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真人と旧人・二



「――そうなのか。君は外つ国からこちらへ来たマレビトなのかね。よくぞヒ国に来られた。暖かく歓迎しよう!」


 仮小屋の外でたき火を囲みながら、僕たち四人は昼食の真っ最中だった。僕の外見を見れば、先人や邦人ではないどころか外つ国の人間だとすぐに分かっただろうけれども、アトリヘルは大げさに歓迎してくれる。

 別に彼がヒ国の代表であるはずもないのだが、まるでそうであるかのような口調だ。けれども嫌みがないので、苦笑して「痛み入ります」と言ってしまう。そういうアトリヘルは、よろめき谷から一番近い都である文梓ふみずさの住人とのことだ。恐らく彼はヒ国生まれだろう。あの和洋中すべてが混じった奇矯な服装は、ヒ国のエルフ独特のものだ。

 同じ火を囲んでいるけれども、口に運んでいるものは全然違う。アトリヘルとヒダルキが食べているのは、チーズと黒パン。それにサラミとワインという、火を使わずに簡単に食べられるものばかりだ。もっとも、アトリヘルはチーズを火に当てて表面を溶かし、パンに塗ってフォンデュのようにして食べている。強い発酵した乳製品の香りが漂ってきた。

 一方僕とイノリは、たき火の上にかかっている鉄鍋の中身である、野草とシカ肉の煮込みを今日のメインディッシュにしている。野草は道行きがてら摘んだもの、シカの肉は防腐石と一緒に〈ネコザサ〉の葉にくるんで持参したものだ。味付けにはクマの脂と岩塩、香り付けに〈ノニンニク〉の刻んだ葉と茎を入れてある。先人の定番のメニューだ。

 たき火の周りでは串に刺したハナマスが焼かれ、膝の上にある皿代わりのネコザサの葉には、雑穀を混ぜた玄米のおにぎりと、アトリヘルから分けてもらった黒パンが乗っている。午前中目一杯体を動かすことによって生じた空腹を、充分に満たしてくれる量だ。木製のお椀を置いて黒パンを一口囓ると、独特のしっとりとした食感が伝わってくる。


「向こうでの生業は何かね? 書物や伝聞で満足せず、自らヒ国にまで来るくらいなのだから、私が見立てるに君は学者だね!」


 再びお椀を手に取ったところで、アトリヘルがそう尋ねてきた。


「いえ、そんな大層なものではありません。僕はまだ学生ですよ」

「え? そうなのかね?」

「はい。ゆくゆくはこちら側の調査や研究を行う職に就きたいと思っていますけれど、今はまだ見識を深めるために学び続けるのが仕事です」


 正直なところを僕は話す。いずれ、僕は国際異邦研究機関に就職するつもりだ。今はまだ学生と研究員の二足のわらじだけれども、大学を卒業すれば正式に研究員となれる。

 向こうとしても、そのつもりで僕を教育し、ここまで育て上げてきた。異邦という史上最大のフロンティアを開発するべく、機関は若くて優秀な人材を常に必要としている。異邦を目指す若者、もしくは異邦に関連した職に就くことを目指す若者を、機関は率先して集め、合理的なカリキュラムによってふさわしい人材へと変えていく。

 そのシステムはあまりにも機械的すぎるとか、青田刈りとか大量生産と揶揄されることもある。けれども、確かに異邦は現在の地球において、魅力的な新天地なのだ。セレナイトという動力源の産地であることも大きい。地球と異邦とを繋ぐ数少ない窓口である国際異邦研究機関は、少々の批判はあってもその育成方針を変えるつもりはないようだ。


「ふむ。意外だったよ。行動力があるのだから、てっきりもう師から学び終えたとばかり思っていたね」


 アトリヘルはそう言ってくれるけれども、とりあえずは世辞として受け取っておく。


「そういうアトリヘルさんは、どういうお仕事をなさっておられるんですか?」


 半ば付き合いで、半ば興味から僕は尋ねてみた。


「私は詩人だ」


 予想しえなかった答えが返ってきた。


「詩人ですか?」

「そうだとも。おかしいかね?」


 まさかの文筆業。それも詩人とは。


「ヒ国を巡って歩くのも、ひとえにそれは創作のため。自然に寄り添う人々の営み。繰り返される季節。森羅万象の移ろい。そのいずれもが、私の詩作への思いを刺激してやまないのだよ! 止まらないのだよ!」


