科の木の家
前作とは違ってちょっとしんみりした感じになりました。でもやっぱりBLです。
宮沢光一は拗れた恋愛関係に嫌気がさし、東京の会社を辞めて長野に帰郷。妹陽菜実は、そんな兄を心配する。毎年夏近所の別荘に、画家の朝来先生が弟子を連れてやって来るのだが、去年初めて会った美大生友永栄に光一はだんだん惹かれていって…。
兄と妹
ここは長野県東信地方、9月になって葡萄の旬の季節を迎え、方々の農園でたわわに実を付けた葡萄棚が見られるようになった。
「今年もまあまあの出来じゃない、お兄ちゃん」
色づいたシャインマスカットやナガノパープル・クイーンルージュを眺めながらこう言ったのは、宮沢陽菜実、17歳の高校2年生だ。彼女に声を掛けられて振りむいたのは長身の男性、宮沢家の長男・光一、25歳である。
「そうだな、日照時間が少なめで心配していたけれど、安心したよ」
宮沢家はこの地で代々農家を営んでいる。昔はお米とリンゴが主力だったが、今は葡萄が主な出荷物だ。お米や野菜も作っているが、ほぼ自宅と近くの親戚用。リンゴと桃の木も少し残してあって、季節には家族で楽しめる。
「なんだか毎年新しい品種を見掛けるよね。たまに直売所や道の駅への出荷に付いて行くと『こんなのあったの』って驚くわ」
陽菜実は農作業が特に好きというわけでもなかったが、農繁期には手伝いに駆り出されるし、こうして実った果樹を眺めるのは楽しかった。特に兄の光一と農園を歩くのが、嬉しかったのだ。
光一は東京の有名大学を卒業後大手企業に就職したのだが、1年ちょっと勤めたところで退職し去年突然長野に戻ってきた。親戚からも「いい会社に入れたのにもったいない」と散々言われた。何かあったのだろうが、両親は何も聞かずに光一を迎え入れた。陽菜実は大好きな兄が戻って来たのは嬉しかったが、いきなりの帰郷はやはり気になった。
(仕事がしんどかったのかな…でもお兄ちゃんの勤めていた会社はブラックって話は聞かないし、新卒者には人気のはず…人間関係で何か嫌な事でもあったのかな。お兄ちゃん体育会系で根性はありそうなのに)
妹として色々聞きたいことはあったが、陽菜実はなかなか切り出せなかった。
「光一、朝来先生の所に野菜と葡萄を持って行ってくれる?」
母屋の方から出てきた二人の母親・澄子が光一に声を掛けた。
「ああ、わかった」
光一が答えると
「私も行ってもいい?」
陽菜実が尋ねる。
「いいけど、近いから車は使わないぞ」
「うん、私も持つよ」
二人は母が用意した野菜と果物を段ボールに入れて、近くに住む「朝来先生」のところへ運んで行った。
「朝来先生」というのはこの辺の住人ではない。東京の美大で教授をしている画家である。農業をやめて転居した人の空き家を買い取り、リフォームして別荘のように使っているのだ。ここの環境や風景が気に入っているという。朝来先生の祖母が南信の出身であるという親近感もあったらしい。歳は60くらい、気が向くとこちらに来て暫く逗留していく。リフォームして造ったアトリエに籠る事もあるし、ただのんびりと避暑をする事もある。陽菜実が小学生の頃から行き来しているから、10年以上の付き合いになるだろうか。今大学は夏休みだから、先生は長めに滞在しているのだ。
「お邪魔します、宮沢です」
光一が玄関先で声を掛けた。
「あ、宮沢さん、こんにちは」
出て来たのは朝来先生ではなく、若い青年だった。
「すみません、先生は今アトリエに籠ってて…」
「いえ、野菜と果物を持って来ただけですから。これ、召し上がって下さい。母が持って行けって。母の漬物も入っています」
「わあ、いつもありがとうございます。葡萄、買ったら高いのに」
「いえいえ、野菜とかかえってご迷惑じゃないですか?」
「そんな事ないですよ。先生野菜が大好きですから。僕もネットで調べて簡単なメニューを作ってます」
「次は俺が何か作ってお持ちします。男の料理ですけれど」
「友永さん、こんにちは…」
男二人の会話に陽菜実が照れくさそうに挨拶を挟みこんだ。
「陽菜実ちゃん、こんにちは。いつもありがとう」
友永と呼ばれた青年は陽菜実に笑顔を向けた。青年の名前は友永栄。彼がこの家に来るのは去年の夏に続いて2度目だった。
朝来先生は家族をここに連れて来ることはなかったが、かといって一人で来ることもなかった。必ず助手や弟子が一人付いてきて身の回りの世話をしていたのだ。大学生だと4年続けて同じ人が来た時もあるし、1回だけの人もいた。大学院の人や大学以外の弟子が来る事もあった。単に世話をするだけでなく、もちろん勉強も兼ねている。栄は朝来先生が教鞭を執る大学の学生で、今2年生だという。光一や陽菜実とは去年の夏初めて会ったのだった。
「それじゃあ失礼します。朝来先生によろしくお伝え下さい」
「はい、ごちそうさまです。ご両親にもお礼をお伝え下さい」
光一と陽菜実は挨拶して玄関を出た。陽菜実はふと庭先の大きな木に目を留めて
「大きくなったね、あの木」
と、呟くように言った。
「ああ、シナノキな」
そこには大きなシナノキ―科の木が一本、たくさんの葉を蓄えて立っていた。前の住人の頃からあったのかどうか、光一たちの記憶も定かではない。ややいびつなハート形の緑の葉は、秋が進むと黄色を帯びていく。長野県の旧国名は「信濃国」。その国名の由来になったともいわれている木だ。古い史料では「信濃」は「科野」と表記される事もある。光一も陽菜実も、その木を何となくこの家のシンボル的存在だと思っていた。
「お前、友永さんが好きなのか」
光一がからかうように陽菜実に言った。
「ち、違うよ、そんなんじゃないけど…なんていうか…ちょっと線が細くて優しげで、少女マンガに出てきそうな人だなって」
陽菜実は慌てて説明する。
「少女マンガか、確かにな」
光一は笑ったが、なぜか一瞬複雑そうな表情を見せた。
「ただいま、母さん。朝来先生はアトリエで仕事中だったから、友永さんに渡してきたよ」
「ありがとうね、ご苦労様。さっき中村君と会ったけど、光一を飲みに誘っていいかって聞かれたわ。ラ〇ンかメールするって」
「え、まじか。ホントだ、ラ〇ンが来てる」
「私も行っていい?明日土曜日だし」
「何言ってるの、未成年の女の子が若い衆の集まりになんか…」
「お酒は飲まないもん。それに女の人だって来るんでしょ。お兄ちゃんがこっちに帰って来てから集まりに女性の参加者が増えたって、隣の智香ちゃんが言ってたよ」
高校までバレー部に入っていてエースアタッカーだった光一は、背も高くなかなかのビジュアルなのでこの辺では女子人気が高かった。
「お兄ちゃんに近付く魔の手から私が守ってあげる」
「なんだよ、それ。まあいいか、母さん、俺がちゃんと見てるから」
「仕方ないわね、早めに帰るのよ」
「やった!私の会費はお兄ちゃんヨロシク」
「ちゃっかりしてんな」
二人が家に入りかけた時に、澄子が思い出したように言った。
「そういえば蒼佑が明日また帰って来るって」
「ええ、また?蒼兄ちゃん8月にも1度帰って来たじゃない」
「葡萄の季節にまた来たいんですって」
「もー、お母さんあんまり気前よく持たせちゃダメだよ」
陽菜実は口を尖らせた。蒼佑というのは陽菜実の4つ上の兄で光一には弟、現在名古屋の大学に通っているが、9月いっぱいは夏休みなのでまた帰省するという。
「8月の帰省の時だって桃やらスイカやらトウモロコシやら散々食い荒らしてったのに」
陽菜実はまた口を尖らせて文句を言っていた。
戯言
「あれえ、陽菜実ちゃんも付いてきたんだ、まだ早いんじゃないの?」
光一の同級生・中村が陽菜実の姿を見つけて声を掛けてきた。
「お兄ちゃんのボディーガードです。結構人多いんだね、いつもこんななの?」
場所は光一たちがいつも飲み会や寄合で使う近くの居酒屋だ。少人数だとテーブルや小さめの個室だが、今日は広間を使っている。
「光一が来るって言うと女子の集まりがいいんだよ、お陰様で」
中村が悪びれずに笑って言う。
「お兄ちゃんを客寄せパンダにしないで下さい。飲み会って結局合コンじゃない」
陽菜実は口を尖らせた。どうも口を尖らせるのは彼女のクセらしい。
「まあまあ、陽菜実ちゃんの未来のお婿さんも見つかるかもよ?俺らより年下の連中も来てるし」
「私は東京でカッコイイ彼氏を作るんです」
「今更東京でもないだろ、新幹線で1時間半だぞ?東京行ったって案外地方出身者が多いんだからな」
陽菜実と中村のやり取りを聞きながら、光一はどこに座ろうかと広間を見回した。
「宮沢君こっちこっち」
「ダメよ、光一君はこっちに来て」
方々で女性の声が聞こえて光一は苦笑いした。
宴会が始まって1時間ほど過ぎ、みんなだいぶ酔いが回って賑やかになってきた。場所を移る者もいたが、光一と陽菜実は最初の席から動かなかった。光一の右側はずっと陽菜実がガードしている。あからさまに「ジャマ」という視線を向ける女性もいたが、陽菜実は気にしなかった。
「そういえば光一の近くの別荘?朝来先生また来てるんだってな」
同級生の一人・飯尾が光一に話を振ってきた。
「ああ、いらしてるよ。相変わらずアトリエにいる時間が長いみたいだけど」
「俺も見かけたわ、またお弟子さん連れて来てたな」
もう一人話に乗ってくる。
「今来てるお弟子さん?なんか今まで来ていた人たちと毛色が違うよな」
それを聞いた光一の眉がピクリと動く。
「そうそう、キレイめっていうの?ひょっとして先生の愛人とか?芸術家ってソッチの人多いっていうじゃん…」
飯尾の言葉が終わる前に、光一がゴトッと音を立ててビールの入ったグラスをテーブルに置いた。
「やめろ、下品なこと言うな!友永さんはそんなんじゃない!先生は東京に奥様もいるし」
光一の勢いにちょっと驚いた飯尾だったが、
「いやー、奥さんがいたってさ、芸術家ってそういうの派手って聞くし」
尚もそう言い募った。
「お前の聞きかじりで芸術家を一緒くたにするな!」
いつもは静かな光一の怒声に、他の席にいた者たちもびっくりしてこちらを見ている。
「お、お兄ちゃん…」
あまり見た事のない兄の表情に、陽菜実は不安そうに光一の腕にとりついた。
「な、なんだよ、マジになるなよ、冗談じゃんか」
バツが悪くなった飯尾はグラスを持って席を移ってしまった。
「お兄ちゃん、もう帰ろう」
陽菜実はか細い声で光一にそう言った。
真っ暗な夜道を歩きながら、兄と妹は黙ったままだった(※田舎の夜はほんとーに真っ暗)。陽菜実は何を喋ったらいいのかわからず、口を開けない。
(お兄ちゃん、なんであんなに怒ったんだろう。そりゃ飯尾さんたちの言い方は嫌らしかったと思うけれどみんなだいぶ酔ってたし、お酒の上での戯言だって思えば…)
そもそも光一の1年前の帰郷も、陽菜実はずっと疑問に思っている。兄はそう簡単に物事を投げ出す人ではないと、陽菜実は知っている。それなのにせっかく入った大企業を1年で辞めてしまうなんて、理解できない。
(以前紹介したい人がいるようなこと、言ってなかったっけ…)
陽菜実はふとそんな事を思い出していた。その時
「悪かったな、陽菜実。せっかく来たのに変な空気にして」
光一が呟くようにポツリと言った。
「大丈夫だよ、私も友永さんの事あんな風に言われて腹が立ったし」
陽菜実は明るく光一の顔を見上げて、元気づけるようにそう言った。
いびつなハート
「ちょっと、蒼兄ちゃん!居間でごろごろして葡萄ばっかり食べてないで、少しは手伝いしなさいよ!」
陽菜実は名古屋から帰省してきた次兄に文句を言う。
「っせーな、俺が手伝えることなんて大してないだろ?兄貴がいるんだから、いいじゃねーか」
蒼佑はそう言いながらテーブルに置かれた葡萄に次々手を伸ばす。
「うまー、皮ごと食えるってめんどくなくていいな。ところで兄貴は?こっちのスーパーで友達への土産を買うから、車を出してほしいんだけど。こっちのスーパーのPB(=プライベートブランド)、評判いいんだよな。俺も安く上がって助かるし」
「蒼兄だって免許持ってるんだから、自分で運転しなさいよ」
「えー、ヒトの車ってなんか運転するの怖いじゃん」
蒼佑は「人の車」と言ったが、別に自分の車を持っているわけではない。
「勝手な事ばかり言って…光お兄ちゃんは朝来先生のところだよ」
「また行ってんの?よく差し入れするなあ、見返りがあるわけでもないのに。キレイなお姉さんでもいるなら話は別だけどさ」
「今年最後の夕顔で煮物作ったって、果物と一緒に」
「あー、夕顔ももう終わりかあ」
夕顔は干瓢の材料として有名だが、普通に野菜として食べても美味しいのである。但し夏だけの味覚ではあるが。
その頃光一は朝来先生の家の縁側で、栄と二人並んで座っていた。栄はスケッチブックにペンを走らせている。
「友永さんはよくあの木をスケッチしていますね」
光一は隣の栄に目を落としながら話しかけた。長い睫毛がよく見える。
「ええ、なんだかあの木が好きで。『信濃』の由来だって知ったら、余計に愛着湧いちゃって…あの、それより敬語やめにしませんか?光一さんの方が年上だし、『友永さん』ていうのも…」
栄は光一の顔を見上げてそう言った。
「…じゃあ…栄さん?」
「『さん』もいらないですけど」
「いや、さすがに呼び捨ては…」
それを聞いた栄はふっと笑って立ち上がり、木の近くに歩いて行った。
「この葉っぱってちょっと縦長だけどハートの形って言われますよね。縁がギザギザで可愛くないっていう人もいるけれど、僕は好きだな」
栄はそう言って葉の一枚を愛しそうに撫でた。
「光一さん、シナノキの花言葉って知ってます?」
「花言葉?いや、知らないな…」
「『夫婦愛』だそうです」
「夫婦愛…」
その時光一はなぜか切ないような表情を見せた。
「光一さんは…先生と奥様の事、何か聞いてますか?」
「奥様…は、東京にお住まいとか。先生のお宅ですよね」
「いえ、奥様だけ娘さん夫婦のお宅でお暮しです。別居ですね」
栄はさらりとそんな事を言った。
「プライベートな事になっちゃうけれど、先生も隠していないので。別居と言っても仲が悪いとかではないみたいです。ただ先生がお仕事柄自由に動きたいから、お互い気楽で過ごせるようにそうしているっておっしゃっていました。時間が合えば食事や旅行に行ったりして、むしろ仲がいいんですよ」
栄はハート形の葉を見つめながら話し続けた。
「僕の両親は中学の時に離婚しているので…たとえ別居でも仲が良くて羨ましいなと思っています。暮らしの形は人それぞれですしね」
光一はもしかすると栄が朝来先生に思いを寄せていて、そんな話をし始めたのかと勘ぐってしまった。先日の飲み会で、飯尾たちがふざけて言った事が頭に残っていたからだ。でも彼の家庭の事情を聞くと、どうやらそういう事ではないようだった。そう思った時何故か光一はほっとした。
(え?俺なんで今ほっとしたんだ?)
