩の言葉はあまり入ってこなかった。
すぐにパスワードは打ち終わり、拍子抜けするほどにあっけなくロックが解除された。
デスクトップ画面が表示されるかと思ったけど、モニタには映像が映し出された。
映像に映ったのは机に座る男性。ちょうどこのPCデスクで、ぼくが座っている椅子に座っている。カメラはモニタの上に置いているのだろう。
白衣を着た研究者らしきその男性はやつれていて、どこか憔悴したような表情で語り始めた。
『僕の名は――いいや、もはや名前には意味がないか。僕はこの”きさらぎ研究所”で働く名もなき研究者。そういうことにしておこう』
男性はゆっくりと語り始める。
その内容は、にわかには信じがたい、恐ろしいモノだった。
『”きさらぎ”とは”鬼”のことだ。日本古来より伝承に残りながら、実在しないとされる”形而上学的生物”たる”鬼”を人の手で作り出すためにこの研究所は創設された。”ファウンダリ”は世界各国にそういう施設を持っているらしいが――この”きさらぎ研究所”が特殊なのは、研究所自体が”境界”に存在するということだ』
『”境界”では生と死が曖昧になる。ここでは、超自然的な現象を再現することすら可能になる。ファウンダリはこの場所こそが”人造鬼神”の製造に最も適していると考えたようだ。実際、その推測は当たっていた。いいや、あまりにも行き過ぎていた。”人造鬼神”など、所詮は過程にすぎなかった。その先にあるモノは……』
そこまで言うと、男性は涙ぐみ始める。
『僕は、罪を犯した。まさかあんなものを生み出してしまうなんて……恐ろしいモノを、僕たちは――神の御業に触れてしまった』
『行き場のない人々を騙して切り刻み、”材料”に使った。非人道的な実験に手を染めたのは、それが世界を救うと信じていたからだ。閉塞し、先がない未来から人類を救うために……歪んだ使命感だと自覚はしていた。それでも、僕にだって家族がいたから。家族が生きる未来を護るために――だけど、間違っていたのかもしれない』
『娘に、言われたよ。嫌いだって。それで気づいたんだ、僕は子どもに誇れるような父親にはなれなかったと。この研究は永遠に葬らなければならない。だから僕は、研究所ごと”境界”からさらに深部――”Φの世界”に沈めることにした。そうすれば、施設はファウンダリにすら簡単には見つけられなくなる。研究内容が世に出ることは永久にないだろう』
そこまで言うと、男性はカメラから目をそらしてどこかを見る。
『ああ……君か』
『僕を”処理”する役割を負うのが君とはね、これも”業”ということか。いいだろう、僕はここで終わる。当然の報いだ。だけど家族だけは……。家族に、伝えて欲しい。僕の本当の気持ちを。こんなことなら、ただの写真家でいられたら良かった。世界に確固たる真実なんてないのかもしれないけれど、僕にとってそれだけは唯一の――』
ブツリ――そこで映像が途切れた。
ぼくも、葉純さんも何も言わなかった。あまりの内容に頭がパニックになって、何を言っていいのかわからなかった。
先輩だけは、『誰かが喋っていたのはわかったが、ノイズになって何を言っていたか俺には聞こえなかった。どういう内容だったんだ?』 と言っていた。
ぼくは、ゆっくりと震える唇を開いて、答えた。
「せんぱい……ロックを解除したら映像が表示されました。この施設の研究員が、非人道的な研究内容を告発している映像です。彼は最期には良心の呵責に耐えきれなくなって、”境界”に建てられた研究所をここ――”Φの世界”にまで何らかの方法で”沈めた”と言っていました。”ファウンダリ”という組織から研究内容を隠すために」
だけど、重要なのはそこじゃない。
そこじゃなくて――映像に出てきた研究員は、彼の正体は。
「その研究員は……ぼくのお父さんだったんです」
☆ ☆ ☆
「お父さんが何かの研究者だったのはわかっていました。でも、こんな研究をしていたなんて……」
うまく言葉が出てこない。
超自然的な現象とか、”ファウンダリ”がどういう組織なのかとか。
いろいろと情報の波が押し寄せてきて混乱していた。
けど、その中でぼくにも一つだけわかったことがあった。
