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流星群・一



 時刻は午後九時を十分ほど過ぎた辺り。はずれの草原で、僕は腰を下ろして空を見上げていた。隣には、寄り添うようにしてイノリがいる。少し離れた場所には、アトリヘルが凝った作りの望遠鏡を構えて空を見上げ、ヒダルキに何やら話しかけている。僕たちがはずれの草原まで流星草を見に行くと言ったら、二人はやはり同行を願い出てきた。

 なので、鏡拾いの湖からこのはずれの草原までは、主にアトリヘルの旅行記を傾聴することとなった。と言っても、一方的にまくし立てられる自慢話を延々と聞かされる羽目になったのではない。さすがは詩作を生業にしているというべきか、彼の口から語られるヒ国の各地の様子は、思わず聞き入ってしまうものだった。

 彼は相当売れっ子の詩人なのか、それとも実家に有り余るほどの財があるのか、ヒ国の各地を巡っている。

 加須房かぞふさの、見渡す限り続く大湿原。

 南度原なんどばらの、神代に巨人が遊んで作ったとされる奇岩の平野。

 弓駒岳ゆこまだけの、闇夜を赤々と照らす活火山。

 そしてここから遙か北ネムトップの、港を覆い尽くす流氷と猛禽たち。

 その場所の風景。動植物。そして人々の生活。アトリヘルはそれを、事細かにしかも面白おかしく僕たちに語って聞かせてくれた。日本に似て、日本とは異なるこのヒ国を、彼の言葉だけで一巡りした気持ちになるから不思議なものだ。とりわけ彼の話に熱中していたのは、もちろんイノリだった。

 僕は一応、日本にいる間にヒ国の文化と習俗、それに環境や地理については一通り勉強した身だ。アトリヘルの語る各地の風俗は、知識としては頭に入っている。それでもついつい、彼の話に引き込まれてしまうのだ。ましてや、見たことも聞いたこともないイノリならなおさらだ。祭の際に語り部が語る話を、ほぼ独占して聞けた状態だろう。

 両手の拳を握りしめ、目を輝かせて彼の話の続きに耳を傾けるイノリは、まさに聞き手として理想の形だった。結果、アトリヘルの弁舌はますます軽やかになり、はずれの草原に着くまで僕たちは一切退屈しなかった。あまりにも熱中していたため、道すがらの採取さえ忘れていたくらいだ。


 そうこうしているうちに、視界の端で、ゆらり、と光が草の上から浮き上がった。


「あ、雪人さん! またです、また上がりましたよ!」


 隣に座るイノリが、目ざとくそれを指差す。ゆらゆらと風もないのに右に左に揺れ動く様は、ホタルに非常に近い。蛍の光は緑がかった黄色だが、この色はほとんど白色だ。

 頼りない様子で、光はゆっくりと僕たちの頭上を越えて、空の彼方へと消えていく。


「すごくきれいですね。私こんなの、生まれて始めて見ました」


 いたく感動した様子で、イノリは僕の方を向いてそう言う。


「イノリがそう言うなら、ここに来られてよかったよ。僕もここを選んで正解だったかな」

「はいっ。本当にありがとうございます。私も来てよかったです!」


 小さなことでも、こうやって大げさなくらいに喜んでくれるイノリを前にすると、自分のしたことが十倍にも二十倍にも報われていると実感してしまう。僕が行ったことは、そんなに大それたことではない。単に場所を選び、準備をしただけだ。

 僕たちがはずれの草原についてしばらくしてから、流星草は種を飛ばし始めた。流星という名前なのだから、空に向けて花火のように打ち上げると思っていたのだけれど、実際は違った。流星草の大群落であるこの草原のあちこちから、ホタルによく似た形で光る種が空に向かってのぼっていく。

 流星草は内部に宿した動体の力を借りて、発光しつつ空に舞い上がり、遠くにまで種を飛ばす。地球のホウセンカが弾けて種をまき散らしたり、タンポポが風力を利用して種を遠くに跳ばすのと同じ理屈だ。流星群を見に来たのに、実際にしたのはホタル狩りだった。そんな言葉が脳裏によぎる。時間が過ぎるにつれて、光る種の数は徐々に増えていく。


「少しお口に入れませんか?」


 無数の光の明滅に心を奪われていると、隣でイノリの声がした。そちらを向くと、小さな手の平に何かを載せて差し出していた。そういえば、はずれの草原に来てから何も口に入れていない。猛烈な空腹感はないものの、さすがに一切食べないのはよくない。