 自らの胸を抱きしめて、感無量といった調子でアトリヘルは僕たちに熱く訴える。返す言葉が見つからない僕。いつものことだと言わんばかりに茶をすすっているヒダルキ。当たり前だが、もう彼は衣服を身につけている。足にはわらじと脚絆、体には着流しのような作りの着物を一枚、素肌に引っかけているだけだ。おまけに腰には刀を帯びている。


「雪人さん。シジンって、歌を作るお仕事の人なんですか?」


 そして、詩人という職がぴんとこないイノリ。


「そんな感じだね。イノリたちも祭で物語を語り部から聞いたりするだろう?」

「はい。とても素敵です。わくわくするような物語があったり、胸が張り裂けそうなくらい悲しいものがあったり。春花祭の時にも一人お越しになりましたね」


 花守の里には住んでいないが、彼女たち先人には祭の時や人が集まった時などに詩を朗読する専門の語り部がいる。彼らは特定の場所に住まわず、各地を渡り歩いては人々に覚えた物語を語る。ただの朗読ではない。一言一句完全に覚えた内容を、まるで演劇のようにして演じつつ語るのだ。

 語られる物語は叙事詩が多い。英雄と巨悪の物語。大地とそこに生きる者の物語。そして神と人の物語。花乙女と若枝ノ君もまた、語り部によって語られるべき叙事詩の一つだ。春花祭の時に、語り部は花乙女の物語を里人に語って聞かせた。花の女神と、それに仕える人間の男の物語だ。花乙女の立場が、今のイノリと微妙に異なっているのが面白い。


「少女よ。私は詩人としては若輩もいいところだ。とても、君たちが耳にしてきた語り部たちの歌う物語に並ぶものなど作れはしない。しかし! それに少しでも近づけるように、少しでも人々の心の琴線に触れられるように、詩の極地へと至れるように! 私は日々研鑽を積み、詩を書き残しているのだよ! いわば私は漂泊の詩人、孤独な語り手なのだ!」


 自らの生業を、こぶしを握り締めて熱く語るアトリヘル。なんだか無駄に暑苦しいような気がするが、それはヒダルキも同じらしい。ちらりとこちらに視線を向けると、「うちの雇い主がすみませんね」という目つきで僕を見る。


「まあ、ではアトリヘルさんはとても素晴らしいお仕事の方なんですね」


 ところが、イノリだけはアトリヘルの自賛を真に受けたようだ。娯楽の少ない辺境の村にとっては、語り部はもろ手を挙げて歓迎される。イノリもまた、語り部の語る叙事詩に目を輝かせて聞き入っていた過去があるようだ。それまではややアトリヘルのことを警戒しているような様子だったが、詩人と分かると態度は変わる。


「いやいやいや。そんなに敬愛されても私としては困る。困るのだよ」


 イノリの尊敬が込められたまなざしで見つめられ、アトリヘルは照れた様子で広い額に手をやる。よく見ると小鼻が膨らんでいて、まんざらでもない様子なのが一目瞭然なのだが。


「少女よ、君も詩は好きかね?」

「はい。祭の時などに、語り部の方が歌ってくださるのを聞いていると、夜の更けるのも忘れてしまうくらいです」

「素晴らしい! 芸術への理解こそ、理性ある人の証! 先人、旧人、そして我ら真人の区別などそこにはない! 私は嬉しい! 詩作への情熱を再沸騰させるための旅に出たその先で、こんなにも清らかな人の心と触れ合えるとは!」


 一歩間違えると泣き出さんばかりの勢いで、アトリヘルはイノリの敬愛に感激している。結果的には、双方ともに喜ばしい状況なのだろう。

 僕は二人を横目で見つつ、木の匙を手に煮込みをかき込んだ。だんだん冷めつつあるせいか、作りたてに比べると脂っこさが舌に残る。自宅ならばご飯かお粥が、戸外ならばおにぎりが手放せない味だ。