「でも、ビデオの中でお父さん言ってました。娘に『嫌い』って言われたって。あれは本当のことです。最期にお父さんと会った時、別れ際にそう言ったんです。……最低ですよね、お父さんは苦しんでた。なのにぼくはそんなこと言って、お父さんを追い詰めた――その結果が、”Φの世界”に廃棄された研究所と、そこに迷い込んだ無力な娘……」
そうだ、
「これが”答え”だったんですね。ぼくのせいでお父さんはいなくなってしまった。お父さんはきっと、最期にはぼくのことを……恨んでいたかもしれません。それがぼくをここに導いた”業”なんです」
そうだったんだ、
「ぼくを襲ったあの”鬼”が書き残した暗号は、”父の咎を子が報い”という聖書の一節から引用したって先輩言ってましたよね。それってきっと、お父さんの罪をぼくが引き継ぐってことなんです。あの”鬼”は人体実験の産物……お父さんへの恨みを、娘のぼくにぶつける。ぼくがすべきことは、あの”鬼”に殺されること。お父さんの罪を贖うこと。ぼく自身の罪を贖うこと。これが――」
これが――”答え”だったんだ。
『そいつは違うな』
だけど、先輩は電話越しにきっぱりと否定した。
『父親がお前を恨んでいた? ”鬼”とやらが父親への恨みを娘であるお前にぶつけたがっている? そんな”恨み”に導かれてお前は”きさらぎ駅”に迷い込んだ? そんなのわかんねぇだろ。家族だろうと誰だろうと、所詮は他人だ。他人の心のうちなんて、誰にもわからないんだ。たとえ娘だろうと、父親の最期の気持ちまで勝手に決めつけていいわけがないだろう』
先輩は冷静に、だけど優しい声色でぼくに語りかける。
『本当の謎は、人の心だ。心の中の真実なんて、誰にもわからないんだ。それでも唯一、お前が……お前だけが見つけられる”答え”があるとしたら、それはお前自身が父親をどう想っているか――それだけなんじゃないのか?』
先輩は言った。
『なあ、お前は本当は……父親のことをどう想っていたんだ?』
「ぼくは……」
『おっと、そろそろ時間だ。悪いが、電話を切るぞ。電車内で通話するのはマナー違反だからな』
「ぇ――?」
突然不可解なことを言い始める先輩。
「な、何言って……」
『あー、言い忘れていたな。今、駅のホームにいるんだ。昨日の夜、地元に戻るためにお前と二人で電車に乗ったあの駅だ。こっちの時刻はもうすぐ夜23時40分。次の電車の光が見え始めた』
「それって……」
『”きさらぎ駅”行きの電車ってワケだ』
「ちょ、待って下さい! 先輩、ここに来るつもりなんですか!?」
『当たり前だろう。お前がそこに行ったなら、俺も同じ方法でたどり着けるはずだ。今回はお前が座っていたのと同じ席に座るつもりだ』
「なんで……危険なんですよ! もしかしたら戻れなくなるかもしれないのに! どうして! どうしてぼくなんかのために!」
『その”答え”は、次に会った時にでも教えてやる。電車が到着した。切るぞ――』
プツン、ツー、ツー、ツー。
そこで電話は途切れた。必死にリダイヤルしても、もう先輩は電話に出てはくれなかった。
「先輩……」
ぼくは顔をあげた。
行かなきゃ。先輩が本当に”きさらぎ駅”に来られたとしても、電車の扉が開く時間は長くない。ぼくが先に駅についてなきゃ、二人とも脱出するのは不可能になる。
「待ちなさい!」
走り出そうとするぼくを、葉純さんが制止した。
「何を無茶なこと言ってんの! ここに来られるのは”業”を抱えた人間だけ。あんたの”先輩”とやらは研究所と無関係なんでしょう? 迎えになんて来られるわけがない!」
「来ます。先輩は来ます」
ぼくは断言した。
「なんでっ……! どうして、そんなこと言い切れるの!」
「やると言ったらやる。先輩は、そういう人だからです」
「……信じてるのね」
葉純さんはうつむいて、弱々しい声でぼくに語りかける。
「行かないでよ。ここに居てよ……あたしは、また……たった独りになってしまう」
そして、ポケットからチョコバーを差し出してくる。
「ここには食料もあるし、来るかわからない助けに懸けて危険に飛び込むよりも安全じゃない。ねぇ、お願いだから受け取って……」
「ヨモツヘグイ――葉純さんは、やっぱりぼくをここに留めておきたいから食料を差し出してくれていたんですね」
「そうよ……そう。わかってた。とっくに、あたしはここを出られない。とっくに人間じゃなくなってるなんてわかってた。だってそうじゃない。長年ここにいたのに、歳をとらないなんて、おかしいでしょ?」
