桜の鬼の満開の下 1-3
今年の今日も桜の花は花弁を散らしながら満開を誇っていた。
変わらず盃片手に桜の下に腰かけた少女は、盃に映った逆さまの月が、花弁の波紋にかき乱されるのを満足げに見ながら、婉然と笑った。
「ようやくお主と酒を酌み交わせるのぅ」
「お手柔らかにね」
少年は月日を経て、青年というべき姿になっていた。
背が伸びて穏やかな笑みを浮かべ、見た目通りの落ち着いた表情は成長の跡が見受けられる。精悍というよりはどこか鷹揚であり、この桜の木ような悠然とした強さは見られないが、柳のようにしなやかでしたたかそうな印象を受ける。
「お酒ってこんな味なんだねぇ」
「……どうじゃ、美味いか?」
「正直よくわからないな。舌がピリピリするし、独特の癖がある味だ」
「香りも楽しむとよい。口に合わぬなら、他の種類もあるし、果実を絞った汁や水と混ぜても良い」
「いいよ。なんだか、桜見ながらはこういうお酒の方がいい気がするんだよねぇ」
「ほう、風流というやつかの」
「いぃや、いつもこうして飲んでる君が絵になってるからかなぁ。ほぅら、桜と言ったら、このお酒って感ジ?」
「……褒めても何も出んぞ。それと、何やら発音が怪しいゆえ、慣れぬうちは飲みすぎるでないぞ」
さりとて、悪い気はしない少女は盃をあおった。
それは笑みを結びそうになる唇を隠すための行為だったが、長い付き合いの青年は、おぼろげながら照れていることを察していた。
「酒の肴は何が良い?」
「うん? じゃあ握り飯で」
「お主は本当に好きじゃの、握り飯」
「ああ、具は――」
「梅干しじゃろ、ほれ」
「ありがとー」
「こんなことなら、もう少し良いものをはじめに食わせればよかったわい」
「お米って十分ごちそうだよ? というか、鬼の君から見たら何がごちそうなの?」
「そりゃあ、人食い鬼には人肉じゃろ」
「それならよかったよ。粗末な握り飯で」
酒とともに冗談を交わすことが、少女にとって何より楽しかった。観測者の『役割』を持つ少年が来たことで、昼と夜がめぐり、季節がうつろい、桜は散るようになった。皮肉なことに、少女は変化を続ける日々がずっと続けばよいと、真剣にそう思っていた。
朝起きた青年と話をし、村の整備や見回りをして、必要な時には修理をしたり、新しい道具や衣類を作った。
春の桜を楽しんで、夏虫の鳴き声に耳を傾け、秋の夕暮れに染まる紅葉の中を歩き、冬の雪かきの合間に熱い茶を飲んだ。
どれもが、青年がもたらした変化で、少女はこんなにも人間らしい日々を過ごせることに満足していた。桜の木の下で盃を片手にまどろんでいるのも好きだが、それとは違う刺激にあふれた日々は、間違いなく幸福だった。
「話があるんだ」
ある日、葉桜となりつつあった桜の木の下で、酒を酌み交わしていると唐突に青年は少女の目を見て切り出した。
「僕も大人になった。それで、きっと僕はこの村で一生生活していくことになると思う」
「……そうなるじゃろうな。外ではお主は生きて行けぬ。この歳になって、農作業一つ知らぬからな」
少女の『役割』のために、水と食料の心配がないこの村で、少年は農作業の経験がなかった。木の細工や縫物などの手仕事や、家や井戸の修理のような土木の仕事はそつなくこなせる。しかし、生きるために最も必要な、食料を確保する能力が決定的に欠失しているのだ。
「だから、大人になった今、やりたいことがあるんだ。今じゃなくていいけれど、区切りとして、今となくいいと思うんだ」
「何をするつもりじゃ?」
すわ、求愛でもされるかと身構えた少女は――冗談程度は今まで散々交わしてきたとはいえ――次の言葉に尋常ではない驚愕と拒否感を覚えた。
「僕が生まれた村を見に行きたいんだ」
「ならんッ!」
反射的に思ったことを口にした少女は自分で驚いていた。
そこまで自らが、青年に執着していたとは――どこかへ行ってしまうかもしれないと想像するだけでこれほどの恐怖を覚えるとは全く想像していなかったのだ。だが、放たれた言葉は戻らない。
「そっか」
青年は少し困ったように笑って、それだけを言った。
少女にはわからなかった。なぜ今更、少年だった彼を捨てた村に行こうとするのか。もしかして、ここで覚えた仕事を売り込んで、再び村で他の人間と暮らそうと思っているのか。
それを聞きたくとも、それきりこの話題を出すことがなかった青年に自ら問いかけることがどうしても出来なかった。
そうして、ある日青年がいなくなっていることに気が付いた。