 ◆◇◆◇◆◇



「――ところで話は大きく変わるのだが」


 再びアトリヘルが僕たちに話しかけてきたのは、食事を終えて食器も洗い終えた時だった。洗うと言っても、あらかじめお椀も鍋も最後の一滴まで指でぬぐってあるため簡単なものだ。一見すると不作法かもしれないけれども、食べ物を無駄にしない先人の風習だ。


「あの……その前にお茶を煎れましたので、よかったらいかがですか?」


 イノリの声にそちらを見ると、木製の湯呑みを彼女から差し出された。


「ありがとう。もちろんもらうよ」


 ちょうど欲しかったところだ。話をしながらでもお茶は飲める。感謝してイノリの手からそれを受け取った。

 熱い湯呑みの中身を口に入れると、緑茶とは違った独特の香りがいっぱいに広がった。あえて言うならほうじ茶に近いかもしれないが、青臭ささえ感じる香りだ。だからといって不味くはない。むしろちょっと癖になりそうだ。〈ムラサキグワ〉の葉を干して作った茶だ。整腸作用もある。


「茶か。いいね! 私たちももらおうか。ヒダルキ!」

「ええ。もう用意してあります」


 僕たちの様子がうらやましかったのか、手をたたいてヒダルキを呼ぶアトリヘル。自分が話題を振ろうとしたのはもう忘れているようだ。突然茶を沸かせと言われても、自動販売機などないここでは手間と時間がかかる。

 ところが、こう言われることは予想の範囲内だったようだ。ヒダルキは、いつの間にか火にかけていた鉄瓶を下ろすと、陶製の器に乾燥した茶葉の塊らしきものを入れ、その上から湯を注いでいく。


「素晴らしい。君はいつでも優秀だ。私は今日も感謝しよう!」

「アトリヘル殿と長く共にいれば、自然と誰でもこうなります」


 緑茶かと思ったけれども、漂ってくる香りは烏龍茶にむしろ近い。発酵させた茶葉を固めて、どこでも持ち歩ける形にしたのだろう。奇矯なアトリヘルに影のように付き従っているヒダルキだが、アトリヘルの話によると、自分が幼いころからの長い付き合いだそうだ。トカゲ人の年齢は見た目にはよくわからないが、おそらく壮年くらいだろう。

 最初はフリーのガイドのような仕事をしているうちに、いつの間にかアトリヘル専属の従者のような関係になってしまったらしい。


「それで、何か?」


 僕は向こうが一口飲んでから改めて聞いてみた。


「ああ、すまない」


 熱かったのか、少しだけ顔をしかめてからアトリヘルは続ける。


「君たちは随分と面白い〈動体〉を身に宿らせているようだね」

「分かるんですか?」

「当然だろう。真人にとって動体の動きを読むのは、流れる水に墨汁を垂らして、その動きを目で追うようなものだ。私たちにとっては、ごく普通の感覚だよ」


 それまでの奇矯な言動とは打って変わって、真面目な口調でアトリヘルはそう言う。こうしていると、彼の外見と相まって得体が知れなく見えてくるから不思議だ。

 この異邦には、地球人から見ると魔法としか思えないような技術がある。けれどもそれはオカルトの産物ではなく、動体という特殊な生物を使役する能力だ。この生命体は純粋なエネルギーそのものが命を得たような存在であり、森羅万象にそれこそ遍在と同義なほど宿っているらしい。大気、山河、大地は勿論のこと、鉱物や人体にも当然宿っている。

 逆に言えば、動体を自由に使役できるということは、森羅万象を自由自在に操れることに等しい。この動体について最も詳しく、最も親和性があり、最も活用しているのが、アトリヘルを初めとするエルフたちだ。そもそも、貴石を発見したのはこのエルフが最初らしい。貴石とはエルフによると、動体が封じられた鉱物とのことだ。

 こう書くと動体とは精霊か何かのように思えるかもしれないけれども、どちらかというと菌類に近いらしい。精霊のように決まった形や属性を持たず、粘菌や菌糸のように群れ集い、万物に溶け込んでいる存在とのことだ。いずれにせよ、エルフであるアトリヘルには、僕たちは特殊な動体を宿した人間に見えるようだ。