光一が自分の気持ちに戸惑っていると、奥から朝来先生が現れた。
「やあ光一君、来てたのか」
「お邪魔しています」
「先生、ようやくお目覚めですか?」
こちらに戻ってきた栄が笑ってそう言った。先生は昨夜筆が乗って遅くまでアトリエに籠っていたので、先程まで昼寝をしていたらしい。
「光一さんが夕顔の煮物を持って来てくれましたよ。先生お好きでしたよね。今年最後だそうです」
「それは嬉しいな、そうか今年最後か。また来年の夏まで待たないとな」
朝来先生はちょっと残念そうだ。
「冬は寒いけれどいらしてくれれば、母の漬けた野沢菜がありますよ。この辺は雪がそれ程多くはないですから是非」
「そうそう、野沢菜!あれはやっぱり手作りが一番だな。食べだすと箸が止まらない。友永君はまだ夏だけだったか」
「はい、市販の野沢菜は食べた事がありますが…」
「市販品も悪くはないけれど、手作りは別物なんだよ。各家での工夫もあって…ああ、話していたら食べたくなってきた」
そこへ庭先から陽菜実がやって来た。
「お兄ちゃん、蒼兄が車出してほしいって…あ、朝来先生、友永さん、こんにちは」
「陽菜実ちゃん、こんにちは。いつも差し入れありがとうね」
先生は上機嫌で陽菜実に声を掛けた。
「蒼佑のやつ…仕方ないな。栄さんも買うものがあれば一緒に行く?」
光一は栄の方を見た。
「いえ…今日は光一さんが持って来てくれた夕顔もありますし、またお願いします」
「そうか、じゃあまた。朝来先生失礼します」
挨拶をして光一と陽菜実は自宅へと戻って行った。途中
「お兄ちゃん、『栄さん』て呼ぶんだ。話し方も砕けてたし」
陽菜実が兄の顔をチラッと見てそう言った。
「え?ああ、そうしてくれって言われたからな」
光一は機嫌が良さそうだった。
「ふうん…」
陽菜実は何かもやっとしたものを感じながら、光一の後をついていった。
城跡
「あれ、お兄ちゃん、今日出掛けるの?」
陽菜実は高校に行こうと玄関まで来たところで、身支度している光一に気が付いた。
「ああ、まだ出ないけどな。朝来先生を送って行くことになって」
「朝来先生を?」
「先生のご友人が近くに来ていて、一緒に温泉旅館に泊まるんだって。電車とタクシーで行くって言うから、行きくらいは車で送りますよって俺の方から申し出たんだ」
光一は車の運転が好きなので、ちょっとしたドライブ気分なのだろう。
「…友永さんも行くの?」
「栄さん?一緒に行くよ。宿には泊まらないけれど、せっかくだから二人でドライブでも楽しんだらって朝来先生が勧めてくれて。夕方には帰ると思うけれど」
「出荷の手伝いは?」
今宮沢家は、葡萄を中心に農繁期だ。
「蒼佑にやらせる。食ってばかりいないで少しは手伝えって発破かけたから」
「…私も行きたい」
「何言ってんだ、お前は学校があるだろう。そろそろ出ないと遅刻するぞ」
陽菜実はなんとなく浮かれたように見える兄に見送られ、家を出た。
光一は朝来先生と栄を車に乗せて、温泉地の最寄り駅まで送って行った。
「ありがとう光一君、助かったよ。友人とは市民アートを鑑賞してから宿に向かう。明日の時間は未定だから気にしないでくれ。友永君、家の方は頼んだよ。これ少しだけど二人で昼にうまい蕎麦でも食べなさい」
「ありがとうございます。お気をつけて」
二人は朝来先生とそこで別れた。
「さてと、俺たちはどうするかな。この辺有名な観光地って言ってもなあ。あまり遠出すると、帰りが遅くなるし…」
「光一さんにお任せしますよ。ドライブだけでも楽しいし」
助手席の栄が微笑んだ。
「そうだなあ、とりあえず…」
そう言って光一が車を走らせたのは、小高い山上にある城跡だった。
「わあ、すごい。見晴らしがいいですね、千曲川が一望できる」
栄は思わず声を上げた。そこは中世の山城を、できるだけ当時の形に近く復元した史跡だった。
「観光地って程じゃないんだけれど…ここに来るのはよほどの城好きとか戦国オタクとか…」(※いい城跡です)
「結構高いですね、千曲川がだいぶ下に見える」
「うん…あのさ、栄さんも敬語をやめてくれると嬉しいんだけど」
光一が控えめにそう言った。
「え、でも僕の方が年下だし」
「職場の上司と部下ってわけじゃないし、先輩後輩でもないし…。朝来先生のご近所ってだけだから」
「…そうですね…じゃないか、そうだね」
栄は笑って答えた。
「怒らないでほしいんだけど…」
光一は改まって栄に向き直った。
「なんですか…あ、何?」
わざわざ言い直した栄に、光一は思わず笑ってしまった。
「俺、栄さんて朝来先生が好きなのかと思った」
「えっ」
「ほんの一瞬だけ」
光一は言い訳するように付け加える。
「好きって…そんなふうに見えた?僕ゲイじゃないんだけどな…でもよく間違われるか」
「間違われる…(って、どういう事だ?)」
「あ、ゲイの人に差別とかないよ。確かに芸術の世界ではそういう人もいるとは聞くけれど」
「うん…」
「先生への態度に、父親への憧れが出てたのかなあ。両親は離婚したって前に言ったでしょ?父親の女性問題が原因で、僕は母親に引き取られたから。父に対しては恨み言もあるんだけど、子供への愛情はあったのか学費や養育費はわりとちゃんしてくれたみたいで、そこだけは感謝してるんだ」
栄は自分の生い立ちを淡々と話し始めた。
「苦労したんだな」
「苦労はしてないですよ。母もバリキャリだったし。でも…やっぱり寂しかったのかな、僕」
眼下の景色を追っている栄の横顔を光一は黙って見つめていた。山の上を吹く風が、やや長い栄の髪を揺らしていた。思わず手を伸ばしそうになった。
「あ、そうだ」
思い出したように栄が言った。
「しばらくの間来て頂いても応対できないことがあるかもしれない」
「どうして?」
「先生の絵のモデルをすることになって…先生は風景画や静物画が多くてあまり人物は描かれないんだけど、久しぶりに描きたくなったみたい。まあ僕しかいないので仕方ないね。先生は一度作品作りに没頭すると何があっても動かないから、その時はすみません…って、こんな事を言ったらまた何か下さいって言ってるみたいだね」
栄は照れたように笑ったが、光一はなぜかひどくショックを受けていた。
(なんだ…これ…)
光一が何も答えず黙ってしまったので、
「あっ、モデルって言ってもヌードじゃないよ、ちゃんと服着てるから」
勘違いした栄は慌ててそう付け加えた。
アトリエで先生と栄が二人きり、先生は栄にひたすら視線を送り続けてペンや筆を走らせる、栄の時間と空間を先生が独占する…その光景を想像した時、光一はどうしようもなく不快な気持ちに襲われた。
(嫉妬…?)
光一は自分の頭に浮かんだ二文字に愕然とした。
「光一さん?」
栄は不思議そうに光一を見ている。
「あ、ああ、ごめん。わかった、その時は玄関先に置いておくよ。なんか腹減ったな。先生に軍資金頂いたし、うまい蕎麦でも食おうか。この辺はねずみ大根ていう辛い大根を使って食べるお蕎麦が有名で…」
「ほんとに?楽しみだなあ。帰りに直売所や道の駅に寄ってもらってもいい?そろそろ友達へのお土産も見繕っておかないと」
「いいよ、地元のスーパーも見てみたら?PBが充実していて地の物を使った商品も多いよ。値段も手頃だから弟の蒼佑はもっぱらスーパーで土産を選んでる」
「そうなんだ、いつも必要な物しか見てなかったから…お勧め教えてほしいな」
栄は無邪気に笑う。光一は栄の言葉にもう夏休みが終わってしまう事を痛感した。そして残り少なくなった時間さえモデルで奪われてしまう事に、酷く焦りを感じていた。
失くした恋
「ただいま」
帰宅した光一は玄関に入ると奥に向かって声を掛けた。隣には栄もいる。光一は玄関の沓脱に見慣れない女物のパンプスが揃えられている事に気が付いた。
(?母さんや陽菜実のじゃないよな。お客さんか?)
「おかえり、早かったのね」
母の澄子が中から出て来た。栄が頭を下げて澄子に手提げを一つ差し出した。
「これ、今日のお礼といつも色々頂いているお返しで…お返しっていうには足りないですけれど、先生にお渡しするようにと言われていましたので」
「あらまあ、そんな…うちにあるものをお裾分けしているだけだから、お気遣い頂かなくてもいいのに…かえって申し訳ないわ。朝来先生によろしくお伝え下さい」
恐縮しながら澄子は手提げを受け取ると、光一の方に向き直った。
「光一にお客様よ、30分くらい前かしら、東京から江口さんていう女性の方が…」
名前を聞いて光一の動きが止まった。光一は頭から足先までスーッと何か冷たいものが通り抜け、自分が立っているという感覚を無くしていた。
「光一さん?」
栄が不思議そうな顔で光一を見上げる。光一ははっとして
「ごめん、栄さんの荷物を家に…」
「大丈夫だよ。すぐ近くだから持って行ける」
「でもかさばるし重いし…冷蔵する物だけ持ち帰ってくれる?他の物は後から車で運ぶよ」
なんだか必死な様子の光一の顔に、
「…うん。ではお願いするね」
栄もそう答えるしかなかった。
光一が居間に入ると、そこには同じ年頃の女性が一人座っていた。座卓の上にはお茶と、家で穫れた緑と紫の葡萄がひと房ずつガラス皿に盛られていた。女性は光一の姿に気が付くとぱっと顔を上げた。
「光一…さん…久しぶり」
その女性は笑っているような、それでいて困っているような表情だった。
「沙和…どうして…」
光一は次の言葉が出てこない。
「光一、お母さん畑にいるから何かあったら呼んでね」
澄子が息子に声を掛けた。何か訳ありだと思ったのだろう。気を遣って二人だけにして家を出た。
光一は気まずそうに沙和と呼ばれた女性の前に座ったが、顔は横を向いていた。
「なんでわざわざこんな所まで…」
「こんな所って…いい所じゃない、景色もきれいで」
「君は都会しか知らないから」
「そんな事ない、母の実家は秋田よ」
そんなやり取りで会話は途切れた。暫くして
「ごめんなさい。こういう話をしに来たわけじゃないの」
「だろうな」
「あなたに謝りたくて」
「謝る、何を」
光一の口調は冷たかった。
「片岡さんとは本当に何もなくて…でもあなたを傷付けてしまった」
「奴の方は本気だった」
光一は相変わらず沙和の顔を見ない。
「そうね…全部私のせい…」
「悲劇のヒロインを演じたいなら帰ってくれ。君の演技を鑑賞する気はない」
「そんなつもりは…」
また会話が途切れた。
「片岡さんとはおつきあいしていません。はっきりお断りしました」
「それで?わざわざそれを報告に来たのか?まさか俺と縒りを戻すつもりとか言わないよな」
沙和は黙った。
「片岡に同情するよ、思わせぶりな態度を取られて本気になって、あなたとは付き合えませんて振られて…酷い話だな」
沙和は口を固く結んだが、泣かなかった。そして正座のまま頭を下げた。
「本当にごめんなさい。あなたにも片岡さんにも酷い事をしました」
「謝罪は受け取る。でも、もう帰ってほしい」
光一は立ち上がった。
「駅まで送れないからタクシーでも使ってくれ」
それだけ言ってまた玄関から外に出て行った。
光一が家を出た後、少し遅れて沙和も外に出た。そこに制服姿の女子高生が立っていた。手には手提げを持っている。陽菜実だ。彼女は少し前に帰宅していたが、畑にいた母に呼び止められ光一に客が来ているから邪魔をしないようにと言われていた。
「妹の陽菜実です」
陽菜実は頭を下げる。
「江口沙和と申します」
沙和も会釈した。
「タクシーでお帰りですか?お兄ちゃん、送らないの?」
「送れないと言われました。歩きたい気分なので一番近い駅まで歩きます」
沙和は苦笑してそう答えた。宮沢家から新幹線の駅に出るには車かタクシー、本数の少ないコミュニティバスまたは最寄りのローカル線を使う。
「…途中まで送ります(パンプスだと辛そうだな)」
沙和は断らなかった。実は陽菜実は光一と沙和の話を途中から聞いていた。会社を辞める前光一は紹介したい人がいるような事をチラっと言っていたが、この人だったのかと陽菜実は思った。そして光一がいきなり会社を辞めた理由もわかった気がした。暫し沈黙が続いたが陽菜実は思い切って聞いてみた。
「おにい…兄とお付き合いしていた方ですか」
沙和はちょっと驚いた様子を見せる。
「光一…さんは私の事をこちらで話していたの?」
どうも「さん」付けが慣れていないらしい。恋人同士の時はお互い呼び捨てだったのだろう。
「詳しくは聞いていません。でも『紹介したい人がいる』って言っていたから、その人と結婚を考えているのかなって」
「そう…」
沙和は今度は悲しそうな顔になった。
「ちゃんと考えてくれていたのに、私…」
沙和は俯く。
(この人、まだお兄ちゃんの事が好きなんだ…)
陽菜実はそんなふうに感じた。
「私がバカだったの。光一さんを試すような事をしたから」
沙和がポツリと言った。高校生の陽菜実にも先程の会話と沙和の様子で大体の想像はできた。
(多分この人はお兄ちゃんの付き合い方に物足りなさを感じたんだな。それで片岡という人を「当て馬」にした。浮気ではなかったみたいだけれど、片岡さんの方が沙和さんに本気になってしまって拗れたのか…)
「光一さんとは大学から一緒で…お互い第一志望の同じ会社に就職出来て本当にうれしかった。すぐに結婚したいと思っていたわけじゃないけれど、会社には素敵な女性がたくさんいたから不安になってしまったのかもしれない。光一さんからもっと強い言葉を引き出したくて私…」
