第6話 檻の中の観衆と、新しい舞台の始まり
【エレノアside】檻の中の観衆と、舞台の始まり
視線が刺さる。
けれど、そんなものにはもう慣れている。
私は、公爵令嬢エレノア・ルクレール。
生まれ落ちたその瞬間から、他人の評価と偏見という鉄格子の中で育った。
気品を保ち、完璧であり続けること――それが、私の呼吸だった。
……ただし。
今日の視線は、いつもと少し違う。
あの“断罪劇”の、まさかの展開。
私は“悪役”として舞台から退くはずだった。
なのに今、舞台の中心に引き戻され、“教育係”という鎖を手首に嵌められている。
鎖?
いいえ。鎖だと思った瞬間に負ける。
耳を澄まさずとも、ざわめきは届く。
むしろ、わざと聞こえるように話しているのだろう。
人は他人の転落が好きで、他人の再起がもっと好きだ。
「本当にあの人が、王妃教育なんて……」
「え、怖。男爵令嬢、大丈夫なの? 泣かされない?」
「泣かされるなら、先に泣く練習しないとね」
「ていうかさ、あの子が“次の王妃候補”って本気? 冗談でしょ」
「王子殿下も、結局は可愛い子が好きなだけじゃない?」
「違うわよ、あれは“見せしめ”。エレノア様に恥をかかせたいのよ」
「でも……エレノア様って恥、かく?」
「かかない。だから皆、余計に腹が立つの」
――愚かしい。
彼女たちは何も見ていない。
見ている“つもり”で、目先の形だけを舐めている。
王子が何を切り替えたのか。
私が何を失い、何を得たのか。
その重さを理解できる者など、ほんの一握り。
けれど――。
この熱を孕んだ視線の数々は、私が“観客”ではなく、“役者”に戻った証でもある。
そう。今この瞬間からが本当の幕開け。
私は静かに立ち上がり、廊下に集う生徒たちを一瞥した。
その気配に気づいた者たちは、皆、息を呑む。
無意識に背筋を伸ばし、無意識に身を引く。
言葉より先に、身体が反射する――それが、序列だ。
「……マリエンヌ・フォン・ハウゼン男爵令嬢。こちらへ」
名を呼んだ瞬間、空気がわずかに揺れた。
ざわつき、ざわめき――。
そのすべてが、私の足元に落ちる塵のように思えた。
すぐに背後から小さな足音が近づいてくる。
ためらいがある。恐れもある。
けれど――逃げてはいない音。
振り返れば、彼女――マリエンヌは制服の乱れを整え、緊張に包まれながらも前を見ていた。
不安と覚悟が同居する、まだ研がれていない石のような瞳。
私の名を呼ばれた瞬間に萎縮するのではなく、呼吸を整え直して立つ――その“立ち方”だけは、見どころがある。
――よろしい。
私は、わざと冷たく言う。
優しさは誤解を生む。
甘さは命取りになる。
「ここから先は、観客席ではなく、舞台の上ですわよ」
言い終えると同時に、私は踵を返した。
向かうのは学園の裏庭――その奥にある、かつて貴族教育のために使われていた礼儀作法室。
今は誰も足を踏み入れない。
だからこそ、余計な目も耳もない。
背後で、また囁きが弾ける。
「連れて行かれた……」
「終わったね、男爵令嬢」
「始まったのよ。――地獄が」
私は振り返らない。
雑音に意味を与えるのは、弱者の癖だ。
私が与えるのは意味ではない。
形だ。
型だ。
王妃として立つための――逃げ道のない、型。
「遅れないで。歩幅も、姿勢も、呼吸も。すべて矯正します」
言葉は淡々と。
けれど一歩目から、私はすでに“教育”を始めていた。
中へ入ると、私は手袋を外し、ロングスカートの裾を払いながら椅子へ腰かけた。
礼儀作法室は静かだ。窓の外のざわめきも、ここまでは届かない。
だからこそ――粗が、よく見える。
戸口で戸惑っていたマリエンヌが、私の視線に気づいて慌ててお辞儀をする。
「……し、失礼いたします」
――雑ね。
私はため息すら見せず、淡々と言葉を落とした。
「まず、礼がなっていませんわ。
頭の角度、視線の落とし方、指の添え方……一つでも甘ければ、王妃どころか女官候補にもなれません」
「は、はいっ……!」
声が高い。息も浅い。
恐怖で喉がきゅっと締まっているのが見える。
けれど、返事そのものは悪くない。逃げるための返事ではなく――受け止めるための返事だ。
私は立ち上がり、無言で彼女の肩と腰に手を添え、軽く姿勢を正した。
骨の位置、重心、膝の抜き方。
“美しく見せる”ためではない。生き残るための型だ。
驚いたように彼女が私を見上げた。
瞳が揺れる。唇も震える。
今にも泣きそうだ。
――けれど。
(……あら?)
