停止条件
これは、簡単なようで実に難しい質問だった。
なぜなら、貴樹自身も疑問だったからだ。ミレーヌに飛びかかった瞬間でさえ、まだ自問自答していたほどだ。
「わからないな……でも、最初にこう思ったんだ」
じっと見つめるミレーヌの瞳を見上げつつ、貴樹は答える。
「ミレーヌがこうなった経緯については、かなり詳しく聞いた。君が自分にかけた呪術のことはもちろん、忘れさせられているはずの、ラザールにかけられた呪術のことも。……だから、この狂乱については、君の責任じゃない。記憶がないまま、呪術によって操られていたんだから」
――それが、殺されるいわれはないと思った理由じゃないかな。
自分の考えをまとめつつ、説明してやる。
すると、ミレーヌはゆっくりと微笑した。
「ああ、そうなのね、それで腑に落ちたわ。今のミレーヌは、憑き物が落ちたように、殺戮衝動が消えている……そうか、あいつにかけられた呪術が、解けたせいだったのね。気付かなかったなぁ……今までの闘争心と呪術への執着が、自分の意志じゃないなんて」
どこか吹っ切れた表情で笑う。
いつのまにか、瞳が普通の薄赤い色になっていた。
もはや、白目の部分はあくまで白く、不自然なところがない。
「そこが、どうしてもわからなかったのよ。なぜ貴樹に助けてもらった直後から、急に人殺しをする気が失せたのか。人間って、そんな簡単に変わるものじゃないはずなのに」
「解けたの!?」
慌てて起き上がろうとしたのに、またミレーヌに押し留められた。
「そう。多分、貴樹がラザールの呪術を破ったんだと思うわ。呪いによる精神支配は解除されている。解除条件は今となっては知りようもないけど、推測はできるわね。多分、ミレーヌが予期せぬ危険に遭遇した時、誰かが命がけで助けること――あたりかしらね? どういうつもりでそんな条件を設定したのかは不明だけど、これもあいつの歪んだ愛情かしらねぇ」
ミレーヌが凄みのある微笑を広げる。
あいつも、ある意味ではミレーヌを本気で愛していたんじゃないだろうか……とふと貴樹は思ったが、口にはしなかった。
被害者の立場である彼女には、慰めにもならないだろう。
「そう考えると、ミレーヌは幸運だった。結果的に、最後に貴樹に巡り会って、こうしてラザールの呪術が解除されたのだもの。最初にかけられた呪いが解けた瞬間、それに対抗するための、ミレーヌ自身の術も解けたというわけ。生き腐れの呪術は、あくまでラザールから身を守るためで、あいつの呪いが消えたら、もう必要ないから」
「よかったじゃないか!」
貴樹は心からの祝福を込めて言ってやった。
ミレーヌは微笑を返しはしたものの、どこか疲れたようにため息をついた。
「とはいえ……今のわたしは、やはりどこか以前のミレーヌと違うと思うけどね。心の一部が壊れたのは、もう今更、元に戻らないのかも」
「……そんな」
「心配しないで」
ミレーヌが茶目っ気たっぷりにウインクをした。
「それでも、貴樹次第で、もうこれ以上この馬鹿騒ぎを続ける気はないから。実際、呪いも解けたことだし」
「本当に!?」
貴樹の質問は「本当に(この騒ぎを)続ける気がないのか?」という意味だったが、ミレーヌは呪いの方だと思ったらしい。
「本当よ。だって、現に貴樹が触れても、身体が腐らないでしょう? 念のために、ほら!」
貴樹の手を取り、よりにもよって、自分の胸にびたっと押しつけた。
「うおっ」
絶妙な弾力と感触に、思わず声が出てしまう。
そこまで思い切り押しつけなくてもっ。
「こーんなことすると、今までだったらその場で貴樹の手が腐っちゃうのよ? もちろんミレーヌも無事では済まないけどね。……でも、今はなんともないでしょ、二人とも」
貴樹が口をぱくぱくさせるのを見て、くすくす笑う。
「鋼鉄の処女改め、ただの処女になってしまったわね」
「い、いや……なんと言ったものか」
「ところで、ラザールがこの都市にかけた大規模呪術を完全に解除する代わりに、ミレーヌは条件を出しますっ」
いきなり元気よく言われ、貴樹は眉をひそめた。
膝枕から起き上がりたいところだが、未だに手で止められてしまうので、それもままならない。
ままならないと言えば、ミレーヌは未だに自分の胸に貴樹の手を押し当てたままだった。
「――その前にぃ、貴樹は壊れた女の子はお嫌い?」
「それって、ミレーヌのことか」
「そう。壊れてるけど、基本的には良い子にしている……今は、そんな子」
「いや……それなら。今のミレーヌは別に」
ていうか、いい加減に手を放してほしい。
まともにものが考えられない。
「そう、そうなのっ。許容範囲内ね。それなら、条件も出しやすいなっ」
あははっと陽気に笑う。
邪悪さは消えているが、なるほど、貴樹が見てもどこか普通とは違うように思う。
「時に、ミレーヌの胸はどう?」
まだ手は放してくれないが、ミレーヌ自身も少し頬を赤くしていた。
「……気持ちいい? 自分じゃわからないけど、感触は?」
「そ、それはもう。でも、気まずいからそろそろ放してほし――」
「では、条件です」
いきなり厳かな声で言われ、貴樹は目を瞬く。
「な、なんだ……なんですか」
「簡単なことよ。ミレーヌを貴樹のそばに置いて」
貴樹の頭に、その要請が染み込むまで、随分と時間がかかった。
わかっても、相変わらずすぐには口がきけなかったが。
ただ、そう申し出た時のミレーヌの顔は、嘘のように穏やかで……そして美しかった。