「特に君、イノリと言ったかな。君の動体はとても不思議だ」


 顔のわりにかなり大きな目を細めて、アトリヘルはイノリを凝視する。かすかに、居心地悪そうにイノリが身じろぎしたのが分かった。けれども失礼だと思ったのか、露骨に僕の後ろに隠れようとはしない。しかし、その次にアトリヘルが言った言葉に、イノリが驚くのがはっきりと分かった。


「まるで……そう、花のような。花に宿る動体が、君の中にいるかのようだ」


 何気なくアトリヘルはそう形容したのだろう。イノリの反応など見ずに、彼は言葉を続ける。


「いや、ただの花ではない。もっと多く、密で、しかも整っている。まるで、人ではなくて花園そのものが歩いているかのようだ」


 そして、改めて彼はイノリに問う。


「君は本当に人間なのかね?」


 とっさに言葉が出てこないイノリと僕だったけれども、すぐにアトリヘルは真面目な顔を止めて笑う。


「いや、失敬。君が先人であることは疑いない。ただ、それだけ多くの、常人とはかけ離れた量の動体が君の中に宿っているのだよ」


 エルフの笑顔は始めて見たけれども、予想していたよりもずっと人好きのする顔になった。

 彼の疑問に答えようとして、僕は踏みとどまった。確かにイノリは花乙女だ。けれども、それを里人以外に教えても大丈夫だろうか。確認を取るために、僕はイノリに耳打ちする。


「イノリ。君が花乙女だということは、秘密にしておくべきだろうか」


 突然の僕の行動にびっくりした様子だけれども、すぐにイノリは囁く。


「いえ、教えても大丈夫です」


 花守の里の住人がそう言うのだから、問題はないようだ。改めて僕はアトリヘルに向き直る。


「彼女は、花乙女なんです」

「ん? んん? んんん? 何だね、その素敵そうな名前は?」


 即座にアトリヘルは食いついてきた。イノリの役職云々よりも、そのネーミングそのものに興味を引かれたようだ。

 それから少しの時間を費やして、僕はアトリヘルに花乙女が何たるかを簡単に説明した。三年に一度、くじを引いて選ばれる未婚の少女であること。花の女神の代行とされ、一年の間花に関わるあらゆる行事に携わること。そして自分は若枝ノ君と呼ばれる、花乙女と対となる存在であることも。


「ほう、そういうことか。それなら彼女の動体の量が多いことにもうなずける」


 一通り僕の説明を聞き終わったアトリヘルは、何やら思うところがあるのか一人でうなずく。


「……彼女は、椿の木を触媒としているね」


 再び目を細めて僕たちを凝視したアトリヘルは、またもや真実を言い当てる。


「おっしゃる通りです。花乙女の選定は、里の中心にある椿の木の下で行われました」


 僕の脳裏には、椿の枝を額の帯に挿したイノリの姿が鮮明に思い描かれていた。花で着飾ったその艶姿は、忘れようもない。動体の量や種が分かるエルフには、そのよすがとなった媒体までも分かるようだ。

 けれどもアトリヘルは、それだけで満足しない。


「強い力を帯びた動体が木から降りてくる…………ヘビの形をしているな。それが溶けて、液体に混ざり、彼女の中に入っていく……不思議な感覚だ…………」


 まるで過去を読むかのようにして、彼の口から花乙女の選定の儀式が明らかにされていく。


「おっしゃる通りです」


 あの時。僕たちが花守の里の広場に戻り、神依椿の下に座した後、続いて花乙女の選定を祝う儀式が執り行われた。

 今でもよく覚えている。ヲズ婆さんによる祝詞と共に、神依椿から降りてくるヘビに似た何か。歴代の花乙女たちが身に降ろしてきた、花とそれに関するありとあらゆる権威の具現。この世のものとは思えない、神秘的な光景だった。

