第4話 男爵令嬢は、狼狽えながらも前を向く
【マリエンヌside】魔法みたいな現実の話
……えっ?
誰かが呟いた。
けれど、それは他の誰かじゃない。
私の中に浮かんだ言葉が、そのまま声になって零れたものだった。
王子殿下の声は、確かに耳に届いていた。
よく響く、冷静で、どこか演技じみた――王家の声。
いつもなら、その声だけで「今は黙るべきだ」と分かる。
分かるのに――今日は、内容が理解できなかった。
「最高の王妃候補なら、至高の王妃を育てられる」
“最高”って……誰が?
それに“至高”って――いったい何のこと?
私、じゃない。
私にそんな言葉が当てはまるはずがない。
殿下の視線の先にいたのは、ただ一人――
氷の令嬢と噂される、公爵令嬢エレノア・ルクレール様。
(ま、まさか……エレノア様が……わ、私を……?)
頭の中が真っ白になる。
足元がぐらりと揺れた気がして、私は必死に膝を固めた。
倒れてしまったら――全部、終わる。
誰に何と言われても、私は“弱い娘”として片づけられる。
それだけは、嫌だった。
この場に立っているのは、断罪されるはずのエレノア様。
私は、無実が証明されて、殿下に庇われて終わる。
……ただ、それだけのはずだった。
でも今。
私の目の前に立っているのは、いつもと変わらぬ完璧な姿勢のエレノア様だ。
背筋の角度、手の重ね方、顎の引き方。
どこを切り取っても“公爵家の令嬢”で、私なんかとは別の世界の人。
それなのに――
彼女は、目を伏せていた。
伏せた瞳の奥で、何かを飲み込んでいるのが見えた。
怒り? 屈辱? それとも……もっと冷たい何か?
私は怖くて、視線を逸らしかけた。
でも、逸らさなかった。
ここで目を逸らしたら、私は一生、自分に負ける。
そして、その唇が静かに開いた。
「……してやられた」
たった一言。
でも、それはあまりにエレノア様らしくなくて……
それでいて、あまりにもエレノア様の本音に思えて……
私の胸に、何かがぽとりと落ちた。
(――あ)
同情でも、安心でもない。
もっと現実的な感覚。
……私は今、“勝った”わけじゃない。
選ばれたわけでもない。
ただ、舞台の上に置かれただけだ。
置かれたなら――立つしかない。
喉が鳴る。息が浅くなる。
それでも私は、唇を噛まずに、ゆっくり息を吸った。
震えは消えない。消えないまま、抑え込む。
私はまだ、何も知らない。
礼儀作法も、政治も、王妃の責務も。
でも――“ここで倒れない”ことだけは、出来る。
だから、私は小さく口を開いた。
声が裏返らないように、言葉を選ぶ。
「え、エレノア様……?」
呼びかけた瞬間、心臓が跳ねた。
何を言われるか分からない。
冷たい言葉で刺されるかもしれない。
それでも――呼んだ。
逃げないために。
自分の足で立つために。
彼女は、いつもなら遠くから見ているだけの存在。
近づくことすら憚られる――眩しすぎる人。
けれど今、目の前の彼女は、ほんの少しだけ揺れていた。
揺れて、そして――揺れを隠そうとしている。
その瞳が、こちらを向く。
怖い。
喉の奥がきゅっと縮んで、声が出なくなる。
それなのに、不思議と目を逸らせなかった。
だってそこにいたのは、
“仮面の令嬢”ではない。
誰にも見せないはずの、素のエレノア様だったから。
完璧に整えられた姿勢のまま、ほんの少しだけ息が乱れている。
唇の端が、笑っているようで笑っていない。
勝者の余裕ではなく――負けを飲み込むための微笑み。
私は、そんな表情を初めて見た。
(……綺麗だ)
美しいから、ではない。
崩れそうなものを崩れないふりで支えきる、その意地が――眩しい。
厳しくて、妥協を許さなくて。
誰の味方でもない顔をして。
それでも――正しいことは正しいと言う人。
あの日。
私が間違って責められたとき、最後まで不自然さを指摘してくれたのは彼女だった。
誰もが見て見ぬふりをした中で、ただ一人。
嘲らず、媚びず、目を逸らさずに。
だから私は、怖いのに、逃げたくならなかった。
