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人間の美女を侍らせたいゴブリン王に婚約を捨てられましたので、献上された娘たちと一緒に王を追い出します

作者: わかめ
掲載日:2026/09/22

グラグが王になる前、あいつは本当にいい男だった。


 これは未練じゃない。


 事実だ。


 若いころのグラグは、狩りに出れば誰より先に危険な場所へ入った。


 大角鹿を仕留めれば、真っ先に子どもと年寄りのいる家へ肉を回した。


 獲物が少ない日は自分の皿を減らした。


 他の群れと狩場が重なれば、まず話をした。


 話して駄目なら殴った。


 ちゃんと順番を守る男だった。


「今年の干し肉、春まで持つか?」


 そんなことを聞かれたのは、グラグがまだ王でも何でもなかったころだ。


 集落には食料庫が三つあって、私はその管理を任されていた。


「雪が普通ならね」


「長引いたら?」


「お前らが狩ってこい」


「王になっても?」


「王になったら狩らなくていいと思ってんの?」


「いや」


 グラグは笑った。


「王になったら、もっとでかいの狩る」


「馬鹿」


 横ではバルグが鹿を解体していた。


「こいつ、王になる前から調子乗ってるぞ」


「うるせえ」


 グラグはそう返してから、急に私を見た。


「俺が獲って、お前が冬まで持たせる」


「何?」


「俺が王になったら、お前が王妃だ」


 私は固まった。


 鹿の腹を開いていたバルグも、ほんの一瞬だけ手を止めた。


「……急に何言ってんの」


「嫌か?」


「嫌とは言ってない」


「じゃあ決まりだな」


「勝手に決めんな」


「でもなるだろ?」


 自信満々に言われて、腹が立った。


 でも、嬉しかった。


 悔しいけど、すごく嬉しかった。


 私はこの男なら王になれると思っていた。


 この男となら、冬を越せると思っていた。


 バルグが鹿の脚を持ち上げながら言った。


「惚気るなら終わってからにしろ。血が固まる」


「別に惚気てない」


「顔がそう言ってる」


「うるさい」


 グラグは笑った。


 私も笑った。


 あのころの私たちは、たぶん本当に幸せだった。


 そしてグラグは、本当に王になった。


 だから私は、あの日の約束もそのまま続くものだと思っていた。


 ――王宮の広間で、人間の女を三人並べたグラグに婚約を解消すると言われるまでは。


「……もう一回言って」


 聞こえなかったわけじゃない。


 よく聞こえたから聞き返した。


 王座に座ったグラグは、昔より立派な服を着ていた。


 人間の国から取り寄せた黒い上着。


 肩には金糸。


 首には宝石。


 昔は鹿革で十分だった男だ。


「お前との婚約は解消する」


 やっぱり聞き間違いじゃなかった。


「何で?」


「俺は王になった」


「知ってる」


「人間の国とも付き合うようになった」


「それも知ってる」


「王には王に相応しいものが必要だ」


 グラグの視線が横へ動く。


 三人の人間の女。


 私たちゴブリンより背が高い。


 肌は明るく、耳は丸い。


 細い布を重ねた綺麗な服。


 髪には飾り。


 首には宝石。


 腹が立つくらい綺麗だった。


「人間の王は、こういう女をそばに置く」


「だから?」


「俺も、昔みたいに一人の女だけ見てりゃいい立場じゃない」


 胸の中で何かが崩れた。


「……私じゃ王に相応しくないって?」


「そういう言い方をするな」


「じゃあどういう言い方ならいいの」


「グリナ」


「言って」


 グラグは少し苛立った顔をした。


「今の俺には、お前より相応しい女がいる」


 それを聞いた瞬間、逆に頭が冷えた。


「そっか」


「分かってくれ」


「何を?」


「俺には責任がある」


「人間の女を侍らせる責任?」


「王としての威信だ」


「へえ」


 怒鳴りたかった。


 殴りたかった。