 あれは、神依椿に宿っていた膨大な量の動体が圧縮された姿だったようだ。ゆっくりと下ってきた光るそれに対して、僕とイノリは手に持たされた杯を差し出した。小さな椿の花を一輪浮かべた、神酒で満たされた杯を。ヘビの姿をしたそれは、差し出された杯の中にゆっくりと身を沈めて消えていく。イノリの杯には頭から。そして僕の杯には尾から。

 蛇身がすべて杯の中に消えてから、僕とイノリはそろって中身を飲み干した。


 それが、此度の花乙女を選定する儀式だった。アトリヘルには、そのイメージがおぼろげに見えているようだ。けれども、ここまでぴたりと花乙女としてのイノリを言い当てられると驚くよりほかない。


「花に祝福された乙女か。いいね、実にいい! 何とも詩作が刺激される存在じゃないか!」


 興味津々といったアトリヘルに、つい僕はさらに尋ねてみた。


「なら、僕の方はどうでしょうか。一応僕は若枝ノ君ということになっているのですが」


 けれども、僕の期待はあっさりと砕かれた。


「……兵藤君は、特別変化はあるように見えないね」


 アトリヘルはこちらを一瞥するとあっさりとこう言い放った。


「むしろ、君の体内にある動体は随分と少ないな。ああ、異人とはそういうものだよね」


 確かに、地球に滞在したエルフに言わせると、地球は動体の枯渇した惑星らしい。そこの住人も動体が少なくて当然だ。


「それを差し引いても……済まないね。私にはイノリ君のような変化は見受けられないよ。特殊な動体が、君の体内にもあることはあるのだがね」

「ええ、そうですよね」


 内心がっかりしたのは事実だ。若枝ノ君という肩書きをもらっても、別段何の変化もないのは少しだけ残念だ。イノリと共に、あの神依椿の加護を受けた杯を干した身なのに。

 けれども、アトリヘルの言っていることは想定内ではある。若枝ノ君はあらゆる点において、花乙女の陰に隠れた存在なのだ。祭においても花乙女が主役であり、若枝ノ君はそのおまけに近い。春花祭の主役は花乙女であり、若枝ノ君ではないのだ。さらに、この一年イノリは花乙女としての仕事が目白押しだが、若枝ノ君が主役を張る行事は一つもない。

 恐らく、古代の春花祭では花乙女ではなく、春の女神そのものを祭っていたのだろう。若枝ノ君とは、女神を祭る祭主の一人だったのかもしれない。花に託される思いは四季の移り変わり。すべてが死に絶えた冬が終わり、生命の息吹を感じる春が始まる。それは生と死の転変であり、終わることのない命の巡りの象徴でもある。

 春花祭は、春の女神の目覚めを祝う祭だったのだろう。女性が豊穣と生命を意味するならば、それと婚姻する男性は、もしかすると祭の際に贄として捧げられた可能性もある。そう考えるならば、若枝ノ君の影が薄いのもうなずける。花乙女が女神そのものなのに対して、若枝ノ君は女神に仕える人間だからだ。神との同一化は得てして死の儀式で終わる。

 けれども時が経つうちに、次第に女神そのものではなく、女神の神託を授けられたり、女神をその身に降ろす巫女の方に崇敬がシフトしていく。花乙女の誕生だ。そうなると、今まで祭主の一人か贄でしかなかった男性も、巫女の伴侶としての役割を帯びていく。二人が婚姻するのは、豊穣と多産の象徴だろう。

 かくして、若枝ノ君という存在が生まれることとなる。今でこそその役割は花乙女の伴侶とされている。けれども、祭においても行事においてもその影は薄く、ただ春花祭においてのみ伴侶としての役割がクローズアップされることから、この役どころが後から作られたものだということが分かる。

 ……無論、これが本当かどうかは分からない。今まで花守の里を調査してきた記録と、自分が若枝ノ君となってみた感想とを混ぜてみて、そう思っただけだ。


「イノリ君、少し私のわがままに付き合ってもらいたいのだが」


 すっかり花乙女の虜になったらしく、アトリヘルはイノリににじり寄る。


「え、ええ……構いませんが」


 少し困った様子だけれども、イノリはうなずく。こちらに助けを求めてきそうな様子はないので、僕はとりあえず見守ることにした。あまり口出しするのもよくはない。アトリヘルはエキセントリックだが、悪人ではないようだ。少しこうやって異なる人種の人と会話することによって、イノリの人見知りも薄くなってくれたら嬉しい。


