第7話
一瞬、綾子が何を言っているのか理解できなかったのだが、数秒後にようやく思い出す。
「な、何でシバセンがそんなことを知っているんだよ。誰かチクったろ」
顔に明らかな動揺の色を浮かべると、二人を交互に見た。しかし大輔は首と手を振り、圭吾は肩を竦めているだけだった。
代わりに彼女が答えた。
「朝教室へ入ろうとしたら、お前らの話している声が廊下まで聞こえてきたんだよ。何だか面白そうな内容だったから、しばらく聞き耳を立てていたのさ」
つまり綾子は教室へ直ぐには入らずに、悠太とさやかの遣り取りを廊下で聞いていたのだ。道理で朝のホームルームの始まりが遅かったはずである。
「あああ…何で俺、あんな約束しちゃったんだろ」
悠太は頭を抱え、その場に蹲った。綾子は急に崩れ落ちた悠太を見ると、不思議なものでも見るかのように首を傾げる。
「女装くらいで大袈裟なヤツだな」
「悠太のヤツ、昔のトラウマがあるからな。女装は嫌なんだよ」
「トラウマ?」
「そうそう。俺、悠太と同じ保育園だったんだけどさ、その頃は女の格好して通っていたんだぜ。違うクラスで名前もよく知らなかった頃は、本当に女かと思ってたもんな」
「! あれは、母ちゃんに無理矢理着せられていたんだよ。フリル系が好きだったから」
悠太は立ち上がって反論したが、大輔はそのまま続ける。
「しかもメチャメチャ似合っていて、その辺の女どもより可愛かったぜ。まるでおとぎ話から抜け出した美少女そのものって感じだったな」
大輔はその頃のことを思い出したのか、頬を染めつつうっとりとした表情になった。そんな彼を見ながら悠太は、うんざりした顔になる。
「大輔ソレ、絶対に思い出を美化しすぎだって。あの時は俺たちまだ、五歳くらいだったろうが」
「でも今だったら、絶対に律くらいは可愛かったはずだろ? 何といっても兄妹だしな。
それに俺の記憶ではあの当時、周りの男はみんなお前のことを可愛いって、言っていたんだぜ」
「うわ~止めてくれ~! 気色悪い!」
悠太は悶えるように頭を再び抱え込んだ。
「で、誘拐されそうになったのがその頃、だったんだよな」
「誘拐?」
突然降って湧いたように出現した穏やかとはいえない単語で、綾子は思わず眉を顰める。
「俺は後から話を聞いただけなんだけど、確か連れ去られそうになったんだっけ?」
「しかもそれを止めたのがさやかだったと、僕も直接本人から聞いたぞ」
二人は口々に言うと、先を促すように悠太へ顔を向ける。その視線を受け取ってしまった悠太は、渋々といった様子で口を開いた。
「俺だってその時のことは、あまりよく憶えていないんだよ。気づいたら犯人が地面に伸びていて、さやかが目の前に立っていたことくらいさ。
でも物凄く怖かったことだけは、何故か今でもはっきりと記憶にあるんだよな。それに母ちゃんが俺に女物の服を着せなくなったのも、その後くらいからだったし」
どうやら悠太の頭中には『恐怖=女装』という図式が、そのままインプットされてしまったらしい。幼い頃に体感した経験や感情は、成長過程を経ても尚多大な影響力を及ぼすものなのだ。
「なのにさやかのヤツ、俺の一番嫌がることを知っているくせに、あんなことを言いやがって」
絶対に俺への嫌がらせだ、などとブツブツ文句を言いながら、心底口惜しそうに顔を歪ませた。
「そんなに嫌なら、勝てばいいだけの話だろ」
「あー、そいつは無理だな」
大輔が右手を左右にパタパタと振った。
「だってコイツ、今まで一勝もしたことがないんだぜ。……〇勝五五敗だっけ?」
「いや、五七敗だ」
圭吾は手帳も見ずに答える。
「なんだ坂井は、一度も向島に勝てたことがないのか」
そう言いながら口端を上げる綾子を見た悠太は、途端に不機嫌な顔付きになった。
彼女に向かって反論しようと口を開きかけた丁度その時、室内に設置されているスピーカーから馴染みのあるメロディが流れてくる。
「あ! 休み時間、終わっちまったじゃないか!」
綾子が悠太よりも先に叫んでいた。