「…なんとなくわかります。兄は押しが強い方ではないから。この辺じゃ結構モテてたしお付き合いした人も何人かいるけれど、いつも相手からの告白で始まっていたから。沙和さんは?」
「光一さんの方から交際したいって言われたわ」
「それなら本気だったと思います。私が知る限りでは兄から告白したという話は聞かないから」
「そう…本当にバカな事したのね、私。こんなに可愛い妹ができたかもしれないのに」
沙和は自嘲気味に笑った。「可愛い」と言われて照れた陽菜実だが、近くを通る軽トラに気付き
「智香ちゃん!」
大きな声で呼んで手を振った。軽トラが停まる。
「智香ちゃん、どこ行くの?」
「J〇のスーパーだよ」
「じゃあさ、この人途中の駅まで乗せていってくれないかな」
「いいよ、乗って」
勝手に段取りし始めた陽菜実に驚いて、
「陽菜実ちゃん、私は…」
沙和は遠慮しようとした。
「この先パンプスじゃ辛いですよ。これ荷物になるけれど召し上がって下さい。うちで穫れた葡萄です。母が用意してくれたので」
「でも、こんな…」
沙和は恐縮している。
「うちの葡萄、凄くおいしいですよ」
陽菜実の言葉に
「売るほどあるから、もらっとけば」
智香も笑って乗っかった。
「頼むね、智香ちゃん。それじゃあ沙和さん…さようなら」
「さようなら、陽菜実ちゃん。送ってくれてありがとう。お母様によろしくお伝え下さい」
沙和は「光一さんによろしく」とは言わなかった。陽菜実は走り去る軽トラを見送った。「またね」と言えないのが切なかった。
(私もあんなステキなお姉ちゃん、欲しかったなあ)
沙和は今日涙を浮かべながらあの葡萄を食べるのではないか、陽菜実はそんな気がした。
ざわめき
沙和を残して家を出た光一は、今日栄が買った物を届けに朝来先生の家に行った。車を使おうかと思ったが、手で運べそうだったので歩いて行った。
「あ、光一さん、ありがとう」
栄はまた縁側でシナノキをスケッチしていた。光一はほっとした。彼は栄がシナノキをスケッチしている姿が好きだった。
「車で運ぶほどじゃなかったから歩いてきた。ここでいい?」
光一はそう言って縁側から荷物を運び込む。
「うん、お客様は?もうこちらへ来ちゃっていいの?」
「ああ、もう帰った…と思うよ、多分」
曖昧な光一の言い方が気になったが、栄はそれ以上何も聞かなかった。澄子から女性の名前を聞いた時、明らかに光一は動揺していた。栄はその事も心に引っ掛かっていたが、確かめはしなかった。
「お茶でも飲んでいく?ああ、でもそろそろ夕飯かな」
田舎の夕飯は早めの家が多い。宮沢家も夜というより夕方に食べ始める事もあった。
「いや、今日はまだじゃないかな。俺が出た時母さんは畑にいたし、父さんと蒼佑もまだ帰っていなかったから。また蒼佑にせがまれてどこか寄り道してるのかも」
そう言いながら光一は縁側から家の中に入った。朝来先生との付き合いも10年になるので、勝手知ったるという感じである。
「どうぞ」
栄が麦茶の入ったコップを居間のテーブルに置いた。
「ありがとう」
「こちこそ今日はありがとうございました。あ、敬語に戻っちゃった」
栄は明るく笑う。
「去年はここに慣れるのに精一杯だったし、改めてドライブしたことがなかったから今日はとても楽しかった。長野のお蕎麦は本当においしいね。実はここに来るまでお蕎麦ってあまり食べなかったんだけど…以前先生に連れて行ってもらったお蕎麦屋さんも美味しかった。胡桃だれっていうの?あれ好きだなあ」
光一はなぜか栄の「好き」という言葉に反応してしまった。次の瞬間、今この家には二人きりだという事に気が付いた。アトリエにしろ昼寝にしろ、いつもはどこかに朝来先生がいる。だが今日先生は外泊だ。光一は急に鼓動が早くなったような気がした。
「今夜は…何を食べるの?」
「どうしようかなあ、一人だし。スーパーで買った冷凍うどんでも使おうかな」
光一は「うちで一緒に…」と言おうと思ったが、家族5人の賑やかな食事に栄は似合わないような気がした。「俺が何か作ろうか」と言いかけたが、さすがに踏み込み過ぎかと思い留まった。
栄は栄で光一を訪れた女性の事が気になっていた。なぜ気になるのかわからない。光一の歳なら交際している女性がいたっておかしくはない。「あの人は誰」と聞きたい気持ちがあったが、プライベートな事なのでさすがに口には出せなかった。暫しの沈黙が流れた。
(このまま二人でここにいたい…)
そんな思いが過った時、光一はいきなり立ち上がった。
「お茶、ごちそうさま。もう帰るけど困った事があったらいつでも呼んで、俺のスマホでいいからね。戸締り、しっかりするんだよ」
「はい、今日は本当に色々ありがとう。おやすみなさい」
ここに留まりたい思いを振り切るように光一は外へ出た。
その晩宮沢家の夕食で、沙和の話が出ることはなかった。陽菜実は母に、「光一が話さない限りお客さんの事には触れないように」と言われていたのだ。澄子も何か事情があるのだと察していたのだろう。光一は沙和の事は一切話題にしなかった。
夕食後陽菜実は光一の部屋に行った。
「お兄ちゃん、私今日沙和さんを途中まで送って行った」
光一は驚いたように陽菜実を見たが、すぐに顔を背けて
「そうか」
とだけ言った。
「去年急に会社を辞めてここに帰って来たの、沙和さんと別れたのが理由?」
「お前には関係ない、子供が口を出すな」
「関係なくないよ、沙和さんはお姉さんになった人かもしれないのに。それに17は子供じゃないし」
「もう終わった事だ」
光一は話を打ち切ろうとした。しかし陽菜実は止めなかった。
「沙和さんのやり方も良くなかったかもしれないけれど、お兄ちゃんを好きだったから妬かせようとしただけでしょ?なんであっさり諦めちゃうの?ちゃんと繋ぎとめていなかったお兄ちゃんも悪かったんじゃないの?」
「うるさい!」
光一は声を荒げた。陽菜実はビクッと肩を震わせる。
「片岡に…沙和が当て馬にしたやつに言われたんだ。沙和と別れてくれって、自分の方が沙和を愛しているって…」
光一は声を絞り出すように話す。
「それで身を引いちゃったわけ?沙和さんの気持ちは置いてけぼり?」
「俺だって傷ついたんだよ」
「それはわかるけど…お兄ちゃんて昔から付き合う女性にはテンション低めだよね。だから告白されて付き合っても長続きしない。でも沙和さんには自分から告ったんだから、愛していたんでしょう?」
「愛していた」という自分の言葉に、陽菜実はドキッとした。生意気な事を言っているという自覚はあった。兄の態度が不誠実だとは思わないが、同じ女性の立場で沙和のいら立ちもなんとなくわかるのだ。
「愛していたよ。大学からの付き合いだし、向こうも俺に好意を持ってくれているのはなんとなくわかっていたから」
「なんか…両想いだってわかっていたから告白したみたい」
陽菜実の言葉に光一は言い返せなくなった。
「そりゃあお兄ちゃんから見たら私は子供だろうけど…お兄ちゃん、もっと執着した方がいいと思うよ。昔から私や蒼兄にも譲ってくれる事が多かったよね。それはお兄ちゃんの優しさだって甘えていたけど、本当に欲しいものは諦めたらダメでしょう?なりふり構わず奪いに行かなきゃ、何も手に入らないよ?」
別に陽菜実は光一と沙和を復縁させようと思っていたわけではない。自分が何でこんな大人びた事を言っているのかもよくわからない。ただ光一の突然の帰郷からずっと不可解なものを感じていて、それをぶつけてしまったのかもしれない。
それに陽菜実にはもう一つ気になっている事があった。兄の気持ちがもう沙和には残っていなくて、他に向いているのではないかという事だ。今日の光一の沙和に対する態度には、未練とか心残りとかが感じられないと陽菜実は思う。
「生意気言ってごめんなさい。お風呂に入ってきます」
陽菜実はそれだけ言って、光一の顔は見ずに部屋を出た。
一枚のスケッチ
9月も残り10日ほどになった頃、朝来先生と栄は東京に戻ることになった。
「すまないね光一君、タクシーを呼んでも良かったのに、駅まで送ってもらうことになって」
荷物を準備しながら先生が言う。先生は弟子や助手の運転で車を使う事もあるのだが、今回は新幹線だった。
「いいんですよ、駅の方に行けば俺も買いたいものがあるし。次にこちらにいらっしゃる時も遠慮なく知らせて下さい。迎えに行きますから」
「色々差し入れてもらった上に、本当に申し訳ない。おっといけない、もう一度アトリエの方をチェックしないと」
「どうぞごゆっくり、まだ新幹線の時間には余裕がありますから」
先生は慌てて奥へと入って行った。画材や大きな荷物はすでに配送業者に預けてある。残った荷物を運び入れている時、栄がおずおずと光一に声を掛けた。
「光一さん、これ…」
手にしていたのは一枚のスケッチ画だった。栄がいつも描いていたシナノキの絵だ。
光一はちょっと驚いて、でも嬉しそうに
「もらっていいの?」
と聞いた。栄がコクリと頷く。
「お世話になったお礼にしてはお粗末なんだけど…僕はまだまだ下手くそで、色使いも上手くないし…」
スケッチ画には淡く彩色が施されていた。
「そんなことない、すごくきれいだ。いい緑色だよ。大切にする」
光一は一枚の絵に愛おしそうな視線を落とす。絵の隅に「Sakae.T」とサインも入れられていた。
「大げさだよ、光一さん。かえって恥ずかしい…」
栄がそう言いかけた時、光一の腕はふわっと栄の体を包んでいた。栄はびっくりして動けない。
「…メールとかラ〇ンとか…電話もしていい?」
光一は栄を抱いたままそう囁いた。戸惑っていた栄だが、ゆっくりとまた頷いた。そこへ玄関の戸が開く音がして、光一はぱっと栄の体を放した。
「二人とも、お待たせ。光一君、悪いけど君の家の前で一度停まってくれないか。ご両親に挨拶していきたいから」
朝来先生は律儀にそう言う。
「いいですよ、そんな。お気遣いなく」
「そうはいかないよ」
仕方ないので言われた通り、光一は一度自分の家の前で車を停めた。先生と栄が降りて、畑に出ていた光一の両親に挨拶をしている。運転席でその姿を眺めながら
(俺、さっきなんであんな事を…)
栄が絵をくれた事がうれしくて、つい抱き寄せてしまった。その気持ちの正体は―
二人を新幹線の駅まで送り別れを惜しんだ後光一は途中文具店に寄って、栄にもらった絵に合うフレームを選び購入した。帰宅してすぐ、絵をフレームに収めて自分のベッドから眺めやすい位置に飾った。
(いい絵だ、柔らかい色使いで…栄さんそのものみたいだ)
あの時栄を抱き寄せてしまった理由を、もう光一はわかっている。わかっているから戸惑っている。こんな事が自分の身に起こるとは思ってもみなかった。
(同性を好きになるなんて…)
いつから栄のことが好きだったのだろう。去年の夏初めて栄に会った時は帰郷してまだ間もない頃で、光一のメンタルはボロボロだった。家族には気付かれないように取り繕っていたが、東京でのことを思い出すと眠れない夜が何日もあった。
そんな状況で母に頼まれ朝来先生の家に差し入れに行くと、いつも笑顔で栄が迎えてくれた。縁側でスケッチしている事も多かった。その穏やかな雰囲気に光一は癒される、初めはそんな感じだった。そのうち段々と、光一は縁側でスケッチする栄の姿を探すようになった。野菜や果物を運ぶ時、玄関ではなくまず縁側に目を遣るようになっていた。こちらに気付くとにっこりと微笑む栄—それを思い出した時光一の胸はきゅっと締め付けられた。
来年も先生と一緒に栄が来るとは限らない。他の学生や弟子が来るかもしれない。すべて先生の都合次第である。
(でもこの絵が残った…)
別れ際の抱擁を栄がどう受け取ったかはわからないが、拒否されているような感じはなかった。そして自分自身がこれからどうしたいのか、光一はまずその事に向き合わなければならなかったのだ。
妹の悩み
10月中旬中間テストの結果が出始める頃、高校の教室で陽菜実は一人頬杖をついてぼんやり窓の向こうに目を遣っていた。中間テストの結果は良くも悪くも…といったところだったが、陽菜実が考えたいたのはテストの結果よりも兄・光一のことだった。
(なんであんな生意気な事言っちゃったかなあ)
先月の光一との会話で言った自分の言葉に、陽菜実自身が驚いていたのである。沙和に非があるとはいえ、光一の態度もあまりに冷たすぎるような気がしたのだ。
(沙和さん、わざわざ東京からうちの方まで足を運んでくれたのに)
それにもう一つ気になったのは光一の栄に対する態度の変化だ。去年は初対面だったし陽菜実もさほど気にならなかったが、今年はずいぶん二人の距離が近く親しくなったような気がする。
(別に悪い事じゃないんだけどさ…なんかお兄ちゃん、朝来先生の家に行く時とか友永さんといる時とかうきうきしているように見えるんだよね)
その時陽菜実の前の机で「キャー」という声が上がった。陽菜実はびっくりして、
「な、何よ?」
と前方のクラスメイトに声を掛けてしまった。
「あ、ごめん陽菜実、ちょっとみんなでマンガ読んでて盛り上がっちゃって」
「マンガで?そんなに面白いの?テストも終わったし、私にも貸してよ」
「えー、陽菜実にはどうかなー」
「なんでよ、面白いんでしょ?」
「だって…BLだよ?」
陽菜実は暫し考えた。
「BL…って…」
「ほらー、わかんないでしょ。ボーイズラブだよ。陽菜実にはムリだって。普通の少女マンガしか読まないじゃん」
「…(ボーイズラブって…男同士の…観てないけど、最近ドラマとかけっこう多いよね…)読む、貸して」
「えっ、止めておいた方がいいよ、けっこう激しめだよ」(※何が?)
