第一話 断罪劇の朝、王子は破滅を見る
【王子side】断罪劇場のバグ発生
学園ホールに、ヒールの音が静かに響き渡る。
石造りの床が、音をやけに冷たく反響させた。
「エレノア・ルクレール公爵令嬢。お前の悪行は、すでに明らかだ」
よく通る声だ、と周囲は口を揃える。
――俺自身も、そう思う。少なくとも“今この場”の俺は、堂々として見えるはずだ。
だがそれは、生来の自信や、王族として鍛え抜かれた発声だけの賜物ではない。
もっと単純で、情けない理由がある。
単に――何度も、何度も、リハーサルを重ねたからだ。
(賢王なら、即興でこの程度はやってのけるだろうな)
ふと脳裏をよぎるのは、歴代王の逸話だ。
冷徹な覇王、慈悲深い賢王、苛烈な改革者。
――いつだって俺は、表面だけが威勢よくて、中身が追いつかない。
だから俺は“台本”に縋る。
台本通りに言えば、台本通りに見える。
王子らしく、王子として、失点なく――少なくとも「凡庸」と嘲られずに済む。
これは断罪劇。
俺が主役。彼女が悪役。観客は、王立学園の貴族たち。
役を演じ切ることも、王族の務めだ。
だからこそ、筋書き通りの舞台で、俺は予定通りの台詞を朗々と告げていく。
「婚約者であるこの私を差し置いて、他の令嬢を貶めようとし――」
……にもかかわらず。
正面に立つエレノアは、微動だにしない。
睫毛の影に伏せられた瞳は、感情の色を一切浮かべず、ただ淡々とこちらを見上げている。
氷の彫刻みたいな美貌。わざと“温度”を落としているのが、逆に分かるほどだ。
(……くそ。見下しやがって)
実際、見下されている。
それを感じ取ってしまう程度には、俺の自尊心は繊細で、面倒だ。
――完璧な役作り。皮肉なほどに。
(ふん……綺麗に演じやがって)
いや、違う。
“演じている”のは、俺の方かもしれない。
だが、俺は知っている。
この女が、何を考えているかを。
表向きは俺に忠実な婚約者を演じつつ、裏では静かに、そして確実に、第二王子との縁談を成立させようとしていた。
証拠はない。証人もいない。
冷静に考えれば、ここで断罪に踏み切る材料としては薄い――薄すぎる。
それでも。
俺の“勘”は告げている。
……いや、勘と呼ぶのは卑怯だな。
彼女の目線の置き方、沈黙の選び方、こちらを怒らせる距離感――そういう細部が、同じ結論を指している。
そして、弟――かつては俺を慕っていた、あの可愛かった弟の言動が、俺の疑念を肯定している。
俺の前では曖昧に笑い、彼女の名が出た途端に言葉を選び、否定だけはしない。
(そうだ。そうに違いない)
……読みが浅い?
短絡的?
分かっている。分かっているが……
どうせ正義なんて、後からついてくる――勝った方に。
……青い理屈だと分かっている。
それでも、王族は……いや、俺は、ここで失点するわけにはいかないからだ。
歴代の賢王なら、ここで勝つ。
覇王なら、ここで叩き潰す。
なら、俺も――せめて“王子として”勝ったように見せねばならない。
そう。この女は、俺を踏み台にしようとしていた。
だから今日の舞台も、彼女にそれをさせないための装置だ。
断罪され、婚約破棄された“哀れな公爵令嬢”として同情を集める。
だが、こちらにも台本がある。
彼女の、そんな安っぽい作戦には乗るつもりはない。
先手を打って、彼女を断罪し、王妃としてふさわしくないことを明確にし、その場で涙ぐむ男爵令嬢を救い上げる。
――俺の株はうなぎ登り。
全員納得のハッピーエンド。
先んずれば人を制す。
……そう、なるはずだった。
だがその瞬間、彼女の顔が、あの微動だにしなかった氷の表情が……うっすらと唇を持上げた。
その冷たさが、まるでこう言っているみたいだった。
あなたって、結局、台本がないと立てないのね。
嘲笑でも罵倒でも無く、事実を皮肉げに突きつけるだけの微笑。
かっと、頭に血が上がった。
こめかみが脈打ち、視界の端が細くなる。
(……やめろ。ここで怒鳴ったら、俺は“凡庸な王子”になってしまう)
――その瞬間。
脳髄を叩き割るような閃光が走った。
息が詰まる。
こめかみに感じる痛みと同時に、自分の指先が痺れていることに、ようやく気づく。
視界が白く弾け、目の前の光景が二重に揺らいだ。
倒れる――男爵令嬢。
成人し、磨かれたように美しくなった彼女が、何の前触れもなく崩れ落ちる。
伸ばした誰かの手は届かず、床に打つ音だけがやけに鮮明に響く。
次の瞬間、燃える王宮。怒号を上げる民衆。
そして――玉座から引きずり下ろされる、俺自身。
(……っ!? 何だ、今のは……!)
