第7話 男爵令嬢は、地獄の特訓へ連れて行かれる
【マリエンヌside】舞台の始まりは親しみやすかった
――呼ばれた瞬間、足の裏が冷たくなった。
「……マリエンヌ・フォン・ハウゼン男爵令嬢。こちらへ」
公爵令嬢エレノア・ルクレール様は、私の名を、まるで物の名前を確認するように淡々と口にした。
けれど、その淡々が、いちばん怖い。
私は制服の乱れを直し、息を整える。逃げてはいけない――そんなことは、わかっている。
足が震えても、膝が笑っても、ここで背を向けたら終わりだ。
「ここから先は、観客席ではなく、舞台の上ですわよ」
その言葉が落ちたとき、背中に向けられていた視線の温度が、一斉に変わった気がした。
私は、舞台? 私が?
エレノア様は踵を返し、学園の裏庭の奥へ歩き出す。向かう先は、誰も足を踏み入れない礼儀作法室。
私は――その後ろを、ほとんど“連れて行かれる”みたいに付いていく。
背後で、囁きが弾けた。
「連れて行かれた……」
「終わったね、男爵令嬢」
「始まったのよ。――地獄が」
悪意は、口先だけでも人を刺す。
けれど、ここで折れたら本当に“終わる”。私は口の中の唾を飲み込み、視線だけは前に固定した。
――なのに。
歩くエレノア様の横顔が、時おり、ほんのわずかに揺れるのが見えた。
冷たいままの表情のはずなのに、口角だけが一瞬、上がる。誰かを見下す笑みではない。勝利の後にだけ浮かぶ、短い、愉しげな弧。
次の瞬間には、眉間がかすかに寄って、何かを計算するみたいに遠くを見る。
そして、ふっと――ほんの一瞬だけ、頬に熱が差したような、少女みたいな表情が混じる。
……百面相だ。
普段、遠くから見上げるだけの“氷”の令嬢が、こんなふうに表情を変えるなんて。
それは怖さを増やすどころか、逆に私の胸の奥を少しだけ軽くした。
(この人も……人なんだ)
完璧で、容赦がなくて、手を伸ばせないほど高い場所にいるのに。
近くで見て初めて、息をするみたいに“考えている”のがわかる。怒っているのか、喜んでいるのか、悔しいのか――そのどれもが、きっと本物だ。
エレノア様は振り返らない。振り返らないまま、言葉だけを投げてくる。
「遅れないで。歩幅も、姿勢も、呼吸も。すべて矯正します」
矯正――その響きに、背筋がぞくりとした。けれど同時に、不思議と腹の底が据わる。
この人は、私を“玩具”にはしない。壊すなら最初から壊す。鍛えるなら徹底的に鍛える。そんな種類の恐ろしさだ。
礼儀作法室の扉が開く。中は、驚くほど静かだった。外のざわめきが届かないぶん、私の呼吸音まで大きく感じる。
エレノア様は手袋を外し、ロングスカートの裾を払って椅子に腰かけた。
「……し、失礼いたします」
私は慌ててお辞儀をする。頭を下げた瞬間、心臓が喉まで跳ねた。
「まず、礼がなっていませんわ。
頭の角度、視線の落とし方、指の添え方……一つでも甘ければ、王妃どころか女官候補にもなれません」
厳しい。冷たい。逃げたくなる。
でも――逃げない。
「は、はいっ……!」
声が上ずったのが自分でもわかった。恥ずかしい。情けない。
それでも私は、顔を上げる。目を逸らさない。ここで逸らしたら、負ける気がした。
エレノア様が、立ち上がる気配がした。
次の瞬間、私の世界は、もっと近くで、もっと厳しく作り替えられていく。
礼儀作法室の空気は、冷たいのに、妙に澄んでいた。
外のざわめきも、噂話も、ここには届かない。届くのは――私の呼吸と、エレノア様の声だけ。
「もう一度。最初からですわ」
私は言われた通りに立ち、膝をそろえ、スカートの端を指先で押さえる。
頭を下げる角度。視線の落としどころ。息を吐くタイミング。
(これが……王妃の型)
さっきまで、断罪劇の“被害者役”でしかなかった私が、今は本気で“王妃候補”として扱われている。
その現実が、怖い。
でも同時に――嬉しい、なんて思ってしまう自分もいて。
「……し、失礼いたします」
「声が震えていますわ。震えていい。けれど、震えを“見せる”のは駄目。
王妃は泣けないのではなく、“泣いても泣いているように見せない”立場です」
厳しい。鋭い。
刺さる。
なのに、その言い方には――妙な“冷たさだけではないもの”が混じっていた。
私は思わず、彼女の顔を見上げる。
エレノア様は、眉一つ動かさない。
けれど、言葉の最後が、ほんの少しだけ柔らかい。
まるで「ここで折れないで」と言っているみたいに。
(……え?)
