花守の里・一
鏡の中に、見慣れない顔が映っている。正確には、顔自体が見慣れないわけではない。ただ、装飾が見慣れないだけだ。鏡台の前に僕は座り、鏡をのぞき込んでいる。この鏡も、先日神依椿の前に敷かれていた毛氈と同じく、交易品であることは間違いない。手製故にわずかな歪みはあるものの、曇りもなくきれいにこちらの顔が映っている。
鏡の前でできるだけ真面目そうな顔をしてみるのだが、普段とあまり変わらない。実直そうな顔、とよく言われるけれども、表情の変化があまりないだけだ。いっそ、もっと顎が張って首が太くなり、がっしりとした体格を得たならば、強面と呼ばれたかもしれない。今のところは、十七歳という年齢相応の、少年と青年の間の顔付きだ。
鏡に映った自分の額には、帯が巻かれていた。鉢巻きと呼ぶには幅が広く、表面には先人独特のくねる紋様が刺繍されている。邦人の好む紋様が魚鱗を抽象化した菱形ならば、先人のそれは蛇の胴体の象形だ。両耳には金のイヤリング。こちらは取り立てて変わったデザインではない。ただの大きな輪だ。
そして首飾り。翡翠の玉をいくつも連ね、中心には丸い金属板が取り付けてある。これもどことなく、蛇の目を思わせるデザインだ。どれもこれも、婚礼の祝いとして里人から贈られた品だ。三日前、僕とイノリは祭の最中に婚礼を執り行い、花乙女と若枝ノ君として、一年の間夫婦となった。里人にとっては、めでたいことこの上ない祭だったらしい。
「……やっぱり、まずは服をどうにかしないとな」
しばらく鏡の前で顔を近づけたり遠ざけたりした後、ついに僕は観念してその場に仰向けに倒れた。板床に敷かれたござから、イグサに似たいい香りが漂ってくる。こんなことは分かりきったことだった。首から上を先人風に装っても、その下は現代的な服装なのだ。似合うはずがない。
「いくらなんでも、晴れ着を普段着るわけにはいかないからなあ」
祭の後に贈られてきたのは、装飾品だけではない。男性用の着物もあった。けれどもそれは全体に刺繍が微に入り細にわたる形で施され、気楽に袖を通すのをためらう上等な一品だったのだ。ちょっと試着しよう、という気にもなれず、今も柳行李に似た衣類入れの中にしまい込んだままだ。
額の帯を解き、耳輪を取り、首飾りをはずす。これで上から下まで現代人の格好だ。体にゆるくフィットした黒色系統の高機能スーツ。外出時にはサバイバル使用の多目的ジャケットを上に着る。異邦どころか、日本でもこれを来ていたら目立つに違いない。始めてこれを見た時は、まるでアクション映画に出てくる特殊部隊の装備だと思ったものだ。
どう見ても花守の里にそぐわない出で立ちだけれども、だからといって着ないでいるわけにはいかない。この装備一式は、国際異邦研究機関のスポンサーとなった企業が開発したものだからだ。僕はこれを着て異邦で生活し、その着心地や便利な点や不便な点、さらには耐環境性能についてレポートを提出する役目が科せられている。
とりあえず不便な点として、「周囲の人々の衣装とあまりに違うため目立つ」という点だけは絶対書いておこうと誓う。
「普段着が一着必要だよな」
誰に聞かせるともなく一人で呟く。贈答品のような装飾過多の晴れ着ではなく、里人たちが日常的に着ている衣服が一式必要だ。特にこうやって、里に新居を構えたからには。
そういえば、先人の妻は夫の服を仕立てる際、サイズを改めて測ることはあまりしないそうだ。ならばいつ測るのかというと、同衾している時にさりげなく見当をつけておくのだとか。
……いや、いくら何でもそれは無理だ。現代を生きる日本人の視点から見れば、相手はまだ子供だ。そのうち自分で作ろう。そうだ。そうしよう。それがいい。
妙なことを考えてしまった。気を散らすために、僕は起き上がって装身具を片づけ始める。早朝からずっと文机にかじり付いて春花祭のレポートをまとめていたから、少し思考がオーバーヒートしていたのだろうか。ちょっとは気を抜こうと贈答品を身につけてみたのだけれども、やはり気晴らしは体を動かすに限るようだ。
屋根も壁も茅で葺かれたこのずんぐりした家は、二人で暮らすにはかなり広い。板の間の中央には、〈悶え山〉の火山灰を敷いたいろりがある。鍋をかけている鉤に沿って上を見上げれば、太い梁が天井を支えている。梁の周囲には棚が設けられ、イノリが実家から持ってきた川魚やシカの肉が吊されていた。