胸が締め付けられるように痛い。
さっきまで確信していたはずの“断罪劇”が、一気に薄っぺらな紙芝居に変わった。
……いや、違う。
薄っぺらかったのは、今までの「現実」そのものだ。
――理解した。
俺は、未来を知ってしまったのだ。
このまま婚約を破棄すれば、公爵家は黙っていない。
だが代わりに男爵令嬢を王妃に迎えれば、実績も後ろ盾もない彼女を盾に、第二王子を旗印にした蜂起が起こる。
内乱は避けられず、王政は崩壊する。
破棄しない場合?
これだけ人を集め、これだけ言葉を並べておいて「何もありません」は通らない。
それは即ち、私の失点。
失点は、次の一手を奪う。――未来がそう告げている。
……つまり、どちらを選んでも破滅。
用意されていた盤面は、最初から詰んでいた。
(ふざけるな。冗談じゃない)
気づけば口角が、勝手に歪んでいた。
笑ったのではない。
笑うしかないほど、状況が悪い。
そして――ふと気づく。
エレノアが、こちらを見ていた。
氷のような瞳に、ほんのわずかな動揺が走る。
……察したな。
“私”が何かを得たと。
いいだろう。ならば、予定変更だ。
「……と言いたいところだが、私の側にも問題があった」
場が、止まる。
台本が破られた音が、確かにした。
「男爵令嬢を叱った。――それは否定できない。
だが、あれは罪ではない。未熟さだ。教育の未熟さ、理解の未熟さ……私の、だ」
ざわめきが起こる。
困惑と、期待と、そして一部の失望。
私は視線だけで、男爵令嬢を確かめた。
彼女は泣いていなかった。
唇は震えているのに、目だけは伏せない。
助けを求める目ではない――“ここで終わりたくない”という目だ。
磨かれる前の原石。
それでも、光り方だけは誤魔化せない。
「君にすれば、見ていられなかったのだろう。
王子の傍にいるなら、それなりの礼節は必要――そこは認めよう」
ざわめきが走る。
“認めた”。その一点だけで、空気が揺れるのが分かった。
「実際、君は叱責はすれど、危害は加えなかった。……事実だ。
取り巻きや便乗犯の振る舞いまで、君の罪として束ねるのは――公平ではないな」
私はわざと、そこまで言い切った。
(ここで否定されるなら、誰が否定する?)
誰もが薄々感じていた“穴”を、先に私が口にする。
そうすれば、この場でその穴を突ける者は――いなくなる。
――一拍。
言葉を切るのは、もはや意識の領域ではなかった。
沈黙が、勝手に客席の想像を整える。
「王子が公爵令嬢を庇った」のではない。
「王子が公平を定義した」のだ。
「だが――その正しさは、誰かを焼く正しさでもある。
だからこそ、私は止めるべきだった」
男爵令嬢の喉が、小さく鳴った。
言葉を飲み込み、しかし踏みとどまる。
その踏みとどまり方が、凡庸ではない。
ただの“守られる花”ではなかった。
痛みを知ってなお、折れずに立とうとする芯がある。
磨かれる前の原石――いや、磨けば刃にもなる。
私は、確信した。
どうやら、過去の私は拾い物を見つけていたらしい。
そして私は、心の中でだけ――「俺」への評価を、ほんの少し上方に修正した。
「……公平、ですか」
エレノアの小さな言葉が、思った以上にホールに響いた。
冷たい硝子が鳴るような、澄んだ声。
「随分、ご都合の良い言葉ですね」
「都合が良い、か。……確かにそう言われても、私は言い返せない」
あっさり認めたことで、空気が一段跳ねた。
反論を期待していた貴族たちの呼吸が、揃って止まる。
視線が集まる。
だがそのほとんどは、戸惑いと疑問――そして、次に何が起こるのかを見届けようとする期待を孕んでいた。
私は、その視線を避けない。
避ける必要がない。
――もう、台本の外に立っている。
「王族ともなれば、親しく付き合うにも制約がある。
王族にふさわしくなるには、生まれながらの教育が要る。……君の言い分は、まさにその通りだ」
