桜の鬼の満開の下 1-2
再び止まった桜の木の下で、少女は夜空を見上げていた。
人間が自らより脆弱な存在であることは理解しているので、少女は少年の服を替え、適当に寝床を整えて寝かしつけておいた。
あのまま外界に放り出しておいてもよかったが、それで死んでしまっては助け損というものである。つまり、少女は単なる優しさから少年を連れ帰ったのではなく、そういった徒労を好まなかっただけなのである。
目が覚めれば逃げることはできるだろうが、どうするだろう。
この常夜と桜の廃村は、恐ろしくて逃げだすだろうか。
桜の下には死人がいるだの、鬼が棲むだの、酔狂な話題に事欠かない。
それに、少女自身の姿を見たならなおさら……。
脈絡の怪しい思考を盃の酒で押し流そうとしたその時、ぴたり、と音を立てるように、盃に花弁が落ちた。
いや、気づけば桜の花弁は時間の流れに沿って舞っていた。
「目が覚めたか」
観測者としての『役割』を持つ少年が目を覚ませば、即座にこうしてわかる。それでいて、この感知方法は少年には絶対に気づけない。何故なら、人間は基本的に自分が観測者だということを知らないからだ。
『役割』にそう定められているゆえに、相当な努力か才か、『反動』等の異常をもってでしか、この約束事は揺らがない。
「それで、どうしてここに来たのかの」
「……」
目の前に来た少年を見る目には、あの爬虫類を見るような敵意はなかった。しかし、爬虫類の表情を推し量った時のような怪訝な、不可思議な生き物を見ているような可笑しさがあった。
「助けてもらったから」
「ほぅ、本当にそうかの?」
「え……?」
少女の姿は既にその少年の背後にあった。
「こうして油断させて、お主を食べるつもりかもしれんぞ?」
手にはあの刀があり、少年は自らが陥った窮地を思い出して少し、震えた。
だが、それだけだった。
少女は困惑する。自らを恐れないことは幼い故の無知と考えることはできたが、何か達観したような風にも見える。
例えば、既に生きることを諦めているような。
「お主はなぜ、あのような場所におったのじゃ?」
「………………多分だけど、」
少年が何を諦めていたのか、少女は即座に理解した。
「口減らし」
少年は既に見捨てられていたのだ。
「そうか」
少女はそう不機嫌そうに呟くや既にいつもの桜の木の下に座って盃を持っていた。
「まあ、なんだ。ひとまず飯でも食え」
バツが悪そうに放った握り飯に、少年は目を丸くした。
それが少年にとってごちそうだからではない。先ほどから、少女が無造作に様々なものを取り出したり仕舞ったりしているからだ。
「どこから出したの?」
「気にするな。毒など入っておらん。茶は熱い方が好みかの?」
「いいや、そういうことじゃなくて」
「いいから喰え!」
「むごぅ!!」
口に握り飯を突っ込んでから、少女は不貞腐れたようにしばらく背を向けていた。
「ありがとう、美味しかった」
「……早いのぅ」
ほんのわずかな時間で、握り飯は少年の腹に収まったらしい。
「まあ、久々に人間に会う故に忘れておったが、怪異の類はそちらから見ると不思議なことができると知っておけ」
「怪異っていうか、それは……」
少年は少しだけ申し訳なさそうに少女の額から伸びたそれと、唇から時折のぞく、少しだけ鋭い歯を見た。そして、首を傾げつつ、
「人食い鬼?」
「……人なんぞ喰うか阿呆」
容赦のない少年の一言で、実は一寸だけ鬼の少女は傷ついていた。
(人間は人間以外や理解できない事柄、現象に極めて排他的で嫌悪感さえ覚える種族だと知ってはいるが、だからと言って少し不思議なことができて、角が生えてるだけで枕詞に“人食い”なんぞとつくとは。……生きにくい世じゃ)
幸いなのは、遠慮なく人食い鬼などと言う少年が少女を恐れていないことだが、この場合、少年の無知なる蛮勇が少女の複雑な心理を突き刺したのもまた事実である。