離れた場所には台所と竈がある。トイレは外だ。風呂はあるにはあるが、共同の浴場を使った方が早い。先人の住まいの形状は、伝統的な日本の家屋と、アイヌの住居であるチセが複雑に混じり合っているように見える。といっても、根底にあるのは異邦独特の文化だ。日本やアイヌとの共通点は見受けられても、基本はオリジナルだ。
首飾りを戸棚にしまいつつ、僕はこれをもらった時のことを回想する。思い出せば、こちら側にある国際異邦研究機関の支部に設けられたゲートから出発して、花守の里に到着したのが三日前。そのまま休む間もなく祭に参加してくじを引き、若枝ノ君として選定されるや否や花乙女のイノリと婚礼を執り行う。まさに怒濤のような展開だった。
祭自体は朝方まで宴が続き、僕とイノリは結局椿の木に寄りかかって短い仮眠を取った。新居を紹介されたのは一昨日の朝。そのまま二人で大掃除を始め、一日がそれで終わる。ここは新居と言っても新築ではない。花乙女と若枝ノ君とが暮らすためだけに取り分けられた家だ。普段は当然空き家である。人が住めるようになるまで一日かかって当然だ。
昨日はやはり一日かけて、里の入り口に停めた斥力トレーラーと、新居までの間を往復して荷物を運んだ。花守の里はよろめき谷の奥、〈巣立ち山〉の斜面に沿うようにして広がった集落だ。入り口は一番下、〈雪解け川〉の脇にある。逆に、僕たちの新居は一番上だ。里の家々と、棚田と段々畑を見渡せる一等地にある。これはさすがに疲れた。
イノリの兄であるユタリは、何かと理由をつけて僕たちの新居に顔を出してくる。顔を見せる度に僕の一挙一動に口を挟んでくるけれども、あれは妹を心配する気持ちの発露だ。口うるさいことは確かだけれども、昨日は僕のためにラバを一頭貸してくれたことから、嫌われてはいないようだ。頼りない異人と思われているだけかもしれない。
確かにそうだ。ユタリからしてみれば、立派な里の偉丈夫ではなく、素性の知れない異人と、まだ〈五つ星〉の妹とが、仮とはいえ夫婦になったのだ。放っておけないのもうなずける。ちなみに五つ星とは、イノリの首から提げているネックレスに、五つの〈青空石〉がついている状態のことだ。里の子供ならば、誰もがこれを首にかけている。
持ち主が男子ならば、すばしこい〈カゲウタイ〉という鳥を狩猟で捕まえる度に、石が一つ取れる。持ち主が女子ならば、滅多に見つからない〈オドリタケ〉を採集で見つける度に、石が一つ取れる。七つ星から始まって、すべての石が取れれは大人への準備段階を一つ経たと認められる。通過儀礼の一種と考えて相違ない。
まだ十三歳のイノリだが、同世代はもう一つ星や二つ星がいる。三つ星くらいが普通だろう。僕の一年間限定の幼妻は、他の少女たちに比べてやや鈍くさいようだ。こういうこと、夫の手助けが許されていないのがもどかしく感じる。祭りのくじ引きで形成された夫婦だけれども、もどかしく思うくらいには、僕もイノリを憎からず思っているようだ。
とはいえ、まだ一緒になって三日だ。夫婦らしいことは何一つしていない。協同で行ったことといえば、一昨日の新居の大掃除くらいだ。昨日はイノリは里の女性たちと〈還し沼〉に採集に出かけてしまい、帰ってきたのは夕方だった。こちらとしても重たい精密機器をイノリに運ばせたくはなかったので、まったく問題はなかったのだけれども。
「夫婦らしいこと、か……」
改めて、自分の両親がどうだったのかを考えてみる。好みも傾向も美学も異なる父母だけれども、新婚当初に行った京都と奈良の旅行だけは口を揃えてよかったと言っていた。やれ、金閣寺をバックに写真を撮っただの、清水寺の高さに眼が眩んだだの、言っていることは普通の観光客の土産話と変わらない。
けれども、それは二人にとって貴重な思い出なのだろう。ならば、僕もこうしてイノリと結婚したのだから、今の内に新婚旅行に行ってみたい。僕は異邦の調査が、イノリには花乙女という役割がこれからも一年間続く。だからこそ、最初の内に一度は二人だけの小さな旅行をしてみたい。