「読みたい、貸して」
「じゃあさ、もっとソフトなのを貸すよ。刺激的な描写がないのもあるから、そっちの方が…」
クラスメイトは苦笑いしている。
「今あるのでいいよ、読み終わったら貸して。お礼に明日お昼に食べる葡萄持って来る」
「陽菜実んちの葡萄かー、美味しいんだよなー。わかった、今日はこれ貸すし、明日また何冊か持って来るね。後で文句言わないでよ」
「言わないよ、ありがとね結愛ちゃん」
帰宅後、陽菜実はベッドに俯せになっていた。
(…やめておけばよかった…TLではけっこうエッ〇なのは読んでいたけど、なんか衝撃度が違う…男同士ってこんな事するの!?)
陽菜実がいきなりBLを読みたいと言い出したのは、光一と栄のことが気になったからだ。だが漫画の内容が過激すぎて、「気になった」というレベルをはるかに超えてしまったのである。
(だけど…一生懸命恋愛してるのは、男女の場合と一緒だ…)
×××描写を別にすれば、切ないと思えるシーンもたくさんあった。同性同士が付き合う難しさも想像できた。
光一の沙和に対するそっけなさ、栄といる時の穏やかな表情に、陽菜実は疑問とも不安ともわからないような気持が湧いていたのだ。
(沙和さんとのことで女性が嫌になった…とかじゃないよなあ)
地元には光一に好意を抱く女性は多分複数人いるだろう。光一さえその気になれば、交際も結婚もそれほど難しくはないはずだ。
(まあ、私の考えすぎならいいんだけどね)
次の日陽菜実は昼休みに結愛たちと食べる葡萄を持って行った。
「どうだった?面白かった?はい、これ次のマンガね。色々貸すよ」
結愛は上機嫌で葡萄をつまみながら、陽菜実にBL数冊を渡してきた。
「うん…ありがとう…(結愛ちゃん…腐女子ってやつだったんだね)」
陽菜実は複雑な思いでマンガを受けとった。
冬の庭
季節が進み、朝来先生の家の庭にも落ち葉が増えた。頼まれたわけではないが、光一は時々先生の家の庭に行って掃き掃除をしていた。もちろん、敷地内に入ることは事前に了解をもらっている。
先生は冬にも一度こちらに来たかったようだが、インフルエンザにかかったとのことで断念したらしい。大学も冬休みはそれ程長くはない。もし先生が来たとしても栄が同行するとは限らないが、光一はがっかりした。ラ〇ンやメールは時々やり取りをしている。でも農作業の話やら大学の話やら、いつも無難な話題ばかりだった。ふーっと光一が息を吐くと、それが白く流れていく。シナノキは落葉樹なので、わずかに残った葉と小さな実が、寂し気に風に揺れていた。
(もし栄さんが俺を受け入れてくれたとしても…その先どうしたらいい?)
栄はまだ二十歳になったばかりだ。学業や就職や、考えなければいけない事は山ほどある。男同士の恋愛に果たして積極的になれるのか。なってくれたとして、その時自分はまた東京に行くのだろうか。光一はこの夏休みのことを思い返していた。
9月に沙和の件で陽菜実に責められた時、光一は詳しい経緯は妹に語らなかった。三角関係で揉めたおり、光一は片岡からかなりきつい言葉を浴びせられていた。仲がいいと思っていた同僚からの針のような非難は、ただでさえ社会人一年目でストレスが多かった生活に大きなダメージになった。
沙和が浮気していない事は本当だろうし、自分の気を引くために片岡に思わせぶりな態度を取ったのもわかっていた。しかしだからといって何もなかった事にもできなかった。これまで通り、片岡のいるところで沙和と交際を続けようとはとても思えなかった。逃げたと言われれば、それまでである。
だから生意気だと思った陽菜実の言葉は、実は光一の心を深く抉っていた。「両想いだってわかっていたから告白したみたい」「本当に欲しいものは諦めたらダメでしょう?なりふり構わず奪いに行かなきゃ、何も手に入らないよ」—陽菜実の指摘を光一は否定できないのだ。
大学時代、沙和は気の合う友人だった。可愛いと思ったし、自分に好意を持っている事は光一にもなんとなく伝わっていた。(告白しても断られない)—そういう打算がなかったと言えば、嘘になる。
(もし沙和の気持ちが自分に向いていなかったら、俺は彼女に告白したのだろうか。片岡と揉めた時、どうしても沙和を手放したくないという気持ちがあったら故郷に逃げ帰ったりしなかったんじゃないか)
沙和を責めておきながら、自分の不誠実さに目を瞑っていた…光一はそんな自己嫌悪に陥っていたのである。
「お兄ちゃん、朝ごはんだよ」
陽菜実が光一を呼びに来た。朝来先生の家の前は緩やかな坂になっていて、その道が宮沢家の方へと続いている。
「寒いんだからわざわざ来なくても…スマホで呼べばいいのに」
光一は笑った。
「うん…」
陽菜実の吐く息も白い。二人で坂を下る時、陽菜実がポツリと言った。
「あの時…ごめんね。お兄ちゃんの気持ちも考えないで勝手な事言った」
「なんだ今頃、お前ずっと気にしてたのか?」
陽菜実はそれには答えなかった。
「友永さんと連絡とってるの?」
「え、ああ、たまにね。写真も送ってるよ」
光一は朝来先生宅の写真を先生や栄に送ることがあった。
<シナノキ、寂しくなっちゃいましたね>
栄からそんな返信が来た事もあった。
「来年の夏も栄さん、来るといいね」
陽菜実は探るような顔つきで、光一を見上げた。
「…そうだな…でも、3年生は就活もあるからどうだろうな」
光一は自分に言い聞かせるように言った。
(会いたかったら会いに行けばいい。新幹線なら1時間半、車だって高速ならそれほど時間はかからない。だけど会いに行って迷惑な顔をされたら…)
「お兄ちゃん?」
黙り込んだ光一をまた陽菜実が見上げる。その顔を見て
<なりふり構わず奪いに行かなきゃ、何も手に入らないよ>
妹が言ったその言葉を、光一は思い出していた。
招かれざる客
大人になるにつれ、1年が過ぎるスピードはどんどん加速していく。まだ20代の光一でも二十歳を過ぎた辺りから、そう思うことが多くなっていた。だが栄と別れてからの1年は、とんでもなく長く感じた。メールなどの他にリモートで話す事もあったから、決して縁が途絶えていたわけではない。それでも直接顔を見るのと見ないのとでは、全く気持ちが違っていた。
<また夏にお世話になります>
栄からそう連絡が来た時には、快哉を叫びたい気分だった。
「今年は朝来先生、車でみえるそうよ」
7月のある日、母が光一にそう言った。約束をしているわけではないが、朝来先生はこちらへ来る時に宮沢家に知らせるようになっていた。鍵も預かっていて、先生に頼まれた時だけ家に風を通すようにしている。勝手に入ることは、もちろんない。
「車で?」
光一は不思議に思った。朝来先生は免許を持っているが、ペーパードライバーで高速は怖くて運転できないと前に言っていた。栄は免許がないはずだが、取得したのだろうか。
(それとも他の誰かが?)
光一はなんとなく嫌な感じがした。
7月の終わり、宮沢家から朝来先生の家に続く道を大型SUV車が重たそうに通って行った。父と葡萄棚で作業していた光一は(栄が来た)という高揚よりも、(なんだあれは)という違和感の方が先行してしまった。
「ずいぶんごつい車だな、朝来先生か?あんな車で来た事はなかったが」
光一の父・禎治が驚いたような顔で坂の上を見遣った。本当ならすぐに駆け付けて栄に会いたい、荷解きの手伝いをしたいところだったが、光一の足はなぜか動かなかった。
「後で顔出しに行くか?」
という禎治の言葉にも、光一は
「別に…こちらから行かなくても…」
そう答えた。遠目だったが車の後部座席には朝来先生、助手席に栄が見えたような気がした。つまりもう一人、誰か運転手がいたのだ。
車が着いてから1時間ほどして、朝来先生が宮沢家にやって来た。
「今年もお世話になります。これ、つまらないものですが」
芸術家というとちょっと変わった人が多いイメージだが、朝来先生はわりと普通の気遣いのできる人だった(※芸術家さんも人それぞれだと思います)。
「あらまあ、ご丁寧にありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。今年はお弟子さんはお二人ですか」
禎治と澄子が応対する後ろに光一と陽菜実が立っていた。蒼佑はまだ帰省していない。
「はい、3年目の友永とこっちは大学院生の皆川透哉です」
先生の紹介の後、栄は奥の光一に視線を向けた。目が合った。光一は栄の近くにすぐに駆け寄りたいところだったが、その隣には長身の体格のいい男が立っていた。
「今年もお世話になります」
栄が頭を下げる。続いて皆川が
「初めまして、皆川です。よろしくお願いします」
と軽く頭を下げた。禎治が彼に子供たちを紹介する。その日の再会はそれだけだった。
「お兄ちゃん、朝来先生の家に行かないの?」
その日の夕方、陽菜実が光一に聞いてきた。
「なんで?さっき挨拶に来てくれたじゃないか」
「そうだけど…あの皆川って人、美大生っぽくないね。どちらかというと体育会系みたい」
「…そうだな」
光一は本当ならすぐにでも栄に会いに行きたい。だが当然のような顔をしてあの皆川という男が栄の隣に立っていたのを見た時、頭の中心が一気に冷えてしまったのだ。あれほど栄との再会を待ち望んでいたのに舞い上がっていたのは自分だけだったのかと、自身が滑稽ですらあった。
朝来先生が来て2日後、光一は母に
「光一、先生の所に野菜を持って行って」
と、頼まれた。
「…野菜、いるのかな」
「何言ってるの、いつも食べてもらっているじゃない」
母が用意した小さめの段ボールにはトマトやキュウリ、ピーマンにレタスが入っている。
「昨日は宅配のピザが来ていたよ。車で買い出しにも行ってるみたいだし…」
光一は栄の顔は見たかったが、皆川とはなんとなく会いたくなかったのだ。
「いいから持って行って。友永さんは3年目なんだから、勝手がわかってるわよ」
光一は無理やり野菜を持たされて、仕方なく朝来先生の家に行った。緩やかな坂を上がって行くと、いつもの縁側で栄がスケッチをしていた。シナノキはまた緑のハートを豊かに蓄えている。懐かしい姿を見て
(いつもの栄さんだ)
と、光一はほっとした。我ながら現金だなと思った。
「あ、光一さん」
栄も気付いて笑顔になる。
「野菜、持って来た」
「ありがとうございます。わあ真っ赤なトマト、おいしそうだな」
「なんか…ちゃんと挨拶できなくてごめん」
光一は縁側に野菜の入った段ボールを置きながら、きまり悪そうに栄に言った。
「僕の方こそ…ゆっくり話したかったのに、買い物やらアトリエのセッティングやらでバタバタしていて…今日やっと落ち着いた感じで。夕方にでも会いに行こうかなって思ってた」
「俺も…」
言いかけたところで、栄の後ろから無遠慮に太い腕が伸びてきた。その手はひょいとトマトを一つ掴む。
「んー、さすがにウマイな、畑直送」
腕の主は皆川だった。光一が持って来たトマトを一つ、いきなりがぶりと齧ったのだ。光一も栄も咄嗟に声が出ない。
「宮沢さんだっけ?先生に雇われてるの?」
腕だけでなく言葉も無遠慮だ。
「皆川さん、失礼ですよ。宮沢さんはいつもご厚意で野菜や果物を差し入れて下さるんです」
栄がむっとした表情で皆川に説明した。
「そりゃどうも、田舎のお付き合いってやつか。でもそのまま食べられる物ならいいけど、調理すんのは面倒じゃね?」
「僕が作っています。簡単なものですけど…」
「へえ、じゃあ栄の手料理が食えるんだ、楽しみだな。確かにピザや弁当ばかりじゃ飽きるよな」
皆川が「栄」と呼び捨てにした事に、光一はショックを受けた。先輩だから名前呼びもあるのだろうが、彼の馴れ馴れしさに無性に腹が立った。
「(やっぱり来るんじゃなかった…)じゃあ栄さん、俺はこれで」
光一は早々にその場を後にした。
「光一さん…」
栄の声が聞こえたが、光一は振り返らなかった。
疑惑
光一が朝来先生の家に野菜を届けた日、名古屋の大学に行っている弟の蒼佑が帰ってきた。
「なあ、今年先生の所にかっけーSUV車が停まってんな。乗せてもらえねえかな」
蒼佑はそんな軽口を叩く。
「みっともない真似すんな」
光一は不愉快そうに吐き捨てた。あれから光一は先生の家へのお遣いを親に頼まれても、理由を付けてあまり行かなくなった。栄には会いたいが、皆川と顔を合わせるのは気が重い。皆川の何を知っているわけでもなかったが、初めの印象が悪かったせいか好きになれなかった。代わりに野菜運びをさせられている蒼佑は、気が合うのか皆川とも楽しく話しているようだった。
「皆川さんの家って結構金持ちらしいぞ。お父さんが社長やってんだって。そりゃそうか、息子を美大の大学院に進ませてSUV車までポンと買ってやるんだもんな」
食事の時に蒼佑がそんな話をしていたが、光一は興味なかった。自分が思い描いていた夏にはならず、ただただ憂鬱だったのだ。
そんなある日、光一が一人葡萄棚で作業をしていると栄が近くにやって来た。
「光一さん」
葡萄棚の脇から栄が遠慮がちに声を掛けた。
「入ってもいいですか?」
「栄さん…どうぞ」
ちょっとした段差があったので、光一は無意識に手を伸ばした。手が触れた時、光一は自分でも驚くほど胸が高鳴った。
「だいぶ色づきましたね」
「うん、巨峰はそろそろ食べ頃かな。今度持って行くよ。シャインマスカットはやっぱり9月だな」
光一は大事そうに葡萄のひと房を確かめる。
「楽しみにしています…って、もらう事が前提になっちゃってますね」
栄は笑顔を見せたが、すぐに真顔になった。
「…すみません、皆川さんのこと…悪い人ではないんですが、ちょっと気遣いが足りないというかマイペースというか…」
栄は気まずそうに話し始める。
「なんで栄さんが謝るの?」
光一は栄の顔は見ずにそう言った。栄はそれには答えず、
「本当は今年も僕だけが来るはずだったんです」
と話し出した。無意識にため息が混じる。
「皆川さんがもうすぐ大学院を修了するからどうしても同行したいって、朝来先生に頼み込んだみたいで。車を出して荷物も運ぶからって」
「そう…」
栄から説明されても、光一は答えようもなかった。
「光一さん、僕は…」
栄が何か言いかけた時
「栄」
離れた所から栄を呼ぶ大きな声が聞こえた。皆川だった。
「買い物に行くなら車出すけど」
「今日は間に合っているので大丈夫です」
「…先生が呼んでる」
「え…わかりました、今行きます」
栄は光一に会釈すると、坂の方へ戻って行った。
(なんか今の会話の流れ、おかしくなかったか)
先生が呼んでいるのなら、まずそれを先に言うだろうと光一は思った。まるで栄をここから動かすために、取って付けたような言い方だった。
(栄さん、何を言いかけたんだろう…)
「先生?」
家に戻った栄はリビングで声を掛けたが、どうやら朝来先生はアトリエに籠っているようだった。緊急時以外、アトリエにいる時は放っておくようにと先生には言われている。
「先生、アトリエなんですけれど…」
栄は一緒に戻った皆川に確認するように尋ねた。
「ああ、栄を呼んだ後にアトリエに入ったんじゃないの。気が変わったんだろ」
「…そうですか」
栄は今ひとつ釈然としなかったが、確かめようもない。
「それよりこれからドライブにでも行かないか?いい所たくさんあるんだろ?先生はアトリエに籠ったら、なかなか出てこないぞ」
皆川は栄の気を引くように誘ってきた。
「今からですか?僕はいいです。出掛けるなら皆川さんお一人で」
「チェッ、冷てえな」
皆川はふてくされたように言うと、再び外へ出て車でどこかへ出かけてしまった。
(全く…ここに何しに来たんだか…)
栄は冷蔵庫から麦茶を取り出しコップに注ぐと、それを持って縁側に出た。そこにはいつものスケッチブックとペンが置いてある。一口麦茶を飲んで、栄はスケッチを始めた。
(なんだか今年は光一さんとあまり話せないな…皆川さんの車があるから買い物に一緒に行ってもらう口実も作れないし…)
そんな事を考えたが次の瞬間、栄は自分の頭に浮かんだ言葉に驚いていた。
(「口実」?口実ってなんのための口実だよ…)
暗闇
「光一でも蒼佑でもいいわ。お母さん蚕室の前にスイカを置きっぱなしにしちゃったから、家の中に入れておいてくれない?今夜雨みたいだし…」
ある晩澄子が息子たちにそう頼んできた。蚕室と言っても今お蚕は飼っていない。昔この辺りは養蚕業が盛んだったのでその名残だが、蚕室は現在物置に変貌している。
「俺が行ってくるよ」
居間にいた光一が腰を上げた。
「悪いわね、玄関に置いてくれればいいから」
光一は外に出るとスイカの入った箱を玄関に運び入れ、改めて戸締りしようとした、その時—ガサッと道路側で物音がした。繰り返しになるが、田舎の夜は真っ暗だ。光一は確認しようと懐中電灯を持って、何の音か確かめようとする。
(ネコかハクビシンか?)