私はあえて、大げさな身振りで両手を広げた。
観客に向けてではない。
“場”そのものを抱え込むように。
「単に可憐で才気があるだけでは務まらない。
むしろ私は、それを指摘し、建前だけでは成り行かない現実を教えるべき立場だった」
ざわめきが、納得に変わりかける。
私は、その瞬間を逃さずに掴む。
「なのに――そんな重要なことに気づかず、感情のまま叱責を許した。
……君が私に愛想を尽かすのも、無理はない」
言葉を切った。
沈黙が、拍手の代わりに空気を整える。
視線が、いっせいに私へと収束する。
その中で――唯一、彼女だけが目を伏せた。
エレノアは動揺していない“ふり”をしている。
いや、正確には――動揺を隠すために、視線を落としている。
見上げれば、こちらの意図を認めることになるからだ。
「だが、同時に君は――認めたのだろう?」
私は、彼女を追い詰めるように言わない。
淡々と、事実だけを積み上げる。
逃げ道が塞がるのは、声を荒げた時ではない。
論理が“形”になった時だ。
「君が本気で見限ったなら、義務を果たすだけでいい。
婚約者は私だ――それだけの顔をして、何も言わずに終わらせればいい」
ホールが、静まり返る。
「それなのに君は叱責した。
君自身が、彼女を“ふさわしい器”だと見たからだ。
違うか?」
エレノアの指先が、わずかに揺れた。
視線は上がらない。
上げれば負けだと――彼女だけが、分かっている。
「――ならば、君が育てればいい」
その言葉が落ちた瞬間、空気が反転した。
断罪の場が、突然の任命式に変わる。
誰かが笑うより先に、誰かが息を呑む。
それが“決定”の音だった。
「最高の王妃候補なら、至高の王妃を育てられる。
……そうだろう?」
私は、ゆっくりとエレノアへ歩み寄る。
近づくほど、彼女は目を上げない。
氷の仮面のまま、わずかに顎だけを引く。
――してやられた。
言葉にしない敗北が、そこにあった。
「私は、君に対して酷い男だった」
距離を詰めた声は、よく通るのに、なぜか低い。
演技ではない。
今の私は、聞かせる相手を選んでいる。
「だから……君が育て上げたその時に、私の責任で、君との婚約を破棄しよう。
哀れな間抜けかもしれないが――その程度の矜持は、まだ残っている」
エレノアは、答えない。
答えられないのではない。
答えれば、この場の“物語の主導権”を私に渡したと認めることになるからだ。
そして私は知っている。
彼女は、そこまで浅くない。
そして私は、彼女の耳元へ唇を寄せ、誰にも拾えない音量で囁いた。
「……こちらから言い出すよう、仕向けるとは。大した策士だな、君は」
エレノアの睫毛が、ほんの僅かに揺れた。
視線は合わない。合わされない。
――それが答えだった。
踵を返し、今度はあえて周囲に届く声量で、最後にひと言を落とす。
「君が目を付けただけあって、彼女は原石に違いない。……良い教育を頼んだよ」
ざわめきが、遅れて追いすがる。
私はそれを背に受けながら、ホールをあとにした。
背中に刺さる視線は、あの女のものだ。
だが――さっきまでの“見下し”の温度ではない。
氷の皮膜の下に、熱が潜んでいる。
(操られていた……のか? 違う。操らせていたつもりだったのは、向こうだ)
胸の奥で、何かが跳ね上がった。
私が、私の言葉で舞台をひっくり返した。
その事実が――たまらなく愉快で、危うい。
だが同時に、私は確信している。
エレノア・ルクレールは、これで終わる程度の人間ではない。
彼女は冷たい。冷たいまま動ける。
怒りで失敗するような女ではない。
一度負けたからこそ、次は“負けない形”で刺してくる。
――だから、浮かれるな。
ここからが本番だ。
これは断罪ではない。
王国の未来を懸けた、新しい劇の第一幕。
そして次の幕で、こちらが主役でいられる保証など――どこにもない。




