第15話
さやかには、九歳以上年の離れた兄が三人もいた。
幼少の頃から彼らは柔道や空手、合気道などといった武道を一通り習わされていたが、一番末のさやかには「女の子だから」という理由で習わせることはなかった。
だが幼い彼女にとって、一番の遊び相手は兄たちである。
彼女は物心付く前から彼らを相手に、自然に武術を身に付けていった。特に格闘技好きな二番目の兄が、一番可愛がっていたという話である。
(何かを狙っているわね)
最初に悠太が向かって来た時、さやかはいつものように直ぐに決着を着けようとしていた。
彼は猪突猛進型である。
何の考えもなしに、ただ闇雲に突っ込んでくるだけなのだ。
それは避けるのも倒すのも、実に容易かった。以前に仕掛けてきた兄たちの攻撃に比べれば、軽くいなす程度である。
しかし今回は少し状況が違っていた。
いつもなら簡単に自分のペースへ持ち込めるのだが、今日の悠太はただ突っ込んでくるだけではなかったのだ。
恐らくは何か、一発逆転のようなものでも狙っているのかも知れない。
さやかはそう直感した。
(まあ仕方ないか。今回は女装が掛かっているんだものね)
本当はあんな条件を言うつもりなどなかった。
しかし売り言葉に買い言葉。思わず頭に血が上り、口走ってしまったのである。
(だって仕方ないじゃない)
思い返すだけでも、心が落ち着かなかった。
『遥香先生に毎日逢えるしな』
今朝悠太の近くを通った時にそんな声が聞こえてきて、思わず足を止めていた。その嬉しそうな顔を見ているだけで、胃がチリチリと痛んでくる。
『昨日は遥香先生の前で……』
『お前のせいだぞ!』
最近はいつもそうだ。
いつも彼女のことばかり。
さやかは遥香に会ったことはなかったが、あまり良い印象を抱くことができないでいる。
なんだかムカついてきた。
今、目の前にいる悠太の顔を見ているだけでも、無性に腹が立ってくるのだ。
この沸き上がってくる感情が何なのかは、流石に自分でも察しはついていた。
でも言わない。
ムカつくから。
死んでも言わない。
周囲で歓声が巻き起こる。
悠太を捕らえようとしていたさやかだったが、するりと逃れられたのだ。
壁に掛けてある時計を見ると、残り五分を切るところだった。
さやかは力や体力では負けない自信があった。しかしスピードでは、小柄な悠太のほうが圧倒的に有利だ。
彼は一体何を仕掛けてこようとしているのか。
何かを狙っていることだけは分かったが、それが何なのかまではまだ予測できない。
(そろそろ、決着を着けないといけないわね)
相手が繰り出してくるローキックを躱しながら、思案する。
残り一分余り。
時間が経ちすぎてしまったようだ。いつもとは違う悠太に対して、慎重になりすぎている。
このままいけば引き分けで終わる。
本当ならば罰ゲームがなくなるので、両者とも都合は良いはずなのだが。
しかしさやかにも意地があった。
今まで勝ち続けてきたというプライドもある。
このままズルズルと引き分けに持ち込むのも、何となく癪だった。
何より、試合直前での悠太の態度が気に食わなかった。
引き分けで逃げようという魂胆なのは明白である。
男らしくない。全くもって姑息な手段だ。
(全く……チョロチョロと!)
さやかは苛立ちを感じていた。
こちらから攻撃を仕掛ける度に、逃げられているのだ。
やはりいつもの悠太ではない。今回は珍しく頭を使っている。
彼女はここで反撃をしようとしたのだが、ふと思い直した。
敵の懐へ、自ら飛び込んでいったとしたら――?
わざと相手の誘いに乗ってみるのである。
悠太が何を狙っているのかはまだ分からなかったが、どうせまた姑息なことを考えているに違いない。
残りは一分もないのだ。もう迷っている時間はなかった。
(しめたっ!)
悠太は見逃さなかった。
それは、ほんの刹那だったろう。
さやかの左脇――左ストレートを繰り出してきた瞬間の、僅かな隙間だった。悠太には最後のチャンスでもある。
真っ向から迎え撃つフリで、フェイントを掛けてみた。
見事に釣られたさやかは、完全に左がガラ空きになった。悠太がそこへ夢中で飛び込んでいく。
しかし彼女にとってそれは既に、予想の範囲内であった。
その瞬間を捕らえようと待ち構えていたさやかは、身体の重心を素早く移動――。
―――させたはずだったのだが。
先程までの喧騒が嘘のように、一瞬で静まり返っていた。
この教室内全ての視線が、釘付けになっている。皆呼吸を忘れたかのように動こうとしなかったが、壁掛け時計だけが唯一、大きな心音を鳴らしていた。
悠太が顔を上げるのと同時だった。
彼女もまたゆっくり振り返ると、その目は下にいる彼を真っ直ぐに捕捉する。
それはまるで獲物を捕らえて離さない、天敵の眼光のようでもあった。
「あーあ、とうとうやっちまったか」
大輔は誰に言うでもなく、無意識のうちに小さく呟いていた。
「……カンチョー」
隣では、既に背を向けている圭吾が身体を丸め、両肩を小刻みに揺らしていた。
(ホント、悪趣味な奴)
大輔は呆れつつも、この後に待っているであろう彼の災難を危惧するのだった。
【Fin】
●あとがき●
このような未熟な小説を読んで下さった方、ありがとうございます。
楽しい学園生活の雰囲気などが伝われば良いなと思いながら、書いていました。
自分の力不足ゆえにまだまだ課題は多いですが、この続編もそのうち書けたらいいなと思いつつ、また頑張りたいと思います。