行き先を決めるべく、僕は弓と矢筒の側に置かれていた情報端末を起動させて、里の周辺のデータを見直す。人間工学を取り入れたデザインが、伝統的な室内と恐ろしくミスマッチだ。何しろ生分解プラスチックの本体と立体ウィンドウに対し、木と土でできた壁にござの敷かれた板床だ。そう考えると、僕もまた里の中では歩くミスマッチなのだろう。
〈笛吹山〉登山はちょっと遠すぎる。簡単に行って帰ってくるというわけにはいかないだろう。それに若い身空の二人では危険だ。僕はしょせん日本人。ここの地理はフィールドワークを行っているとはいえ不慣れだし、イノリはまだ幼い。ユタリは頼めば付いてくるに違いないが、道中ずっと箸の上げ下ろしに対してさえ目を光らせてくるに違いない。
〈還し沼〉は近いかもしれないけれども、行ったところで何も面白みはない。あそこは葦や〈オバケレンコン〉の採取で、里の女性ならば足しげく通っている場所だ。せっかくの新婚旅行が、いつも行く町のショッピングだったら意外性も何もない。そもそもイノリは昨日そこに行ってきたばかりだ。
ならばやはり、雪解け川沿いに歩いて〈鏡拾いの湖〉辺りにまで行くのが適当だろうか。あそこで二人で魚釣りなんかが、時間的にも場所的にも適切かもしれない。浅瀬を探せば非常に珍しい〈スミレ貝〉の貝殻が見つかる可能性だってある。もし見つけられたならば、イノリのプレゼントにもなる。
そうだ、プレゼントといえば。
二年前、国際異邦研究機関のベテラン研究員たちと共に、初めて花守の里を訪問した時のことだ。同時にそれは、初めてイノリに出会った時でもある。ちょうどその時、彼女は半泣きの状態で探し物をしていた。小刀をどこかに置き忘れてしまったとのことで、一緒にしばらくの間里のあちこちを探し回ったことがある。
幸いその小刀は見つかったのだが、イノリはいたく感謝して後で僕に贈り物をくれた。〈流星草〉の種をいくつかまとめて、穴を開けてから紐を通したペンダントだった。草の種と言っても、ルビーの原石のような外見をしていて、かなり綺麗なものだった。今でもそのペンダントを、僕は大事に手元に置いている。
その流星草が種を飛ばす時期が迫っている。春の満月の夜。流星草は数年に一度、一斉にその種子を空に飛ばす。名前の通り、数多くの種子が空を光りながら流れていく様は、まさに流星群と見まごうばかりだそうだ。残念ながら、手持ちのデータにはその様子の動画は存在していない。文面からどんな感じか想像するだけだ。
満月は明後日。そして流星草の群落はこの里からさほど離れていない場所、〈はずれの草原〉にある。これがいい。イノリの予定さえ塞がっていなければ、明後日はずれの草原に行こう。そこで即席の流星群を一緒に見るなんて素敵だ。ついでに何かしら採集していけば、ただの道楽で時間を潰していると眉をひそめられることもあるまい。
こちらの都合は決まったものの、相手の了解を得る必要がある。とはいうものの、イノリは確か、トンノさんの家で石けんを作っていたはずだ。帰ってくるまで待つと日没になってしまう。夕食の時に話してもいいかもしれないが、何しろ出かけなればならないのは明後日だ。決めるならば早いほうがいい。そうなるとこちらから出向くのが一番だ。
◆◇◆◇◆◇
土間で靴を履いて外に出てから、南京錠に似た形の錠に鍵をかけた。この里には手癖の悪い輩など一人もいないが、家の中には日本から持ち込んだ精密機器がある。いたずらっ子どもが忍び込んで、うっかりあれをいじくって壊してしまったら困る。もちろん勉強道具だってある。異邦の調査を行っているからといって、授業が免除されたわけではない。
そうでなくても、以前から他の研究員と共に行っている里周辺の調査にはしょっちゅう子供たちが同行し、好奇心を剥き出しにして行動の一つ一つを観察しているのだ。ちなみに斥力トレーラーは駐車して二日で、悪ガキどもの手によってシカの角やら鳥の羽やらヘビの抜け殻やらがごてごてと飾り付けられ、すっかり前衛的なオブジェと化していた。
ガキと言っても、パチンコで鳥くらい簡単に仕留めて夕食の一品にする腕前の持ち主だ。馬鹿にはできない。三つ星だっている。仮に子供が機材を壊しても、僕は一応簡単な修理ならできる。けれども、本格的に壊れてしまったら一ヶ月に一度来る本土からの派遣員を待つ必要がある。それはさすがに、調査の予定に差し障りがあるから避けたい。