「うん、もらおうかな」


 手を重ねるようにして、イノリの差し出したものを受け取る。顔に近づけて見てみると、殻の付いたままの〈サビグルミ〉だった。長期間保存できる代わりに、とにかく殻が固いことで有名なクルミだ。手に取ると、割りやすいようあらかじめ殻に傷がつけてあった。イノリの右手を見ると、小刀が握られている。わざわざ、下準備してくれたようだ。


「ありがとう。おかげで簡単に食べられるよ」

「いえ、これくらい、当たり前ですから」

「そうは言っても、実際にしてくれたのはイノリだからね。助かるよ」


 僕自身もナイフを持っているけれども、刃物の使い方についてはイノリの方がずっと器用だ。自分で殻に傷をつけてから割るよりも、イノリにしてもらった方が効率がいい。


「……本当は……もっと……」


 傷に沿って殻を割り、中身を口に入れた時だった。かすかなイノリの呟きが聞こえた。


「イノリ?」

「あ、いえ、何でもありません」


 慌てた様子で手を振って打ち消すイノリ。普段の僕ならば、それ以上追求しないはずだった。けれども、なぜかその声は不安そうで、僕は聞かなかったことにはできなかった。


「いや、聞かせてくれないかな」

「で、でも……その……たいしたことじゃないですから……」

「イノリが嫌だって言うなら、僕も無理強いはしないよ。でも、できれば聞かせてほしい」

「できれば……ですか?」


 なぜかもう一押しを、イノリは求めていた。


「なら、ぜひに。ぜひ、聞かせてほしいんだ」


 だから、僕はそれに応じた。

 しばらくイノリは目を泳がせていた。やがて腹をくくったのか、その口が動く。


「本当は……ですね。もっと、雪人さんの奥さんらしくできれば……もっとよかったのにって思ったんです」


 彼女から聞かされた言葉は、思いがけないものだった。幼妻という言葉がまさに当てはまるイノリは、これまでずっと内助の功を体現しているとばかり思っていた。

 もちろん、打てば響くというか、一を聞いて十を知るというか、目から鼻に抜けるような行動はしない。一つ一つ、何かする度に僕に伺いを立てる様子は、内気で恥ずかしがりなイノリの性格によるところも大きいだろう。けれども、今までイノリは幼妻としての役割に、ぴったりと当てはまっていた。

 それなのに、イノリがこんなことを言うなんて。僕はとっさに言葉が出てこない。


「……雪人さんはすごい人です。外つ国から来られた方なのに、私たちのしきたりに簡単に慣れ親しんで下さいました。雪人さんは、私から見ると何でもできる人です。でも……私は、駄目なんです」


 僕が無言になった代わりに、イノリはいつになく言葉が続く。彼女から見れば、兵藤雪人は万能の超人そのもの、『ツァラトゥストラはかく語りき』から出現してきた偉人らしい。でもそれは、大きな誤解以外の何ものでもない。僕は地球人であって、先人の知らない様々な道具を持っていて、人よりもほんの少し異邦に詳しいだけに過ぎない。

 イノリにとって物珍しいものすべてを、僕が備えているだけだ。僕個人は、偉人でも何でもない。公平な第三者の視点から見れば、僕という人間の価値もイノリという人間の価値も、何一つ変わらない。せいぜい、差といえば年齢くらいだ。けれどもその差が、イノリには越えられない壁として見えるようだ。


「イノリ。僕を高く評価してくれてありがとう。イノリにそうやって誉められると、ほかの誰に誉められるよりも嬉しいんだ」

「いえ、そんな。もったいないです。私が一番だなんて……」


 見る見るうちに照れてしまうイノリだが、僕の発した言葉は決してお世辞ではない。本心だ。

 こうなる前は幾度か顔を合わせただけ。仮の婚姻を結んでまだ一週間も経っていない。けれども、いつの間にか僕とイノリは、心のどこかが結び合わさっていたような気がする。他の誰よりも。両親よりも、学校の先生よりも、SASの教官よりも、イノリの言葉は僕の心を明るくしてくれた。

 だから、イノリが辛い心情を吐露したならば、何としてでもそれを取り去ってやりたくなる。


「でも、僕は決して万能じゃない。イノリと同じ人間だよ。失敗するし、間違いだってしょっちゅうだ。とても何でもできる完全な存在なんかじゃない。イノリが引け目に思うことなんか何一つないんだよ」