「では、試しにこれを持ってみてくれ」


 アトリヘルは懐から布の袋を取り出すと、紐をほどいて中に手を入れた。その長い二本の指が中から取り出したのは、一枚の金貨だ。表面には、オオツノヒツジの角を生やした男性の横顔が描かれている。確か、旧人とエルフの間に協約を結んだ王の肖像だったはずだ。頭の角はその偉業の象徴らしい。


「これに、君の動体を移してみたまえ」


 アトリヘルはそう言うと、金貨をイノリの手の平の上に乗せた。突然の勧めに、イノリは不思議そうな顔で彼を見る。


「なに、やり方は分かっているはずだ。自然に、水の流れるように、息を吐くように、心の趣くままに」


 アトリヘルはそう言うが、イノリは首を傾げつつ手の平の上の金貨を見つめるだけだ。

 動体の操作は、エルフにとっては手足を動かすのと同じくらい自然なことなのだろう。けれども、人間にとってはそうではない。額に目がもう一つあるような感じで見ろ、とか、足が四本あるような感じで歩け、といわれてもとっさにイメージできないのと同じだ。


「私ならこうするよ」


 それが分かったのか、アトリヘルは一枚の銅貨を自分の手の上に置く。


「――身には光を 羽根には虫を」


 彼がそう呟くや否や、ただの銅貨がぼんやりと光り始めた。優しいオレンジ色の光だ。それだけではない。ゆっくりと、さしずめテントウムシが羽ばたくようにして、銅貨はおぼつかない動きで宙に浮き上がった。


「きれい…………」


 小さな奇跡とでも呼ぶべき変化に、イノリは目を見開いて見入っている。


「動体の流れが分かるだろう。さあ、やってみたまえ。言葉をよすがにすると楽だ」


 飛んでいこうとする銅貨を掴み、改めてアトリヘルはイノリに勧める。彼の実技を見て自信がついたのか、イノリは一度うなずいてからじっと金貨を見つめる。何度かためらった後、その小さな唇が動く


「――開きなさい。花のように」


 文字通り、彼女のその言葉が呼び水だった。一瞬、金貨の表面が光る。それと同時に変化が始まった。動き出したのでも、浮き上がったのでもない。それよりももっと根本的な変化だ。金貨の形が変わっていく。表面がささくれるようにして割れ、扁平だった形が盛り上がっていく。ささくれはさらに広がり、幾重にも重なった薄板に変わる。


「おお、これは……」


 一分もしないうちに、イノリの手の平の上には、一輪の小さな花が乗っていた。金属でできた、椿の花が。金属細工を専門とする職人でも、ここまで精巧なものは滅多に作れないだろう。


「見事だよ。これほどとは思ってもみなかった!」


 自分を上回る技量を見せられても、アトリヘルは嫉妬する様子は微塵も見せない。

 イノリの体の中にいるのは、本来は花に宿っている動体のようだ。それを彼女は金貨に移し、活性化させる。故に、花の動体は本来自己が宿っている形状に金貨を作り替えた。そんなところだろう。けれども、動体を使って物質の動きや形状をある程度制御することはできても、ここまで精密な変性を可能とするのは確かにすごい。


「さあ、今度はこれだ、ぜひこれを使って同じことをしてくれたまえ」


 完全に花乙女としてのイノリの力に魅了されたらしく、アトリヘルは今度は貴石を一個彼女に握らせる。無色透明の石だ。特定の機能を有する貴石ではなく、単に動体が込められただけのものだろう。どの貴石にも反応して補助となる、言わば燃料代わりの貴石だ。