まだ冷たい春風が、雪解け川から巣立ち山に向かって吹き上げてくる。空を見上げれば雲一つない快晴だ。異邦は空気の透明度、太陽の輝きからして違う。日本の北部を思わせる植生と地理なのだけれども、道のあちこちに木陰を作っている木々の緑も、段々畑の土の色も、どれもこれもずっと新鮮で、生き生きとしている。命が脈打っているのが分かる。
振り返ると、新居の裏手には〈双子杉〉と名付けられた二本の杉の大木がある。里の人にとって花粉症という語は、一度も耳にしたことのないものだ。この家が里の一番上にあり、もうその先は巣立ち山の山道だ。向き直って視線を遙か遠くにやれば、どっしりとそびえる笛吹山が見える。さらに遠方には、未だ白雪が厚く積もる〈大鷲山脈〉の峰。
雪解け川を挟んだ向こう側には、段々畑と棚田が広がっている。こちら側にも田畑はあるけれど、向こう側の方がずっと多い。はつらつと仕事に携わっている里人の姿が見える。もう少し経てば、あそこでベニバナ摘みが行われることだろう。あの花から取る染料は、この里の外貨獲得の手段の一つだ。イノリも花乙女としてベニバナ摘みに携わるらしい。
向こう側が主に農地ならば、巣立ち山のふもとであるこちら側は住宅地だ。スイッチバックと呼ばれる折り返し式の線路のように、ゆるやかなジグザグを描く形で道が作られている。道に沿って、素朴な茅葺き屋根の家屋が建ち並ぶのが見えた。のどかでひなびていながら、田舎特有の排他的なところがないのは、交易が活発に行われているからだろうか。
ゆっくりと僕は道を下っていく。花守の里のみならず、異邦の時間の流れはゆっくりだ。もちろんこちらも一日は二十四時間であり、一年は三百六十五日だ。けれども、なぜかこちら側にいる時は、時間がのんびりと流れている気がしてならない。人々の生活水準は現代の僕たちに比べて低いはずなのに、それでもどこか余裕さえ感じられる。
坂道を半分ほど下って、目的地のトンノさんの家にたどり着いた。旦那さんは行商人で、一年の内の半年くらいはほうぼうを回って商売をしているそうだ。会ったことは二、三度あるけれども、やや猫背の上にもやしのような細身で、なんというかかなり影の薄そうな人に見えた。
それとは反対に、おかみさんは骨太でがっしりしていて、半年の間一人で家を切り盛りするのにふさわしい豪快な人だ。今は旦那さんは行商にでかけていて、あと二ヶ月半は帰ってこないだろう。里の女性たちは今日、彼女の家に集まって石けんを作っている。家の近くに来ただけで、鼻にいい香りが届いてきた。
石けんの材料は、まず植物から取った油だ。動物の油を使うこともある。それに木を燃やして作った灰と、殺菌のための松ヤニ。灰を水で洗い、それをこしてから油と松ヤニと共に煮る。余分な水分がなくなるまで煮たら、型に入れ冷ましてからできあがりだ。いい香りの正体は、香り付けに入れた〈ヌマチヨモギ〉や〈シトネイバラ〉などの香草だろう。
ちょうどその時、家の戸が開くと、中からトンノさんが顔をのぞかせた。
「あら、誰かと思ったら兵藤君じゃない」
「どうも、こんにちは」
この辺りの人では珍しく、出入り口を通り抜けられないんじゃないかと心配になるくらい太った女性だ。
「どうしたの? お仕事? それともご用事? あ、もしかして、イノリちゃんの顔を見に来ただけとか?」
矢継ぎ早に質問が、それも大きな声で投げかけられる。こっそり物事を済ませたいとまでは思っていなかったけれども、だからといってこんなに大げさに迎えられても困る。
「……まあ、そんなところです」
仕事と言えば違う。用事と言えば、イノリに予定を聞きたいから用事だ。
顔を見に来ただけと言えば。
……少し気恥ずかしいけれども、そういう気持ちも少なからずあると思う。
「まあまあまあまあ。若いっていいわねえ。あらあらあらあら」
一瞬の言い淀みを、僕が図星を突かれて焦っているものと思ったのか。顔中を口にして、トンノさんはとてつもなく楽しそうに笑う。
「分かるわ分かるわ、その気持ち。あたしだってあの人と一緒になる前なんてもう、夜も眠れないくらいだったわよ。寝ても覚めても。食べてる時も山を登っている時も、狩りの時も畑仕事の時も、頭にあるのはあの人のことだけ。まあ、今はそんなことないけどさ。年月って残酷よね」
