人間の美女を侍らせたいゴブリン王に婚約を捨てられましたので、献上された娘たちと一緒に王を追い出します
グラグが王になる前、あいつは本当にいい男だった。
これは未練じゃない。
事実だ。
若いころのグラグは、狩りに出れば誰より先に危険な場所へ入った。
大角鹿を仕留めれば、真っ先に子どもと年寄りのいる家へ肉を回した。
獲物が少ない日は自分の皿を減らした。
他の群れと狩場が重なれば、まず話をした。
話して駄目なら殴った。
ちゃんと順番を守る男だった。
「今年の干し肉、春まで持つか?」
そんなことを聞かれたのは、グラグがまだ王でも何でもなかったころだ。
集落には食料庫が三つあって、私はその管理を任されていた。
「雪が普通ならね」
「長引いたら?」
「お前らが狩ってこい」
「王になっても?」
「王になったら狩らなくていいと思ってんの?」
「いや」
グラグは笑った。
「王になったら、もっとでかいの狩る」
「馬鹿」
横ではバルグが鹿を解体していた。
「こいつ、王になる前から調子乗ってるぞ」
「うるせえ」
グラグはそう返してから、急に私を見た。
「俺が獲って、お前が冬まで持たせる」
「何?」
「俺が王になったら、お前が王妃だ」
私は固まった。
鹿の腹を開いていたバルグも、ほんの一瞬だけ手を止めた。
「……急に何言ってんの」
「嫌か?」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ決まりだな」
「勝手に決めんな」
「でもなるだろ?」
自信満々に言われて、腹が立った。
でも、嬉しかった。
悔しいけど、すごく嬉しかった。
私はこの男なら王になれると思っていた。
この男となら、冬を越せると思っていた。
バルグが鹿の脚を持ち上げながら言った。
「惚気るなら終わってからにしろ。血が固まる」
「別に惚気てない」
「顔がそう言ってる」
「うるさい」
グラグは笑った。
私も笑った。
あのころの私たちは、たぶん本当に幸せだった。
そしてグラグは、本当に王になった。
だから私は、あの日の約束もそのまま続くものだと思っていた。
――王宮の広間で、人間の女を三人並べたグラグに婚約を解消すると言われるまでは。
「……もう一回言って」
聞こえなかったわけじゃない。
よく聞こえたから聞き返した。
王座に座ったグラグは、昔より立派な服を着ていた。
人間の国から取り寄せた黒い上着。
肩には金糸。
首には宝石。
昔は鹿革で十分だった男だ。
「お前との婚約は解消する」
やっぱり聞き間違いじゃなかった。
「何で?」
「俺は王になった」
「知ってる」
「人間の国とも付き合うようになった」
「それも知ってる」
「王には王に相応しいものが必要だ」
グラグの視線が横へ動く。
三人の人間の女。
私たちゴブリンより背が高い。
肌は明るく、耳は丸い。
細い布を重ねた綺麗な服。
髪には飾り。
首には宝石。
腹が立つくらい綺麗だった。
「人間の王は、こういう女をそばに置く」
「だから?」
「俺も、昔みたいに一人の女だけ見てりゃいい立場じゃない」
胸の中で何かが崩れた。
「……私じゃ王に相応しくないって?」
「そういう言い方をするな」
「じゃあどういう言い方ならいいの」
「グリナ」
「言って」
グラグは少し苛立った顔をした。
「今の俺には、お前より相応しい女がいる」
それを聞いた瞬間、逆に頭が冷えた。
「そっか」
「分かってくれ」
「何を?」
「俺には責任がある」
「人間の女を侍らせる責任?」
「王としての威信だ」
「へえ」
怒鳴りたかった。
殴りたかった。
昔のグラグなら、そんな言葉を聞いたら自分で自分を殴ったと思う。
でも、人間の女たちの前で泣き喚くのは嫌だった。
私は踵を返した。
「分かった。終わりでいい」
グラグが少し驚いた。
「……いいのか?」
その顔が余計に腹立たしかった。
何だ。
泣いて縋ると思ったのか。
「お前が決めたんだろ」
「グリナ」
「食料庫の鍵、明日返すから」
「ああ。倉番に任せればいい」
倉番に。
その言葉だけ少し引っかかった。
でも、その時はどうでもよかった。