目が覚めたら、日が昇っておらず桜の花びらは空中でとどまっており、風が吹かず虫の声も聞こえない。
静かな常夜に戻っていた。
「え……あ……」
その事実に気づいた少女は、すぐさま刀を取り出し、村を駆け回ったが青年の姿は見つからない。それならば、と村の入り口まで駆けた少女は気が付いた。
(知らぬ……そう言えば調べておらぬ。奴の村の場所を……)
この世界に正確な地図などほとんどない。まして、寒村の住人に地図というものを理解しているものなどいない。せいぜい、道の順序や分岐点の目印くらいを知っている程度。あとは、行った事がある者に聞くしかない。
ここからどの程度離れた場所かは何となく聞いていたが、詳しい位置関係は――感覚的なものならともかく――青年も説明しようがなかったのだ。
(探しようがない。そんな、奴は堕ちた竜一匹すらどうにも出来んのだぞ……)
後悔と苦悩が少女の胸に鈍重に落ちてきた。
鬼の『役割』に探索や失せものを探す特別な力はない。ただ膂力にものを言わせてひたすらに探すことはできるし、分岐する道筋もたかが知れている。
総当たりをしてもいいが、青年が出て行ってからどれだけの時間が経ったのかわからない。そして何より、鬼を含めた者共は、観測者である人間の前に出ることを『役割』によって制限されている。
いるかもしれない、かつていたかもしれないと思われる分にはいいが、鬼が実在すると多くの者に知られ、当たり前の存在となることは『規律』や『禁則』に抵触する行為である。
少女は知っていた。
かつて人間だった少女は、それがどれほど恐ろしいことか。
(我は人食い鬼などではない。だが、人食いの――)
かつて、とある桜の木が生えた山奥の寒村で。
かつて、とある飢えた少女たちは禁忌を犯す。
(あれ以来、もう人とともにある事などないと思っておったのに)
そして、『反動』によって人間の『役割』を奪われ、観測者から怪異の鬼となった。
(もう二度と、楽しい食事などできぬと思っておったのに)
さらに、悪辣な事に、食事を味わう味覚すら喪失した。
鬼の『役割』によっていくらでもごちそうを生み出す事ができ、さらに大喰らいであるという鬼の『役割』に合わせるため、食べる事を止めることも出来ない。
しかし、酒の味はわからず香りのみが鼻をくすぐり、握り飯を食べても食感しかわからない。
咀嚼とともに繰り返されるのは、奪われていることを確認する作業だった。
自身の『役割』それそのものを全うできない、楽しめない苦痛。それが如何ほどの苦痛であるか、少女はよく知っている。
自分がそうなるのはまだ良い。さらなる苦痛を上書きされても構わない。
だが、青年にまでそれを背負わせるつもりは毛頭なかった。
生まれた姿で生き、生まれた役割を全うして生を終える事がどれほど素晴らしく、得難いことか。
彼女は村の入り口から振り返った。
散る事のない満開の桜を。
“桜とて、見る者がいなければ、寂しかろ?”
いつか、少し珍しい髪の色をした少女に、冗談めかして母親がかけた言葉を思い出す。
いずれ枯れ果てるとも、風に揺られて散りゆくからこそ、美しいのだろう。
「竜のように飛行できる者なら探索も移動も速い。道祖神や塞の神ならば道中を守り、道を開くこともできよう。が、ただの鬼には花を愛でるのが関の山かの」
鬼の中には荒天や死を司る者共もいるが、少女はそうではない。
無暗に追いかけるよりも、無事帰ってきた青年が何かから逃げていた時護れるように、ここで待っていることが最上であろう。
少女は冷静に、桜の木の下に腰かけ、盃を傍らに置いた。
「一人は、こんなにも……」
かつての日常が帰ってきただけなのに、これほどまでに耐え難い。
少女は少年の考えを聞かなかったことを後悔しながら、桜の木に背を預け、落ちぬ花弁を見上げ続けた。
§
次の日、あっさりと少年は帰ってきた。
「ごめん、心配を――」
喉元に迫った刀身の冷たさに、少年は冷や汗をかいた。
すんでのところで止まっているが、少しだけ皮膚を裂いたのか喉元から血が流れている。そもそも、力任せに戦うことしかしてこなかった少女に、皮一枚の寸止めなどできようはずもない。偶然うまくできただけである。
もっとも、本当は皮膚よりずいぶん手前で止めるつもりだったのであるが……。
「妖怪狸や妖狐、低級な霊の中には姿を真似るものがおる。お主は本当に我の知るお主かのぅ?」
「さて、どうだろうね。僕も最近、朝起きた時たまに思うんだ。昨日の僕と今日の僕は何が違うのかな、同じなのかな。とかさ。まあ、」
「うむ?」