あっけなく寂しくはないと断言された旦那さんに、心の中で合掌する。
「寂しくはないのですか。ご主人と半年の間離れて暮らしていて」
「別に。慣れればどうってことないわよ。元より、あの人はこうやって里を出て、広い世間を見て回るのが望みだっただからね。そういう人だって分かってて、あたしは一緒になったんだし。それに、こうやって毎日毎日やることが沢山あるんだし。寂しがっている暇なんてないわよ」
寂しくはないと言ったものの、本心ではそうでもないようだ。と、そこまで言ってからトンノさんは慌てて付け加える。
「あ、この事は旦那には秘密だからね。ついつい口が滑っちゃったけど、絶対に秘密よ」
「分かりました。そう言うなら」
「絶対に絶対に絶対よ。もしばらしたら……」
今まで笑っていたトンノさんの顔から笑みが消えて、
「イノリちゃんに、ちょっといろいろ大変なお仕事とか頼んじゃうからね」
などと言ってきた。トンノさんは里の女性たちの中で顔役のような感じの役どころにいて、まだ若い少女たちを束ねて里の仕事を割り振ったりしている。そういう立場の人を怒らせたら、少し困るどころではない。
「それは困ります。他言はしませんから。それに……」
「それに?」
「この問題は僕とあなたの問題です。イノリは関係ありませんから、彼女に報復するのは止めて下さい」
真面目にこちらがそう答えたら、トンノさんは一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてから、「あっはっはっはっは!」と腹を抱えて大笑いを始めた。
「あはっ! あははっ! あはーはっはっはははっ! 冗談さ冗談! あたしもそこまで性根がひん曲がってなんかないよ。いや~、それにしても、外つ国の若造もしっかりしているじゃないか。一丁前に亭主が自分の女房のことを守ろうとするなんて。結構気に入ったよ、兵藤君」
男のように大きな手で、肩をぎゅっとつかまれた上に揺すぶられ、僕は少しよろめく。ちなみに以前から何度も使っているけれども、この外つ国という名前は、異邦の人たちが僕たちの世界のことを指して呼ぶ語だ。
「ど、どうもありがとうございます」
「あ、そうそうそう。イノリに用事だったね。いいよ。すぐに呼ぶからさ」
「大丈夫ですか。お忙しいようでしたら、また後で伺いますが」
「気にしない気にしない気にしない。イノシシみたいに恋路に通せんぼするような野暮な真似はしないからさ」
そう言うなり、トンノさんはきびすを返して家の方を向くなり、
「イノリちゃん! イ~ノ~リ~ちゃ~ん!」
と大音声で呼ばわった。
いや、そんな大げさなことをしなくても。せめて、中に入ってイノリを連れ出してくれるだけで良かったのに。
ややあってから「はい。何でしょう」と小さな声が僕にも聞こえた。
「あんたの旦那様がお呼びだよ! 幼妻の顔が見えなくて寂しいってさ!」
なんてことを口にするんだ。
こちらが抗議する暇もなく、中から聞こえてきたのは老若様々な女性たちの喝采の声だった。自分の顔がどんどんと赤くなっていくのが分かる。イノリと祭りの最中、結婚式を挙げた時。その後新居で、二人きりになった時。どちらもあまりにも物事が急展開で進みすぎたせいで現実感がなく、恥ずかしいと思う暇もろくになかった。
でも今は違う。耳が火照っていく感触なんて、どれくらい味わっていなかっただろう。
こちらの怨みがましい視線などどこ吹く風で、トンノさんは涼しい顔をしている。僕は何も言い返せず、ひとしきり黄色い歓声が止むのをただ待っていた。実際、イノリが姿を現したのは、家の中から声が聞こえなくなってからだった。
トンノさんの太った体躯の陰から、彼女はひょっこりとその頭をのぞかせた。まるで、幼い少女が人見知りのため親の陰に隠れたかのような構図だ。
「イノリ」
彼女の名前を呼ぶ。それまでやや怯えたような表情をしていた彼女の顔が、その一言で和らいだ。
「……雪人さん……」
よく見るとイノリの顔も耳まで真っ赤だった。そりゃそうだろう。
元より、イノリは引っ込み思案で内気なところがある。そんな彼女が、公衆の面前であんな事を言われて、恥ずかしく思わないはずがない。
「ほら、何しているんだい。あたしを間に立たせたって何の役にも立たないよ」