 僕としては精一杯言葉を尽くしてみたのだが、それでもイノリは首を左右に振る。


「違うんです、雪人さん。私は雪人さんの奥さんなのに、とてもお母さんのような人にはなれません。だから……」

「お母さん?」

「はい。お母さんは、とても素晴らしい人です。私は尊敬しています。あんな風になりたいって、結婚して、奥さんになったら、お母さんみたいな、何でもそつなくこなせる人になりたいってずっと思っていました。でも、実際に結婚してみたら分かったんです。私なんかじゃ全然、お母さんみたいな素敵な奥さんにはなれないって。どんなことも、先んじてできるようにはなれませんし、人前だと緊張してうまく話せませんし、力もなければ頭もよくありませんし、まだ五つ星のままですし、外つ国の人が旦那様なんですから、奥さんの私がしっかりしないとって思っているのに、ずっと駄目なままなんです…………」


 そこまでが限界だったのか、イノリはうつむいてしまった。今までで、一番彼女は喋ったのではないだろうか。溜め込んだものを、内でこごったものを、吐き出すようにしてイノリは言葉を続けた。

 母のようになりたい、とイノリは言った。祭の最中、僕は彼女の母、ニペナに会ったことがある。父親が壮年を過ぎつつある初老と言ってもいい男性に対し、母親はまだ若々しい女性だった。イノリが未熟な部分を取り去って、年齢相応の美しさを磨いたらこうなるだろう、としか思えないほど二人はよく似ていた。

 あまり言葉を交わすことはなかったが、静かに「娘をよろしくお願いいたします」と深々と挨拶されたことはよく覚えている。結局のところ、仮とはいえ、あまりにも性急な結婚だったのだ。もっと時間があれば、僕とイノリはお互いを知り得ただろう。もっと時間があれば、イノリは成長し、母のような女性に近づいたことだろう。

 そうすれば、僕はイノリの優れた点をもっとよく知り、逆にイノリは僕の至らない点をきちんと目にすることができただろう。けれども、現実は異なる。僕たちはほとんど知り合う前に結婚し、イノリは未熟なままで妻を演じることとなった。その現実は、変えられない。だからせめて、僕は言葉でイノリの重荷を取り去りたかった。


「イノリ、君の言いたいことはよく分かった」


 言ってから、僕はそれが傲慢であることに気づいた。イノリと同じ目線にすら立っていないのに、よく分かると言えるはずがない。


「でも、僕たちにはどうしようもないものがある。それは時間だ」


 けれども、イノリは僕の的外れな言葉に対して、顔を上げた。

 その目にあるものは、不安と同時に、変わらない信頼だった。

 どうしてだろう。どうして、彼女は僕をここまで信頼してくれるのだろう。


「君のお父さんとお母さんが一緒になった時間と、僕たちが一緒になった時間とはまるで違う。それは分かるね?」


 たとえそれが傲慢だと分かっていても、僕は言葉を続けるしかない。イノリが、うなずいたからだ。


「君のお父さんとお母さんには二人なりの、僕とイノリには僕たちなりの時間の過ごし方がある。その二つはどちらが上でもなければ、どちらが優れているわけでもない。それぞれ別のもので、比べられるものじゃないんだよ。もちろん、一緒に築いてきた時間の長さという点だけを見るならば、僕たちは君のお父さんとお母さんには並ぶべくもない。

 君のお母さんとお父さんの息がぴったり合っていて、僕たちの息が合わずにちぐはぐな状態なのは、至極当たり前のことなんだ。その事で、君が引け目に感じることなんて何一つない。時間が解決してくれる問題さ。僕は今のイノリと結婚して良かったと思っているし、腕が立つからイノリのお母さんの方と結婚したかった、なんて思ってない」

「雪人さん……」


 僕が「イノリではものの役に立たないので、もっと腕が立つニペナさんを嫁に下さい」などと言うはずがない。わざわざイノリに言い聞かせるのでなければ、頭の中に浮かぶことさえない考えだ。少しずつ、イノリの瞳から不安が消えつつある。そう信じて、僕は頭をフル回転させて言葉を探す。

 分かったような口を利かずに、イノリの側に寄り添えるような言葉を。

 頭の中にはあるのに、言葉にならないものはこれほど多いのか。改めて僕はそれを実感する。


「僕はイノリだから、結婚してよかったって思ったんだ。エトロナイの娘であるイノリという君だからこそ、僕はそう思う。家事ができて、頭がよくて、青空石が全部取れていて、狩りの名手で、しかも歌がうまい人ならヒ国のどこかにいる。でもそれは、どこかにいる誰かだ。僕には関係ないし、見たこともないし、何より興味が一切わかない。僕が関係あって、見たことがあって、興味がわくのはイノリだけなんだ。だから、どこかにいる顔も見たことがない誰かと自分を比べないこと。僕にとって、イノリは充分、奥さんらしい人だよ」