 昔のグラグなら、そんな言葉を聞いたら自分で自分を殴ったと思う。


 でも、人間の女たちの前で泣き喚くのは嫌だった。


 私は踵を返した。


「分かった。終わりでいい」


 グラグが少し驚いた。


「……いいのか?」


 その顔が余計に腹立たしかった。


 何だ。


 泣いて縋ると思ったのか。


「お前が決めたんだろ」


「グリナ」


「食料庫の鍵、明日返すから」


「ああ。倉番に任せればいい」


 倉番に。


 その言葉だけ少し引っかかった。


 でも、その時はどうでもよかった。


 私は王宮を出た。


 家に帰った。


 扉を閉めた。


 水を一杯飲んだ。


 それから、きっちり泣いた。


 あんな男のために泣くのが悔しかった。


 でも好きだった。


 好きだったんだから仕方がない。


 王になる前から。


 まだ何も持ってなかったころから。


 王になれば変わるかもしれないなんて、考えもしなかった。


 翌朝。


 目は腫れていた。


 最悪だった。


 でも鍵は返さなきゃならない。


 王宮の裏手にある食料庫へ向かうと、扉の前に昨日の女が一人立っていた。


 一番背の高い女。


 淡い栗色の髪。


 濃い青の服。


 向こうも私に気づいた。


「あの」


「何」


 思ったより尖った声が出た。


「グリナ様、ですよね」


「様はいらない」


「では、グリナさん」


「さんもいらない」


「……では、グリナ」


「何」


 感じが悪い。


 分かってる。


 でも昨日の今日だ。


「セレナと申します」


「聞いてない」


「そうですか」


 女――セレナは思ったより強かった。


「では単刀直入に。食料庫へ入れていただけますか」


「何で」


「私どもの食事について確認したいことがあります」


「倉番に聞けば」


「聞きました。『前はグリナが全部やっていた』と」


 私は眉間を押さえた。


 あの野郎。


「今日で終わりだから」


「でしたら今日だけでも」


「……何を確認したいの」


「人間向けとして運び込まれている食材が多すぎます」


「は?」


 鍵を開けた。


 中へ入った。


 そして私は固まった。


「……何これ」


 葡萄酒。


 砂糖。


 香辛料。


 小麦粉。


 乾燥果実。


 瓶詰め。


 見たこともない高い塩。


「私どものためだそうです」


「こんなに食うの?」


「食べません」


「酒」


「私は少々。他の二人はほとんど」


「砂糖」


「半年分はあります」


「香辛料」


「私の実家でも、こんな量は買いません」


 嫌な予感がした。


 奥へ行く。


 干し肉。


 少ない。


 穀物。


 少ない。


 豆。


 少ない。


 塩漬け肉。


 やっぱり少ない。


「……何で?」


 私は帳簿を引っ張り出した。


 頁をめくる。


 入った量。


 出た量。


 王宮支出。


 葡萄酒。


 絹布。


 銀食器。


 宝飾品。


 家具。


 王宮改装。


「銀の皿?」


「私も驚きました」


「皿なんて木でいいだろ」


「人間も普通は木です」


「そうなの?」


「人間を何だと思っていたんです?」


「全員金持ち」


「違います」


 少しだけ話が通じた。


 でも笑ってる場合じゃない。


 数字を足す。


 引く。


 もう一度足す。


 私は手を止めた。


「……足りない」


 セレナの顔が変わった。


「どの程度でしょう」


「普通の冬なら」


 もう一度計算する。


「春のひと月前に主な備蓄が尽きる」


 静かになった。


 昨日まで頭の中を占めていたものが、急に端へ追いやられた。


 婚約破棄。


 人間の女。


 グラグ。


 全部消えたわけじゃない。


 でも、それより先に出てきた。


「何してんだ、あの馬鹿」


「陛下のことでしょうか」


「他に誰がいる」


「……失礼ながら、同感です」


 そこで初めて、私はセレナをまともに見た。