私は王宮を出た。
家に帰った。
扉を閉めた。
水を一杯飲んだ。
それから、きっちり泣いた。
あんな男のために泣くのが悔しかった。
でも好きだった。
好きだったんだから仕方がない。
王になる前から。
まだ何も持ってなかったころから。
王になれば変わるかもしれないなんて、考えもしなかった。
翌朝。
目は腫れていた。
最悪だった。
でも鍵は返さなきゃならない。
王宮の裏手にある食料庫へ向かうと、扉の前に昨日の女が一人立っていた。
一番背の高い女。
淡い栗色の髪。
濃い青の服。
向こうも私に気づいた。
「あの」
「何」
思ったより尖った声が出た。
「グリナ様、ですよね」
「様はいらない」
「では、グリナさん」
「さんもいらない」
「……では、グリナ」
「何」
感じが悪い。
分かってる。
でも昨日の今日だ。
「セレナと申します」
「聞いてない」
「そうですか」
女――セレナは思ったより強かった。
「では単刀直入に。食料庫へ入れていただけますか」
「何で」
「私どもの食事について確認したいことがあります」
「倉番に聞けば」
「聞きました。『前はグリナが全部やっていた』と」
私は眉間を押さえた。
あの野郎。
「今日で終わりだから」
「でしたら今日だけでも」
「……何を確認したいの」
「人間向けとして運び込まれている食材が多すぎます」
「は?」
鍵を開けた。
中へ入った。
そして私は固まった。
「……何これ」
葡萄酒。
砂糖。
香辛料。
小麦粉。
乾燥果実。
瓶詰め。
見たこともない高い塩。
「私どものためだそうです」
「こんなに食うの?」
「食べません」
「酒」
「私は少々。他の二人はほとんど」
「砂糖」
「半年分はあります」
「香辛料」
「私の実家でも、こんな量は買いません」
嫌な予感がした。
奥へ行く。
干し肉。
少ない。
穀物。
少ない。
豆。
少ない。
塩漬け肉。
やっぱり少ない。
「……何で?」
私は帳簿を引っ張り出した。
頁をめくる。
入った量。
出た量。
王宮支出。
葡萄酒。
絹布。
銀食器。
宝飾品。
家具。
王宮改装。
「銀の皿?」
「私も驚きました」
「皿なんて木でいいだろ」
「人間も普通は木です」
「そうなの?」
「人間を何だと思っていたんです?」
「全員金持ち」
「違います」
少しだけ話が通じた。
でも笑ってる場合じゃない。
数字を足す。
引く。
もう一度足す。
私は手を止めた。
「……足りない」
セレナの顔が変わった。
「どの程度でしょう」
「普通の冬なら」
もう一度計算する。
「春のひと月前に主な備蓄が尽きる」
静かになった。
昨日まで頭の中を占めていたものが、急に端へ追いやられた。
婚約破棄。
人間の女。
グラグ。
全部消えたわけじゃない。
でも、それより先に出てきた。
「何してんだ、あの馬鹿」
「陛下のことでしょうか」
「他に誰がいる」
「……失礼ながら、同感です」
そこで初めて、私はセレナをまともに見た。
「一個聞いていい?」
「はい」
「お前ら、グラグのこと好きなの?」
セレナが瞬きをした。
「……いいえ」
「え」
「少なくとも私は」
「でも王の女として来たんだろ」
「誰がそう言ったのです?」
「グラグ」
セレナは目を閉じた。
ものすごく疲れた顔だった。
「私は和平維持のための滞在者です」
「同じじゃないの?」
「違います」
「でも帰れないんだろ」
「簡単には。私が勝手に帰れば、父は和平を壊したと思われることを恐れるでしょう」
「他の二人は?」
「一人は国境の村への襲撃回避。もう一人は商路の安全保証です」
「……好きで来たんじゃない?」
「好きで?」
セレナは私をじっと見た。
「失礼ですが、グリナ」
「何」
「あの方のどこが良かったのです?」
「……昔はもうちょいマシだったんだよ」
言ってから変な気分になった。
昨日まで、こいつらが嫌いだった。
グラグを奪った女たちだと思っていた。
違った。
こいつらも勝手に並べられている。
あいつが勝手に「自分の女」にしてるだけだ。
「……悪いの、あいつじゃん」
「はい?」
「何でもない」
私は鍵を腰へ戻した。