すると
「光一さん?」
怯えたような声が聞こえた。栄の声だった。
「えっ、栄さん?なんで…」
こんな時間にと言いかけたところに、栄が光一にしがみついてきた。ガタガタと震えている。光一はわけが分からなかったが、栄をしっかり抱きとめた。懐中電灯が手から落ちた。時刻は夜の9時半を回っている。玄関先の薄明りに光一の目が慣れてきた。栄の着衣が乱れているような気がした。
(まさか…?)
栄の震えはまだ止まらない。
「栄さん、朝来先生は?」
「せ、先生は…今ご友人の個展を観に新潟へ出掛けていて…」
つまり今夜栄は皆川と二人きりだったという事だ。光一が怒りでカッとなった時、
「兄貴、どうした?」
なかなか戻らない光一を気にしたのか、蒼佑が玄関先に出て来た。光一は慌てて栄の体を放し、庇うように前に立った。
「あれ、友永さん?こんな時間にどうしたの?」
光一は咄嗟に言い訳を考えた。何があったのか予想はできたが、それをそのまま伝えるわけにはいかない。
「えーと…今日朝来先生は留守らしいんだけど、皆川さんと栄さんが酒が入って芸術論?を戦わせちゃったらしくて…」
光一は自分でも何を言っているのか、よくわかっていなかった。
「えー、それで飛び出してきちゃったの?こんなに真っ暗なのによくうちまで来られたね。友永さんも皆川さんも芸術の事になると意外にアツイんだ」
下手な説明でも、蒼佑は納得したらしい。
「蒼佑、お前皆川さんの連絡先聞いてるか?」
「ん?ああ、前に車の話をした時に交換したけど」
「じゃあ今夜栄さんはうちで預かるって知らせておいてくれ。すぐに戻るのはきまりが悪いだろうし」
光一と蒼佑が話している間に、栄は服の乱れを整えた。
「オッケー、知らせとくわ」
表が騒がしいので何事かと澄子と陽菜実が玄関まで出て来た。兄弟に挟まれいきなり栄の姿が現れたので、陽菜実は慌てて母の陰に隠れた。風呂上がりでパジャマ姿だったのだ。
「な、なに?どうしたの?」
蒼佑が作り話とは知らずに、光一から聞いた話を澄子たちに伝えた。
「夜遅くにお騒がせしてすみません」
栄は頭を下げる。
「まあ難しい話は私たちにはわからないけれど、今日はこちらで休んでね。今客間の用意を…」
澄子が言いかけたところで
「俺の部屋でいいよ」
光一が言った。
「俺が布団を運ぶから。栄さん、飯は?」
「た、食べました」
「向こうで風呂に入ったかもしれないけれど、もう一度シャワーを浴びた方がいい。走って汗をかいただろう。新しい下着とタオルを出しておくから使って。ルームウェアは俺ので悪いけど…」
誰にも口を挟ませないかのように、光一は一気に喋った。澄子はちょっと呆気に取られていたが、
「ご飯は残っているから、お腹が空いたらお茶漬けでも食べてね」
そう言って台所に下がった。
「ごめんな、俺はベッドなんだけど下に布団を敷くかたちでいいか?」
光一が栄にそう言った。栄は宮沢家のシャワーを借りて光一のルームウェアを着ている。さすがに大きかったようで、栄は恥ずかしそうにしている。
「そこにペットボトルの水は持って来たけれど、冷蔵庫の物はなんでも…」
いいかけたところで、光一は栄が涙ぐんでいるのに気が付いた。ほっとしたのだろう。
「栄さん…」
光一は思わず栄を抱き寄せた。
「すみません、男のくせに。こんな風だからあんなことを…」
「そんな事はない。男だって襲われたら怖いに決まってる」
「襲われた」と口に出した時、光一は皆川に対する怒りが甦ってきた。栄を抱く腕に力がこもる。そのままの姿勢で栄は話し始めた。
「皆川さんは…バイだそうです。大学でもあまり隠していませんでした」
「バイ…(つまり女も男もOKって事か、そんな感じだな)」
「僕の事もバイかゲイだと思ったようで…」
(そう言えば去年城跡で話した時に「よく間違われる」と言っていたような)
光一は以前陽菜実が栄の事を「ちょっと線が細くて優しげで、少女マンガに出てきそうな人」と表現していたのを思い出した。女っぽいという事ではないが、守りたくなるような華奢な印象は確かにあった。
「あいつ、栄さんが目的で先生に付いてきたんじゃないのか?」
光一は思っていた事を口にした。
「…わからないです。向こうではなんとなくそんな雰囲気は感じていましたけど、まさか僕なんかにって思っていたし。先生も皆川さんのお父さんに個展のギャラリーを融通してもらった事があったから、同行を断りにくかったんだと思います」
光一はくすりと笑った。
「また敬語になっちゃってるよ」
「あ…今年の夏はあまり話せていなかったから、戻っちゃったのかな…」
光一は栄の体を放したくなかった。キスしたいとさえ思った。でもゲイでもバイでもない栄が、自分をどう思っているのかはわからない。
「先生はいつ戻るの?」
「明日の午後の予定です」
「(それなら大丈夫か)家に戻る時一緒に行くよ」
栄は「いいです」とは言わなかった。
「じゃあ寝ようか。わかってると思うけど夏でも朝方は冷えるから気を付けて」
光一は栄の体を放すと、部屋の明かりを暗くした。
気づき
翌日宮沢家で昼食を取ってから、栄は光一に付き添われ朝来先生宅に戻った。
(皆川さんになんて言われるか…)
不安だったが、光一が傍にいてくれたので心強かった。
坂を上って家に近付くと、車に荷物を運び込む皆川の姿が目に入った。
「皆川さん?」
栄の声に皆川が振り向く。
「俺、東京に戻るわ」
「え」
「さすがに決まり悪くていられねえし、先生には急用で戻るって伝えてあるから」
皆川はいけしゃあしゃあとしている。
「おたくらデキてたんだな」
「は?」
「昨夜抱き合ってるところ見たよ。栄を追ったんだけど、真っ暗で手探り足探りでさ。お宅の明かりを頼りに近付いたら玄関先でしっぽりと」
「ち、違います、あれはそんなんじゃ…」
栄が焦って否定しようとする。光一が口を挟んだ。
「栄さんはあんたに酷い事をされて怯えてたんだ。俺はそれを支えていただけだ」
「支えていた、ねえ。そうは見えなかったけど、まあいいや」
皆川はそう言うと運転席側のドアを開けた。
「先生は夕方の新幹線で着くそうだから、悪いけどそっちのお兄さんが迎えに行ってやってよ。野菜うまかったよ、ごちそーさん。栄、東京でまたな」
皆川はそれだけ言うと運転席に乗り込んで、さっさと車を出して行ってしまった。
「なんなんだよ、一体…」
栄は一方的に振り回されて呆れている。
「光一さん、すみません。あの人は本当に…」
光一は栄の腕を引いて抱き寄せたかったが、出来なかった。
「先生が駅に着く時間がわかったら、メールでもラ〇ンでもいいから教えて」
それだけ言って、自宅に引き返した。歩きながら自分の栄に対する気持ちがもう引き返せないところまで来ている事を、はっきり自覚したのだった。
「友永さん、大丈夫だった?」
家に帰ると陽菜実が心配そうな顔で出迎えた。
「ああ、皆川さんは急用で東京に帰ったみたいだから、平気だろう」
光一や蒼佑は「栄と皆川が芸術論を戦わせた」と説明していたが、陽菜実は何か不自然な気がしていた。
(昨夜の友永さんの様子、そういう感じじゃなかった。顔が青かったし、怯えていたような…)
「夕方ちょっと出るよ、朝来先生の迎えに駅まで行くけど何か買ってくる物あるか母さんに聞いておいてくれ」
「お兄ちゃん」
「なんだ」
陽菜実は辺りを見回して誰もいないことを確認した。両親は多分昼寝タイムだ。
「お兄ちゃん、友永さんの事好きだよね」
光一はぎくりとした。
「そりゃ…嫌いじゃないよ」
「恋愛的な意味でだよ」
「…おい…いきなり何を」
「ごめん、理由は説明できないけど、そうとしか思えなくて」
陽菜実はもう、はっきりしないものを抱えるのは嫌だった。兄が否定するのなら、それはそれでいいと思った。
「お兄ちゃん、友永さんといると楽しそう。昔彼女といる時だって、あんな顔していなかったよ」
「…気のせいだろ」
「私には本当のこと言ってよ、責めてるんじゃない、知りたいの」
そこへ蒼佑が外から帰ってきた。
「なあ、先生のところ車ないけれど皆川さん…」
「東京へ帰ったよ」
「あちゃー、そうなったか。車に乗せてくれるって言ってたのに。芸術家たちは難しいなー」
「俺後で代わりに先生を駅まで迎えに行くから」
光一はそれだけ言うと、2階の自分の部屋へ行ってしまった。
回想
その日の夕食後、陽菜実は光一の部屋に行った。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
「なんだ、夏休みの宿題か?」
光一はベッドに横になって、雑誌を読んでいた。
「受験や就活があるから、うちの学校3年生の宿題はないんだよ。まあテストで赤点取った人には課題とかが出るけれど」
「そうか、進路は決まってるのか?」
「私の話はいいから」
「よくはないだろ」
「進路についてはまた相談するよ。自分でもまだ決められていないし…それより友永さんの事だよ」
「なんでそんなに気にするんだ」
「私だけはお兄ちゃんの味方でいたいから」
「味方って…」
実は陽菜実はあれからもクラスメイトの結愛にBL本を借りて読んでいた。怖いもの見たさで徐々に嵌っていたのかもしれない。もちろん2次元と現実の世界は違うと思いつつも、少なからず影響は受けたのだろう。光一はため息を吐く。
「お前なあ…現実はそんなに簡単じゃないんだよ」
「簡単じゃないだろうけれど、友永さんの事好きだよね」
「…俺はゲイでもバイでもない」
「でも好きでしょう?」
陽菜実は簡単に引き下がらなかった。自分でもなぜここまで兄の恋愛感情に拘るのか、わからなかった。光一はベッドの上でゆっくりと起き上がった。
「俺は東京で1年ちょっとしか勤めなかったが、その間に驚いた事があって…」
陽菜実の問いには答えず、光一は違う話をし始めた。
光一が就職して半年ほど過ぎた頃だった。光一は新しい案件に関わる部署にいたから、勉強も兼ねて他社との契約の場に同席するよう指示された。会社の応接室で先方を待っていると、約束の15分ほど前に契約相手の営業部社員が現れた。
(え…なんだこの人たち…)
「お待たせしました」
二人の男性が部屋に入ってきたが、芸能人でも呼んだのかと思うくらいどちらも背が高く、整った顔立ちをしていたからだ。同性の光一でさえ思わず目が釘付けになった。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
お互い名刺交換をする。
「これは今年入社したばかりの宮沢です。新人ですが勉強がてら同席させて頂きます」
宮沢の先輩矢萩が光一を紹介した。
「私たちもまだ似たようなものです。疑問に思われる事があれば、何でもおっしゃって下さい」
一人が笑顔でそう言った。
(東京ってやっぱりすげえな…こんなモデルみたいな人たちが、普通にサラリーマンしてるとか…)(※厳密に言うと一人は神奈川、もう一人は埼玉出身です)
正直光一は先輩二人の横に座っているだけだった。取引先のイケメン社員たちは、歳は光一とそう違わないようだったが、仕事の進め方も無駄なくスマートだった。一通り話し合いが終わると、
「申し訳ありませんが、別室にて予算の方を詰めますのでこちらへ…」
と先輩社員の一人が取引先の二人を案内するため立ち上がった。二人がこちらに向かい
「ありがとうございました。失礼いたします」
そう挨拶して部屋を出ていく。光一は矢萩に
「なんです、あの人たち。これ新人をからかうドッキリとかじゃないですよね。どちらもイケメン過ぎるでしょう」
と感嘆の声を漏らした。矢萩は笑って
「そんな事するかよ。まあ、あの人たちは特別だな。でもお前だって負けてないぞ」
「やめて下さい、恥ずかしい。張り合えるのは身長くらいです。東京はやっぱり違いますね」
光一が感心したところで、矢萩がちょっと声色を変えて言ってきた。
「でもな、向かって右側にいた人、『彼氏』がいるんだって」
「え…」
光一は思わず身を乗り出した。
「大丈夫ですか、個人的な話をこんなところで…」
「向こうの会社じゃ、みんな知っているらしい。本人も認めてるって聞いているぞ」
「それは…あの人がゲイってことですか?」
「違うんだと。本人も相手もゲイでもバイでもないらしい。こういう話、どこからか仕入れてくる女子社員がいるんだよ」
矢萩は笑った。
「なんかもったいないよなあ。どんな美女でも付き合えそうな人なのに、わざわざ男を選ぶとか。俺なら考えられないわ」
「…東京って、やっぱりすごいですね」(※場所は関係ないかと)
光一はただただ驚くばかりだった。
光一は一通り話し終えて、陽菜実の顔を見た。
「お兄ちゃん、どうして私にそんな話をしたの?」
「…」
「お兄ちゃんもその人と同じで、ゲイでもバイでもないけれど友永さんを好きになったってこと?」
「…あの時俺は不思議で仕方なかった。人間見た目がすべてじゃないけれど、同性から見ても整った容姿で仕事もできる感じだった。会社からして学歴も高かったと思う。そんな恵まれた人がゲイでもないのに何で選りにも選って同性と付き合うのか、全く理解ができなかった」
「今なら理解できるんだ」
「そうかもな」
回りくどいが、光一は栄が好きだと認めたのだ。
「でも栄さんもゲイでもバイでもない。俺の気持ちなんか受け止められないだろう」
「わからないじゃん」
陽菜実は食い気味に反論した。
「告白もしないで諦めちゃうの?」
「振られて気まずくなるのも怖い。栄さんはもうここに来なくなるかもしれない。仮にOKをもらえたとしても、その先どうしたいのかまでは考えられていない」
「お兄ちゃんて昔からそういうところあるよね。頭でっかちっていうか、考えすぎるところ」
とはいえさすがに陽菜実もこれ以上勝手な事は言えなかった。栄の気持ちも考えないといけないからだ。
(でも…友永さんもお兄ちゃんの事、好きだと思うんだけどなあ…BL読み過ぎて、私BL脳になってるのかな…)
進路