「一個聞いていい?」


「はい」


「お前ら、グラグのこと好きなの?」


 セレナが瞬きをした。


「……いいえ」


「え」


「少なくとも私は」


「でも王の女として来たんだろ」


「誰がそう言ったのです?」


「グラグ」


 セレナは目を閉じた。


 ものすごく疲れた顔だった。


「私は和平維持のための滞在者です」


「同じじゃないの?」


「違います」


「でも帰れないんだろ」


「簡単には。私が勝手に帰れば、父は和平を壊したと思われることを恐れるでしょう」


「他の二人は?」


「一人は国境の村への襲撃回避。もう一人は商路の安全保証です」


「……好きで来たんじゃない?」


「好きで?」


 セレナは私をじっと見た。


「失礼ですが、グリナ」


「何」


「あの方のどこが良かったのです?」


「……昔はもうちょいマシだったんだよ」


 言ってから変な気分になった。


 昨日まで、こいつらが嫌いだった。


 グラグを奪った女たちだと思っていた。


 違った。


 こいつらも勝手に並べられている。


 あいつが勝手に「自分の女」にしてるだけだ。


「……悪いの、あいつじゃん」


「はい?」


「何でもない」


 私は鍵を腰へ戻した。


「返すのやめる」


「よろしいのですか?」


「よくない。でも返したらもっと駄目になる」


 その日のうちに辺境へ向かった。


 狩猟隊の様子を見るためだ。


 バルグは集落の入口にいた。


 昔より肩幅が広くなって、左頬には古い傷。


 私を見るなり言った。


「飯食ったか?」


「第一声それ?」


「顔色悪い」


「昨日振られた」


「知ってる」


「もう?」


「王宮の奴が喋ってた」


「最悪」


 バルグは腰袋から干し肉を出した。


「食え」


「硬い」


「文句言うな」


 噛む。


 塩が薄い。


「塩減らした?」


「配給が減った」


「やっぱり」


 私は狩猟隊の槍を見る。


 刃こぼれ。


 革紐の継ぎ足し。


 使い回した矢尻。


「装備、更新してない?」


「今年は後回し」


「誰が決めた」


「王宮」


「冬支度」


「遅れてる」


「保存食」


「減った」


 頭が痛い。


 バルグが私の顔を覗く。


「何があった」


「グラグが国の金と食料を人間王ごっこに使ってる」


「何だそれ」


「私が聞きたい」


 数字を説明した。


 バルグは途中から笑わなくなった。


「春まで持たない?」


「ひと月足りない」


「雪が長けりゃ」


「もっと早い」


「狩りで補うのは」


「お前ら冬に何人死ぬ気?」


「だよな」


 バルグは腕を組んだ。


「で、お前はどうする」


「調べる」


「振られた翌日に?」


「振られたことより大変なんだよ!」


 言ってから、私は口を閉じた。


 本当にそうだった。


 昨日は終わったと思った。


 何年も好きだった男に捨てられた。


 世界がなくなったみたいだった。


 なのに今は、干し肉の方が大事だった。


 バルグが少し笑う。


「お前らしい」


「何が」


「飯食わないくせに、人の飯は気にするところ」


「うるさい」


「寝たか?」


「……少し」


「少しって何時間」


「知らない」


「今日は寝ろ」


「無理」


「じゃあ調べ終わったら寝ろ」


「子ども扱いすんな」


「してない」


「じゃあ何」


 バルグは少し黙った。


「お前が倒れたら困る」


「仕事が?」


「俺が」


 私は顔を上げた。


 バルグはもう別の方を見ていた。


「……何それ」


「そのまんまだ」


「意味分かんない」


「今は分からなくていい」


 それ以上言わなかった。


 三日間、私はセレナとバルグと記録を集めた。


 王宮の支出。


 各集落への配給。


 狩猟隊の装備費。


 食料庫。


 輸入品。


 そして分かった。


 グラグが使った金は、単なる女遊びだけじゃない。