トンノさんはすぐさま、まるで子猫の首をつかんで持ち上げるかのようにして、イノリをこっちに押しやった。
「じゃ、あたしはもう戻るからね。兵藤君、気が済んだらちゃんとこっちに返すんだよ。いくら寂しいからって、持ち帰るのは駄目だからね」
「分かってますって!」
最後まで余計な茶々をいれたトンノさんは、言うだけ言うと大口を開けて笑いながら家の中に入っていった。
最初家から出ようとしたのに、また入っていいんだろうか。多分、僕と話していて当初の用事を忘れてしまったんだろう。絶対にそうだ。まあ、トンノさんの心配は別にいい。改めて僕はイノリの方に目をやる。三日前は花乙女として着飾り、神事に望む巫女のように毅然としていたイノリだけれども、日常に戻ってしまえばただの一人の少女だ。
まず第一印象として感じるのは、小さいな、という感覚だ。誕生日を迎えてからさほど経っていないだそうだけれど、十三歳には思えないほど小柄で手足が細い。服装はヒ国に住まう先人独特の着物だ。筒状の袖の上着に、額と腰には帯。首からは青空石のネックレス。足は皮をなめした靴だ。上着の袖口や襟には、独特の紋様が刺繍されている。
この紋様は先人の偉大なる祖霊である、蛇の象形だそうだ。ちなみに彼らの祖霊が蛇ならば、ヒ国の邦人にとって祖霊は魚だ。邦人たちは、海淵に住まう偉大なる人魚の末裔を自称している。だからヒ国の国旗は白地に魚鱗を抽象化した菱形模様が描かれたものだし、凝ったものになると銛を掲げる人魚が描かれている。
頬を薄く朱に染めたまま、イノリも僕を見上げる。化粧のされていない頬に、かりそめの紅がついた。大きな澄んだ目が印象的な顔だ。まだ幼いけれども、間違いなく美人だと思うのは、一年限定の夫のひいき目ではないと思いたい。長い黒髪はあちこち癖があって跳ね返っているけれど、それがかえって子犬のようで可愛い。
形の整った耳とか細いまつげとか、あちこちが本当に小さくて、ちょっと力を入れたら壊れてしまいそうだ。
「あの……雪人さん」
改めて見入っていたら、イノリの方が視線を逸らして下を向いてしまった。
「こ、これで……気が済んだでしょうか?」
「え?」
きょとんとした自分とは裏腹に、ますますイノリはもじもじとしてしまう。
「その……雪人さんが……私に会えなくて寂しいって……だから……」
ああ、トンノさんの言ったあのことか。どうやらイノリは、あれを真に受けてしまったようだ。
「だ、だから……その…………寂しくなくなるくらい…………いっぱい見て下さい…………」
そこまで言うのが限界だったらしく、再びイノリは赤面するや否や完全にうつむいてしまった。
寂しくならないように、自分の姿を瞼の裏に焼き付けておいてほしい。要するに、イノリの言いたいことはそんな感じだろう。異性にじっと凝視されたことなどない彼女にとっては、夫とされた相手でも恥ずかしいことらしい。それに耐えて、こうやって申し出てくれるイノリのいじらしさに、胸が熱くなってしまった。
「イノリ、だいじょうぶ」
なるべく声音を低く、かつ優しくして言うと、彼女は目を上げた。
「ありがとう。もう寂しくはないよ」
イノリの瞳に、一瞬で安堵の色が広がるのがこの至近距離ならば手に取るように分かった。その言葉だけでは足りない気がして、僕は右手を伸ばした。一瞬だけ、イノリが身を固くするのが分かった。
恐らくただの反射だろう。彼女の父であるエトロナイは、我が子に手を上げるような感じの人ではなかった。自分の心に促されるまま、僕はそっとイノリの頭を撫でた。改めて考えると、この三日間、一度もイノリには触れていなかった。別に、夫婦としての関係を求めているわけではない。
僕たちの関係はくじが作り出した仮のものであり、一年後には解消されるものでしかないのだ。そこまで深い仲になることは、想像がつかないし、何よりもイノリはまだ五つ星の子供だ。里の人たちによると、イノリほどの年齢で結婚し子供を授かることも、あり得ないことではないらしい。相手が外つ国の住人となると、イノリがいの一番だろうが。
かりそめの結婚関係は一年で終わりを迎える。イノリは自分の家に戻り、僕は余程のことがない限り、その後日本に帰る。そんな結果の分かっている間柄で、深すぎる関係など僕の側からすると無茶でしかない。イノリの側がどう思っているのかは分からないが、恐らく僕と同じように思っていることだろう。