葉純さんは自嘲気味に笑った。
シワ一つ無い美しい顔だった。今はそれが、悲しみに歪んでいる。
「だけど、そうよね。あなたはまだ生きてる。生きているもの……」
身体の力が抜け、彼女は研究所の床に座り込んだ。
「……行きなさい、”答え”見つかったんでしょう?」
「……」
ぼくはそれ以上彼女に何も言わず、研究所をあとにした。
かける言葉が見つからなかった。
それに、もう時間がない。”駅”に先輩が来る。
紅い空の下に咲き誇る彼岸花、そしてたくさんの風車に見送られながらぼくは必死に”Φの世界”を走り――トンネルに飛び込んだ。
☆ ☆ ☆
「はぁ、はぁ、はぁ……」
トンネルを抜けて、ぼくは”きさらぎ駅”の前にたどり着いていた。
ベンチの前には、行きの時と変わらずおじいさんが座っていた。
おじいさんはゆっくりとぼくに語りかける。
「”答え”は、見つかったか?」
「はい」
「そうか。ならば行くが良い。無論、この先に”救い”がある保証はないが」
「ちゃんと来てくれますよ、先輩が」
「ふム……その者が、お主のことを心の底から想える男ならば……あるいは奇跡は起こるかもしれん。成程、お主が世界を――他人を信じられるのは、心の中にお主を守ってくれる存在がいるからか」
「ありがとうございました、いろいろと」
「礼には及ばん。ワシのほうこそ良かった。教え子の娘に会えて――」
「え――?」
おじいさんが気になることを言った瞬間、既に彼の姿は消えていた。
「……行こう、先輩が来る」
動かない自動改札を抜けて、ぼくはホームに向かった。
すると、電車の光が見えた。
何のアナウンスもないけど減速して、もうすぐ駅に停車しようとしていた。
「やった!」
ぼくは電車に乗り込もうと近づくけど、その時だった――。
身体が倒され、床に叩きつけられる。
何かが両脚に絡みついて、引き倒された。
「うそっ、いつの間に……!」
それは8本の腕を持つ上半身だけの怪物――”鬼”だった。
この駅で待ち伏せしていたのかもしれない。
気づかれないうちにぼくに忍び寄って、多腕で絡みついてくる。
腕や脚を拘束されて、う、動けない――!
「そんなっ、もうすぐなのに……!」
電車が止まる。
自動ドアが開く。扉の向こうから光が漏れ出した。
まずい、早く乗り込まないと! だけど身体が動かない。どうすれば……!?
「こっちだ! 手を伸ばせ!」
その時、声が聞こえたんだ。
優しい声。誰よりも聞きたかった声。
そして声のおかげで気づいた。なぜかぼくの右腕だけが拘束されていないことに。
なぜだろう、8本もある鬼の腕の全てが、ぼくの右手を避けていた。
まるで、薬指に収まっている”魔除けの指輪”を恐れているみたいに。
これだけは自由に動かせる。だからぼくは、全力で手を伸ばした。
声のする方向へ。
光へ――。
☆ ☆ ☆
目が覚めると、そこは電車の中だった。
座席で電車に揺られていた。
隣に座っているのは、先輩だった。
「よう、目が覚めたか?」
「え、あ……ぼくは、”きさらぎ駅”は? ”鬼”はどうなったんですか?」
「……お前、寝ぼけてんのか? 何の話をしてんだよ。今日の事件の犯人はストーカーだったってことで解決しただろうが」
「え……?」
先輩の話はこうだった。
ポルターガイストの調査依頼は、ストーカー被害ということで解決した。
23時40分にぼくらが乗った電車は、地図にない駅にとまることなく普通に目的の駅に向かっている。
ぼくは先輩に”魔除けの指輪”を着けてもらったすぐ後に眠ってしまった。
眠っていたのは、数分程度のことだと。
ぼくは行方不明になんてそもそもなっていなかった。
「つまり、さっきまでのは全部……夢だったってこと……?」
「ん……そう言われてみれば、なんか違和感があるな」
先輩は顎に手をあてて少し考え込んだ。
「そうだ。最初に座った席と今座っている席、俺とお前の位置が逆になっている。いつの間に……?」
先輩はそう言って、思考にふけってしまった。
だけどぼくにはその理由がわかった。
あくまで、さっきまでの体験が夢じゃなければ――という仮定にはなるけれど。
”Φの世界”で通話した先輩は、もともとぼくが座っていた席に座って”きさらぎ駅”まで迎えに来ると言っていた。