 もっと厄介だった。


 あいつは人間の王宮を見て、順番を勘違いしたのだ。


 豪華な宮殿。


 酒。


 宝石。


 美女。


 派手な宴会。


 それが王を偉大にするのだと思った。


「違います」


 セレナが帳簿を指した。


「豊かな国だから、こういう支出が可能なのです」


「贅沢したから豊かなんじゃなくて?」


「逆です」


 横でバルグが言う。


「順番間違えたのか」


「そういうことです」


 私は黙った。


 昔のグラグを思い出した。


 獲物を子どもに回した男。


 自分の腹より群れを優先した男。


「最初から馬鹿だったら、楽だったのに」


 口から出た。


 バルグが答える。


「馬鹿じゃなかった」


「うん」


「俺もあいつに王になってほしかった」


「うん」


 それで少し救われた。


 好きだった私まで間違っていたわけじゃない。


 あいつは変わった。


 そして私も、もう昔のグラグを待ってる場合じゃない。


 群れの集会を開いた。


 各集落の長。


 狩猟隊長。


 倉番。


 長老。


 冬支度を預かる者。


 広場に全員が集まった。


 グラグは王座代わりの高い椅子に座っていた。


 人間の職人に作らせた椅子だ。


「何だ、グリナ」


 私を見るなり笑った。


「まだ婚約の話か?」


「違う」


「なら何だ」


「干し肉」


「は?」


「今のお前より大事なもの」


 広場のどこかで笑いが漏れた。


 グラグの顔が引きつる。


「ふざけるな」


「ふざけてない」


 私は帳簿を置いた。


「今年の備蓄」


 もう一冊。


「去年」


 次。


「王宮支出」


 さらに次。


「辺境への配給」


「何の真似だ」


「説明」


「俺に恥をかかせたいだけだろ!」


「じゃあ数字が間違ってるところ言って」


「グリナ!」


「どこ?」


 答えない。


 私は続けた。


「普通の冬なら、春のひと月前に食料が尽きる」


 ざわめき。


「嘘だ!」


「じゃあ計算して」


「狩りを増やせばいい!」


 バルグが前に出た。


「冬に?」


「雪の前だ!」


「装備費削ったのは王宮だぞ」


「古い槍でも狩れる!」


「死人出してまでか?」


「王に口答えするな!」


 そこでセレナが出た。


「陛下」


「セレナ」


 グラグの顔に少し安堵が浮かんだ。


 たぶん味方だと思ったんだろう。


「お前からも言ってやれ。これはゴブリン同士の――」


「まず訂正させていただきます」


「何?」


「私はあなたの女ではありません」


 静かだった広場が、さらに静かになった。


 グラグの顔が固まった。


「何を言っている」


「私は和平のためこちらへ滞在しております。婚約も結婚も承諾しておりません」


「だが、お前は俺の王宮に」


「外交上の滞在です」


「贈られてきたのだろう!」


「人間は贈り物ではございません」


 もう二人の女も前へ出た。


「私もです」


「私も王の妻になる話など聞いておりません」


 グラグの顔がみるみる赤くなった。


「なら、この衣装は何だ! 宝石は! 部屋は!」


 セレナの目が冷えた。


「陛下が勝手に用意なさいました」


「お前たちのためだぞ!」


「頼んでおりません」


 一つ。


 グラグが誇っていたものが崩れた。


 人間の美女を侍らせる王。


 そんなもの、最初からどこにもいなかった。


 セレナたちは王の女じゃない。


 ただの外交相手だ。


「これは王の威信のためだ!」


 グラグが叫んだ。


「そう」


 私は広場の端へ合図した。


 倉番たちが物を運び込んだ。


 銀の皿。


 酒樽。


 装飾用の布。


 豪華な椅子。


 宝石のついた杯。


「何をしている!」


「これ全部、お前の威信なんだろ」


「触るな!」


「この椅子一つで狩猟隊の槍が何本買えたと思う?」


「グリナ!」


「この酒樽で塩が何袋」