「アトリヘル殿、興味を抱かれるのは結構ですが……」


 さすがにぶしつけと思ったのか、ヒダルキがやんわりと止めに入る。けれどもイノリは首を振った。


「いえ、大丈夫です。やらせていただきます」


 イノリとしても、自分の花乙女としての異能がどれほどのものか、興味があったのかもしれない。イノリは貴石を両手で握ると、静かに目を閉じる。



  彼の樹は――――



 しばらくの沈黙の後、イノリの唇が動き、言葉が紡がれた。



  彼の樹 ヲタヤクノイ 枝広げ

  枝の陰に 集まる獣 老いたフクロウ 角折れたシカ 皮脱ぎ捨てるヘビ

  立ち上がるクマ 幹に爪立てて 己を示す



 それは句だろうか。それとも、散文だろうか。あるいは祝詞のりとか、呪文か。

 韻を踏まず、体裁も整わず、それでいて淡々と滑らかに情景を歌う言葉がイノリの口から聞こえてくる。先人の間で語り継がれてきた詩の一つだ。



  雪深き 山眠る時 白き衣 山の神が 狩りを悦び

  野を行くオオカミ 神と共に その赤き口と 吐く白き息

  人は家にて 火を囲み 囲む火の 暖かさぞ 有り難さぞ



 口伝えに語り継がれてきたためか、記憶を頼りに語るせいか、それはところどころ奇妙な表現がある。けれども確かに、言葉は生きていて力を帯びている。そして何よりも。


「これは…………!」


 寡黙そうなヒダルキの口からも、驚きの声がもれた。イノリを中心として、周囲の植物にさざ波のようにして変化が始まった。

 最初に変化を始めたのは、地面に生えている青草だった。その丈がどんどんと伸びていく。茎が太くなり、葉が大きくなり、色が濃くなっていく。草と草の間から次々と姿を見せたのは、小さな名もなき花たちだ。高速度撮影の映像を見るかのようにして、見る間につぼみは花となり開いていく。



  春来たり 山開く時 緑なす衣 春の女神が 目を覚まし

  彼の樹 ヲタヤクノイ 樹のその内 脈打つ命 流れ 流れ 溢れ 溢れ

  花となり 花はほころび 花開くその 彩なす色 色と共に



 なおもイノリの詠唱は続いていく。彼女の言葉に合わせて、周囲の植物はまるで命そのものを注がれたかのように成長していく。


「なんという……!」


 顔を上げたアトリヘルが、あ然として口を開けた。仮小屋のすぐ側に生えていた、まだ二分咲き程度のミヤマザクラの大木が、次々と花を開かせていく。まさにイノリの語る詩の通りの光景が、目の前で進展していく。二分咲きはたちまち五分咲きとなり、八分咲きとなり、ついには満開となる。

 白い花びらが、はらはらと舞い落ちていく。まるで、自らを呼び覚ました花乙女に、敬意を捧げるかのようにして。



  人その下にて その下に 祝い歌う 歌う声

  歌う言葉は 花となり 花は満ち

  花と共に その仕草 山の息吹に 知らず合わせ――――



 言葉もなく見守る僕の前で、静かにイノリは語るのを止めた。その閉じられた目が開かれる。

 ほんの一瞬で、イノリの周囲の世界は様変わりしていた。季節が進められ、数多の花が彼女の前に捧げられている。驚いた様子で、イノリは満開となったミヤマザクラの木を見上げた。ちょうど太陽を見あげる形となり、彼女は目を細めて眩しそうな顔をする。ひどく現実感の乏しい、まるで物語の中から切り取ってきたかのような光景だった。


「季節の花さえ操るとは……これが花乙女の力か!」


 沈黙を破ったのは、アトリヘルの感嘆の声だった。


「素晴らしい。素晴らしいとしか言いようがない。君のその力さえあれば、花はまさに君の意のままだ! 私たち真人でも、これほど美しい力を持つものはそうはいない。君は野の花を完全に制御下に置いている。いや、植物という種そのものをだ!」