 そこまで言って、僕は語るのを止めた。気がつくと、結構恥ずかしいことも口にしていたような気がする。何だかもう、告白そのものじゃないか。一年間の仮の夫婦であるというのに。でも、ここまでこちらも本気にならなくては、イノリの心は動かせないはずだ。


「……雪人さん。信じても、いいんですよね?」


 僕の言葉を噛みしめるようにして、イノリはそう言う。


「ああ。僕だって嘘はついてしまう人間だ。でも、イノリには絶対に嘘はつかない」

「本当ですか? 本当に、本当に、私でよかったって思って下さるんですか?」

「勿論だよ。そうでなければ、こうやって新婚旅行に来るわけないじゃないか。こうやって一緒に過ごせて、嬉しかったよ」


 イノリはようやく、はにかんだように笑った。少しだけ涙目にも見えたけれども、その事については追求しない。


「はい……。私も、嬉しいです…………!」


 やっと、イノリは笑ってくれた。僕にできたことは、ただ言葉をかけただけ。けれども、その双肩にあった不安と重荷が、少しでもいいから取り去れたのならば、願ってもない幸いだった。

 手を伸ばして、僕はイノリの髪に触れた。あの日。トンノさんの家の前でしたように、僕はまたイノリの頭を撫でる。あまりにも、彼女のはにかんだ笑みが可愛らしかった。衝動的に手を伸ばしてしまったが、それだけの魅力がイノリの笑顔にはある。


「あの……?」

「ん?」

「何だかこうされていると……私、小さな子供として扱われているみたいです」


 十三歳はまだ子供の範疇だろう、と思ったけれども、口には出さない思慮分別くらい僕は持ち合わせている。イノリは嬉しさが三分の一、照れくささが三分の一といった表情でこちらを見ていた。今までならば二つの比率が半々だったのだが、今回は三分の一だ。残りの三分の一は、不満そうな表情だ。

 確かに、イノリのことを奥さんだと豪語したその矢先に、子供のように扱うのは不満を持たれて当然かもしれない。けれども、こちらとしてもそうやすやすと、手触りのいい髪の毛と頭を手放すつもりはない。


「ああ、済まない。ついつい手触りがよかったので。…………嫌なら、止めようか?」


 あえて手を止めずに、相手に決定権を委ねる。いかにも「残念で仕方がないが、そう言われては止めざるを得ない。誠に遺憾である」という顔を取り繕う。


「……やっぱり止めないで下さい」


 イノリ。僕は確かに君に対しては絶対に嘘をつかないと言った。けれども、権謀術数を尽くさないとは言ってないんだよ。

 あっさりと、イノリはこちらの願った通りの返答を返してくれた。よかった。これでまた何かあったら、イノリの頭を撫でることができる。それに。撫でる手を止めずにいると、イノリの不満そうな表情はすぐに消え、また大きな子猫のようになっていた。イノリにとっても、この行為は決してまんざらでもないようなのだから。



 ◆◇◆◇◆◇



 その時だった。まばゆい光が、広大なはずれの草原一円を包み込んだ。足元からそれはわき上がり、文字通りはずれの草原の全域が光に埋め尽くされていく。今までのホタルのような輝きとは、規模が桁外れだ。光そのものは、流星草の種であることに違いはない。けれども、その量が半端ではない。

 はずれの草原一帯を占拠する流星草のすべてが、ほぼ同時に種を飛ばし始めたのだ。真っ白い光の粒が、少しずつ空へとのぼっていく。さっきまで僕たちが目にしていたのは、単なる前座に過ぎなかったのだ。この一瞬こそ、流星草にとって本番にして最高潮だ。この日のために蓄えていた動体を用い、流星草は空へと向かって光と共に種を飛ばしていく。


「まるでサンゴの産卵だ……」


 僕はそう呟いていた。映像で見たことがある。海中のサンゴ礁を形成するサンゴが、夜に産卵する様子を。一粒一粒は、小さな卵でしかない。けれども莫大な量が集まることによって、それは一大スペクタクルへと変貌する。僕たちが目にしているのは、それを陸上に移したものだ。光り輝く種が、空を海に変えていく。