「そういう朝って大抵、頭痛とか吐き気とかするんだけどね」
「二日酔い特有の現実逃避じゃそれは!」
「ああいう時ってどうしてちょっと高尚な事考えるのかな」
「知らんわ!」
こういう時、青年ののんびりとした態度は卑怯である事を少女はよく知っていた。何せ、怒気がどこかへ行ってしまうし、こういうやり取りが好きな彼女は悪い気すらしなかった。
そして今回の場合、青年は少女が自分を害するとはカケラも思っていなかった。信じているからこそ、軽口をたたいているのだ。
さらに言うならば、
「……本当にごめん。勝手な事して」
青年の喉が傷ついたのは、青年が想像以上の速度で頭を下げようとしていたからであり、刀身を早く引かせたかったのは早く謝罪したかったからである。
普段の様子を見せて他者の成り代わり出ないことを示しつつ、青年なりの誠意が示されている。
「ふん」
少女は盃を取り出すや、青年の喉元の血をぬぐい、殺菌した。
「お酒が少しもったいないね」
「戯け。悪いものが入っては大変じゃ。傷跡も残るかもしれん」
「別にいいよ。自分では見えないし」
「我からは見えるんじゃよ!」
傷をつけた少女の方が、むしろ動揺しているようだった。
「武器の延長で柄巻きぐらいなら、『役割』で取り出せるし、上手く巻けるのじゃが……」
「僕武器とか詳しくないけど、何となく遠慮するよ。首がずいぶんスリムになりそうだ」
青年は布の切れ端を首に巻き付けることで止血した。機械文明は衰退してしまったが、人間がかつて持っていたこういった知識は部分的に残されていた。
「さて、それでどうだったのじゃ」
桜の木の下で定位置に腰かけた少女は、少年に問う。
「端的に言うと、何もなかったんだ」
「? どういうことじゃ?」
「村がなくなってた。跡形もなくね」
「人間だけじゃなく村ごとかの?」
「そうだよ。場所間違えたのかと思っちゃった」
少女は少しだけ考える。
村自体が怪異でそれが移動してしまった場合や、村がなくなったように見せかける怪異の類が頭をよぎるが、実際に村ごと消えるとなると、思い当たる者共が限られてくる。
(人間以外もすべてとなると、天狗攫いのような神隠しというよりは、星の民の仕業かのぅ。まあ、彼奴らもそこまで徹底的に誘拐することはないと思うのじゃが……)
思い当たる怪異も、『役割』もなければ、こんな山奥の寒村で『反動』を恐れずに徹底的に人間に干渉する理由も思い当たらない。謎である。
(記憶を汚染されている可能性もなくはない。見たところ悪いものに影響は受けとらんが、我の『役割』ではな。悪いものの象徴を背負うがゆえにそういう気配には敏感じゃが……。一度、心を読む類の……覚でも探して見てもらおうかの。
しかし、記憶に汚染があるのなら、そもそも我のもとに来るまでの経緯全てが虚構だったのかも知れぬ。我を害する者が何らかの理由で送り付けたとは考え難いが、この者の出自は――)
深く、出口のない思考の迷路に陥っていた少女の両手を握ったのは、青年となり、ややゴツゴツした両手だった。自身の体温よりはるかに暖かく感じるその手に、少女はきょとんとしながらも、青年と目を合わせた。
「昨日の僕と今日の僕って、何が違うと思う?」
「……昨日、お主は村におらんかったじゃろうが。知らぬわ」
「……」
「……」
「ここに握り飯があるとする」
「唐突じゃな」
「何の変哲もないごちそうだけど、」
「ごちそうの時点でめでたいのう」
「中の具が何か、食べるまでわからない。でも、」
「でも?」
「君がくれた握り飯なら、たぶん今僕が食べたいものが中に入ってると信じてるし、中身が何か楽しみにしながら食べるよ」
「……」
「なので、安心して……握り飯ちょうだい」
「起承転結のうち結だけが最悪じゃ!」
いつかのように放り投げた握り飯を、青年は迷う事なく口にした。
「そうだよね。梅干しと佃煮で悩む日もあるけど、今日はこっちだ」
「……お主なら、どっちが入っておっても喜びそうじゃな」
「でも不思議と、両方入ってたとこ想像すると、嬉しくないんだよね」
「……そういう時はお代わりすれば良いじゃろ」
「うん、でも今食べたい一番はこれだね」
「ほれ、茶じゃ」
「ありがとー」
青年は相変わらずのんびりと茶をすすりながら握り飯を食べていた。
少女はそれを見て、すべてが元通りになった事を確信し、笑みを浮かべた。
§
月日は流れゆくままに。
幾度も桜が散り、蝉時雨が鳴りを潜め、紅葉が枯れ落ちて、雪が解けた。
そしてまた、春が来る。
桜が咲き。
そして、散る季節である。