愚者は危険を恐れない。なんとも救いがたい構図である。
「全く、やっとれんの」
盃をあおる少女の姿を見て、少年は続ける。
「それってお酒?」
「そうじゃが?」
「子供は呑んじゃいけないんだよ?」
「……お主、空気が読めないと言われたことはないかの」
「えっと、どうしてわかったの?」
酒の美味しさなどわからないが、ため息を飲み込むためにあおってしまえば、余計にまずく感じるだろう。
興が削がれた少女は、盃を仕舞い握り飯をやや大口を開けて食べ始めた。
「うむ、やはり握り飯は硬めが良いのぅ。食感が違うわ」
「……」
じぃっと見つめる少年の視線の意味が解らない少女は無視しようとしたが、しばらく経っても視線はそらされることがなかった。
「…………」
「…………欲しいならそう言え!」
もう一つ握り飯を取り出して放る。
「どうやってるの?」
「言ってもわからぬじゃろうが、『役割』じゃ。鬼は大喰らい、酒好き。祭りや騒ぎ、力強さや単なる悪いものを象徴し、山や森が発する恐怖の具現でもある」
「???」
「ゆえ、武器を持つし、盃も交わす。それだけじゃ。そうあるべく定められたがゆえに、そうあるためのものを持っているに過ぎぬ」
「でも、子供はお酒呑んじゃだめなんだよ?」
「それは人の世の定めじゃろう」
「鬼の世にも定めはあるの?」
「定めがないという定めならあるぞ?」
「???」
二人並んで様々な事を話していると、少女はなんだか盃を持っている時とは別の、何か満たされているような感覚を覚えた。それは『役割』を果たしている際に感じる当たり前のことを当たり前に行う行動からくる、穏やかな幸福とはまた違う。
鬼として定められている行動以外は、つまりは能動的に幸福を探し満たす行為だ。少女にとって、誰かと会話するということは、鬼という性質上、そして少女の性格上、好むことであり楽しいことだった。
それを久しく忘れていた。
「お主を襲ったのは堕ちた竜じゃ。もっとも、本体ではなかったがの」
「竜?」
「竜、龍、ドラゴン。様々な呼び名があるが、彼奴らは空を支配することが『役割』ゆえに、大地に触れることができぬ。ほとんど陸上では目にすることはないのじゃが、鱗の一部等が落ちて地に触れると、あのように意思を持つことがあるのじゃ」
「そうなんだ」
「……理解を諦めたじゃろ」
「そんなことないよ。空にはすごいのがいるんだね!」
「……人間にとってはその程度の認識でよいじゃろうな」
竜が堕ちる理由は、『禁則』と『反動』によるものなので、理解ができなくても仕方ないし、少年を人間の『役割』から逸脱させるつもりは少女になかった。
竜のようにわかりやすい理由ならともかく、人間が堕ちる原因などどこに潜んでいるかわからない。さすがの少女も、原初のルールと呼ばれるそれら全てを熟知しいているわけではないのだから。
「ひとまず、お主この村に住むか?」
「いいの?」
「何もなく、誰もいない村じゃ。いてもいなくても変わらぬ。それに、お主がいれば常夜と桜のこの村にも、変化が訪れよう」
丁度その時、夜が明けた。
観測者を失った夜は、少年の到来によって時間の経過をはじめ、桜の木は少しずつ花弁を散らしながらも、確と地に根差して満開を誇っている。
「まずは家を用意せねばな。何せ、何年か何十年か。もう覚えがないほどに放ってあるからの」
「……それ大丈夫?」
「獣は近寄らぬし、人間がおらぬゆえ劣化もしておらん。多少の整頓と掃除で事足りよう。さっさと済ませてしまうか」
「そっか。安心した」
少女はそれをこれからの生活に対する安堵の言葉だと思った。
しかし、少年は少女の言葉の端を拾い上げて、全く異なる言葉を続けた。
「一人より二人の方が早いもんね」
「……人食い鬼を使いっぱしりにするとは、お主、やりおるの」