「返すのやめる」
「よろしいのですか?」
「よくない。でも返したらもっと駄目になる」
その日のうちに辺境へ向かった。
狩猟隊の様子を見るためだ。
バルグは集落の入口にいた。
昔より肩幅が広くなって、左頬には古い傷。
私を見るなり言った。
「飯食ったか?」
「第一声それ?」
「顔色悪い」
「昨日振られた」
「知ってる」
「もう?」
「王宮の奴が喋ってた」
「最悪」
バルグは腰袋から干し肉を出した。
「食え」
「硬い」
「文句言うな」
噛む。
塩が薄い。
「塩減らした?」
「配給が減った」
「やっぱり」
私は狩猟隊の槍を見る。
刃こぼれ。
革紐の継ぎ足し。
使い回した矢尻。
「装備、更新してない?」
「今年は後回し」
「誰が決めた」
「王宮」
「冬支度」
「遅れてる」
「保存食」
「減った」
頭が痛い。
バルグが私の顔を覗く。
「何があった」
「グラグが国の金と食料を人間王ごっこに使ってる」
「何だそれ」
「私が聞きたい」
数字を説明した。
バルグは途中から笑わなくなった。
「春まで持たない?」
「ひと月足りない」
「雪が長けりゃ」
「もっと早い」
「狩りで補うのは」
「お前ら冬に何人死ぬ気?」
「だよな」
バルグは腕を組んだ。
「で、お前はどうする」
「調べる」
「振られた翌日に?」
「振られたことより大変なんだよ!」
言ってから、私は口を閉じた。
本当にそうだった。
昨日は終わったと思った。
何年も好きだった男に捨てられた。
世界がなくなったみたいだった。
なのに今は、干し肉の方が大事だった。
バルグが少し笑う。
「お前らしい」
「何が」
「飯食わないくせに、人の飯は気にするところ」
「うるさい」
「寝たか?」
「……少し」
「少しって何時間」
「知らない」
「今日は寝ろ」
「無理」
「じゃあ調べ終わったら寝ろ」
「子ども扱いすんな」
「してない」
「じゃあ何」
バルグは少し黙った。
「お前が倒れたら困る」
「仕事が?」
「俺が」
私は顔を上げた。
バルグはもう別の方を見ていた。
「……何それ」
「そのまんまだ」
「意味分かんない」
「今は分からなくていい」
それ以上言わなかった。
三日間、私はセレナとバルグと記録を集めた。
王宮の支出。
各集落への配給。
狩猟隊の装備費。
食料庫。
輸入品。
そして分かった。
グラグが使った金は、単なる女遊びだけじゃない。
もっと厄介だった。
あいつは人間の王宮を見て、順番を勘違いしたのだ。
豪華な宮殿。
酒。
宝石。
美女。
派手な宴会。
それが王を偉大にするのだと思った。
「違います」
セレナが帳簿を指した。
「豊かな国だから、こういう支出が可能なのです」
「贅沢したから豊かなんじゃなくて?」
「逆です」
横でバルグが言う。
「順番間違えたのか」
「そういうことです」
私は黙った。
昔のグラグを思い出した。
獲物を子どもに回した男。
自分の腹より群れを優先した男。
「最初から馬鹿だったら、楽だったのに」
口から出た。
バルグが答える。
「馬鹿じゃなかった」
「うん」
「俺もあいつに王になってほしかった」
「うん」
それで少し救われた。
好きだった私まで間違っていたわけじゃない。
あいつは変わった。
そして私も、もう昔のグラグを待ってる場合じゃない。
群れの集会を開いた。
各集落の長。
狩猟隊長。
倉番。
長老。
冬支度を預かる者。
広場に全員が集まった。
グラグは王座代わりの高い椅子に座っていた。
人間の職人に作らせた椅子だ。
「何だ、グリナ」
私を見るなり笑った。
「まだ婚約の話か?」
「違う」
「なら何だ」
「干し肉」
「は?」
「今のお前より大事なもの」
広場のどこかで笑いが漏れた。
グラグの顔が引きつる。
「ふざけるな」
「ふざけてない」
私は帳簿を置いた。
「今年の備蓄」
もう一冊。
「去年」
次。
「王宮支出」
さらに次。
「辺境への配給」
「何の真似だ」
「説明」
「俺に恥をかかせたいだけだろ!」
「じゃあ数字が間違ってるところ言って」
「グリナ!」
「どこ?」
答えない。
私は続けた。
「普通の冬なら、春のひと月前に食料が尽きる」
