理想なき世界
心が愛に溢れ、真に優しい人は不幸になるしかありません。
その認識に至った少年の独白小説です。
本当に優しい人、心に愛があふれている人は、幸せにはなれない。誰に聞いた言葉であったか忘れたが、その通りだと思う。
争いが絶えることなく、不正がはびこる世の中。不運なひと、不幸なひとで満ち溢れている世界。
真に優しい人であるならば、その心の中は痛みでいっぱいであるはずだ。
生きていくということは、それだけで残酷なことだ。
他の生物の命を犠牲にしなければ、生物はその生命を維持していくことはできない。
神がこの世界の創造者であるならば、神とはなんと残酷な存在なのだろう。
人間のもつ価値観だけでは、神の意図を推し量ることはできない。
神とは不可知なもの。人間の認識の及ばない存在。そう考えるしかないのではないかと思う。
今まで生きてきて色々なことを考えてきた。
理想とは何か。完全とは何か。
愛と優しさに満ち溢れ、神の愛を讃えるひとたちで構成される理想の世界。そんなものも夢想した。
しかし、思索をどんどん深めていけば、愛、優しさ、神、理想、完全。
そんな言葉は、人間とは相容れない虚構の観念でしかない、と考えざるをえない。その真の意味は、人間の認識を超えた神のおわします至高世界にしか存在しない。
それらの言葉をこれからも使うことはあるかもしれない。しかし、それはあくまでも人間の認識の中での、愛、優しさ、神、理想、完全だ。
真の世界、イデアの影であるこの現象世界における、限定された愛、優しさ、神、理想、完全だ。
すぐに観念的なことを考える少年ではあったが、そのことばかり考えていたわけではない。
まだ、前記のような認識にたどりつくまでの時代。特に深く考えることも無く、理想、愛、優しさといった言葉を使っていたころ、
理想の少女に出逢った。十歳と十四歳のとき。
魂をゆさぶられ、心がうちふるえる。
そんな思いをもった少女は、これまでの人生で二人いた。
十歳。ひとはこれ以上可愛くはなれないであろう、という少女に出逢った。
十四歳。神秘的という形容詞で呼ぶしかない美少女に出逢った。
ともに心優しく、いつも微笑みをたたえている少女だった。
清純な美であり、自分にとっては最高の美だった。
運命の出逢い、宿命の出逢い。そんなことを思った。
そしてその少女のすぐ傍らで生きていく、それからの人生を夢想した。
しかし、その恋はどちらも実を結ばなかった。ふたりは、どちらも別の少年を選んだ。
愛と優しさに満ちた理想の人生、完全な人生。
私がその人生において紡ぐはずだった美しき物語は終焉した。もうどうあっても、私の人生は、その中に負の記憶を持たねばならなくなった。
そして、ふたりの少女は、理想を極めた神秘的な存在ではなくなった。
いや、あらためて平静な気持ちで振り返ってみれば、出逢った時点でも、理想を極めた神秘的な天上の美ではなく、やはり俗界の美であった、というのが真実なのだ。
少年の私が、当時の自らの価値階梯において、現実に見た少女の中で、そのふたりを美の頂点に位置づけたにすぎなかったのだ。
その年代の私にとっては、理想の少女に出逢ったという現実が必要であったにすぎなかったのだ。
様々な思想。様々な芸術作品とも出会った。そこにも魂をゆさぶられ、心がうちふるえる出会いがあった。
が、今、それらの出会いを思い返したとき、自分の精神を震撼させたそれらからは、逃げたいと思っている自分がいることが分かった。
愛、優しさ、神、理想、完全について、先述の認識に思い至ったとき、同時に、そういう自分を発見したのである。
自分は今、生まれ変わろうとしている。そう感じた。自分はどういう方向に進もうとしているのか。それも分かった。
自分はもう、考えても意味の無いことは考えない。人間の認識の限界の中で生きていく。
愛、優しさ。理想、完全。そんな言葉に心を惑わせることもない。
これからも心がゆさぶられることもあるだろう。だが、それは、自分の精神、観念がうちふるえるのではない。自分の肉体と、現実的実際的功利心が応答するのだ。
私は、理想なき世界を生きていくのだ。