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旅行のはずが異世界に放り込まれたオカン―境界を歩く騎士と、ほどけない問い―  作者: 壮月彩
第2章 雪解けの村前編—子供の輪—

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第9話 線香の匂い

 私は、この世界に来る前の自分を、ありありと覚えている。


 住んでいた家。

 歩いた街角。

 会った人の声。


 思い出は消えずに、いまも胸の奥に残っている。


 ここにある身体は別のものでも……。

 私の時間だけは、あの日々から途切れていない。


——あの夜も、そうだった。


 畳の目をなぞるように、夜の静けさが部屋に沈んでいた。

 線香の匂いが、まだ新しい。甘いようで、喉の奥にだけ残る匂いだ。


 後飾りの前に、ひとり座る。

 座布団の端に膝を寄せると、関節が小さく鳴った。痛みというほどではない。


 けれど、息が切れるまで子どもたちと遊びまわったあの日々が遠くなったことだけは、確かに分かる。


 小さな灯りに照らされた写真の中で、夫はいつもの顔をしていた。

 口元は控えめなのに、目だけが先に笑う。照れ隠しの癖だ。


 供えた水は、さっき替えたばかりなのに、もう冷たい。

 湯呑みに茶を注ぐ手が、ほんの少し震えた。老いのせいか、ここ数日のせいか。どっちでもいい。


「…… 子どもも巣立って、あんたまで先にいなくなって」


 言葉にした途端、部屋がいっそう広くなる。

 声が畳に落ちて、どこにも届かない。


「これからを考えようとすると、手が止まるわ」


 夫が答えるはずもない。

 分かっているのに、耳だけが待ってしまう。


 待ってしまう自分が、情けないようで、可哀想でもあった。


 後飾りの横の棚には、家族写真がそっと置かれていた。

 子どもたちがまだ小さくて、全員で笑っている。


 誰かを抱え、誰かの手を引き、誰かに呼ばれている……そんな瞬間の写真だ。


 あの頃は忙しくて、腹が立つことも多くて。

 でも今思えば、腹が立てるだけ元気だった。


 座っていると、台所の方で冷蔵庫が小さく鳴った。

 家が生き物みたいに息をしている。


 でも、その息は私ひとりのためにある。


 線香を一本、新しく立てる。

 火をつけて、ゆっくりと消す。


 煙が細く立ち上り、天井の暗さへ溶けていった。


 立ち上がろうとして手をついた拍子に、紙が指先に触れた。

 今日、ポストに入っていたチラシだ。


 畳の上に置いたまま、片づける気にもなれなかった。


 端が少し折れている。

 郵便受けに入れるとき、押し込まれたのだろう。


 こういう小さなところに、暮らしの乱れが滲むのだと気付く。

 片づける人がいなくなったのだ。


 チラシには、大自然が売りの国が印刷されている。

 緑と空の写真が、やけに眩しい。


 眩しさが、今の部屋の暗さをいっそう濃くした。


「旅行か……。

あんたが身体悪くしてから、めっきり行ってないねぇ」


 チラシを見つめているうちに、記憶がひとつ、するりとほどけた。

 写真に引き寄せられるみたいに。


 牧場の匂い。子どもが走る足音。

 夫が「危ないぞ」と言いながら、自分も一緒に走っていた背中。


「覚えてるかい?

子どもらが小さい時、牧場に行ったろう」


 返事はない。けれど、言葉を置けば、夫がそこにいる気がした。

 写真の中の顔に向けて、独り言を続ける。


「バター作ったのに、チーズだと思って丸かじりしてさ……」


 笑い話のはずなのに、目尻が熱い。

 こぼれないように瞬きをする。


 それでも、涙はちゃんと勝手に出る。


「あの時の顔ったら。もう、ね……」


 家族写真へ視線が移る。

 この家で重ねた日々が、そこに詰まっていた。


 子どもが巣立ってからは、夫と二人きり。

 「静かでいいな」なんて言いながら、テレビの音だけ流して、二人で茶を飲んだ。

 その静けさは、いつでも隣に人がいる静けさだった。


 今の静けさは、違う。


「……湿っぽいのは、いかんね」


 言い聞かせるみたいに呟いて、立ち上がる。

 寝室へ向かう廊下の板が、ぎしり、と鳴った。


 家の中に残る音が、それだけになる。


 ひとりの家は、こんなにも響くのか。

 嫌でも、分かってしまう。


 寝室の灯りをつける。

 ベッドの脇に置いた時計が、秒針を刻む。

 それがやけに正確で、腹が立つ。

 時間だけは、誰の都合も待ってくれない。


 明かりを消した。暗闇がすぐに満ちる。

 手探りでベッドに横になった。

 目を閉じても、部屋の輪郭がまだ消えきらない。


 暗闇の中で、さっきのチラシがふと浮かぶ。

 深い緑。ひらけた空。

 胸の奥のどこかが、ほんの少しだけ持ち上がった。


「……旅行も、いいかもしれないねぇ」


 言った途端、笑ってしまう。


 夫に言ったのか。

 それとも、この部屋に投げたのか。


 次の瞬間、白い光が押し寄せた。

 まぶたの裏まで白く染まり、身体の内側が透けていくような感覚がした。


 白の中に、さっきのチラシの写真だけが一瞬、焼き付いた。


 それが、なぜか手を伸ばせば届きそうで。

 届くはずがないのに、届いてしまいそうで。


 境目がほどけて、音が遠ざかり、身体の輪郭さえ薄れていく。

 畳も、線香も、夫の写真も、全部が白の中へ引きずられていく。


 それでも最後まで残ったのは、あの緑だった。空だった。


 そして——


「来い」


 知らない声と同時に、世界は真っ白に反転した。

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