第8話 森の中のひととき
教会からそう離れていない場所で、子どもたちは走っていた。ルシアも、その輪の中にいる。
冬の冷たい風が頬を撫でる。
足が自然と前に出る。息が白く弾む。
子どもたちは笑い、転び、また立ち上がる。
その軽さが、今のルシアにはありがたかった。
考える前に、身体が動ける。
「特別に秘密基地、教えてあげるね!」
「ほんと?やった、楽しみ!」
ルシアは、子どもたちに混ざって走った。
泥団子の次は、地面に線を引いて、片足で跳ぶ遊び。
声を合わせなくても、笑いだけが揃った。
いつの間にか……ではない。
走っているあいだだけ、“よそ者”だという感覚が、少し薄れた。
少なくとも、この輪の中では。
子どもたちに手を引かれ、秘密基地へ向かって森を進む。
前を行く子に、後ろの子が声を投げた。
「レナ、待って!」
呼ばれた子が、ちらりと振り返る。
黒目のはっきりとした瞳だけが、森の薄い光を拾った。
「どうしたの?」
「こっち、見て」
レナは戻ってきて、子どもたちが指差す方へ視線を向けた。
「……なにしてるんだろ」
森の入り口からそう離れていない場所に、男が二人いた。
踏まれて黒ずんだ雪の上で、向かい合っている。
次の瞬間、声がぶつかった。
低い声。短い言葉。
笑いとは逆の温度。
ルシアは思わず足を止めた。
子どもたちは反射みたいに息を止め、木の陰へ滑り込む。
立ち聞きをするつもりはなかった。
けれど、ここで「帰ろう」と言えば、さっきまでの弾んだ空気が、いきなり萎む。
だからルシアは、黙ってその場に留まった。
子どもたちの背中が、視界の端で小さく揺れている。
向かい合っていた内の一人は中年の男。頬が風に荒れて赤く、顎に無精ひげが残っている。
もう一人は若い男だった。目の下の影が濃く、寝不足をそのまま顔に貼りつけたような目をしていた。
「今朝の花だ。……覚えてるか?」
中年の男は掌を開いた。
そこに、くしゃりと潰れた花びらが数枚あった。
声は低い。だが、刃があった。
「俺が片付けたやつか」
「ルードスクリーンの前だぞ!」
「だから片付けた。飾りは、要らない」
若い男は肩をすくめた。
「……片付け方があるだろ」
中年の男が低く言った。
言葉は静かでも、互いに引かない。
木の陰で息を潜めていた子どもたちが、口元を寄せた。
「また喧嘩してる~」
「前より減ったんだけどね」
「なんで大人って難しい話ばっかりするんだろうね」
子どもたちは顔を見合わせて、そろって眉をひそめた。
「やれやれ」とでも言いたげな顔だ。
ルシアは小さく息をつく。
ぶつかっているのは、どちらも譲りたくないから……。というより、譲り方が分からないからだ。
それでも子どもたちには、ただ怖くて、面倒なだけに見える。
ルシアはその顔をちらりと見て、口元だけで笑った。
「そうなぁ。ちゃんと悩んでるんやろうねぇ」
子どもたちとルシアがそんな話をしていると、女性が足早に現れた。
「あなた、やめて」
中年の男の妻だった。
女性は迷うことなく歩み寄り、二人の男の間にすっと割り込んだ。
「その話は、もう司祭様の前で済んだはずでしょう。
これ以上声を荒げて、何が残るの?」
女性は言いながら、木の陰へ視線をやった。
そこに小さな気配が固まっているのを見て、声の角を落とす。
「……子どもたちに聞かせたい話じゃないわ」
女性の言葉に、男たちの勢いが一段落ちた。
子どもたちがいることに気づいていなかったのだろう。
驚いた顔で、木の陰へ視線を向けた。
子どもたちは、見つかったことに気づいて、息を止めた。
ひとりが半歩だけ後ずさり、枝を踏みそうになって慌てて足を引く。
女性が声の温度を戻して言った。
「ほら、もう行くよ」
それぞれ、何事もなかったふりをして帰っていく。
ルシアはその背中を見送りながら、小さく息をつく。
「……旅行のつもりやったんやけどなぁ。
揉め事込みやったな」
「りょこー?」
木の陰から、子どもたちが小首をかしげて覗き込む。
「んや、なんでも」
ルシアは笑って手を叩いた。
「じゃ、いこっか!」
さっきの雰囲気とはうってかわって、その明るい声が号令みたいに響く。
その一言で、子どもたちの肩から力が抜け、ぱっと表情が変わった。
ルシアと子どもたちは、改めて秘密基地へ向かった。
秘密基地は、子どもでも運べるくらいの細い木を組んで作られていた。
枝の隙間から光が漏れて、冬の影がまだらに揺れている。
入口は低い。
大人がしゃがんでようやく入れるくらいだ。
ロルフの肩幅では、ここでつかえてしまうだろう。
ルシアはそれを思い浮かべて、口元をゆるめた。
子どもたちは順番にしゃがんで、秘密基地に潜り込んでいく。
「レナ、次だよ」
奥から声がして、レナが小さく頷いた。
レナの口の端だけが先に笑う。
肩をすぼめ、枝の隙間へ身体を滑り込ませながら、ぽつりと言う。
「……ここ、大人来ないから。たぶん」
その声は小さいのに、言い切りだけは妙に強かった。
レナは口を閉じると、一度だけ背後を確かめる。
誰も来ていないと分かると、肩の力をほんの少し抜いた。
それでも足は止めず、秘密基地の奥へ進んでいく。
中はさらに狭く、横幅も子どもがかろうじてすれ違える程度しかない。
「お姉さんもおいで!」
子どもに言われるまま、ルシアは身をかがめて奥を覗いた。
それから膝をつき、レナの後ろについて中へ入った。
「ここでね、おままごとできるようにしてるの」
秘密基地の奥には、小さな台所があった。
平たい石が皿みたいに並べられ、枝を束ねたものが箒のように立てかけてある。
小さな三角のブナの実と乾いた葉っぱが、鍋の中身の代わりだ。
「ほー、よう考えてあるなぁ」
「ふふっ!
お姉さんなのに、なんでおばあちゃんみたいな喋り方なの?」
その言葉で、ルシアはふっと我に返った。
この身体に、この口調は、確かにちぐはぐだ。
ロルフが何も言わないから、ルシアもあまり気にしていなかった。
——自分がもう、“あの頃の身体”じゃないことを。
「お姉さんがいた所では、みんなそんな喋り方なの?」
「ジジババはこんな喋り方が多いんやないかなぁ」
「お姉さんなんか不思議ね?
旅人って聞いたけど、どこから来たの?」
子どもの質問は容赦がない。
ルシアは言葉を探した。だが、うまい答えは見つからない。
口を開きかけて、閉じる。
代わりに、胸の奥の“前の時間”が、じわりと浮かび上がった。
「……」
子どもが首をかしげる。
「こことは違う世界って言ったら、どうする?」
ルシアは微笑みながら、ありのままを答えた。
子どもたちは一瞬だけ目を丸くする。
「えー!なにそれー!」
けれど次の瞬間、笑いが弾けた。
信じたとか、信じないとかじゃない。ただ面白いのだ。
ルシアもつられて、声を上げて笑った。
笑った拍子に、胸の奥の重さがすっと抜けた。
呼吸が一度、きれいに揃う。
この身体が、この場所の空気を、はじめて、ちゃんと吸い込んだ気がした。
肩の力が、静かにほどける。
——そう……。
私は、この世界の人間ではない。