「黙れ!」


「この銀皿で子どもの保存食が何日分」


「黙れと言っている!」


 グラグが立ち上がった。


 でも誰も動かなかった。


 昔なら、王が立てば周りも立った。


 今は誰も。


 二つ目。


 王の威信だと思って集めたものが、そのまま王失格の証拠になった。


 長老が言う。


「王グラグ」


「長老!」


「王とは何だ」


「俺だ!」


「違う」


 長老は首を振る。


「名を聞いているのではない」


 誰かが言った。


「うちの集落、もう豆が減ってる」


「こっちは子どもの干し肉だ」


「槍も来てねえ」


「薬も減った」


 声が増える。


 グラグが周囲を見る。


「お前ら……」


 誰も頭を下げない。


 三つ目。


 王だから従っていた民が、もう従わない。


「俺は王だぞ!」


 グラグが叫んだ。


 その声を聞いた瞬間。


 私の中で、最後の何かが切れた。


「それしか言えなくなったんだね」


「何?」


「昔のお前なら、まず『誰が腹減らしてる』って聞いた」


 グラグの顔が止まる。


「グリナ」


「私、昨日まで本当に辛かった」


「……」


「何年も好きだったから」


 言うと胸が少し痛んだ。


「私を捨てたこと、今でも腹立ってる」


「なら――」


「でもさ」


 私は笑った。


「今のお前より、干し肉の方が大事なんだよ」


 広場に笑いが広がった。


 グラグだけが笑わなかった。


「お前は俺に捨てられた腹いせで――」


「まだ自分がそこまで大事だと思ってんの?」


「何だと?」


「昨日までは大事だったよ」


 私は言った。


「でも今日の私は、お前より春までの備蓄を気にしてる」


 グラグが何も言えなくなった。


 長老が杖を地面についた。


「群れを飢えさせる王に、群れを率いる資格はない」


 各集落の長が、一人ずつ賛同した。


 狩猟隊長も。


 倉番も。


 最後に長老が言った。


「グラグ。群れはお前を王とは認めない」


 王座がなくなった瞬間だった。


 グラグは立ったまま周囲を見回した。


「待て」


 誰も答えない。


「俺は王だ」


 さっきと同じ言葉。


 今度は、誰にも届かなかった。


 その日のうちに王宮の贅沢品は売却することになった。


 人間側へ返せるものは返し、食料と塩と装備へ換える。


 王座だった大きな椅子も運び出された。


「触るな!」


 グラグが止めようとした。


 でも運ぶゴブリンたちは手を止めない。


「これは俺の椅子だ!」


「王の椅子だ」


 長老が答えた。


「お前はもう王ではない」


 グラグは、何も言えなくなった。


 私はその場を離れようとした。


「グリナ」


 呼ばれた。


 振り返る。


 グラグがいた。


 人間風の上着も、金の飾りもまだ身につけている。


 でも後ろには王座がない。


 人間の女たちもいない。


 民もいない。


 初めて、小さく見えた。


「待て」


「何」


「お前が食料庫に戻れば」


 嫌な予感がした。


「何?」


「お前がまた俺を支えれば、立て直せる」


 胸の奥が冷えた。


「何を?」


「国をだ」


「それで?」


「俺はまた王に――」


「やっぱり分かってない」


 グラグが止まる。


「私は聞いたよね」


「何を」


「何を取り戻したいの?」


 黙る。


「王位?」


「……」


「それとも私?」


 グラグの口が動いた。


「両方だ」


 私は目を閉じた。


 少しだけ期待していた自分がいた。


 もしかしたら最後くらい。


 昔のグラグに戻るかもしれないって。


 でも、戻らなかった。


「そっか」


「グリナ」


「昔のお前なら、そんな答えしなかったよ」


「待て」


「私がいれば王に戻れると思ってる?」


「お前は食料庫を――」


「違う」


 私は首を振った。


「私がいないと王でいられないなら、それは最初からお前一人の力じゃなかったんだよ」