「陽菜実、あなた進路希望どうなってるの。受験勉強だってしてないし、何がしたいのかも定まってないし。中途半端な気持ちで家業の手伝いなんて許さないわよ。進学しないならちゃんと就職しなさい」
ある日陽菜実に母の厳しい叱責が飛んできた。光一の世話を焼いている割に、陽菜実は自分の事が疎かになっていたのだ。
(そろそろ言われると思ってたー。進学と言っても県内じゃ限られるし、あまりまじめに受験勉強もしてないし…)
陽菜実は答えに窮している。
「お前、自分の心配をした方がいいだろう。俺の事を構ってる場合かよ」
光一が言ったのを聞いて、
「兄貴の心配って何?」
蒼佑が割って入ってきた。
「大したことじゃない。お前だって就活が始まってるだろ」
「あー、それな」
蒼佑は首を傾けて
「兄貴はさあ、農家を継ぐわけ?」
「え」
「いや、長男だから問題はないけどさ。俺兄貴は東京でいい大学出たしいい会社で働いてたし、漠然と向こうで嫁さんをもらって家を構えるのかなと思ってたんだよ」
光一は返す言葉がなかった。かつて自分もぼんやりとそんな事を思っていたからだ。それが恋愛関係のいざこざで東京から逃げ出し、故郷に帰ってきた。実家は農家で人出は欲しいから、仕事には困らない。子供の頃から手伝いをしていて、勝手もわかっている。安易に帰郷したと言われれば、それまでだった。農家を継ぎたいという強い意志があったわけではない。
「俺はさ、兄貴がサラリーマンを選ぶんなら俺がここを継ごうと思ってたんだよ」
蒼佑は意外な事を言い出した。
「だってお前…農業科は選んでないじゃないか」
「実地は親父に教えてもらえばいいだろ。じいちゃんもまだ生きてるし。俺は通販とか直販とかそういうのやってみたくてさ。だから経営学部選んだわけ。まあ直接ためになるかどうかはアレだけど、販売とかの役に立つかなって。情報通信科に仲のいいやつがいて、インターネットとかに詳しいんだよ。将来ネット通販とか立ち上げるなら、手伝ってくれるって言ってる。N協に卸せない規格外の果物とか安く売るの、いいと思わない?」
いつも軽いノリの蒼佑が、意外と具体的に考えている事に、光一は驚いた。
「あ、兄貴が帰って来てアテが外れたとかは思ってないよ。兄貴が継いだら俺がサポートすればいいわけだし。兄貴は真面目だから、N協とかとの付き合いは得意そうじゃん?」
「お前…案外色々将来の事考えていたんだな」
「”案外”は余計だっての」
蒼佑は笑って、今度は陽菜実の方を向いた。
「お前もFランなら今からでも入れんじゃね?」
だがそれに反応したのは、陽菜実ではなく澄子だった。
「なんとなくで進学するのは止めてちょうだい。いい大学に入れとは言わないけれど、どっちでもいい事に学費も家賃も払えないわよ」
母にきっぱりそう言われて、陽菜実も尤もだと思った。
「オフクロ怖えな。前に東京でイケてる彼氏作るんだとか言ってなかったか?」
「言ったけど…」
今時東京なら新幹線でも車でも、さして遠い場所ではない。陽菜実も家族と遊びに行ったり親戚の家を訪ねたりと、何度か足を運んでいる。
「まったく何も考えていないのか?」
光一が陽菜実の頭をポンと軽く叩いた。
「服飾とかはちょっと興味があって…専門学校もいいかなとは思ってたんだけれど」
「俺もこれって志があって大学に行ったわけじゃないからな。専門知識が学べたらいいなってくらいだった。絶対これって決めなくても、好きな所をきっかけにしてみてもいいんじゃないか」
「そりゃあ…お兄ちゃんは頭が良くていい大学に行けたから、お父さんもお母さんもうるさく言わなかったんだろうけど…」
「行ってみるか、東京」
いきなり光一が言いだした。
「え」
「夏休みに見学させてもらえる所もあるんじゃないか?実際に見てみれば多少でも実感が湧くだろう?母さん、いいよな、2,3日なら出掛けても。農作業の方は蒼佑を使ってくれよ」
「ひでーな。俺も東京行きたいけれど仕方ねえか。でも夏休みでホテルはきっと取りにくいぞ。今はインバウンドで海外からの旅行者も多いし…安い所は空いてねえだろうなあ」
すると澄子がため息交じりに言った。
「仕方ないわねえ。秋絵に頼んでおくから泊めてもらいなさい。都心じゃないけど、そこまで不便な場所じゃないから大丈夫でしょ。車で行くのなら野菜や果物、新米じゃないけれどお米も持って行って」
秋絵というのは澄子の妹で、結婚して都内に住んでいた。いきなり色々決められて陽菜実は戸惑っているが、東京に行けるのは純粋に嬉しかった。
「いいの?行っても何も決まらないかもしれないよ?」
陽菜実が申し訳なさそうに光一を見上げる。
「別にいいだろ、合わないってわかったらそれも収穫だし」
「うん」
「兄貴―、土産頼むな。ピックアップしておくからさ。兄貴の代わりに農作業を頑張る俺へのご褒美ってことで」
「自分で『ご褒美』言うな」
その日の夕方、光一は差し入れを持って朝来先生の家を訪れた。坂を上って行くといつもの縁側で栄がスケッチをしている。それを見るだけで、光一は幸せな気持ちになった。
「あ、光一さん、こんにちは」
「やあ、少しだけど差し入れ」
「いつもすみません」
光一は荷物を下ろして、栄の隣に腰かける。
「先生は今昼寝中…いや、夕寝かな。筆が乗ってずっとアトリエに籠りっきりだったから、さすがに眠くなったみたいで」
「そう」
光一は栄の手元を覗き込む。またシナノキの絵だ。
「この前…光一さんの部屋に泊めてもらった時、僕の絵が素敵なフレームで飾られていて…嬉しかったけど恥ずかしかったな。フレームに負けてるみたい」
「そんな事ないよ、毎日あれを見て癒されて栄さんを思い出して…」
そこまで言ってさすがに光一は口を噤んだ。そして話題を変えた。
「ちょっと2,3日東京に行く事になって…用事とかは…ないよな」
「東京ですか?」
光一は昼間に決まったことを栄に説明した。
「陽菜実ちゃんの進路のためか…光一さんは優しいね。服飾なら僕の友人が一人通っているところがあるから、よかったら行ってみて。彼女も高校を出て1年後くらいに一念発起して専門学校に入ったんだ。良ければ連絡しておくけど」
「ほんとに?助かるよ」
「うん、じゃあ3日くらいは光一さんに会えないね…」
言ってから今度は栄が口を噤んだ。
「何言ってるんだろうね、僕。別に毎日顔を合わせてるわけじゃないのに」
栄は赤くなって俯いた。
再会
叔母の秋絵は、喜んで光一と陽菜実を迎えてくれた。
「来てくれて嬉しいわ。久しぶりね、向こうはみんな変わりない?」
「はい、みんな元気です。いきなり無理なお願いをしてすみません。お世話になります。これは両親から…」
「あらあら果物や野菜がたくさん、お米まで。今色々高いから助かるわ」
学校の見学と言っても動けるのは正味2日目だ。今日は叔母宅の近くにある大学がちょうどオープンキャンパスになっていたので、そちらを見学した。
「いやー、都心部でなくてもなんか違うねー。みんな垢ぬけてるし」
陽菜実は素直に感心している。
「地元の人とは限らないぞ、大学は他県の出身者が多いし」
「じゃあみんな東京に来ておしゃれになるのかな」
「おしゃれするために来てるわけじゃないだろ」
光一は笑った。正直今回の遠出で陽菜実が何も決められなくてもいいと光一は思っていた。地元で悶々と考えていても決められないなら、気分転換もいいと思ったのだ。
「お兄ちゃんは大学、楽しかった?」
「そうだな、単位を取るのは結構大変だったけれど友達もできたし…」
彼女も…と言いかけて光一は黙った。沙和と知り合ったのが大学時代だったからだ。
翌日栄に教えてもらった服飾デザインの専門学校を訪れた。栄の友達が学校の入り口で待っていてくれた。
「栄の友達の木暮ナオミです。初めまして。今日はよろしくね。私が案内したからここに入学しなきゃとか思わなくていいよ。他にもいい学校があるから、あとで教えるね」
「よ、よろしくお願いします。宮沢陽菜実です。今日はお世話になります」
緊張した陽菜実が頭を下げる。
「兄の光一です。今日は急なお願いでご面倒をお掛けします。これ、お荷物になりますが」
そう言って光一は小暮に紙の手提げを手渡した。
「まあご丁寧にどうも。あ、葡萄も入っている。私大好きなんですよね。こちらこそ栄がお世話になっているみたいで」
「そんな事…じゃあ妹をよろしくお願いします。陽菜実、終わったら連絡寄越せよ。待ち合わせはさっきの駅前な」
「うん」
実は光一は朝来先生からお遣いを頼まれていた。光一が東京に出かけると知った先生が、どうしても使いたい画材があるから受け取ってきてほしいという。
<馴染みの店なので話は通しておくから。支払いは後払いになっている>
思い立ったらどうしても、こだわりのある画材を使いたくなるらしい。配送にしてもらおうかと思っていたが入荷に2日かかるという事で、光一に頼んだ方が早かったのだ。
(まあどうせ行きたいところもなかったし、蒼佑に頼まれたものも探して…)
光一が予定を消化して最初に降りた駅近くに戻った時、「もう少しで駅に行けるから」と陽菜実からラ〇ンが来た。「了解、慌てなくていいぞ」と返す。
光一は暫しぼんやりと駅前の街並みを眺めていた。
(懐かしいな…東京のこの雰囲気…)
その時
「あれ」
と、近くで声が聞こえた。
「ええと…宮…宮沢さんでしたか?」
思いがけず声を掛けられて、光一はハッとした。
(まさか、辞めた会社の…)
顔を上げるとそこに立っていたのは長身の男性—光一が入社した年に一度だけ会った、取引先の社員だった。
「ああ、すみません。つい見知ったお顔だったので声を掛けてしまいました。お久しぶりです。今日はそちらもお休みですか?」
「お久しぶりです…実は…会社は辞めておりまして」
学生は夏休みとはいえ、今日は平日である。一度会っただけなのに、よく覚えていたなと光一は思った。よく見ると男性の隣にはもう一人小柄な青年が立っている。
「そうでしたか…僕も今は営業ではなく、広報部にいます」
その後相手は言葉が続かなかったようだが、光一の目が自分の隣に向いている事に気が付くと
「自分は今日デートでして。これは僕のパートナーです」
臆面もなくそう話した。
「こんにちは」
小柄な青年は頭を下げると名乗って挨拶をした。
(パートナー…そうだ、この人の恋人は男だって…この人が…)
そこへ
「お兄ちゃん、お待たせ」
陽菜実が声を掛けてきた。
陽菜実は小走りで光一に近付いたが、目の前に長身のイケメンが立っていて思わず一歩後退った。
「あ、これは妹で…今高3の受験生なものですから、学校の見学に付き合うためにこちらへ来ました。自分は今長野の実家で農家の手伝いをしていて」
「可愛らしい妹さんですね。長野ですか。いい所だ」
イケメンに「可愛い」と言われた陽菜実は顔を赤くした。
「以前勤めていた時の取引先の方だよ」
光一に言われて、陽菜実は慌てて頭を下げる。
「み、宮沢陽菜実です」
「優しいお兄さんだね。受験、頑張って下さい。宮沢さん、いきなりお声掛けしてしまってすみませんでした。それじゃあお元気で…」
相手が立ち去ろうとしたその時、
「広瀬さん」
光一は思わず呼び止めてしまった。広瀬と呼ばれた男性が、行きかけた足を止める。
「あの…連絡先の交換を…」
言ってから「しまった」と思った。3年前に一度だけ会った取引先の社員が、連絡先の交換なんてしてくれるはずがない。3年前の取引の場だって、自分は何も話せていないのだ。ただ同性のパートナーがいる、それだけでこの人に頼りたいような気持ちになってしまった。
広瀬はさすがに驚いてすぐには返事をしなかったが、光一の表情を見て
「いいですよ、交換しましょうか。長野に旅行した時はいい場所を教えて下さい」
そう言った。
「ありがとうございます。すみません、いきなりこんなお願いを…」
「いえ、またお会いできるといいですね。それじゃあ失礼します。実央、行こうか」
広瀬は自然に「実央」と呼んだ青年の肩を抱く。
「はい」
二人は会釈して駅から離れて行った。光一は緊張が解けたようにはーっと息を吐く。そして陽菜実の方を見て
「駅まで迷わなかったか?」
と聞いた。
「うん、近くまで小暮さんか送ってくれたから。お兄ちゃんによろしくって言ってたよ。それより…お兄ちゃん、あの人たちって…いつか話してくれた同性カップル?」
「え、なんでわかった」
「だって、お揃いの指輪をしてたから」
光一はそこまでは気付かなかった。高校生とはいえ女性はよく見ているなと感心する。
「私、かっこよすぎて芸能人かと思っちゃったよ。隣の人も可愛かったけれど、あんなノンケのイケメンが同性を選ぶんだね」
陽菜実は心の底から感心している。
「のんけ?」
「あー、えーと…異性愛者って事」
「そうなのか」
陽菜実は兄が広瀬と連絡先の交換をした理由を聞かなかったが、
「なんか…すごく自然にお似合いだなって思っちゃった。やっぱり東京ってすごい」(※だから東京は関係ないです)
「うん、お似合いだったな…」
広瀬は光一が何も聞かなかったのに、「デート」・「パートナー」という表現を何の躊躇いもなく使っていた。
(羨ましい…俺もあんな風になれたら…)
そう思っても、未だ肝心の栄の気持ちが掴めていない光一だった。
実りの秋
8月下旬、多くの学校で2学期が始まった。陽菜実はクラスメイトたちの情報や担任と相談をして、進路を絞っているようだった。蒼佑も、卒業後は地元に戻って農業に携わりたいと両親に伝えた。将来的に通販事業も始めたいと話したが、禎治からはバイトでもいいからN協で仕事をしろと言われたらしい。農家を続ける以上はN協との付き合いは必須である。将来的に蒼佑が農業法人を立ち上げるとしても、それはまた別の話だ。
将来を考える弟妹の姿を見て、光一は自分だけが同じ場所に留まって動けないような気がしていた。成績が良かったから勧められて進学した。いい会社にも就職できた。
(でもそれって自分が本当にしたかった事なのか?)
