桜の鬼の満開の下 1-1
ある日、人間はその存在を知った。
昏く昏く、誰の瞳にも映らない深淵の底でまどろんでいた“王”を。
そして、人間はそのことを知らなかった。
『役割』、『規律』、『禁則』、『反動』といったこの世界の原初のルールを。
そもそも、人間という種の『役割』――種族が持つこの世界に対する役割、影響の在り方、進むべき正道、極めやがて果てる存在意義――例えるなら、存在の根底に定められた羅針盤――によって気づくことができなかった。
人間の持つ『役割』はいわば観測者である。
人間はこの世界を観測し、世界という劇を進行させるいわば観客だ。
草木は芽吹き色づき枯れ落ちる姿を見られなければ、永遠にその過程を進めることはできず、風と波は凪ぎ、雨粒は落ちることを止め、存在そのものが否定され、あるいは忘失される。
端的に言うと、人間が認識していない出来事は進行せず、いずれ存在し得なくなる。
観測者の盲点にある他種族は、“王”が観測されるまで世界中で生産されていた『写真』のように、時間が止まった中で生きている。
一定以上の知性のある生き物はこの『写真』の中の世界でも動くことができるが、その世界の時間を動かすことができるのは人間という種族だけだった。
かつて、機械文明によりあらゆる事象を観測し、“王”をほんの一瞬、目覚めさせてしまった人間たちが築きあげた文明はあっけなく半壊し、遺物として残るのみである。人間という種族は、時計の針を――時計という機械の存在を忘れ去りながらも――数百年逆行する事となった。
そして、この世界で観測者の『役割』を持つ者が減ったために、彼らに忘失されていた――架空の存在だと信じられていた存在が息を吹き返した。
鬼、竜、河童、悪魔、天使、星の民、小人、妖魔、カムイ、エルフ、ドワーフ、ゴースト、クラーケン、グール、キメラ、等々――いわゆる怪異、魔物、モンスターと呼ばれていた、人間の宗教『科学』から逸脱した者共だ。
彼らは人々から平等に恐れられるが、彼らは人々に対して様々な感情を持っている。ゆえに生まれた奇譚は数多い。
まずは、鬼と桜と人間と。
あとは逆さまの月が盃に浮かぶ夜のお話。
鬼と、散らぬ桜と人の子と。交わることは、二度とない。
§
盃に落ちる波紋を、彼女は懐かしく思っていた。
その木を見上げ、かつての村を想うのは久しぶりの事だ。
肌は白く、雪が肌に触れたとて、その色合いに一切の変化はないだろう。
唇は見上げた桜同様に鮮烈で、引き結ばれた笑みの表情からは、哀愁がにじむ。時が経たない村の中で、唯一動いている彼女の周りには、桜の花びらが舞っていた。
しかしそれは、舞っていたというよりも、止まっていたというべきだ。
何故なら、空中で静止して、動いていないからだ。
空中で静止した桜の花弁は、奇麗であるがどこか寂しいと彼女は思う。雨粒ほど整っておらず、よく見れば少ししおれていて、ひしゃげた桜の花弁は、散る姿こそが美しいが、やはり静止した状態では嘘の涙のように乾いて見える。
そう、少なくとも、先ほどまでは。
少女は、それは自らが散る桜を知るが故だと思いなおし、盃に映った月を見降ろしながら、酒をあおった。
見た目は少女だが、彼女は長く生き過ぎているし、酒をたしなむことを否やという者はいない。ただ、酒をたしなんでいるふりをしているだけであり、その味を理解し評価するには幾ばくか足りないものがあった。
「ほぅ、このような地にも訪れる者があるとはな」
酒精を吐息として吐き出しながら、少女の唇は笑みの形を結んでいる。
桜の花弁が散っていた。
少女の持つ盃に、ひとひらの花弁が落ち、波紋を生んだのだ。
それは久方ぶりのことだった。
少女は肌と同じく白い髪が久々に風に撫でられるのを感じながら、歩を進める。背に負う桜の花弁は散り行き、桜色を失いながらその独特の芳香を漂わせ、手にのせていた盃に映っていた月は急に巡って昼になった。
そのことに少女は驚くこともなく、今外では雨が降っているのだな、と家から空を見上げるように太陽を少し見上げただけだった。
いつの間にか、手に杯はなく、代わりに刃物を持っていた。
薄く笑った月のような刀身を持つ刀だ。村と外界の境界は、粗末な柵と木々により定められていたが、外に出た時には既にその手にあった。
青臭い草木の香りとあたたかな日差しを肌に受け、少女は久しぶりのくすぐったい感覚に目を細めながら、少しだけ伸びをした。
遠くに、小鳥の囀りが聞こえる。
それと混ざって聞こえるのは、悲鳴とギャアギャアけたたましく鳴き喚く声。
何らかの異常事態――短絡的に考えれば桜を観測出来得る距離まで近づいた人間が、何かに襲われているのだろうか。
「ふぅむ、普段ならば助けぬが、久方ぶりの花見酒、全く風流であったのぅ」
一人でいる時間が長すぎて独り言が癖になっているな、と少女は思いつつ、刀をぶらりと片手に持ちながら森を駆け抜ける。
酒の味などわからぬ味覚であるが、その風景は確かに味わいがあったのだ。
ならば、礼の一つもしてやろう。
そんな軽い気持ちで即座に刀を振った。
剣術も何もあったものではない。ただ自らの膂力に任せて振りぬいただけだが、斬られた相手は首が落ちた後もまだ怪訝とした表情だったようだ。
もっとも、爬虫類の表情なので幾ばくかの推測が入るが……。
「ひぇ、あ……ええ」
先の推測通りというべきか、襲われていたのは少女と同じくらい年齢に見える人間の少年で、粗末な藍色の着物を着て藁靴をはいているが、どちらもボロボロだ。
一方襲っていたのは二足歩行する爬虫類のような存在で、この、かつて日本と呼ばれていた島にある山の中で見るには、どこか不釣り合いな存在だった。
鋭い爪と牙を持ち、口腔からよだれを垂れ流している様子からはおおよそ理性というものが見当たらず、少女を見る目は爬虫類のそれである。
生きたそれが二体と死体一つ。
「堕ちた竜かの? 迷惑な話じゃ」
たまにある事なのだが、竜は非常に迷惑な落とし物をすることがある。
それがこの者共だと少女は理解していた。もっとも、本体が堕ちていた場合、少女の手には負えない可能性もあったので――そのために安堵している自身への嫌悪感もあり――苦笑は多少恐ろしいほどに、獰猛に見えた。
主に、襲われていた少年にとっては。
「おいお主、血で汚れるのが嫌なら離れておれよ」
「ひぃっ!!」
既に服の一部が水分で汚れていることには触れず、少女は刀を無造作に振るう。
それが定められた寿命であったかのように、堕ちた竜は何も抵抗できずに首をはねられた。
少女の相手になどならない。それは戦闘ではなく、ただの作業に等しかった。
「せめて美味ければよいのじゃがな」
もう一体の首をはねた後、刀身の血を振りぬいて落とすと、少女は少年を振り返った。
特にそんな気はないが、少年からすれば、
「お前は美味いのかね?」
と問われている気がした。
「……」
「……」
「……うむ?」
少年は、気を失っていた。
「……」
少女はとりあえず刀を仕舞うと、片手で少年を担ぎ上げることにした。