 グラグの顔が歪んだ。


「俺たちは一緒にやってきただろ!」


「そうだよ」


「なら!」


「だから余計に駄目なの」


 私は言った。


「一緒にやってきた私を、お前は王に相応しくないって捨てた」


「それは――」


「でも今、私の仕事が必要になったら戻れって言う」


「違う!」


「何が違うの」


 答えはなかった。


「私はもう、お前を支える理由がない」


 それで終わった。


 本当に。


 グラグは王位を失った。


 人間の美女を侍らせる王という幻想も失った。


 王宮も。


 贅沢品も。


 民の敬意も。


 そして。


 私も。


 処刑はされなかった。


 追放もされなかった。


 新しく王に選ばれた年長のゴブリンは、グラグに古い槍を一本渡した。


「腹が減ったら狩れ」


 グラグが槍を見る。


「俺に?」


「昔のお前なら知っているだろう」


 新王はそれだけ言った。


 その槍は、グラグが王になる前に使っていたものとよく似ていた。


 昔なら誇らしげに担いだはずの槍。


 今のグラグは、それをしばらく見つめていた。


 結局、受け取った。


 その姿を見て。


 私は少しだけ寂しくなった。


 ざまあみろ、とは思った。


 かなり思った。


 でも、それだけじゃなかった。


 本当に好きだったから。


 昔のグラグが消えてしまったことまで嬉しいわけじゃない。


 ただ。


 もう戻ろうとは思わなかった。


 その後は忙しかった。


 売却した贅沢品で不足していた穀物と塩を買い戻した。


 狩猟隊の槍も修理した。


 保存食を追加で作った。


 何とか春までは持ちそうだ。


 三人の人間女性にも、改めて意思が確認された。


 一人は帰国。


 一人は商業交渉の担当として残った。


 セレナも自分の国へ戻ることになった。


 見送りの日。


「本当に我が家へ来ませんか?」


 セレナが言った。


「何しに」


「領地の倉庫を見ていただきます」


「やだよ」


「待遇は悪くいたしません」


「肉少ないだろ」


 セレナは少し考えた。


「……否定できませんね」


「ほら」


「パンは美味しいですよ」


「旅行なら行く」


「お待ちしております」


 最初は顔を見るだけで腹が立った女だった。


 今は、また会いたいと思う。


「セレナ」


「はい」


「最初、嫌いだった」


「知っております」


「分かってた?」


「恐ろしい顔をされましたので」


「そっちも私のこと怖がってたじゃん」


「ゴブリンですから」


「失礼だな」


「お互い様でしょう?」


 セレナが笑う。


 私も笑った。


 馬車が出る。


 手を振るほどでもないと思ったけど、向こうが振ったから振り返した。


 それから数日。


 食料庫の仕事がようやく落ち着いた。


「グリナ」


 後ろから呼ばれた。


 バルグだ。


「何」


「飯食ったか?」


「またそれ?」


「まだ食ってない顔してる」


「どんな顔だよ」


「お前の顔」


 私はため息をついた。


「あとで食べる」


「そのあとっていつだ」


「仕事終わったら」


「もう終わってるだろ」


「確認が」


「明日やれ」


「うるさいな」


 バルグは私の机から帳簿を取った。


「返せ」


「今日は終わり」


「勝手に決めんな」


「この前、お前が倒れたら俺が困るって言ったろ」


 私は手を止めた。


「……言ったね」


「ああ」


「何で?」


「何でって」


 バルグは少し困った顔をした。


 珍しい。


「お前、本当に分かってなかったのか」


「何が」


「俺がお前を好きなの」


 今度は私が固まった。


「……え」


「昔から」


「え?」


「グラグと付き合ってたから言わなかった」


「待って」


「何だ」


「いつから?」


「昔から」


「だからいつ」


「お前がグラグに惚れるより前」


「嘘」


「嘘ついてどうする」