 動体に詳しいエルフ特有の専門的な思考から、彼はイノリを褒めたたえる。貴石の力を借りたとはいえ、ここまで自然に干渉できるのはエルフでもそうはいないようだ。


「早咲きも、遅咲きも、狂い咲きや、返り咲きや、いやいや、常花だって夢ではない。想像を絶するよ!」


 常花とは、枯れることなくいつまでも咲き続ける花のことだ。

 アトリヘルから絶賛と言っていいほどの賞賛を浴びせかけられても、イノリはそっと首を左右に振った。


「そうする必要は、ありませんよ」


 穏やかだが、芯の通った厳然とした口調に、アトリヘルはつんのめる。


「む? むむ?」

「花にはそれぞれ、咲くべき時節があります。神様から授かった、その花にとって最もよいとされる時が」


 差し出された貴石を、アトリヘルは機械的な動作で受け取った。手の内の貴石とイノリの顔とを忙しく見比べる彼に、イノリはほほ笑んだ。


「私たちには、それを操ることなどできません。早く咲かせることも、遅く咲かせることも、まして咲いたままにすることも」


 目を上げて、イノリはミヤマザクラを見る。


「ですから、ほら――――」


 その言葉と共に、時間が逆行していく。青草の丈は、周囲のそれと同じ程度に。足元の花はつぼみへと戻り、草と草の間に隠れていく。そして、満開のミヤマザクラもまた。花乙女の呼びかけに応えたそれは、ほんの一瞬の盛りを見せただけで、再び花を閉じていく。

 いくらもしないうちに、そこには二分咲きのミヤマザクラの大木があった。何もかも、イノリが詩を口ずさむ前とまったく同じだ。豊潤な青草と数々の花、そして満開だったミヤマザクラも、すべてが嘘のようだ。


「一時の夢のよう。それだけでいいんです。むやみに自然の理を曲げることなど、私たちには許されていません」


 ややあってから、イノリの言葉にアトリヘルは小さく頭を下げた。


「……すまなかったね。興味本位で、ぶしつけなことをお願いしてしまった」

「あ、いえ。そんなことないです。応じたのは、その、私ですし。アトリヘルさんは、気になさらないで下さい」


 たちまち、あたふたとイノリは狼狽してしまう。緊張の糸が切れると、その反動があるみたいだ。


「なるほど。それ故にあなた方は対を成すのか」


 突然、それまで黙っていたヒダルキが口を開いた。彼は僕の方をまっすぐに見据える。


「若枝ノ君、いや、兵藤殿」


 それまで彼からそんな風に見られたことがなくて、僕は少したじろいだ。


「何故、あなたが花乙女の伴侶としての立場にいるのか、お分かりだろうか」


 僕が答えられないでいると、ヒダルキはすぐに言葉を続ける。


「よそ者の愚考だが、若枝ノ君とは、花乙女を守護するためにいるように見える」


 僕とヒダルキは、そろってイノリを見る。


「常ならぬ身である彼女は、いろいろとあり得ぬもの、あってはならぬものに好かれる可能性がある。そういった怪事から、あなたは彼女を守らなくてはならない」


 確かに、イノリという個人は、花乙女として常人を逸した存在となっていた。つい先日まで普通の少女だった彼女は、今や花の動体を有し、かつあらゆる植物に宿る動体を制御下に置くことができる。それは巫女や術士のように歳月を費やして培われた技能ではなく、突然付与された力だ。それまで凡人だったイノリには、荷が重く感じて当然だ。

 けれども問題はそれだけではない。人としての条理から多少外れた彼女には、いろいろと奇妙な存在を引き寄せてしまう可能性がある。いわゆる妖怪や怪物、幽霊や神霊といった科学では計測しきれない存在だ。それが動体による自然現象なのか、それとも他の何かなのか、地球人の僕たちもいまだにはっきりとした結論が出せないでいる。


「それが若枝ノ君の、ひいては伴侶の務めというものであろう」


 ヒダルキはそう言って、持論を締めくくった。

 彼の言う通りだ。怪事の正体が何であれ、イノリにもし害をなすならば防がなければならない。その役割を担っているのが、若枝ノ君である僕だ。なぜ、花乙女と若枝ノ君は婚姻するのか、少しそのわけが分かったような気がする。


「よく、分かりました」


 僕が神妙にうなずくと、ヒダルキは小さく口を開け、歯を見せて笑った。


「それでこそ、男児というもの。ヒ国であろうと外つ国であろうと、男の成すべき務めは同じようでなにより」


 尖った歯と相まって、なかなか獰猛そうな笑みだ。落ち着いた口調と穏やかな物腰のヒダルキだが、その本性は意外と苛烈なように見えた。



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