吹っ切れたグレンと、ホウキの代用
「おっと! どちらに行かれるのかな、殿下っ」
少佐が思わぬ敏捷さを見せて、瑠衣の前へ立ち塞がった。
「殿下は、いざという時に我々を魔法陣で逃がすお役目がありますぞ。万一にもここが危なくなった時に備え、既にこのビルの屋上には魔法陣の準備も済んでおります」
「知りません、そんなのっ。瑠衣はお兄様をお助けするんです!」
無視して彼を避けて通ろうとすると、いきなり少佐に手首を掴まれた。
汗ばんでいるせいかベタベタしていて、本能的な嫌悪感に身体が震えた。「放してくださいっ」と瑠衣が叫んだが、少佐は平然と手に力を入れた。
「痛いっ」
「我慢しなさい。……そもそも貴女は、もうすぐ私のものとなる運命だ。今から慣れるのですな」
「な、なんの話ですかっ」
ぎょっとして瑠衣が、身長の低い彼を見下ろすと、濁ったギラギラした目が瑠衣を見据えた。
「言葉通りですよ。もう教えて差し上げるが、陛下はもはや貴女を切り捨てるおつもりだ。まあ、妾腹の子など、邪魔でしかないですからな。高価な薬の効果もさしてないようですし、もう貴女に用はないのだそうで。だから後は、この私が貴女をもらいうける。――とっくに、そういう話になっているのです!」
「あ、兄上が……瑠衣を……そんな」
壁際に控えたグレンの方を見たが、彼はそっと目を逸らしていた。どうも、彼ですら知っていた話らしい。
深刻な絶望感が押し寄せたが、しかし今は泣いている場合ではない。
お兄様を助けないといけない!
「とにかく、放してくださいっ」
「げふっ」
生まれて初めて足で人を蹴ったが、これがまた綺麗に少佐の太鼓腹に決まり、妙な声を上げて彼がその場に膝をついた。
腹を抱えて唸っているが、瑠衣は無視して、そばにある長机の椅子を持ち上げようとする。これで、窓を破るつもりである。
しかし、背後で少佐が喚いた。
「その生意気なメスガキを殺せっ――い、いや、ま、まだ殺すなっ。取り押さえろ!」
椅子を持って窓へ走ろうとしていた瑠衣の前に、少佐の部下の一人が飛び出し、銃を向けようとした。しかしそこで、動いた者がいる。
ずっと手を出さずにいたグレンが、懐から銃を抜いていきなり撃った。
「うっ」
構えようとした拳銃を弾き飛ばされ、男はその場にうずくまってしまう。
「やれやれ……俺にもまだ、こんな甘い面があったとはね!」
随分と吹っ切れた口調で、グレンが笑う。
自分に呆れたように、首を振っていた。
「殿下、貴女が本当に慕う、こっちの兄のところへ行きなさい! ただし彼は学校じゃなく、この近所にいるはずですっ」
言下に、窓めがけて銃を乱射する。
どんどんガラスが割れていき、四発目で瑠衣が飛び出せるほどの空間ができた。
「お兄様がこの近くにとは……どういうことですっ」
椅子を投げ捨て、瑠衣は慌ててグレンのそばに駆け寄る。
しかし彼は瑠衣を背後に押しやった。
「説明している時間はないんだっ。ここは俺に任せて、早く!」
「わ、わかりました」
理由は不明だが、時間がないというのは、まさにその通りである。
「でも、グレンは大丈夫なのですか?」
「はははっ。俺にはまだ、とっておきの奥の手があります。こんなトコで死にはしません。さあ、早く!」
「わかりました! ありがとう、グレンっ」
慎重なグレンのことだ、何かこの窮地を脱出できる手段があるのだろう。
それ以上は訊かず、瑠衣は思い切って窓へ走り、アリス(ぬいぐるみ)を抱いたまま、空中へ飛び出した。
アリスのような小さなものを飛行の媒体にするのは初めてだったが、手元には他にないのだから仕方ない。学校の鞄ですら、さっきの広間に置いてきてしまった。
「我が身を空へ! お願いアリス、飛んでっ」
……まさにギリギリだった。
叩きつけられる寸前、ようやく魔力が作用し、抱き締めたアリスにぐっと力が入るのがわかった。瑠衣の膝が歩道に少し触れたが、それを最後に、後はぐんぐん上昇していく。
「な、なんとか飛びやすい体勢に……きゃっ」
もがいているうちに、ぐるっと身体が回転して、危うく落ちそうになった。危ないところでアリスにぶら下がり、なんとか落下を食い止める。
そこから瑠衣は苦労してアリスをお尻の下に持ってくることに成功した。ようやく、彼女に乗る体勢になった時には、眼前に見知らぬビルが迫っていた。
「あ、危ないっ」
窓にぶつかる寸前で辛うじて角度を変え、ビルの壁面に沿って急上昇していく。
瞬く間に安全な上空へ出て、ホバリングした。
「乗り物代わりにしてごめんなさいね、アリス。でも、お兄様を見つけるまで、がんばって!」
ホウキならぬ(ぬいぐるみの)アリスに乗った瑠衣は、道路に沿って飛び、兄の姿を探し始めた。
(どこなの、お兄様っ。だいたい、どうしてこんな場所へっ)