 頭の中を昔の記憶が走った。


 三人で狩りに行ったこと。


 グラグと私が話してる横で鹿を解体してたバルグ。


 王妃にすると言われた時、一瞬だけ止まった手。


 婚約破棄された翌日に「飯食ったか」と言った男。


「……全然気づかなかった」


「知ってる」


「言えよ」


「お前がグラグ好きなのに?」


「……それは」


「困るだろ」


 そうだった。


 たぶん昔言われても困った。


 私はグラグが好きだった。


 バルグはそれを知っていた。


 だから何も言わなかった。


「じゃあ何で今言ったの」


「聞かれたから」


「そうじゃなくて」


 バルグは少し黙った。


「まだグラグが好きか?」


 急に聞かれて、私は答えに詰まった。


 嫌いになったのか。


 全部なくなったのか。


 少し考える。


「……昔のグラグは、好き」


「うん」


「今のグラグは、もういい」


「そうか」


 バルグはそれだけ言った。


 ほんの少し口元が緩んだ。


「何、その顔」


「別に」


「絶対何かある」


「俺にも順番ってもんがあるからな」


「順番?」


「お前が他の男好きな間に口説く趣味はない」


「……口説くんだ」


「そのうちな」


 胸の奥が変な感じになった。


 グラグに言われた時とは違う。


 燃えるようなものじゃない。


 もっとじわっとした。


 安心してるところに、突然熱い石を一つ置かれたみたいな。


「今すぐじゃないんだ」


「昨日まで婚約してた女を今日口説くほど馬鹿じゃねえよ」


「昨日じゃないけど」


「似たようなもんだ」


「じゃあ何しに来たの」


「飯」


「……飯?」


「腹減っただろ」


「肉ある?」


「ある」


「何」


「猪」


「脂」


「乗ってる」


「酒」


「安いやつ」


「人間の高いのじゃなくて?」


「いらねえよ」


 私は笑った。


「じゃあ行く」


 バルグが歩き出す。


 私はその隣へ並んだ。


 昔なら。


 まずグラグの予定を見た。


 狩りからいつ戻るか。


 会議は何時か。


 宴会があるか。


 王になってからは、いつもあいつを中心に考えていた。


 でも今は違う。


「バルグ」


「何」


「さっきの」


「何だ」


「口説くって話」


「ああ」


「いつ?」


 バルグが足を止めた。


 私も止まる。


「何だよ」


「別に」


「気になるのか?」


「ちょっと」


「じゃあ、そのうち」


「何で勿体ぶるの」


「今のお前に言ったら、グラグから逃げるために俺選んだのか、自分で俺選んだのか分かんねえだろ」


 私は何も言えなくなった。


 こいつ。


 こんなこと考えてたのか。


「だから待つ」


「……馬鹿」


「何が」


「お前の方が、よっぽど王向きなんじゃないの」


「絶対嫌だ」


「即答」


「狩りだけで忙しい」


 笑った。


「じゃあいい」


「何が」


「何でもない」


 また歩き出す。


 王妃にはならなかった。


 王にもならなかった。


 昔好きだった男は、王になって変わった。


 私は捨てられた。


 泣いた。


 腹も立った。


 でも、失ったものばかりじゃなかった。


 グラグの隣にいたころは見えなかった人がいた。


 私自身を、王妃でも食料庫の管理人でもなく。


 ただのグリナとして見ていた男が。


「おい」


「何」


「肉冷めるぞ」


「待ってよ」


 少し先を歩くバルグを追いかける。


 今すぐ次の恋を始めるつもりはない。


 でも。


 そのうちなら。


 たぶん悪くない。


 春まで持つ食料と。


 ちゃんと働く仲間と。


 腹が減った時に、一緒に肉を食べたい相手がいる。


 今の私は、それで十分だった。


 少なくとも。


 昨日までよりは、ずっと幸せだ。

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