光一自身が本当に求めているもの―今は栄の事しか考えられない。栄だけは諦めたくない。家の事も仕事の事も大事なのに、光一の頭は栄でいっぱいだった。
(こんな事…今までなかった)
誰より光一自身が自分の気持ちに驚いていた。ふとベッドの上のスマホに目が行った。
(あの人は…同性が好きだと自覚した時、どうしたんだろう。やっぱり悩んだのだろうか)
光一はスマホを手に取った。
シャインマスカットとナガノパープルの出荷が最盛期を迎え、宮沢家は猫の手も借りたい忙しさだった。去年までは手伝い程度だった蒼佑も、今年は本腰を入れて働いている。
「結構きついな、じいちゃんたちも呼んだらいいんじゃないか?」
蒼佑は汗を拭きながら言った。
宮沢家の祖父母は、現在中信でのんびり生活している。同じ長野でも他の地域で暮らしてみたいと、家と自給自足できるくらいの畑を借りて生活しているのだ。孫たちが独立するまでは、息子夫婦に負担を掛けたくないという配慮もあるらしい。お互い困ったことがあれば連絡を取るし、行き来もしている。
「バイトさんもいるんだから、文句言うな」
光一はそう言ったが、自分もなかなか栄に会いに行く時間が取れなかった。差し入れには行っているが、そのタイミングで告白なんてできない。9月下旬になれば、また朝来先生が東京に戻る日が近づいてしまう。
(それまでには栄さんに気持ちを伝えたい。振られても、それならそれで次の事が考えられる)
光一は頭の中で何度もシミュレーションした。OKしてもらえた場合・振られた場合—ただどうしても、振られた場合の方が頭に浮かんでしまう。
「蒼佑、俺明日の朝ちょっと抜けるから頼むな。父さんには言ってあるから」
「えー、なんだよ急に。一人だけずりーよ。ひょっとしてデートか?」
「違うよ、早く帰れたら仕事に戻るから」
早くも何も、出掛ける先はすぐ近くの朝来先生の家だ。
(先生が近くにいたらどうしようか…いや、その時考えよう)
翌朝朝食をとると、光一は身支度を整えて外に出た。
「あれ、兄貴普通の格好じゃん。デートじゃねえの?」
「いいんだよ」
(あっちは朝来先生の家じゃん。また何か頼まれものか?兄貴も人がいいな)
蒼佑はそう思いつつ、光一を見送った。
緩やかな坂を上ると朝来先生の家の玄関が見えてくる。その左側の広い庭にはいつものシナノキ、そして縁側ではそれをスケッチをする見慣れた栄の姿が目に入った。
「あれっ、光一さん、おはようございます。今日は早いね」
光一に気が付いた栄は、笑顔を向けてきた。手には差し入れも何も持っていないから、何の用だと思ったのだろう。
「おはよう」
それだけ言って光一は栄の隣に座った。心臓が早鐘を打つようにバクバクしていた。
「栄さん」
名前を呼ぶと無意識に膝の上の両手をギュッと握り締めていた。栄は絵を描く手を止めて、光一を見上げる。朝なら涼しいと思ったのだが、緊張のためなのか光一はすでに汗ばんでいた。
「東京には…いつ戻るの?(ああ、違う事を聞いてしまった)」
「先生は25日くらいっておっしゃっていました。なんか今調子がいいから、ぎりぎりまでここで制作したいって」
「そういえば先生は?」
「昨夜も遅くまでアトリエだったようで、まだ爆睡しているみたい。朝ごはんもまだなんだよ」
「そうか(バカだな俺、手ぶらじゃなくて葡萄でも持ってくればよかった)」
栄の手が再び動き始める。
「栄さん」
もう一度名前を呼んで、光一は大きく息を吸った。
「俺、栄さんが好きだ」
栄の動きが止まった。視線はスケッチブックに落としたままだ。
「いきなりごめん。でも、どうしても伝えたくて。男にこんなこと言われるなんて気持ち悪いよな。断ってくれていいから…」
「光一さん」
栄はまだ下を向いている。
「僕が答える前になんで先に決めつけるの?」
「いや、だって…先月あんな事があったばかりだし…」
“あんな事”とは、皆川が栄に迫った時の話だ。
「光一さんは皆川さんとは違うでしょう?彼は何も言わず僕を無理やり抱こうとしたんだよ」
暫しの沈黙が流れた。暫しと言っても15秒くらいなものだろう。それでも光一はそのわずかな時間も耐えられなかった。
「栄さん、何でもいいから答えてくれ」
「何でもいいんですか」
栄は光一を焦らそうとしたわけではない。だがこの駆け引きに我慢できなくなった光一は、両手で栄の肩を抱き、強引に自分の方へ体を向けさせた。スケッチブックとペンが栄の膝から地面に落ちた。それでも栄は顔を上げなかったが、頬が紅潮しているのが光一にもわかった。その後の行動は光一も全く無意識だった。栄の華奢な体を抱きしめると、そのままキスをしていた。
瞬間「しまった」と思った。答えを聞く前にキスをしてしまった。これでは皆川が栄にした事と変わらないではないか―そう思っても、光一は栄を抱いた腕を解くことができなかった。栄も抵抗はしなかった。
思いの丈
時間の経過はわからない。光一はふっと両腕の力を緩め、唇を離した。栄はちゃんと息をしていないように見える。その眼にはうっすらと涙が浮かんでいる。光一は我に返った。
「ご、ごめん…俺、いきなりなんて事を…」
光一はこんな事をするつもりはなかった。ちゃんと栄の答えを待って、それからどうするか決めるつもりだったのだ。栄は小さく首を横に振る。
「僕…初めてだったから…」
「えっ…初めてって…」
「キスしたの初めてで、どうしたらいいかわからなくて…」
栄は俯いて目を伏せる。
「男としたのが初めてって事じゃなくて?女性とは…」
「ないです」
血の気が引くとはこの事か―まさかのファーストキスを、栄からこんな形で奪ってしまうなんて―光一は、自分がした事にショックを受けてしまった。
(これ、最悪じゃないか。仮に返事がOKだったとしても、いきなりキスはないよな。俺はなんでキスしちゃったんだ)
「栄さん…本当にごめん」
光一はまた謝った。たぶん自分は今青い顔をしていると思った。片や赤い顔、片や青い顔。
「『栄』でいいです」
「え」
「謝らなくていいです。ていうか、謝らないで下さい」
「栄さん、あ、栄…それって…」
栄は黙ってしまった。光一は期待していいのかどうかわからない。
〔…です〕
消え入りそうな声で栄が答えた。
「え、なんて言ったの?聞こえないよ」
光一は両手で栄の両腕をぎゅっと握った。栄がちょっと痛そうな顔をする。それでも光一は手を緩めなかった。栄がこつんと自分の頭を光一の胸に当てた。
「僕も光一さんが好きです…」
囁くような栄の優しい声に、嬉しいはずの光一は頭が真っ白になった。
(今、「好き」って言ったか!?)
固まったまま反応のない光一に不安になった栄は、ゆっくり頭を上げた。恐る恐る光一の顔を見ると、そこには一筋の涙が零れ落ちていた。
「本当に?」
光一は震える声でそう言うと、こんどはぎゅっと栄を抱きしめた。
「栄、嬉しい、ほんとに?ほんとに?」
何度も繰り返す光一に、栄は思わずクスリと笑ってしまった。笑ったその唇に、また光一は自分の唇を重ねた。
暫く二人は黙って縁側に腰かけていた。寄り添う光一の右腕が栄の肩を抱いている。二人ともぼんやりシナノキを眺めながら、口にする言葉を探しているようだった。
「いつから…僕の事気にしてくれた?」
光一の右肩に頭を載せたまま、栄がぽつりと呟いた。
「初めて栄にあった年、俺精神的に参ってて…」
光一は東京であった事を栄に説明した。
「なんだか栄の優しい雰囲気に癒されてた。栄がここでスケッチしている姿を見るのが、本当に好きで」
「僕も光一さんが家の前の坂を上がって来るの、楽しみだったよ」
二人の視線はまだシナノキに向いている。
「2年目に意識し始めたかな。友人たちとの飲み会で朝来先生と栄が怪しいっていう奴がいて、無性に腹が立った」
「去年ドライブした時、光一さん自身もそんなこと言ってなかった?」
栄はいたずらっぽく笑う。
「いや、俺は…怪しむっていうより、栄が先生を好きなんじゃないかって不安になって…」
「不安に思ってくれたんだ」
「うん、不安だった。でも去年東京に帰る時、あの木の絵をくれて本当に嬉しかった」
「あの時抱き竦められて、僕もドキドキしたよ。期待していいのかなって」
「栄はいつから俺の事…」
「いつからかな、気が付いたら好きになってた。同性を好きになって、自分でびっくりした」
照れくさいのか、栄は立ち上がってシナノキの下へ歩いて行く。
「今年は焦った。皆川が付いてきてあんな事を…」
「光一さん呼び捨てちゃってるし。僕だって焦ったよ。去年尋ねてきた女性ってさっき話してくれた元カノでしょう?」
「ああ、うん…でも別れてるし」
「冷たいなあ」
「陽菜実にも色々言われたよ」
「陽菜実ちゃんに?」
「沙和に…あ、元カノに対する俺の態度がそっけないって思ったんだろうな。『欲しいものは奪ってでも手に入れろ』とか、生意気なこと言ってたよ」
光一も立ってシナノキに近付く。
「陽菜実ちゃんがそんな事を…」
「あいつ俺が栄を好きだって、気付いてた」
「えっ、どうして?」
「どうしてだろうな、俺の栄への気持ちがそんなに溢れていたのかな」
光一は栄を閉じ込めるように、シナノキに両手を突いた。栄はまたキスをされるのかと思ったが、
「栄、男同士は無理だって思ったら正直に言って」
「え?」
「この先俺たちが付き合っていく中でそんなふうに感じたら、隠さずに言ってほしい。無理やり縛ることはしないから」
「…どうしてこのタイミングで、水を差すような事いうかな」
栄は不満そうに顔を背けた。
「怒るなよ、栄を傷付けたくないからだ」
実は夕べ光一は東京で再会した広瀬に連絡を取っていた。そして自分が今同性に恋をしている事、お互い異性愛者であることを打ち明けアドバイスをもらったのだ。アドバイスというか、ほぼ広瀬の体験談だったし、光一は大半が惚気だったように感じている。それでも参考になった。
広瀬も告白するまではずい分と悩み、同性だからこそお互いに逃げ道を作った事、何十年も先のお互いの姿を想像した事などなど…あんなに完璧そうな人でも、そんなに不安だったのかと光一は思い知らされたのである。光一はその事を栄に伝えた。
「そうか…そんな人がいたんだね」
「あの人恋人にもうメロメロだっていうのが、話の最中にもダダ洩れだったよ」
「なんか、会ってみたいなあ。その人にもカレシにも…あ、僕って光一さんの『彼氏』か」
「栄も『光一』って呼んで」
「うーん、でも6つも年上だしなあ」
「え、栄って今…」
「ハタチだよ、僕早生まれなんだ、3月生まれ。光一さんは?」
「5月…」
意外と歳の差が開いている事に、今更だが光一はショックを受けた。
「僕は気にしないよ、こ・う・い・ち」
「…」
「二人きりの時だけ、呼び捨てにするね」
男性ながら小悪魔のようなその微笑みに、光一はドキドキする。
(完全に捉まってしまったな)
光一は栄に降参するしかなかった。
リスタート
「友永くーん」
光一がまた栄にキスしようとしたその時、家の中から朝来先生の声がした。
「あ、先生、起きたみたい」
栄が慌てて光一の上半身を放す。先生は縁側近くに現れた。
「おや、光一君来てたのかい、おはようさん」
「お、おはようございます」
光一は手ぶらでここにきてしまった事を、また後悔した。だが先生は、光一の手ぶらの来訪を特に気にしなかったようだ。
「今朝食を用意します」
栄が慌てて家の中に向かう。その直前
〔光一、また後で〕
小声で囁いて微笑んだ。
キッチンに立って栄は朝食の支度にとりかかる。
「ごめんねー、友永君、ジャマしちゃって。僕お腹空いちゃってさあ」
朝来先生は子供のような言い方をした。
「え…ジャマって…先生…」
エプロンの紐を結んでいた栄がぎょっとして振り向く。
「若いっていいねえ。午後はまたアトリエに籠るから、光一君と好きにしてていいよ」
「せ、先生…(好きにしててって…)」
「友永君、信州リンゴみたいに真っ赤だよ」
朝来先生がそう言ってくれたものの、農繁期の宮沢家で光一は忙しく働いていた。
「こっちは道の駅に卸す分だよな。値段のシール付けていいの?」
蒼佑が光一に手順を確かめる。
「兄貴、朝の用事って何だったんだ?朝来先生んちに行ってたみたいだけど」
「口はいいから手を動かせ」
光一はそう言って横を向いた。蒼佑に、ついにやにやしてしまう口元を見られたくないからだ。
夕方になって陽菜実が帰宅する頃には、みんな家の中に引き揚げた。夕食後陽菜実が改まって両親に向かい話しを始めた。
「お父さん・お母さん、進路の事で相談があるの」
それを聞いた光一と蒼佑もなんとなく居ずまいを正す。