逃げれば楽なのに。
その楽に、彼女はきっと軽蔑を向ける。
……そして、私も、そんな自分を許せない。
エレノア様は策を巡らせる。
冷たく、鋭く、容赦なく。
けれどその冷たさは、相手を痛めつけるためではなく――
世界を“形”にするための冷たさだ。
理不尽を理不尽のままにしないために、刃を研いでいる。
……それって。
王子殿下が、あの壇上で急に“別の人”になった瞬間と、どこか似ている。
正しさを語るのに、綺麗事だけでは届かないと知っている顔。
それでも、正しさを捨てきれない顔。
私はずっと、王子殿下に憧れていた。
誰に笑われても、王子であろうとする姿に。
けれど今、胸の奥がざわめくのは――同じ種類のものを、目の前の人にも見つけてしまったからだ。
エレノア様は、私の視線を受け止めきれずに、ふっと目を伏せた。
その仕草が、なぜか刺さる。
弱さではない。
――自分の中の何かを、噛み殺している。
(……同じなんだ)
口には出せない。
出したら、きっと彼女は嫌がる。
そういうところまで含めて、分かってしまう。
それでも私は、息を整えて、もう一度まっすぐに彼女を見た。
折れない代わりに、しなる。
しなって、ここに残る。
「エレノア様……」
呼びかけた声は、小さかった。
でも――逃げない声だった。
「いいえ、大丈夫よ。少し、誤算があっただけ」
静かで、冷えた声。
けれど、ただ冷たいだけじゃない。
折れない芯が、言葉の奥に通っていた。
誤算――。
それは、王子殿下が舞台を覆したということ?
それとも、私みたいな“取るに足らない娘”が、中心に引きずり出されたということ?
どちらにせよ、これはもう――台本どおりの断罪劇じゃない。
誰かが書いた筋書きではなく、今この場で作られていく“現実”だ。
「さあ、まずは正しいカーテシーから始めましょうか。
あなたが王妃となるなら、“私のやり方”でなければ通用しないもの」
胸が、どくんと跳ねた。
“王妃”。
そんな言葉、私の人生に関係があると思ったことすらない。
けれど今のエレノア様の声は、皮肉でも脅しでもなく――
「決定」を告げていた。
この人は、本気だ。
私を“育てる”つもりなのだ。
エレノア様が、ふっと微笑んだ。
優しくもなく、冷たくもない。
それはまるで――演奏の合図を出す指揮者みたいな微笑みだった。
甘やかさない。けれど、切り捨てもしていない。
ただ「始める」と言っている。
気づけば、言葉が口から零れていた。
「……はい。ご指導、よろしくお願いいたします」
――私、今……何て言ったの?
断罪されていたはずの方に。
ついさっきまで、遠くから見上げていただけの人に。
教育を“お願いする”なんて。
怖い。
きっと、ここから私は何度も恥をかく。
何度も間違えて、叱られて、泣きたくなる。
でも――。
ここで逃げたら、私は一生、あの壇上の外側に戻る。
泣いても足掻いても、誰の物語にも関われない。
脇役にすらなれないまま、終わる。
それだけは、嫌だった。
王子殿下が、なぜ私を選んだのか。
まだ分からない。
分からないのに――
不思議と、あの方の“間”が頭から離れない。
空気を切り替えた一拍。
正しさを口にしながら、正しさだけに逃げなかった顔。
そして今、目の前のエレノア様も同じだ。
冷たいのに、捨てない。
厳しいのに、投げない。
その矛盾を――矛盾のまま抱えて進む人。
私は、その矛盾に、なぜか惹かれてしまう。
今、私の人生は確かに変わり始めている。
夢でも幻でもない。
魔法みたいでいて――これは、現実の話だ。
そして。
胸の奥が、ほんの少しだけ、わくわくしているのは――
次の幕の台本が、まだ誰にも読めないから。
……きっと、それだけじゃない。
怖いのに、逃げない自分を、私は初めて見ているのかもしれなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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