そんな事情とは別にして、こうしてイノリに触れるのは初めてだった。思った通り、彼女の頭は小さい。五指を目一杯広げれば、リンゴみたいに鷲掴みにできるんじゃないだろうか。いや、さすがにそれほど小さいはずはない。けれどもそう錯覚できてしまうくらい、彼女は華奢なのだ。
大人たちに混じって笛吹山を登り、食用の野草や塊茎、それにキノコを籠一杯に採ってくることだってしているのに。この小さな体のどこに、そんなエネルギーが詰まっているんだろうか。先人と地球人との遺伝的な差はごくわずかであると、僕の読んだ資料には書いてあったはずなんだが。
手の平から伝わってくる髪の毛の感触が本当に心地よい。全体はつやつやしているのに、所々癖があってはねているところは固い。異性の体というものは、たとえ髪であっても触り心地がいいものなのだろうか。恥ずかしながら、今まで異邦に行きたいために勉強と実技一辺倒で過ごしてきた身には、年下の少女でも異性として意識してしまいそうになる。
一方イノリは、僕の手の感触がまんざらでもないのか、目を閉じてされるがままになっている。まんざらでもない。そううぬぼれてもいいのだろうか。喉の下に手をやったら、ゴロゴロ言いそうな顔だ。何だか、人間サイズの子猫を撫でている気がしてくる。抱き上げたら喜ぶだろうか。
いやいや、何をやっているんだ。僕はこんなことをするために、わざわざイノリの手を休ませたのではない。イノリだって、暇を持て余していたわけではなかったのに。撫でるのを止めて手を引っ込めると、我に返ったようにイノリは目を開けた。少しだけ潤んだ目が、普段よりもさらに彼女の顔の中で自己を主張していた。
すっと、その深すぎる瞳の中に、心の一部が吸い込まれそうになる。
「イノリ、聞きたいことがあるんだ」
「はい。なんでしょう」
口調がどこか夢見心地だ。
「その…………」
なんと言い出したものか。しばらく考えあぐねてから僕が口にした言葉は、
「新婚旅行に行かないかな?」
という、考察の時間を費やした価値のないストレートなものだった。
案の定、イノリは不思議そうな顔をした。
「旅、ですか?」
駄目だ。過ごしてきた人生の経験が違いすぎだ。異邦の文明はおよそ、地球では中世程度だ。色々と不可思議な機器や魔法としか思えない技術もあるが、少なくともこの花守の里周辺は、高度な文明とは縁のない穏やかな生活を送っている。
里を訪れるのは観光客ではなく旅人や行商人、流れの技芸の演者や僧侶のような人たちだ。彼らは確かに旅をしている。けれどもそれは楽しいものなどではなく、生活の一環であり、むしろ厳しいものだ。つまり、イノリにとって旅とは娯楽ではない。めでたい祝い事の後で、わざわざ大変なことをするとはどういうことだろう、と思っているに違いない。
「ええと……イノリ、聞いてくれ」
「はい。何でもおっしゃって下さい」
素直に従ってくれるイノリの態度が嬉しい。僕には分不相応な女の子だ。
「僕たちは一年間の仮とはいえ、結婚した」
「はい」
「僕が夫で、君が妻だ」
「は、はい……」
改めて自分の役どころを聞かされて、やっと収まっていたはずのイノリの頬がまたうっすらと赤くなる。
「僕たちの国では、結婚した者同士は短い間旅に出るんだ」
「本当ですか?」
「そう。だから僕たちも一緒にそうしようじゃないか」
僕の申し出に、イノリは一瞬嬉しそうな顔をし、けれどもすぐに困った顔になる。
「でも……いきなり里を離れて旅なんて。あ、その、雪人さんと一緒ならば、私は全然構わなくって……嬉しいです……けど……」
「大丈夫。そんなに時間のかかるものじゃないよ。明後日、はずれの草原に群生している流星草が種を飛ばすはずなんだ。記録によると、空を沢山の流れ星が流れていくようなすごい綺麗なものになるらしいんだよ。夜、一緒に見に行こうよ。ほんの少しの時間しか取れないし、場所だって近場だけど、僕とイノリの記念になれたらいいなと思うんだ」
イノリの不安を一つずつ摘んでいく。時間と場所をはっきりさせ、目的も明確なものにする。
「いいんですか?」
「ああ、もちろん」
「私と一緒で、いいんですか?」
「当然じゃないか。僕たちはもう夫婦なんだろ?」