ざわめき。
「嘘だ!」
「じゃあ計算して」
「狩りを増やせばいい!」
バルグが前に出た。
「冬に?」
「雪の前だ!」
「装備費削ったのは王宮だぞ」
「古い槍でも狩れる!」
「死人出してまでか?」
「王に口答えするな!」
そこでセレナが出た。
「陛下」
「セレナ」
グラグの顔に少し安堵が浮かんだ。
たぶん味方だと思ったんだろう。
「お前からも言ってやれ。これはゴブリン同士の――」
「まず訂正させていただきます」
「何?」
「私はあなたの女ではありません」
静かだった広場が、さらに静かになった。
グラグの顔が固まった。
「何を言っている」
「私は和平のためこちらへ滞在しております。婚約も結婚も承諾しておりません」
「だが、お前は俺の王宮に」
「外交上の滞在です」
「贈られてきたのだろう!」
「人間は贈り物ではございません」
もう二人の女も前へ出た。
「私もです」
「私も王の妻になる話など聞いておりません」
グラグの顔がみるみる赤くなった。
「なら、この衣装は何だ! 宝石は! 部屋は!」
セレナの目が冷えた。
「陛下が勝手に用意なさいました」
「お前たちのためだぞ!」
「頼んでおりません」
一つ。
グラグが誇っていたものが崩れた。
人間の美女を侍らせる王。
そんなもの、最初からどこにもいなかった。
セレナたちは王の女じゃない。
ただの外交相手だ。
「これは王の威信のためだ!」
グラグが叫んだ。
「そう」
私は広場の端へ合図した。
倉番たちが物を運び込んだ。
銀の皿。
酒樽。
装飾用の布。
豪華な椅子。
宝石のついた杯。
「何をしている!」
「これ全部、お前の威信なんだろ」
「触るな!」
「この椅子一つで狩猟隊の槍が何本買えたと思う?」
「グリナ!」
「この酒樽で塩が何袋」
「黙れ!」
「この銀皿で子どもの保存食が何日分」
「黙れと言っている!」
グラグが立ち上がった。
でも誰も動かなかった。
昔なら、王が立てば周りも立った。
今は誰も。
二つ目。
王の威信だと思って集めたものが、そのまま王失格の証拠になった。
長老が言う。
「王グラグ」
「長老!」
「王とは何だ」
「俺だ!」
「違う」
長老は首を振る。
「名を聞いているのではない」
誰かが言った。
「うちの集落、もう豆が減ってる」
「こっちは子どもの干し肉だ」
「槍も来てねえ」
「薬も減った」
声が増える。
グラグが周囲を見る。
「お前ら……」
誰も頭を下げない。
三つ目。
王だから従っていた民が、もう従わない。
「俺は王だぞ!」
グラグが叫んだ。
その声を聞いた瞬間。
私の中で、最後の何かが切れた。
「それしか言えなくなったんだね」
「何?」
「昔のお前なら、まず『誰が腹減らしてる』って聞いた」
グラグの顔が止まる。
「グリナ」
「私、昨日まで本当に辛かった」
「……」
「何年も好きだったから」
言うと胸が少し痛んだ。
「私を捨てたこと、今でも腹立ってる」
「なら――」
「でもさ」
私は笑った。
「今のお前より、干し肉の方が大事なんだよ」
広場に笑いが広がった。
グラグだけが笑わなかった。
「お前は俺に捨てられた腹いせで――」
「まだ自分がそこまで大事だと思ってんの?」
「何だと?」
「昨日までは大事だったよ」
私は言った。
「でも今日の私は、お前より春までの備蓄を気にしてる」
グラグが何も言えなくなった。
長老が杖を地面についた。
「群れを飢えさせる王に、群れを率いる資格はない」
各集落の長が、一人ずつ賛同した。
狩猟隊長も。
倉番も。
最後に長老が言った。
「グラグ。群れはお前を王とは認めない」
王座がなくなった瞬間だった。
グラグは立ったまま周囲を見回した。
「待て」
誰も答えない。
「俺は王だ」
さっきと同じ言葉。
今度は、誰にも届かなかった。
その日のうちに王宮の贅沢品は売却することになった。
人間側へ返せるものは返し、食料と塩と装備へ換える。
王座だった大きな椅子も運び出された。
「触るな!」
グラグが止めようとした。
でも運ぶゴブリンたちは手を止めない。
「これは俺の椅子だ!」