「私、東京の服飾専門学校に行きたい。少し前に光兄ちゃんに連れて行ってもらった所。就職に繋がるかどうかは正直わからないけれど、やってみたい。ただ向こうで暮らすことになるから…」
禎治と澄子は顔を見合わせた。進路について特に反対はなかったが、やはり一人娘に一人暮らしをさせるのは心配だったのだ。
「県内では探せないの?」
「あまり選択肢がないかな…友永さんのお友達に案内してもらった学校がいいなって思ってて…家賃とかは全部は無理でもバイトもするし、就職してから少しずつ…」
「お金の問題じゃないのよ、過保護だって言われるかもしれないけれど一人暮らしは…」
澄子が難しい顔をする。
「父さん、母さん」
その時光一が両親の方に向き直った。
「俺が陽菜実と同居する」
あまりにも意外な長男の言葉に、一同呆気にとられた。
「いきなり地元に帰ってきたり、いきなりこんな事を言い出したりして本当に申し訳ないと思っています」
光一は正座して家族に向かう。
「もう一度チャンスをもらえるなら、また東京で頑張ってみたいんだ。陽菜実が学校に通う2年間は一緒に暮らす。もちろん自分の再就職先も探すつもりでいる。家賃も可能な限り負担する」
「お兄ちゃん…」
光一は隣に座る陽菜実の頭にポンと手を置いた。
「農園の方は卒業して蒼佑が戻って来るから大丈夫だろう。農繁期は手伝いに来るよ。いいよな、蒼佑」
「お、おう。任せとけ、俺が通販で稼いでやる」
「あまり慌てないで、ちゃんと父さんに農業の事を教わってからにしろよ。まあ俺もあまり人の事は言えないんだが…」
光一は苦笑いした。澄子は困ったように夫の顔を覗き込んだが、
「わかった」
一言禎治はそう言った。
「3人ともまだ若いから、今の決断が失敗だったとしてもいくらでもやり直せる。気負わずに好きなようにやれ。但し人の道に外れるような事は許さないぞ」
父禎治の言葉に光一は嬉しさと同時に、不安も覚えた。同性と付き合うことが禎治にとって「人の道に外れた事」になるのかどうか―だが、今はそこまで考えないようにした。広瀬から聞いた体験談でも、家族全員の理解を得るには時間がかかるという事を悟ったからだった。
「とりあえず来春まではこちらに置いてもらいます。陽菜実、試験頑張れよ。お前が落ちたら話にならないぞ。専門学校を出た後の事はその時考えよう」
「うん、ありがとう、お兄ちゃん」
報告
陽菜実の進路の話をした後、光一は自分の部屋で広瀬にメールを送った。相談に乗ってもらったから、うまくいった事を報告したかったのだ。来春には再び東京で働くことも伝えた。するとすぐ広瀬から電話がかかってきた。光一は驚いて、スマホを持ち直す。
「もしもし、宮沢です」
<あ、広瀬です。告白、うまくいったみたいでおめでとうございます。今大丈夫ですか?>
「ありがとうございます。その…向こうも俺の事想っててくれたみたいで、どうにかなりました」
光一は「ニヤニヤ」が止まらない。
<早速のおノロケごちそうさまです。今宮沢さんがどんな顔してるのか想像できますよ(実体験で)>
「広瀬さん…カンベンして下さい」
そう言いつつも、光一は満更ではない。
<ところで、また来春からこちらで暮らすんですか?>
「はい、先日ご紹介した妹が東京の専門学校を志望する事になりまして。両親が女の子の一人暮らしを心配したから、俺が一緒に付いて行くと言って納得してもらいました」
<なるほど、宮沢さんは彼氏の近くで暮らせて頻繁に会えるから、一石二鳥ってわけですか。うまい事を考えましたね>
「人聞きが悪いですよ、広瀬さん(まあ、そうなんだけど)。俺も新卒入社で入ったのに、個人的な事情で1年ちょっとで投げ出してしまったから、ちゃんと仕切り直したくて(嘘ではないぞ)」
<どこかアテはあるんですか?>
「いえ、まだこれからで…さすがに同じ会社に再就職はしにくいですけど」
<じゃあ、うちの中途採用受けてみませんか?宮沢さん、理系でしたよね。うちも毎年けっこうな数の新入社員が入るんですが早くにやめてしまう人も多いらしくて、ちょくちょく中途の募集かけてるみたいですよ>
「でも…大室精密さんなんて大手俺には…」
<何言ってるんです。前の会社だっていい所だったじゃないですか。それに経験者だし>
「いや、経験て…ほとんど何もしてないし…」
広瀬はそれには答えなかった。
<無理強いはしませんが、もしその気があるなら人事の知り合いに声を掛けておきます。とはいっても俺には何の権限もないから、コネにはなりませんよ。直接話を聞くならうちの人事の堀越さん…じゃなかった、結婚したから山下さんか、その人に聞いてみて下さい。頼りになる人です。俺の名前を出してもらっても構わないです>
光一は胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます。数年前に一度お会いしただけでろくに話もしなかったのに…こんなに気にかけて頂いて…」
<あそこで再会したのも何かのご縁でしょう。同性と付き合うのは難しい事もあるけれど、頑張って下さい。俺でわかる事なら相談に乗ります。会社の方は気にせず、好きな所を選んで下さいね。またおノロケお待ちしていますよ(俺も話したいし)>
「はい、是非」(※「是非」とは?)
広瀬との話は、そこで終わった。
栄に電話かラ〇ンしようかと思ったその時、
「お兄ちゃん、いい?」
陽菜実が部屋に入ってきた。
「さっきはありがとう。お父さんたちを説得してくれて助かったよ」
「いや…まあ、自分のためでもあったしな」
「ひょっとして友永さんとうまくいった?」
「…(こいつ、なんでこうカンがいいんだ)まあな」
「えっ、告白したんだ、なんてなんて?」
陽菜実は興味津々という感じで寄ってくる。
「別に…普通に…」
「栄さんはなんて?」
「お前に報告する義務はない」
「えー」
光一はそっけない言い方をしたが、実は以前陽菜実が言った言葉が後押しになったのは間違いなかった。
(まあ、東京に行ってからいくらでも話す機会はあるだろう)
今はこの幸せな気持ちを、自分の中だけに閉じ込めておきたい光一だった。
(落ち着いたら沙和にもメールを送ろう。去年冷たくしてしまった事、沙和の気持ちを十分に理解してあげられなかった事を謝りたい。そして自分は新しい恋に踏み出せたから、沙和にも幸せになってほしいと…)
それでやっと自分自身にけじめがつけられると、光一は前向きに考えられたのだった。
約束
告白した翌日、光一は葡萄を抱えて朝来先生の家に行った。縁側に栄はいなかった。
「おじゃまします」
声を掛けると珍しく朝来先生が先に出て来た。
「光一君、こんにちは。葡萄を持って来てくれたのかい。いつもありがとうね」
「いえ…ええと…栄…さんは」
「友永君は珍しくアトリエに籠っているよ」
「アトリエですか…」
「入って声を掛けてみれば?」
「いいんですか?」
「構わないよ。私が籠っている時は声を掛けないように言っているけれどね」
「それじゃあ…失礼します」
「友永君、なんだか朝から不機嫌そうだけど」
「えっ…」
光一は恐る恐るアトリエを覗く。入ったことがないわけではないが、そこは聖域のような雰囲気が漂っていて足を踏み入れにくかった。絵の具の匂いがする。先生は水彩画も描くが、ほとんどが油彩画だ。
「栄…」
奥の方のイーゼルに向かう栄の姿が見えた。慌てた様子で栄が振り向く。
「だめ!来ないで!」
アトリエに入りかけた光一の足が止まった。栄がこちらまでやって来て、光一を廊下に押しやった。
「ごめん、邪魔するつもりはなくて…先生に許可はもらったんだけれど」
「…昨日、午後また会いに来てくれると思ったのに…」
「悪い、農作業が忙しかったし、帰宅後は陽菜実の進路で話し合いがあって…」
「忙しそうなのは知ってる。葡萄棚に様子を見に行ったから」
「なら声を掛けてくれればよかったのに」
「仕事の手を止めさせたら悪いと思って…夜電話したら話し中だったし」
「あ、広瀬さんに報告してたから」
「光一の方から電話してくれると思ってた」
「しようと思ったんだけれど…なんか告白の後で恥ずかしくなって…」
なんとも不毛なやりとりが続く。
「それで不機嫌だったの?」
「不機嫌て」
「先生が言ってたよ」
そう言うといきなり光一は栄の体を抱きしめた。
「ダメ、エプロンに絵の具が付いてるかも」
「いいよ」
「ごめん…子供みたいな事言って…告白された後に何も言われないと急に不安になっちゃって…」
愛しさのあまり、光一は栄を抱く腕に力を込めた。
「来年の春、また東京に行く」
「え」
「陽菜実に一人暮らしをさせるのは心配だから、俺が付いていくことになった。もちろん仕事も探す。両親と陽菜実には悪いけれど、栄の近くにいたいっていうのが本音で…」(※お兄さん…)
「いけないお兄ちゃんだなあ」
そう言う栄の口を光一はキスで塞いだ。
キッチンでお茶を飲む朝来先生は
(僕も家の中にいるって、わかってるのかなあ)
と、困ったように笑っていた。
9月下旬、朝来先生と栄は東京に戻ることになった。例年通り大きい荷物は配送業者に頼み、駅までは光一が送っていく。結局あれからデートができたのは一度だけだった。それも近くの神社仏閣を回り、蕎麦を食べただけだ(※とてもいいと思います)。
宮沢家が総出で見送りに来た。土曜日なので陽菜実もいる。
「先生、毎回ここで飽きないっすか。ここもいい所だけど、長野にはきれいな場所いっぱいあるでしょう?絵を描くならそういう所の方が…」
蒼佑がそんな事を聞いてきた。
「確かに風光明媚な所はたくさんあるね。でもそういう場所は観光客も多い。画題として取り上げるなら、旅行で行けば十分だよ。腰を据えての『暮らし』になるなら、こういう静かな場所が落ち着けていいんだ。アトリエで絵に集中できる。まあ快適さの陰には、ずいぶん宮沢さんに甘えている部分もあるんだけどね。宮沢さんは近すぎず遠すぎずの距離感を保ってくれるから、助かるんだよ」
「そんなもんすか」
先生は宮沢家との関係を好意的に言ってくれたが、今年栄に急接近してしまった光一は少々気まずい。先生と家族が話している横で、光一は栄に囁いた。
〔冬休み中に会いに行くよ〕
〔なら僕の家に来て。一人暮らししているから気楽だよ〕
光一は舞い上がった。
(栄の家に行ける…二人だけ…これはまた広瀬さんに色々教えてもらわないと)(※何を?)
「光一、これ…」
何やら妄想している光一に、栄が小さめのキャンバスが入った袋を差し出した。
「これって…もしかしてあの時描いていた?」
「うん、見られたくないから『来ないで』って言っちゃったんだけど」
そこにはシナノキの葉が大きく2枚、寄り添うように描かれていた。
「(いびつなハート形、花言葉は夫婦愛…夫婦じゃなくたって俺たちにぴったりじゃないか)栄、ありがとう。大切にする。すごく素敵だよ。あのスケッチの横に飾る」
「うん」
栄は照れくさそうに俯いた。
「そこー、二人でこそこそ何やってんの?」
蒼佑がのこのこ近づいてきた。
「ちょっ…蒼兄!空気読みなよ!」
陽菜実が慌てて蒼佑を止めようとする。
「なんだよ、空気読むって。えっ、それ栄さんが描いたの?スゲー、さすが美大生。上手だねー」
蒼佑が素直に褒めたが、光一は不機嫌そうな顔だ。
「蒼佑、なんでお前が名前呼びなんだ」
「え?なんか悪かった?兄貴だって『栄さん』て呼んでたじゃん」
「俺はいいんだよ」
「いや、ワケわかんないんだけど」
「じゃあそろそろ行こうか、光一君、すまないが駅まで頼むよ」
「はい」
「あー、俺も行こうかな。駅チカで買い物を…」
「もー、蒼兄はこっち!勉強教えて!」
「えー、なんで今なんだよー」
陽菜実が強引に蒼佑の腕を引っ張った。やがて車が走り出し、宮沢一家も手を振りつつ我が家へと戻って行った。
誰もいなくなった庭に立つのは大きな科の木。ハート形の葉が風に揺れてさわさわと音を立てている。もう少し季節が進むと、きれいな黄色に色づくことだろう。
終わり
お読み下さりありがとうございました。前作シリーズよりはおとなしめだったかなと思います。9月の夕顔はちょっと苦しかったかな。地名はあまり明記しませんでしたが、お分かりになる方も多いかと。真田で有名なあそこです。登場した城跡は近くの市になります。前作シリーズのキャラはシルエット的にちょこっと出すだけのつもりでしたが、出番が増えてしまいました。すみません。前作をお読み頂いていなくても、特に不都合はないと思います。東信に行かれる際は地元スーパーを覗いてみて下さい。結構楽しいですよ。関係者でも地元民でもないのにお節介ですみません。