夫婦、という言葉に敏感に反応して照れてしまうイノリの反応が可愛らしい。
「どうかな? 行ける?」
もう一度の申し出に、イノリはうなずきかけたが、再び眉を寄せてしまう。
「お誘いはすごく嬉しいんですけど……。すみません、私、石けん作りのお仕事が終わっていなくて……」
そうか。やはりそう簡単に、時間に空きを作れるような物ではないようだ。
斥力トレーラーを使えば、イノリが仕事を終えてから全速力ですっ飛ばし、はずれの草原に到着することも不可能ではない。ただ、公用車を私的な目的に使うのは気が引けるし、何より風情がない。登山目的で山を訪れたというのに、頂上までヘリの直通便で行くようなものだ。はずれの草原にまですっ飛ばすと同時に、旅行の過程をすっ飛ばしている。
仕方がない。こう言うしかないようだ。にこやかな顔を止めて、できるだけ真面目ぶった顔を作る。
「イノリ、実はこれは、僕の国の慣習なんだ」
「慣習……ならわしなんですか? 雪人さんのお国……ええと、ニハ……じゃなくて、ニホン、ニッポンでしたね」
苦労して日本という名前を思い出すイノリ。慣れない発音にもどかしそうな顔をしている。
「そう。日本にある、結婚した者同士は旅行に出るならわしさ。もちろん、行くか行かないかは本人の自由だけどね」
ちょっと針小棒大になるかもしれないけれども、少々のアレンジを加えていく。習慣、掟、ならわし。そういった言葉に、伝統的な生活を続けてきた人たちは弱いはずだ。
「僕の方も、こうやって長期滞在させてもらう身だから、花守の里のならわしは最大限尊重したいし、尊重するべきだ。でも、だからこそ。今回だけは僕たち日本人のならわしを尊重してもらえないだろうか。いつもいつも、日本の側の風習を押し通したいわけじゃない。生涯に何度もない結婚の後に行われる大事なならわしなんだ」
噛んで含めるようにして、僕は自分の考えをイノリに伝える。
「だから、今回は無理を通させて欲しい。そういう風に、トンノさんに伝えてもらえないかな」
「わ、分かりました。ならわしでしたら、守らないといけませんものね。トンノさんに、確かにそう伝えておきます」
幸い、イノリはこの説得で納得してくれたようだ。
「でも、無理にとは言わないからね。もし仕事が休めるようならば、そうして欲しいだけだから。他の人に負担を押しつけることは、しなくていいよ」
「はい。よく分かりました」
小さな拳を握りしめて、イノリは何度もうなずいている。
「よし、じゃあ、僕からはこれで終わり。時間を割かせて悪かったね。もう仕事に戻ってもいいよ」
あまり長い間イノリを借りるのも悪い。僕が戻るように促すと、「はい」と大人しくうなずいてイノリはきびすを返す。軽く風が起きて、その手にまとわりついているいい香りがこちらに漂ってきた。
どうやら、新婚旅行には行けそうだ。イノリは僕の言ったことをトンノさんに伝えてくれるだろうし、トンノさんもうまく取りはからってくれるだろう。もっとも、ここはヒ国の辺境だ。立て続けに何かしら異変が起こることもあり得なくはない。現代の日本のように、スケジュールが完全にとどこおりなく達成できるとは限らない。その時はその時だ。
「あの……雪人さん…………」
自宅に戻ろうとした僕の背に、イノリの声が投げかけられた。
「ん? 何か忘れ物?」
イノリは戸に半分体を隠して、こちらを伺うような体勢でいた。
「いえ、そうじゃないんですけど……」
しばらく「ええと」「その」と何度も言葉に詰まってから、イノリはぎゅっと目をつぶって言った。
「旅行、誘って下さって嬉しかったです!」
続いて「ありがとうございました!」と頭を下げてから、イノリは脱兎の如き勢いで家の中に駆け込んでいった。一生懸命にお礼を言ってくれる様子がほほえましくて、僕も笑顔になる。どうやら、日本のならわしをイノリも喜んでくれたようだ。こちらの都合を押しつけただけにならなくて、本当によかった。
その夜のことだ。日が沈み、蛍光石の照明をそろそろつけようかと思う頃に、イノリは帰ってきた。顔はもう、喜色満面といったところだ。明後日は一日、丸々新婚旅行に使えるそうだ。トンノさんも気っ風がいいものだ。これで、昼間の新婚旅行の計画が、ただの取らぬ狸の皮算用で終わらずにすんだ。
後は、明後日に向けて準備をしておこう。