私は、そこで初めて気づいた。
この人の厳しさは、意地悪ではない。
相手を突き落とすためじゃなく、突き落とされないための“手すり”なんだ、と。
「膝を。……そう。つま先は外に逃がさない。
体重を乗せ過ぎると、貴女の足首が先に壊れます」
足首――?
思わずきょとんとすると、エレノア様は私の足元を見て、淡々と付け足した。
「長時間、立たされます。式典も、謁見も、視察も。
姿勢が悪いと体を壊して、弱いところから政敵に嗅ぎつけられますわよ」
……政敵。
その言葉に、背筋が冷える。
けれど同時に、胸の奥がじんと熱くなる。
(身体のことまで……)
王妃教育って、こういうことなんだ。
見栄えだけじゃない。生き残り方そのものだ。
「次。カーテシー」
「はい……!」
「“はい”は一拍遅い。返事は短く、息は深く。
貴女が怖い時ほど、呼吸を浅くする。そこから崩れます」
私は、息を吸う。
深く。
胸が痛いくらい深く。
「……はい」
「よろしい」
“よろしい”――そのたった二文字に、胸が跳ねた。
褒められた、というより――認められた気がした。
(この人、本当に……すごい)
最高の王妃候補。
噂だけだと思っていた。氷の令嬢の異名も、ただ怖がられているだけだと思っていた。
でも違う。
この人は、怖いのではなく――強いのだ。
そして強いだけじゃなく、気づいている。
私が折れそうな瞬間を。
私が浮きそうな瞬間も。
……そう、浮きそう。
(私……今)
胸の奥が、少しふわふわしていた。
さっきまで震えていたのに、今は少し楽しくて。
自分が変わっていく気がして。
しかも――その変化を、王子殿下とエレノア様という二人に“見られている”。
(私、認められたんだ)
王子殿下が選んで。
エレノア様が鍛える。
そんな二人に認められたのだと思ったら、誇らしくて、胸が熱くなって――
(もっと、できるかも)
私は、ほんの少しだけ背筋を伸ばしすぎた。
“できる私”を見せたくなって、動きを大きくした。
その瞬間。
「――マリエンヌ」
名前を呼ばれた。
冷たい声。さっきよりも、ずっと低い。
「……はいっ」
「浮かれましたわね」
(え)
「貴女の今のカーテシー、余分な“見せ”が入った。
褒められた瞬間に舞い上がる。そういうところを、最初に狩られます」
狩られる――。
言葉が怖くて、でも、怖いのに――なぜか胸が痛くない。
むしろ、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「す、すみません……!」
「謝らなくていい。直しなさい」
エレノア様は、ぴたりと私の顎の高さを指先で示した。
「視線が上がりすぎ。顎が上がると、心も上がる。
王妃は、心の位置まで制御します」
私は、息を飲んだ。
(……この人、全部、見てる)
怖い。
でも――ついていきたい。
「もう一度。今度は“貴女のため”じゃない。
“王国のため”にやりなさい」
その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。
浮かれていた自分が、恥ずかしいほど浅かった。
(……はい)
声に出す前に、私は心の中で返事をしていた。
呼吸を整え、背筋を通す。
“見せる”ためではなく、“立つ”ために。
エレノア様は私の顔を一瞬だけ見て、淡々と告げる。
けれど、その淡々の底に――揺るがない約束が沈んでいた。
「……泣いても逃げても構いませんわ。
けれど、私の指導を最後まで受けきった暁には……
貴女を、誰も侮れない――本物の王妃に仕立て上げて差し上げましょう」
胸が、きゅっと縮んだ。
怖い。重い。逃げ出したい。
それでも――その言葉が、私の背中を押す。
(本物の……王妃)
“憧れ”なんて言葉で片づけてはいけない。
これは、責任だ。
私は今、ただ選ばれたのではなく――選ばれてしまったのだ。
それなのに、なぜだろう。
その言葉を口にするエレノア様を見ていると、ふと思ってしまう。
(……やっぱり、エレノア様って……)
あの第一王子殿下と、並び立つのは本来この人なのではないか。
舞台の中心にいるのは、いつだってこの二人だった。
言葉の切れ味も、沈黙の重さも、互いを測る視線の鋭さも――同じ高さにある。
(お二人、すごく……お似合いなのに)
そんなこと、私が考える資格なんてないのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
羨ましいとか、嫉妬とか、そういう名前をつける前の――ただの直感みたいなもの。
でも私は、すぐにそれを振り払った。
今の私は、“お似合い”を眺める観客じゃない。
舞台に上がった――役者だ。
「……はい。必ず、食らいついてみせます」
声はまだ震えていた。
でも、その震えは逃げたがっている震えじゃない。
エレノア様の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。
笑みではない。けれど――許可だ。
「では。始めましょうか」
私は息を吸い直し、カーテシーの型を取り直した。
今度こそ、浮かれない。
今度こそ、崩れない。
(本物になるまで……逃げない)
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