先輩が今座っている位置が、まさにぼくが”きさらぎ駅”に迷い込む時に座っていた席なのだ。だから、電車に乗った直後に座っていた位置とは逆になっているのは当然だった。
やっぱりあの出来事は本当にあったんだ。
だけど先輩や、外の世界では無かったことになっているのだろう。
ぼくはスマホを取り出して時刻を確認した。零時ちょうど。きさらぎ駅に停まることは、もうないんだと思った。
だって”答え”は見つかったんだから。
「ねえ、先輩」
「ん?」
「先輩は、どうして謎を解くんですか? どうしてぼくを助けてくれるんですか?」
「理由、か」
先輩はこういう質問をしても、いつもはぐらかしてしまう。
だけど今回はなぜだか、すんなりと話し始めた。
「”ドッペルゲンガー事件”、覚えてるか?」
「もちろん覚えてますよ。先輩と初めて出会った日のことですから」
「あの日、お前と初めて出会った日まで……俺は日常がとてもつまらないモノだと感じていた。何をやっていても無意味だとしか思えなくて、生きることは死ぬまでの暇つぶしだと……そう思っていた」
「先輩……」
「今でもそう思ってる。世界には意味なんてない。生まれてきたことに意味なんてない。何か意味や理由を見出しても、結局は全部思い込みでしかない。世の中には不思議なことや奇跡なんてなくて、ただ意思と表象だけがあるんだって……でも、お前は違った。不思議なこと、ありえないことがあるはずだって信じてた。どこかに”真実”が隠されているんだって。お前は、何かを信じられるヤツだった。俺とは違う。お前は――世界が美しいって信じてる」
先輩はぼくの目をじっと見つめて言った。
「だから俺も、そんな景色を視てみたいと思った。俺には世界が美しいなんて思えない。意味があるなんて思えない。けどそれを信じ続けられるお前と一緒に”謎”を解いていけば……俺にも、お前の見ている世界が視られるんじゃないかって……そう、思ったんだ」
先輩はそこまでいって、ハッとして恥ずかしそうに首を降った。
「な、なにクサいこと言ってんだろうな俺は! 忘れてくれ! なんつーか、変だよな。急に言わなきゃならないって気分になったんだ! もう二度と言わないからな!」
そんな先輩の、らしくない可愛らしい様子を見て、ぼくは笑った。
長い間笑えてなかった気がする。久しぶりに笑えた。
たぶん、これは先輩の”答え”だったんだと思う。
”Φの世界”で電話を切る前、先輩は言った。『その”答え”は、次に会った時にでも教えてやる』って。その約束を今、果たしてくれたんだ。
たとえ覚えていなくても、なかったことにはならないんだ。
「ありがとう、先輩」
☆ ☆ ☆
数日後。
ぼくは写真屋さんにきていた。
例のストーカー被害にあっていた女性に、証拠写真を送るためだ。
現像済みの写真を受け取って、中身を確認する。
そういえば――ぼくは思い出す。
”Φの世界”の中で、一度だけお父さんのカメラを使って写真を撮ったっけ。
確か多腕の”鬼”に襲われて、フラッシュで動きを止めたときのことだ。
あの写真はどうなっているんだろう?
なかったことになってるかもしれないし、もしちゃんと写真が残っていたら本物の”心霊写真”が爆誕してしまったかもしれない!
なんて期待に胸を膨らませながら、ぼくは最後の一枚を取り出した。
そこには、
『あーちゃん、ファインダーをのぞいてごらん』
”鬼”なんて写っていなかった。
写っていたのは、赤黒い”影”から撮影者を護るように立ちはだかる男性の姿だった。
白衣を着ていて、写真に写っているのは背中だけ。顔は見えない。
だけどぼくはその人を知っていた。背中を見るだけでちゃんとわかった。
『レンズの向こうに、何が視える?』
それは家族を、たった一人の娘を護ろうとする父親の背中だった。
「おとう……さん……っ」
写真の表面にぽつり、ぽつりと、水滴が落ちてくる。
今日、雨だっけ?
いやいや、そもそもまだ屋内だって。
もぉ、ダメだなぁ、ぼくって。
ちゃんと笑って言わなきゃダメじゃん。こういうことはさ。
それでも言うんだ。涙が出ても。震える唇でもかまわない。
今度こそ、本当の気持ちを――。
「大好きだよ」
ΦOLKLORE:鬼駅 END.
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