「王の椅子だ」
長老が答えた。
「お前はもう王ではない」
グラグは、何も言えなくなった。
私はその場を離れようとした。
「グリナ」
呼ばれた。
振り返る。
グラグがいた。
人間風の上着も、金の飾りもまだ身につけている。
でも後ろには王座がない。
人間の女たちもいない。
民もいない。
初めて、小さく見えた。
「待て」
「何」
「お前が食料庫に戻れば」
嫌な予感がした。
「何?」
「お前がまた俺を支えれば、立て直せる」
胸の奥が冷えた。
「何を?」
「国をだ」
「それで?」
「俺はまた王に――」
「やっぱり分かってない」
グラグが止まる。
「私は聞いたよね」
「何を」
「何を取り戻したいの?」
黙る。
「王位?」
「……」
「それとも私?」
グラグの口が動いた。
「両方だ」
私は目を閉じた。
少しだけ期待していた自分がいた。
もしかしたら最後くらい。
昔のグラグに戻るかもしれないって。
でも、戻らなかった。
「そっか」
「グリナ」
「昔のお前なら、そんな答えしなかったよ」
「待て」
「私がいれば王に戻れると思ってる?」
「お前は食料庫を――」
「違う」
私は首を振った。
「私がいないと王でいられないなら、それは最初からお前一人の力じゃなかったんだよ」
グラグの顔が歪んだ。
「俺たちは一緒にやってきただろ!」
「そうだよ」
「なら!」
「だから余計に駄目なの」
私は言った。
「一緒にやってきた私を、お前は王に相応しくないって捨てた」
「それは――」
「でも今、私の仕事が必要になったら戻れって言う」
「違う!」
「何が違うの」
答えはなかった。
「私はもう、お前を支える理由がない」
それで終わった。
本当に。
グラグは王位を失った。
人間の美女を侍らせる王という幻想も失った。
王宮も。
贅沢品も。
民の敬意も。
そして。
私も。
処刑はされなかった。
追放もされなかった。
新しく王に選ばれた年長のゴブリンは、グラグに古い槍を一本渡した。
「腹が減ったら狩れ」
グラグが槍を見る。
「俺に?」
「昔のお前なら知っているだろう」
新王はそれだけ言った。
その槍は、グラグが王になる前に使っていたものとよく似ていた。
昔なら誇らしげに担いだはずの槍。
今のグラグは、それをしばらく見つめていた。
結局、受け取った。
その姿を見て。
私は少しだけ寂しくなった。
ざまあみろ、とは思った。
かなり思った。
でも、それだけじゃなかった。
本当に好きだったから。
昔のグラグが消えてしまったことまで嬉しいわけじゃない。
ただ。
もう戻ろうとは思わなかった。
その後は忙しかった。
売却した贅沢品で不足していた穀物と塩を買い戻した。
狩猟隊の槍も修理した。
保存食を追加で作った。
何とか春までは持ちそうだ。
三人の人間女性にも、改めて意思が確認された。
一人は帰国。
一人は商業交渉の担当として残った。
セレナも自分の国へ戻ることになった。
見送りの日。
「本当に我が家へ来ませんか?」
セレナが言った。
「何しに」
「領地の倉庫を見ていただきます」
「やだよ」
「待遇は悪くいたしません」
「肉少ないだろ」
セレナは少し考えた。
「……否定できませんね」
「ほら」
「パンは美味しいですよ」
「旅行なら行く」
「お待ちしております」
最初は顔を見るだけで腹が立った女だった。
今は、また会いたいと思う。
「セレナ」
「はい」
「最初、嫌いだった」
「知っております」
「分かってた?」
「恐ろしい顔をされましたので」
「そっちも私のこと怖がってたじゃん」
「ゴブリンですから」
「失礼だな」
「お互い様でしょう?」
セレナが笑う。
私も笑った。
馬車が出る。
手を振るほどでもないと思ったけど、向こうが振ったから振り返した。
それから数日。
食料庫の仕事がようやく落ち着いた。
「グリナ」
後ろから呼ばれた。
バルグだ。
「何」
「飯食ったか?」
「またそれ?」
「まだ食ってない顔してる」
「どんな顔だよ」
「お前の顔」
私はため息をついた。
「あとで食べる」
「そのあとっていつだ」
「仕事終わったら」
「もう終わってるだろ」