 そして、次の刹那。

 光の海が、弾けた。無数の流れ星が、空一面を覆い尽くす。大きさも形状も、流れる形もその光も、何もかもが流れ星そのものだった。地球にいるならば、決して見ることのできない、全天を舞台とした流星群。それが今まさに、はずれの草原の上空で繰り広げられていた。


「おお……おお……! これは……まさに……まさにっ!」


 感極まっていたのは、僕だけではなかった。離れていた場所で空を見上げていたアトリヘルが、おぼつかない足取りで歩き出す。目は夜空を凝視したままだ。ちょっと転びそうで怖い。


「――――Falferione!!」


 両手を万歳するかのようにして掲げ、アトリヘルは虚空に向かって大声で叫んだ。

 恐らくはエルフ語、それも西方の〈薄明海〉沿岸の訛が混じっているように聞こえる。そうなると、アトリヘルは外国からヒ国に移り住んだエルフなのだろうか。何を言っているのかは分からないが、言いたいことは感覚で伝わってくる。ビューティフルとかエクセレントとかファンタスティックとか、そういう感じの事を言いたいのだろう。


 突然夜空が暗くなった。月の明かりと、流れていく無数の流星草の種とで、はずれの草原は夜だというのに明るい。ましてや、今日はまるで誂えたかのように、雲一つない月夜だったはずだ。急に雲が出てきたのだろうか。


「雪人さんっ! 雪人さん! 上を見て下さい!」


 イノリはそう言うと、僕の袖を慌てた様子で引っ張る。

 言われた通り、僕はアトリヘルたちから目を移し、空を見上げた。巨大な生物が、空をクジラのようにしてゆったりと泳ぎ回っている。飛び回る、と表現するのが本来は正しいだろう。けれども、その悠々として穏やかな動きと、何よりもクジラによく似た外見が、泳ぎ回っていると表現させてしまう。

 全長はどれほどあるのだろうか。最低でも三十メートル。もしかしたら五十メートル以上かもしれない。外見は、本当にクジラによく似ている。巨大な翼のようなものを羽ばたかせているけれども、あの巨体を浮かすエネルギーはそれでは発生しない。恐らく、体内に共生させている動体を用いて、浮力を発生させているのだろう。


「ウトナコペムルイ…………」


 イノリが小さくその名を呟く。その声に込められた感情は、敬虔な信徒が神の名を呟く時と同じものだ。ウトナコペムルイ。その名は先人たちの言葉で「雲の路を吹き散らして進むもの」という意味に一番近い。名付けられてこそいるものの、滅多にその姿を見ることはできない。

 この生物はほとんど地上に降りてくることはなく、仮に降りるとしても、海上に降りることがほとんどらしい。やはりクジラだ。ちなみにその外見こそクジラにそっくりだが、僕たち地球人の調査によると、あれはドラゴンらしい。この異邦のあちこちに住まい、異邦で最強にして最高の生命体である竜種に属す生物だ。

 見上げていると、ウトナコペムルイが口を開けた。上空を飛んでいるからよく分からないけれども、実際に側で口を開かれたら、きっと洞窟の入り口ほどもあるだろう。凄まじい勢いで空気を吸引する音が、地上にいても聞こえてくる。それと同時に、無数の光り輝く種がその口の中に消えていく。


「流星草の種を、食べているんですね」

「ああ。本当に、ヒゲクジラの食事にそっくりだ」

「クジラ……?」

「海にいる大きな生き物だよ。あんな風に、小さなエビとかの群れを海水ごと呑み込んで、口の中のヒゲでこし取って食べているんだ。まさかそれを、陸地で見ることになるなんて思わなかったけれどね」


 サンゴの産卵とまったく同じだ。サンゴの卵を目当てに、あらゆる魚がサンゴ礁に集まる。同じように、流星草が種を飛ばす時は、珍しいドラゴンまでもが姿を現す。小さな種にぎっしりと詰まった、生きたエネルギーである動体を摂食するためだろう。どれほど巨大なウトナコペムルイでも、全天に落ちていく流星草の種を食べ尽くすことはできない。

 流星群は、まだ終わらない。無数の光の雨を浴びつつ、巨大な空飛ぶクジラが天空に舞う。このはずれの草原そのものに、あふれるほどの生命があった。その生命の香りが、僕たちを酔わせていく。

 空を満たす流星の光。

 空を泳ぐ巨大なクジラ。

 その二つを僕たちは、時が流れていくことさえ忘れて、ただ息を呑んで見つめていた。





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