泣かない。
逃げない。
私を前にしてなお、視線を逸らさず、崩れず、食らいついてくる眼差し。
怯えはある。確かにある。
だが、それ以上に――「ここで折れたら終わる」と理解している目だ。
胸の奥が、微かに跳ねた。
嫌な跳ね方ではない。
むしろ――気づきたくなかった種類の共鳴。
(……嘘でしょう)
不思議なことに、その眼差しは――
“稽古の初日”、師の前に立ったかつての私自身を思い起こさせた。
まだ、私が公爵令嬢という肩書きを鎧にする前。
まだ、冷たい微笑みを武器にする前。
まだ――第一王子を、遠くからでも眩しいと思っていた頃の。
あの頃の私は、愚かで、青くて、必死だった。
「認められたい」と思っていた。
「並び立ちたい」と、思ってしまっていた。
……そして、その“憬れ”が、どれほど残酷な形で踏みにじられるかを――
まだ知らなかった。
(……まさか、私が、こんなところで)
懐かしさが刺す。
同時に、自分でも理解できない苛立ちが湧く。
こんな感情を持っている暇はない。持つべきでもない。
だから私は、表情を凍らせたまま、声だけをさらに冷たくした。
「もう一度。今度は最初から。
あなたは“可哀想な被害者”ではなく、“王妃候補”として立ちなさい」
彼女は小さく息を呑む。
肩が震える。
――それでも、頷いた。
「……はい。お願いします」
その一言が、余計に胸をざらつかせた。
……似ている。
認めたくないほどに。
私は、手袋をはめ直しながら、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
感情をしまい込むために。
そして次の瞬間には、いつもの私に戻っていた。
「では、始めましょう。地獄の一歩目ですわ」
確かに彼女の動きは……粗い。
だが、粗野ではない。
癖はあるが、卑しさがない。
背筋に通る芯だけは、最初から折れていない。
(……なるほど。殿下が彼女を選んだ理由、少しだけ分かる気がしますわ)
素質は――ある。
いや、もっと言えば、王子殿下の言葉どおり“原石”と呼ぶにふさわしい何かを、この少女は持っている。
……少し、癪に障る。
(まさか、あの第一王子が……こんな逸材を見出すなんて)
人を見る目は、私の方が上だと信じていた。
完璧な仕立てを知り、欠点の芽を早期に摘み、伸びしろを計算して伸ばす――
その技術だけは、誰にも譲らないと思っていた。
なのに。
先に気づいたのは、あの男だった。
しかもあの男は――“見抜いた”ことを誇示すらしない。
当然のように、当たり前のように、私に言ったのだ。
『君が目を付けただけあって、彼女は原石に違いない』と。
(……っ)
知らず、指先に力が入った。
不快感――それだけではない。
まるで自分の領分に土足で踏み込まれたような感覚と、
もっと質の悪いものが、胸の奥でちりりと焼ける。
あの男は、誤解している。
私が――マリエンヌの素質に“最初から”気づいていたと。
だからこそ彼女を「教育係」に据えたのだと。
私なら当然、見抜いていて、当然、同じ結論に至っているはずだと。
……違う。
私は、気づいていなかった。
少なくとも、“殿下ほど早く”は。
その事実が、悔しい。
悔しいのに――恥ずかしい。
同格として扱われたことが嬉しいわけではない。
むしろ、その同格扱いの前提を、私は自分で裏切っていた。
「あなたは当然わかっている」と信じられていたのに、
実際は、そこまで達していない。
(……何て滑稽)
そして、それを突きつけてきたのが、よりにもよって――第一王子であることが、なおさら厄介だった。
胸の奥が、古い記憶の痛みでざわつく。
まだ私が“冷たい令嬢”になる前。
まだ、あの男を――王子という肩書きではなく、眩しい存在として見てしまっていた頃。
あの頃の自分が、今さら顔を出す。
「王子様が戻ってきた」とでも言いたげに。
馬鹿馬鹿しい。
けれど、その気恥ずかしさを、誰にも悟られたくない。
だから私は、表情を動かさない。
声も、冷たく整える。
――完璧な公爵令嬢の仮面のまま。
けれど、だからこそ。
(仕上げてやるわ。この娘を)
適当なところで妥協して、王妃の椅子に座らせたりはしない。
私が認める“完璧”を体現した者だけが、王の隣に立つ資格を得る。
その覚悟があるならば――この娘を、私が鍛えてやる。
鍛え上げる。
完璧に。
誰が見ても否定できない形に。
そして――
殿下の誤解が“結果として正しかった”と証明してみせる。
それが一番、腹立たしくて、一番、痛快だ。
「マリエンヌ。泣いても逃げても構いませんわ」
一瞬、彼女の肩が揺れた。
だが、視線は逸れない。
「けれど、私の指導を最後まで受けきった暁には……
貴女を、誰も侮れない――本物の王妃に仕立て上げて差し上げましょう」
戸惑ったように眉を寄せた彼女だったが、すぐに頷いた。
「……はい。必ず、食らいついてみせます!」
――いい目をしている。
私は、ほんのわずかに口元を綻ばせた。
綻びではない。
“許可”だ。
「では――始めましょうか。観客のいない、本当の舞台を」
さあ、よく見ていなさい。
――これは、私エレノア・ルクレールの、新たなる作品の始まり。
そして同時に、誰にも見せない私の敗北を――勝利に塗り替えるための幕開けよ。