「確認が」
「明日やれ」
「うるさいな」
バルグは私の机から帳簿を取った。
「返せ」
「今日は終わり」
「勝手に決めんな」
「この前、お前が倒れたら俺が困るって言ったろ」
私は手を止めた。
「……言ったね」
「ああ」
「何で?」
「何でって」
バルグは少し困った顔をした。
珍しい。
「お前、本当に分かってなかったのか」
「何が」
「俺がお前を好きなの」
今度は私が固まった。
「……え」
「昔から」
「え?」
「グラグと付き合ってたから言わなかった」
「待って」
「何だ」
「いつから?」
「昔から」
「だからいつ」
「お前がグラグに惚れるより前」
「嘘」
「嘘ついてどうする」
頭の中を昔の記憶が走った。
三人で狩りに行ったこと。
グラグと私が話してる横で鹿を解体してたバルグ。
王妃にすると言われた時、一瞬だけ止まった手。
婚約破棄された翌日に「飯食ったか」と言った男。
「……全然気づかなかった」
「知ってる」
「言えよ」
「お前がグラグ好きなのに?」
「……それは」
「困るだろ」
そうだった。
たぶん昔言われても困った。
私はグラグが好きだった。
バルグはそれを知っていた。
だから何も言わなかった。
「じゃあ何で今言ったの」
「聞かれたから」
「そうじゃなくて」
バルグは少し黙った。
「まだグラグが好きか?」
急に聞かれて、私は答えに詰まった。
嫌いになったのか。
全部なくなったのか。
少し考える。
「……昔のグラグは、好き」
「うん」
「今のグラグは、もういい」
「そうか」
バルグはそれだけ言った。
ほんの少し口元が緩んだ。
「何、その顔」
「別に」
「絶対何かある」
「俺にも順番ってもんがあるからな」
「順番?」
「お前が他の男好きな間に口説く趣味はない」
「……口説くんだ」
「そのうちな」
胸の奥が変な感じになった。
グラグに言われた時とは違う。
燃えるようなものじゃない。
もっとじわっとした。
安心してるところに、突然熱い石を一つ置かれたみたいな。
「今すぐじゃないんだ」
「昨日まで婚約してた女を今日口説くほど馬鹿じゃねえよ」
「昨日じゃないけど」
「似たようなもんだ」
「じゃあ何しに来たの」
「飯」
「……飯?」
「腹減っただろ」
「肉ある?」
「ある」
「何」
「猪」
「脂」
「乗ってる」
「酒」
「安いやつ」
「人間の高いのじゃなくて?」
「いらねえよ」
私は笑った。
「じゃあ行く」
バルグが歩き出す。
私はその隣へ並んだ。
昔なら。
まずグラグの予定を見た。
狩りからいつ戻るか。
会議は何時か。
宴会があるか。
王になってからは、いつもあいつを中心に考えていた。
でも今は違う。
「バルグ」
「何」
「さっきの」
「何だ」
「口説くって話」
「ああ」
「いつ?」
バルグが足を止めた。
私も止まる。
「何だよ」
「別に」
「気になるのか?」
「ちょっと」
「じゃあ、そのうち」
「何で勿体ぶるの」
「今のお前に言ったら、グラグから逃げるために俺選んだのか、自分で俺選んだのか分かんねえだろ」
私は何も言えなくなった。
こいつ。
こんなこと考えてたのか。
「だから待つ」
「……馬鹿」
「何が」
「お前の方が、よっぽど王向きなんじゃないの」
「絶対嫌だ」
「即答」
「狩りだけで忙しい」
笑った。
「じゃあいい」
「何が」
「何でもない」
また歩き出す。
王妃にはならなかった。
王にもならなかった。
昔好きだった男は、王になって変わった。
私は捨てられた。
泣いた。
腹も立った。
でも、失ったものばかりじゃなかった。
グラグの隣にいたころは見えなかった人がいた。
私自身を、王妃でも食料庫の管理人でもなく。
ただのグリナとして見ていた男が。
「おい」
「何」
「肉冷めるぞ」
「待ってよ」
少し先を歩くバルグを追いかける。
今すぐ次の恋を始めるつもりはない。
でも。
そのうちなら。
たぶん悪くない。
春まで持つ食料と。
ちゃんと働く仲間と。
腹が減った時に、一緒に肉を食べたい相手がいる。
今の私は、それで十分だった。
少なくとも。
昨日までよりは、ずっと幸せだ。




