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第7話 境目の名

 ロルフは、司祭の問いを胸に残したまま、言葉を探していた。

 だが司祭は、その沈黙を責めることはなかった。


 供物台に残る花びらが、淡い光を受けている。

 拾い上げられるでもなく、捨てられるでもなく。


 ただ、そこにある。


 蝋の匂いと冷えた石の気配が鼻先に残る。

 足を動かすだけで、靴底が古い板床をわずかに軋ませた。音は小さいのに、妙に響く。


 ここでは、沈黙の方が大きい。


 外では風が木戸を小さく鳴らし、遠くで子どもの笑い声がかすれて消えた。

 その笑い声だけが、この冷えた空気に馴染んでいるように思えた。


 司祭は、祭壇の前へは立たなかった。

 内陣の端に身を置いたまま、ロルフの顔を正面から見ない。


 見ないことで、追い詰めぬ距離を保っている。


「一つ、気になっていることがあります」


 そう前置きして、司祭は続けた。


「あの方の名ですが……」


 司祭は一度、言葉を飲み込む。

 責めるためではない。確かめるために、順番を整えている間だった。


「“ルシア”という名自体に、問題はありません」


 そこでいったん区切り、司祭は視線を落とした。

 名そのものを咎めたいわけではない、と先に示す。


「ただ、なぜ、その名を名乗ったのか……

それを、お聞きしたいのです」


 司祭の声は穏やかだった。

 だからこそ、逃げ場のない問いに聞こえる。


 穏やかな声は、怒りを隠すためではない。

 この村で、何度も何度も“荒立てぬ言い方”を選んできた声だ。


 ロルフは、やはり来たかと思った。

 村の者たちは気にしていない様子だったが、聖職者が名に敏いことは分かっていた。


 名は、時に立場を連れてくる。


 名が名乗られた瞬間に、人はその者を枠に当てはめようとする。

 異端。流れ者。よそ者。

 ……時には、もっと厄介な呼び名も。


 この村はまだ、それらの言葉を口にしていない。

 だが、言葉ひとつで空気が変わることを、ロルフは嫌というほど知っている。


「あの者は、聞いてもあやふやなことが多く、名乗れる名もなかったのです」


 言い訳の色が混じらぬよう、語尾を整える。

 余計な事情を足せば、どこかで綻ぶ。


 真実を語るのではない。

 火種を増やさない形に整える。


 それが境界で生きる者の、身についた癖だった。


「旅人としては迎えられても、素性が定まらないままでは呼び名がありません。

人として呼べる名が必要だと思いました」


 司祭は、ほんの少しだけ息を置いた。

 咎めるための間ではない。確かめるための間だ。


「つまり、ロルフ殿が名付けたのですか?」


「はい」


 短く返した瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。

 名を与えるということは、便宜ではない。


 この場に彼女を立たせる。

 村人の視線の中に置く。


 その責任を、引き受けることだ。


 ロルフは、供物台の花びらに目を落とした。

 軽いものは、誰かの指先一つで動く。


 だが動かせば、動かした者の意思が残る。

 それと同じだ。


 名も、軽く見えて、後から重くなる。


 司祭の指が袖の中でほどけ、また静かに握られるのが見えた。

 祈りの手つきではない。迷いを押し留める手つきだ。


「ちなみに彼女は、洗礼は——」


「分かりません」


 ロルフは即答した。

 そしてすぐに、必要な範囲だけを付け足す。


「ですが、私の故郷の北では、珍しい名ではありません。

洗礼名としても、世俗の名としても使われます」


 ロルフは言い切って、余計な説明を足さない。

 名の由来を語れば、話は別の方向へ膨らむ。ここで必要なのは、“不自然ではない”という事実だけだ。


 司祭の目が揺れないのを見て、ロルフは一拍だけ間を置いた。

 この先は“名”ではなく、“名に付く意味”の話になる。火種になり得る部分だ。


「……今は、それ以上の意味を与える必要はないと判断しました」


 言い終えたロルフは、自分でもその言葉の重さを測っていた。

 意味を与えないのは、軽んじるためではない。


 “断じない”という選択だ。


 今断じれば、この村の静けさに別の火種を落とす。

 火は、誰かにとっての正しさから起きる。


 司祭がそれを恐れていることを、ロルフは分かっていた。


 教会の中に、短い沈黙が落ちた。

 司祭はその名の“意味”について、すぐには答えを求めなかった。

 ロルフもまた、決め急ぐことが最善ではないと感じていた。


「教えていただき、ありがとうございます」


 司祭は軽くおじぎをした。

 そして祭壇へ視線を置いたまま——


 それ以上は踏み込まなかった。


 踏み込めば、踏み込めてしまう。

 それを司祭は知っている。


 そして自分もまた、踏み込めば戻れない場所があると知っている。


 外から、子どもたちの笑い声がかすかに届く。


 ロルフは、司祭の沈黙ではなく、外の音に耳を預けた。

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